20 エピローグ
ブズブズ、ズドン! ガタガタ!──というその音を耳にするのは何度目だろうと、槙原耕介は誰にも聞こえないようにそっと独りごちた。
音が鳴るたびに振動が身体を揺らし、脳を揺らし、胃の中の食べ物が逆流スタンバイの警報を告げてくる。正直言って気分は最悪だった。胸がむかついた。頭がふらふらした。
窓を開けてみる。
流れる風。気温は低かったが、新鮮な空気はおいしかった。すがすがしい。生きていることを実感する。人生は山あり谷ありだ。
周期的にやってくるピークを我慢するも、だがやはり、音は鳴る。音が鳴ればやはり振動が身体を揺らし──以下、繰り返し。
あまりにも我慢がならなくなった時の爆発方向を設定しつつ、耕介は自分の隣、運転席でこのオンボロ車を操縦する名鳥十四郎に目を向けた。
「…………」
彼は冷や汗をかいていた。こちらからも見えるほどの大粒の汗である。それが冷や汗だとわかったのは、彼の顔が思い切り青ざめていたからだった。彼もまた、気分が悪いのかもしれない。だが、それ以上に──
「…………」
ゆっくりと、耕介は後部座席に視線を移した。
神楽双真がいた。それは知っていたが、その逆三角の厳つい目に、殺気と怒りともろもろの感情全てを込めて、彼は十四郎を睨んでいた。十四郎の顔が青ざめている最大の原因は、間違いなく彼だった。
ブスン!
と、もう一度車体が大きく揺れたその瞬間、双真の瞳が一瞬光ったような気がした。危険信号だ。耕介はそう思った。
「おい」
「……何?」
と、これは十四郎。
「この車は一体なんだ?」
それは以前から思ってはいたことだった。だがどうにも聞けないでいたことでもあった。
「いや、一応実家の立場や面目があるから、お忍びで俺が海鳴に来るのに、実家の車や自分の車を使うと足が着くと思ってな。知り合いの中古ディーラーから安く借りたんだ。もう廃車寸前の車だけど」
「ほほう。ではさっきから俺の気分を極限まで損ねてくれるありがたいこの振動はそのせいなんだな?」
「……た、多分」
十四郎の声がすぼまる。耕介は会話に参加するのを諦めた。触らぬ神に祟りなし。君子危きに近寄らず、エトセトラ。
「とすると何か? 俺はお前の実家ごときの都合のために気分をすこぶる害していると、そういうわけか?」
「……そういうわけなんじゃないでしょうか……」
珍しく、敬語を使う十四郎の態度が、車内をさらに冷えさせた。今は十二月頭。冬。寒いのは当然だが、何故かその考えは浮かばなかった。そしてとどめ。
「で、この車はいつ止まるって?」
「誠心誠意を込めて、直ちに停車させていただきます!」
最後の最後までブスン! ブスブス……という不気味な奇怪音を奏でながら、車が路肩に停車した。ブレーキをゆっくり踏んだらしい十四郎の行為は裏目に出たらしく、止まった最後の瞬間、もう一度素晴らしく酷い横揺れを引き起こした。
『…………』
さすがにたまらなくなって、耕介も十四郎の方を見た。
沈黙。それを破ったのは、やはり十四郎である。こちらからはとてもではないが話す気にはなれなかった。
「車降りて、歩こうか……?」
そういえば、と思い出す。もう少し歩けば、以前は海鳴市営のバス停があった高台がある。車が止まったのは坂の中腹あたりのようだが、数分も歩けば着くだろう距離だ。
その間に気分も収まるだろう。
「そうだな。外出て歩けば、気分もよくなるだろうから。双真?」
「了解した」
憮然とした声で答えてくる友人に底冷えのする何かを感じながら、耕介は車を降りた。駐車違反だが、切符切られるのも、レッカー移動されて困るのも自分ではない。すっぱりと忘れることにした。
「…………えーと」
遠慮がちに、十四郎が口を開いた。
「もしかして、二人とも結構怒ってる?」
「気にするな。決して怒っているわけじゃないぞのど渇いた」
「そうそう。怒ってない怒ってない俺コカ・コーラね」
「…………この辺に自販機は?」
「高台まで行かないとないよ」
教えてやると、十四郎はなんとも複雑な顔をした。ここからは上り坂だ。さほど距離はないとはいっても、面倒なことには変わりない。そのための炭酸だ。
「急げ。大至急。ぬるくなっていたら買いなおさせる」
「…………行ってきます!」
言って走り出す十四郎の背を見送りながら、耕介は隣でやや表情が元に戻った双真に向き直った。
「それじゃ、俺たちも行きますか」
小さくうなずいただけの双真の気配を読み取って、耕介は歩き出した。
◇
一ヶ月が過ぎた。
あれほどの怪我──神経破損、複雑骨折数知れず、内臓もいくつか傷めていたらしい。よく生きていたな、と思わなくもない。およそ人が背負う一生分の怪我を、耕介は甲龍との戦いで負った。ついでに言えば、今パシリ中の友人のせいで、心臓に近い胸部に、もう一つ大きな怪我もした。つまりは死んでも可笑しくなかったはずなのだ。
しかしそれは、一人の魔女の功績で実にあっさりと克服するに至っている。
何故? という疑問は今も消えていない。
彼女が吸血種であることは彼女本人から聞いた。が、それで何か疑問が解決するわけでもなく──結局、あの時大量に飲まされた血のおかげで生きているのだから、感謝こそすれ、疑うような失礼なことは出来るわけもなかった。
今考えても仕方がない。とりあえず、疑問を捨てて坂道をとぼとぼ歩く。
一ヶ月ほど前──
十四郎のナイフによる出血で気を失った耕介は、気がついたら病院で、気がついたら周りをさざなみの女性陣で覆い尽くされていた。
愛に真雪、知佳、みなみ、美緒、リスティ。そして誰にも気づかれないよう、ひっそりと夜中にやってきたのは御架月と十六夜である。
何がなにやらわけが分からず──心配で涙を流し、心配させたことに対して憤慨し、けれどどこかほっとした表情を浮かべる彼女らに、耕介は言い訳と慰めとただひたすら謝りまくるという、怪我人にあるまじき日々を過ごし、夜は夜で、何故か人気が全くいなくなる病院にやってくる真雪とリスティのコンビの相手をして、結果的に耕介は、事件後一週間は心休まる時もなかったのである。
そしてその後の全快祝い。
(思い出すだけで吐きそう……)
こみ上げてくる胃酸の気配を口元で押さえ込み、耕介は胸を抑えた。胃の中で、何かが回転している気がする。食べ物が胃酸とミックスしてミキサーされている映像が脳裏に浮かんだ。やばかった。
(…………)
あれから一ヶ月だ。今はもう、寮の中はそれ以前と同じ様子になっている。耕介が何かの用事で出かけても、それから帰ってきても、ドンチャン騒ぎになることはない。
だが耕介にしてみれば、もう一ヶ月だと表現したほうが正しかった。あっという間の一ヶ月だった。
一週間で退院して、再び管理人業に戻った耕介を、彼女たちは何のわだかまりもなく迎えてくれた。
その時の感動はまだ忘れていない。帰るということは約束していたものの、いざそうなってみると、彼女たちが迎えてくれることそのものが奇跡のように思えてならなかった。
さざなみ女子寮──ここが自分の帰る場所。
その実感が強まったからだろうか、この一ヶ月は瞬く間に過ぎた。誠心誠意、自分の全てを込めて仕事をした。だがその一方で、耕介は気になっていたことがあった。
神楽双真と、名鳥十四郎である。
事件後、耕介は二人に会ってなかった。会えなかったというほうが正しい。彼らが完全にその消息を絶ったからだ。エリザからそれとなく生きていることは聞いていたし、そのあたりに関して心配はしていなかったが、日々の生活を精一杯過ごしながらも彼らのことは考えていた。
そして今日は、実に一ヶ月ぶりの再会だった。突然会おうと言ってきた十四郎の言葉には驚いたが、会ってみると、この二人がまぁ物の見事に何も変わっていなかった。
双真と十四郎。意味さえ求めず、ただ未来に進むための儀式として、殺しあった二人の友人。あの戦いに救いはない。救われない戦い。救いのない戦い。どちらが生き残っても、どちらが死んでも意味はない。ただそれだけのこととして処理される。
だから耕介は止めた。友人をなくしたくない、というただその想いだけで。
考えて見れば、随分な押し売りだとも思う。自分が今まで、彼らから受けた恩恵を考えてみれば、彼らの人生をどうこう言う権利はないのだ。
それ以上に、ああいった戦いを何の疑問も抱かず行える彼らの感性は、耕介にはないものだった。死に対する考え。その捉え方。生き方。それが、かつて同じチームで共に過ごしてきた彼らと自分の違い。しかしその一点のみが、自分と彼らを確実に隔てていることに、耕介は気づいていた。
自分は、決して彼らと同質にはなれない。
二人なら「同じになる必要などない」と言うことくらいは容易に想像がついた。そして言外に示すのだ。「なってほしくない」とも。
耕介自身も、それがうらやましいと思っているわけではなかった。自分は自分だ。それを見失うわけには行かない。そうでなければ、彼らと付き合う資格さえない。
ただ、時折せつなくなる。彼らを救うことはできない。救いを求めてさえいない彼らに対して、結局自分は何もできないのだ。
生きて笑っていてほしいのは、自分も同じだというのに。
「耕介?」
不意に呼びかけられて、耕介は隣を向いた。双真だった。
「何?」
「……いや、前見て歩かないと……」
「へ?」
ゴン! という衝撃とともに、耕介は火花を観た。冬の花火。暗転する視界の中でもはっきりと花咲くそれは見事なまでに美しく、同時に激しい痛みを伴って耕介の眉間を刺激した。
「ぶつかったぞ」
「……過去形かよ」
涙目になりながら、耕介は顔をさすった。ぼやける視界の先、自分の顔の前にある電柱に罪はない。
「前見て歩かなかったお前が悪い」
「いや、そりゃそうなんだけど」
「考え事か?」
「まぁね」
肩をすくめてみせると、双真はやや憮然とした顔をした。痛みはまだ残っていたが、我慢できないほどじゃなかった。
再び歩きながら、
「考えるな」
と言った双真の言葉に、耕介は目を丸くした。
「双真?」
「考えても仕方のないことを考えるな。悩んでも仕方のないことを、あれこれと悩むな」
「それも正論だけどさ……」
「何もしていないことはない。お前は自分の役目をきちんと果たしている。現に俺と十四郎は生きてるんだ」
耕介は応えなかった。顔にでも出ていたのだろうか。何故彼は自分が考えていたことがわかったのだろう。そう思った矢先、双真が自分の口元を指した。こちらに見えるように、とんとんと唇をたたく。怪訝に思いながら、だが不意に気づいた。
「もしかして、声に出てた?」
「少し」
呆れて物が言えなかった。
「だからはっきりと言ってやる。それは耕介の思い違いだ。何もできないのはお前じゃない。俺たちのほうだ。耕介がいるから、俺たちは生きている。生きていられる」
「……面と向かって言われると恥ずかしいね、どうも」
ほほが赤らんでいるのが自分でもわかる。冬だと言うのに、身体は火照っていた。だが、一方で神楽双真は平然としていた。ただの事実を述べているキャスターのように、淡々と、真面目な顔で、微塵の照れもなく、彼は続ける。
「結局、助けられたのは俺たちだったな」
「俺は何もしていないってば」
「俺と十四郎を助けただろう」
「あれは……ほら、二人に死んでほしくなかったから」
「……俺は……俺たちはお前に生きていてほしかった。そのために『破壊者』をどうにかしようと思っていた。甲龍の件はまさしく絶好のチャンスだと思ったよ。やり方は百八十度違ったが、目指す目的は十四郎と俺は同じだった。結局、甲龍も十四郎に利用されていただけだ」
「エリザさんから聞いたよ」
言ってから、耕介はしまったと思った。口止めされていた彼女から、結局自分は強引に聞きだしたのだ。あの晩、何故十四郎があの場所にいたのか。その理由と彼の真意を、耕介はどうしても知りたかった。
「……あの馬鹿女、話したのか」
「彼女は悪くない。俺が無理矢理聞きだしたんだから」
弁明しながらも、耕介は思い出していた。双真自身、自分からきちんと説明するようなことをエリザには言っていたらしいのだ。
「まぁいいさ。結局、俺たちが目指したものは同じで──俺も十四郎も、お前に生きていてほしかった。幸せになってほしかった。今度の件で、結果的に耕介は前に進むことができたと──少なくとも、もう俺たちが必要ないくらいに強くなったと感じた。だから、俺たちはもう必要ない。そう思った」
「何で?」
「何がだ?」
オウム返しに聞き返されると思ってなかっただけに、一瞬たじろいだ形で耕介は言った。
「いや、だから。『もう必要ない』って思ったのは何故なんだ?」
「……うん? …………はて、何故だろうな」
その応えは意外だった。てっきり、双真は自分自身のことをはっきりとわかっているタイプだと思っていた。そしてそれは間違いないだろう。彼はそういう人物だ。だからこそその返答があまりにも意外すぎて、耕介は思わず噴出した。
「馬鹿だね」
「?」
双真が驚いた顔をした。
「馬鹿だって言ったんだよ。なんでそれでお前たちが俺にとって必要じゃなくなるんだ?」
「……だからわからん。何故かそう思った。そのことに何の疑問も違和感も抱かなかった。おそらく、十四郎もな」
「で、それと友人関係とどういうつながりがあるわけ?」
「……何?」
こみ上げてくる笑いを抑えながら、耕介は続けた。双真の反応が、どこか可愛らしかった。
「だからさ、いままで双真たちが俺のことを守ってくれていたのは知っているし、感謝している。けど、それとこれとは話が別だろ? 必要じゃなければ付き合いのない友達って、友達じゃないじゃないか」
「…………」
「意味なんていらない。必要性なんていらない。それでも付き合えるのが友人だろ? 俺はずっとそう思ってきたけど」
「……考えもしなかった」
本当にそのとおりらしく、彼の顔は驚きと焦燥にあふれていた。だから聞いた。彼の考えが知りたかった。
「双真はどうしたい?」
「……?」
「双真と十四郎のおかげで、俺は今も十分幸せだ。だから、双真たちはこれからどうしたいんだ?」
「……耕介が幸せになるなら、俺も十四郎も何でもやるだろう。それはこれからだって変わらん。だから──」
そういう意味で聞いたのではなかったが、耕介は黙って続きを待った。
「逆に何もしないことにした」
「へ?」
意表を付かれて、耕介は双真の顔を見た。彼は笑っていた。
「俺たちが耕介のために無茶をすれば、結果的にそれはお前自身を傷つける。今回のことでそれがよくわかった。だから逆に何もしない」
極論だと思った。
「だから言っただろう? 何もできないのは俺たちのほうだと」
だがそんなこちらの考えとは裏腹に、彼は笑う。久々に、耕介は彼の笑顔を見た気がした。双真が何を思ってそういう結論に達したのかわからなかったが、その答え自体が彼らしいと思った。
「ま、いいか。そんなこと。別に何かしなきゃいけないなんて言うわけでもないし」
生きて、笑ってくれさえすればいい。お互いそう思っているならそれでいいじゃないか。そして今、双真は笑っている。それでもう、耕介は何もかもがどうでもよかった。
と──
声がした。それが十四郎のものだと気づいて、二人はそちらに向かった。気がつけば、いつのまにか高台まで来ていた。十四郎が足早に駆けてくる。ああ、駄目だ。かわいそうに。走るその先に落とし穴が待っていることを、彼は気づいていない。
そう思うが、迷いはなかった。受け取ったジュースの口を十四郎に向け、耕介と双真はなんの合図もなく、だが同時にプルトップを空ける。
炭酸の泡が、高らかと宙を舞った。