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プロローグ
白昼の街並みの中で、その赤は異様な鮮烈さを持って存在していた。 赤く、赤く。人が本能的に恐怖を抱くほどの赤。熱を持って周囲に拡散していく赤の気配。ほどなくしてそれは、平和と言う日常を過ごしていたこの街の住人に確実な死をイメージさせた。 それが、果たして正しいのかどうかは分からない。赤が死であるというのは偏見だろうし、その一色で何かが──ましてや全てが決まるわけでもない。だがその破壊と再生の象徴を、彼はいつにも増して冷ややかな眼差しで、現場からいくらか離れたマンションの屋上で見物していた。 その色は、厳密に言えば純粋な赤ではなかった。朱に近い赤。それ単体では黄色も混じっている印象が強いが、実際に存在する時は、黒と灰色ばかり目立っているように見える。 当然と言えば当然だった。それが燃えるということなのだから。 それが炎の実態なのだから。 と── 木が燃えるニオイ──木造建築の家が焼ける時の特徴など分かるわけもなかったが、その中に、かすかに異臭が混じっているのを彼は意識した。 何かが焼けるニオイ。 考察するまでもなく、結論はすぐに出た。 肉と血だ。 肉が焼け、血が沸騰する臭気。 民家を包む赤い炎の中に人がいる。一人や二人ではない。数百メートルは離れている場所にまで漂うほどの強烈なニオイを放っているのだから、軽く見積もっても数十はいくに違いない。意識しなければ分からないほどの微弱な異臭ながら、それは確かに存在を主張していた。死をイメージしたのは、もしかしたらそのせいかもしれないと、彼は思った。 それはすなわち、あの中に生者がいないと言うことだ。 炎は次第に勢いを増していく。誰にも止めることの出来ないほどの巨大な焔柱となって、内地にいる存在全てを焼き尽くす。 その残虐さに気づきもせず、立ち上る灯りに惹きつけられた夜光虫のように、野次馬がいくらか距離を取りつつも集まってきた。遠巻きに炎を見つめてささやきあう姿は、えさを探す虫たちよりも醜い。自らが役にも立たない存在であることに気づきもしない人々は、やがてやってきた消防と救急に道を明けた。 消火作業が始まり、中にいる人間──まだ形が残っている者たちが幾人か運び出される。救急車が何台も、何度も往復していく中、変わらず群れる無能者たちとは全く逆の様子を呈した女が独り、燃え盛る家に向かって駆けて行くのを、彼は視界の端に見つけた。 黒髪の女だった。珍しくもない。ここは日本で、日本人は黒髪、黄色肌の人種だ。だというのに、その女は執拗なまでに彼の意識を引いた。 何が、というわけでもない。ただ、後姿が見えただけだった。故に、美人かどうかも定かではない。 何を慌てているのか、炎に向かって駆け抜け、そしてたどり着く。そのまま炎の中に飛び込もうとする女を何人かが取り押さえようとして、だがあっさりと弾き飛ばされる様子が、なんとも滑稽ではあった。 女の意識は炎にしか向いていなかった。それを止めようとして、男数人が後ろから押さえ込む。不恰好な格闘が繰り広げられ、数十秒後、ようやく女は止まった。 (ああ、なるほどね……) ほどなくして、彼も理解した。 「生き残りか」 その言葉には、いくらか感嘆が含まれていた。自覚して、苦笑する。 それをかき消すように、絶叫が響き渡った。それは泣き声ではなかった。獣の咆哮。人であることをやめた女の啼鳴。その純粋な姿は、遠く離れた場所で観察していた彼の胸を打った。 あの女もまた、燃え盛るあの家の人間なのだろう。生き残ったと言うよりは、運良くまぬがれたに違いなかった。感嘆したのは、あの女の運の良さである。 いや、『悪さ』というべきか。 自分の家族が自分を残して死んだ。この場合、共に逝くべきか否か。後を追うべきか、そうでないのか。判断は難しい──その意識がないままに、生きることがいいことだと判断するのは、必ずしも正しくないからだ。 生きるか否か。それを決めるのは彼女であって、他者ではない。部外者の価値観ではない。家族のいない生に意味を見出すのも、家族のいない世界に見切りをつけるのも彼女という生存者なのだから。 だが何故か、彼女は生を選ぶような気がした。 それとは別に、彼女と言う存在はもう一つの可能性を示唆していることに、彼は気づいた。 「ということは、他にもいるかもしれない。生き残りが。彼以外にも……」 そしてあえて言うなら──他者が聞いたなら、総じて冷たいと言われたかもしれないが──結局のところ、それらはどうでもいいことではあった。目的の存在がいるか、いないか。彼が気にしたのは最終的にはそれだけで、結果的に目的はいない。 そのことに気づいた時点で、彼女に対する興味は失せたといっても良かった。 そっと独りごちる。 「さて。あの場所に貴方がいないのは良かったというべきでしょうか。僕がここで待ち惚けした意味がなくなってしまうのは少し寂しいですが……」 地面に崩れ落ちた女の背中を見て、彼は笑った。この先も彼女が生きるというのなら、それはそれで面白い展開が待ち受けている。そんな予感がした。 「ま、先の話をしても仕方がありませんね。とりあえず、彼を捜しましょうか」 それは独り言だった。誰が聞いてもそう思うに違いなかった。 だが彼は、誰もいないマンションの屋上で、いもしない誰かに話しかけるように声をかけ、そしてその場から姿を消した。
◇
闇は黒ではない。だが黒か白かでわけるならやはり黒なのだろう。ならば闇色のマントを羽織った自分は、つまりは真っ黒だともいえる。 そんな格好をしている自分の声は、識別するならやはり黒っぽいというのが印象らしい。自覚はなかったが、自分を知る万人の意見である。ということはつまり、目の前の少年もそう思う可能性が高いということだ。だからどうということもないので彼は気にしたことなどなかったが、あえて意識して声を変えてしゃべってみる。 「五人」 黒っぽいという声が果たしてどんなものなのか。考えてみても分かるわけでもなく、結局そんなことはどうでもいいのだと思い直して、彼──チェン・ユィスィは手のひらを広げた。 「五人殺された」 深刻な物言いをしたつもりだった。が、少年の反応は別段何もなかったようなあっさりとしたものだった。 「へぇ」 「…………」 黙る。たっぷり数分は黙り込んで、チェンは無言で少年を見詰めた。 少年。顔も未成熟ながら、身体も小さい。見たところ十四、五といったところか。実年齢は十八だそうだが、とてもそうは見えなかった。それはそのまま、この少年がその筋では最高だと言われていることなど、見た目からは想像ができないということでもある。もっとも、だからこそ信憑性があるといえばその通りだった。 最高と謳われる暗殺者。それを誇示するかのように、その傍らには彼の剣がある。長尺刀という類の日本刀。チェンはこういった類の武器を見たのは初めてだった。 少年の身長以上に長い刀身のそれは、一体どうやって鞘から抜くのか、不思議でしかない。 その武器を傍らに置き、少年は何を考えているのか分からない表情でうすっぺらなファイルを読んでいた。 タイトルも何もない、文章だけがつらつらと書かれてある資料。その上に、一枚の写真がグリップでとめられている。ファイルはその写真に写る男についての調書だった。とはいえ、正直に言ってしまえば読む必要のないほどの簡易な事しか書いていない。 こちらと会話を交わす気がないのか、少年はファイルから目を上げなかった。 「驚かないのかね?」 「人が殺されるのって、さほど珍しくないでしょう?」 「ここは日本だ」 「あ、なら珍しいのかな?」 「…………」 また、言うべきことを見失って、チェンは黙った。今度は数秒で持ち直して、言葉を吟味しながら、意思を口にする。 「仲間が殺された。他にもいくつか、奴によって痛手を受けた。被害総額で言えば数億は下らない」 と、そこで初めて、少年が顔を上げる。 「やめましょうよ、そういうの」 「ん?」 「単刀直入に用件を言ってください。結局、僕にこの写真の男を殺して欲しいんでしょう?」 言って、少年は写真を指先で弾いた。 「ああ、そうだな。すまなかった」 年齢的に自分よりも半分以下の少年に気圧されながらも、チェンは少年を真正面から見据えた。ソファーに座りなおして、腕を組む。 「君の言うとおりだ。人を一人、殺して欲しい。そのファイルにある写真の男だ」 「ここは日本ですよ」 「そう。そして君は日本人だ」 日本人という単語を強調する。 日本。曖昧な精神を尊ぶ国。アジアに対する風当たりが強い国でもある。和という独特の雰囲気をもつ点では個性豊かな国だが、その国民は総じて無個性が多いというのが、チェンの印象だった。嫌いではないが、好きにはなれない。団体行動を望み、孤独をひどく恐れているようにも見受けられる。 「君は日本人で、そして暗殺者だ。依頼するのに、何か他に理由が要るかな」 いいえ、と少年は首を横に振った。 「奴をこのまま放って置けば、我らの活動に今後大きな支障が出ることは間違いない」 「それは大変そうですねー」 「そう……大変だ」 こめかみに血液が集中する感覚というものを久々に実感しながら、チェンは繰り返した。少年の反応はやはりそっけなく、味気ない。どこまでも不真面目な様でいながら、それを叱責できない圧力を自然と放っている。気圧されていることを自覚しながら、彼は続けた。 「報酬は二千万。全額後払いでお願いしたい」 「……なんとも虫のいい話ですが。ま、いいでしょう」 「感謝するよ、『黒の刃』」 敬意を込めて呼んだつもりが、当の少年は明らかに機嫌を損ねたようだった。 「その名で呼ぶの、やめてもらえませんか? 貴方だって、自分のことを『龍』の幹部って代名詞で呼称されるのは嫌でしょう?」 「敬意と感謝のつもりだったのだがな。ならば『エッジ・オブ・ザ・ネザーフィールド』とでもお呼びすればいいのかな? どちらにしろ、異名とは畏怖と尊敬の証、例え虚勢だとしても、効果があれば恥じる必要はないと思うがね」 「そうではありませんよ」 彼は首を振った。 「ただね、僕は僕のことを、怖いと思ったことなんてないんです。誰もが恐れるはずの暗殺者が、自身にさえ恐怖を抱けない。可笑しい話じゃありませんか? それだけが理由じゃないですが、僕はそういう二つ名は嫌いです。だからこそ、僕は僕ではなく、だけど僕以外にはありえないあの名前を名乗っているんですよ……」 静かな、だが反論の余地を残さないほどの重圧を受けて、チェンは思わず呻いた。無意識に飲み込んだ唾が、ゴクリと生音を立てる。 少年はただこちらを臨んだだけで、何もしてはいなかった。剣に手をつけたわけでも、睨みを利かせたわけでもない。殺気など微塵もなく、むしろ彼の顔に張り付いているのは先程からの変わらない笑顔だった。にもかかわらず、息苦しいほどの悪寒がチェンを襲う。 「理解していただけました?」 息も切れ切れに、チェンはうなずいた。少年がにっこりと笑うと同時に、ようやく肩の力が抜ける。窒息してしまうかと思うほどの気圧に、彼はどっと冷や汗をかいた。 (これが、自分が知る限り、この国で最高の暗殺者──っ!) それは感嘆であり、恐怖でもあった。目の前の少年がその気になったなら、自覚する間もなく自分は死んでいるのだ。 二つ名は嫌い。少年はそう言った。故に、名乗る名があるとも。 皇設楽──少年はそう名乗っている。 『黒の刃』、もしくは『エッジ・オブ・ザ・ネザーフィールド』とも呼ばれる少年。それが何を意味するのかは知らないし、もしかしたらこの二つは同義語なのかもしれない。 だがそのことを別にしても。 少年は紛れもなく、日本で最高といわれる暗殺技能者であり、そのことだけは厳然たる事実だった。そしてターゲットの明確な死を持って、少年はそれを証明してくれるだろう。ならば何も不安に思うことはない。 少年が投げ置いたファイルの写真。油性マジックで『S・FUWA』とかかれてある男の顔を憎々しげに見つめ、チェンは咥えていたタバコをその顔面に押し付けた。
◇
老体は、その場にただ据わっているように見えた。 ただのあばら家であるここには、椅子もなにもなかった。座る場所もない。地面は土壌でできているせいかぬかるみ、コケが生え、腐敗臭を漂わせている。故に立っているしかないのだが、老人はどこかに腰掛けているようにも見えた。つまりは、それほどまでに極端に腰が曲がり、身を縮ませている── そのままの姿勢で、老人は言った。 「剣の使用法は二種類しかない。すなわち、斬るか、突くか。この二つに限られる。剣は武器であり、道具だ。もう少し詳しく言うならば、剣とは『圧力を一点に集中することによって物質を断絶する道具』である」 老人の声は、そのしわだらけの容態に比例せずはっきりとしたものだった。だが顔は上げない。老人は俯いている。老人は上を向いていない。 ならばやはり、老人の身体はもう限界なのだろうと彼は思った。 「剣は道具だ。武器だ。何が先に来るかは、使用者によって変わる。使う者が使えば、ただの楊枝とて殺人の武器になるのと同じようにな」 その考えに、彼は同調した。何も言わずに同意を示すためにうなずいてみせる。ただ、老人がそれを認識できたかどうかは疑わしかった。 老人はやはり俯いたままで、こちらを見ていない。 「繰り返すが、剣は道具であり、武器だ。これ単体では何も生まない、ただの無機物でしかない」 老人の声には淀みはなかった。 今度はうなずいたわけではなかった。胸中で同意を示しただけだが、老人は的確にこちらの意識を読み取ってきた。老人はこちらを見ていない。 「汝は剣を手に取った。なればこそ、問う。汝にとって、剣とは何だ」 「剣を手に取り、何を成す」 「剣で何を斬る」 「何を殺す」 「何を守る」 「何を求める」 「何を──」 問いは続いた。断続的に、永続的に──それは彼の脳裏を駆け巡った。 老人はこちらを見ていなかった。その輝きを失った瞳孔が役に立つかどうか──見えるかどうかも定かではない。こちらからでは、口を動かしているかどうかも分からない。少なくとも、老人の頬肉は動いていないように見える。 「剣とは何か」 その問いの答え。 それを考えて、何が得られるのか。彼は分からなかった。 だが老人は問い続け、答えを求める。 小さな問い。小さな答え。 だがおそらく、この場の全てを決定付ける問い。その解。 老人の声は響く。 問いは続く。 命題は一つ。全ての問いを擁する議題が一つ。 問われるは自分。 答えるのも、考えるべきもまた自分。 ここには問いかける老人と、剣を手に取った自分しかいないのだから。
命題は一つ。 「汝にとって、剣とは何だ」 それが全て。 彼を支配する全て。 解は汝にある。 故に問う。 剣とは何か──
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