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困ったことになった。 多い。何故に多い? こんなに多くてどうする。多ければ良いものではない。問題は中身だ。中身が大事。それは一事が万事にいえることだ。しかしながら、中身が見えないのでは予想するしかない。 予測が外れたならどうするか。答えは簡単だった。今度は違うものを選べばいい。その程度で済む、と言えばその通りだが、そう割り切るには何故か勇気がいった。 予測するには勇気がいる。度胸がいる。そして何より、経験が大事だ。経験に沿った予測。それは生命ある者が持つ最大の特技ではないだろうか。 とはいえ、初心者にそんな経験値があるわけもなく、自身に降りかかった予測不能の事態に、不破士郎は困惑していた。 三十路に突入したばかりの、長身の男である。年齢どおりに見えないのは、子供っぽさを残すその面持ちのせいに違いなく──その引き締まった体躯に若い女性が何人か目を留め、そして総じて、彼の行動に訝しげに首をかしげた。 「なんで、カレーのルーはこんなに種類が多いんだ?」 スーパーで買い物籠片手にカレーのルーを吟味しながらうめき声を上げる男の図。その変異性がいかほどかはともかくとして、士郎が目立っていることは紛れもない事実であり──ただそのことに気づいていない本人だけが、周りの目を気にすることなく、苦悩に満ちた唸り声を上げた。 その悩みの元、すわなち、彼の目の前に陳列されている多種にわたるカレーのルーは、それぞれ違いがある──ように見える。だが、何がどう違うのかが分からない。結局分かることと言えば、出品しているメーカーが違うと言うことくらいだった。 「困った」 冷暖房完備のスーパーで、暑くもないのに汗が浮かぶ。 一つ一つ手にとって、士郎はそれらを吟味してみることにした。パッケージを見て品名を読み、キャッチフレーズを頭に入れつつ、裏に回ってルーの原材料を見る。分かるわけもなく、結局表の品名に着目する。 それもまた、各種様々だった。わかりやすいものからわかりにくいものまで千差万別、と言うほどの種類はないものの、士郎が驚くほどには存在している。 おいしさ抜群と言われても、そもそも何が売り出しなのかさっぱり分からない。パッケージの絵だけで判断しろと言うのは、素人には酷な話ではないのか。 こんな自分を他人は──特に彼の息子は「ひねくれている」と評する。 (大きなお世話だ) 言われてもいない文句に愚痴を言って、彼は再び違う商品を手に取り、 「むむむ……」 と、唸り声を上げる。 その声を聞いた主婦が敬遠するように遠ざかり、いつしか士郎がいる棚の通路は彼一人になっていた。 そのおり── 「取って来たよ」 身長に見合っていないせいだろう──随分と苦労しながら、少年が買い物カートを押して士郎の下へとやってきた。 黒髪、黒目。日本人にしては少し赤茶色の混じった瞳をした、年の頃はまだ八歳くらいの──だが年齢以上に落ち着いた物腰の少年である。士郎の幼い頃そのままの顔立ちをした彼は、どこか疲れていように見えた。 「おお、恭也。材料はわかったか?」 「大体は」 息子・恭也の返事はそっけなく、端的だった。カートの買い物カゴの中にある食品の量を見れば、まぁ仕方ない気がしないでもない。 「玉葱二個、人参一本、サラダ油に、しょうが、にんにく、カレー用の牛肉、じゃがいも、スープの素に……ウスターソース? あと、これはリンゴに炭酸水か?……なぁ恭也、ウスターソースってなんだ?」 「調味料」 「いや、それはわかる」 息子の返答に、士郎は困ったように眉をひそめた。 「そうじゃなくて、カレーにウスターソースって必要なのか?」 「隠し味らしいよ。そう教わったけど……」 「誰から?」 「知らないおばさん」 あっさりと、恭也は事実を述べた。 「知らないってお前……」 誰か知らない人が、子供一人で買い物をしていた恭也を見掛け、気を利かして材料のところまで導いてくれたのだろうか。 「……そ、そうか……」 汗がうっすらと浮かび、流れていく。士郎は疑問の続きを解消することにした。 「炭酸水は?」 「肉の臭みをとって、やわらかくするために使うんだって」 「リンゴは?」 「カレーがまろやかになるらしいよ?」 「スープの素」 「ルーを作るときに使うとか」 「……作る?」 思わず素っ頓狂な声を上げて、士郎は自分の手にあるルーのパックを見た。 「カレーは粉からルーを作るって聞いたけど」 「カレー粉? カレーのルーじゃなくてか?」 「それでもいいんだけど。粉から作ったほうがおいしいらしいよ。はい、レシピ」 言って、恭也は一枚の紙切れを見せた。 なるほど、確かにそれはレシピだった。 (気が利きすぎのような気がしないでもないが……) 見たことのない誰か──恭也の言うとおりなら、名も顔も知らぬおばさんが、それこそ親心にこのメモを書いてくれたのだろう。心中は微妙だったが、とりあえず感謝することにした。 作り方が判明した途端、士郎は胸の内から沸いてくる感情を表に出した。 「よし。これで美由希の希望だったレトルトじゃないカレーが作れる! でかした、恭也!」 「感謝するなら、そのレシピくれた人にして」 「照れるな照れるな!」 頬を赤くする息子の頭を撫でながら、士郎はレシピの中に、もう一つ不可解なものを見つけた。 (かつおぶしでだしを取る? カレーなのに?) まぁ、これをくれたどこかの誰かはおそらく主婦なのだろうから、自分たちよりはよほど経験者であることには違いない。 士郎はその疑問を捨て、早速カレー粉の選別に向かった。
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調査ファイル追記事項。 『不破士郎は、料理に関して──少なくともカレーについては初心者である。あれからカレー粉を選ぶだけに三十分ほど費やし、彼の息子・不破恭也が焦れていたことからも、推測は間違っていないだろう』 別段、記述するほどのことではないかもしれないが、彼は手帳に小さくそう書き記した。さらに記す。 『なお、結果から言えば、彼の娘・不破美由希は、そのカレーに大変満足したようだ。標的の調査を開始して早五日。なんだかあまり成果が得られていない気がしないでもないが、敢えて調査続行を決意する』 『追記。カレーが美味しかったのは間違いないようである』
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晴天とはどこまでを指すのか。 雲があっても晴天と言うのは間違いない。なら、太陽が出ていればいいのか。雲が多くても良いのか。曇りと晴れの境界とはどのあたりなのだろう。 気象学に準じた根拠で言えば、空が晴れることとは、雲量が、全く雲のないゼロから完全に雲におおわれた十まで、目測によって十一段階に分けられるうちの二以上八以下を差す。加えて、視程1キロメートル以上で降水や雷などを伴わない状態──なのだが、そんなことをまだ八歳の恭也が知るわけもなく、まぁ晴れっぽいなという適当な空模様の下、彼は自宅の庭にいた。 ゆっくりと伸びをする。晴れかどうかは微妙な天候だったが、かといって今日を逃すわけにはいかなかった。雨が続いたせいで、後に洗濯物が大量に控えているからだ。 「……さ、干すか」 物干し竿の高さに届くような台に乗って、恭也は湿った洗濯物を手に取った。しわを取り、ハンガーにかけたそれらをさおにぶら下げていく。 と── 「恭也、洗剤ってどの程度入れたら良いんだ?」 家の奥から聞こえる父の声に、恭也は眉をひそめた。 「洗剤のパッケージの裏に書いてあるよ」 「ああ、これか? 洗濯量に応じた洗剤分量って……」 「そう、それ」 なにやら納得したらしい父のうなずく気配。ほどなくして、洗濯機が回る音がする。それと同時に、感心する父の声。 「おお、回った回った」 当たり前なのに……というツッコミを飲み込んで、恭也は自分の作業に戻った。
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追記。 『普段は息子が洗濯を行っているようだ。仕事で留守がちだからそれも仕方ないかもしれないが、少年が不憫に思えるのは気のせいだろうか?』
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そうして、時は五月。ゴールデンウィークへと移る。
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