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この世の全ては、大きく分類するなら二種類に分けられる。 つまり、好きか嫌いか。 もう少し正確に言うなら、どうでもいいという分野に属する物もあるかもしれない。が、おおよそはこの二種で占められる。 人の趣向というものは、人の数だけ存在する。例えその点で共感できる人物がいたとしても、それは同志であって、同一ではない。人の考えが千差万別なのと同じように、趣向は平行し、時には交差し、そして衝突する。それらは万物の理であり、決して免れないものなのだ。 かくして、肉の厚さに関する討論は大詰めを迎えていた。 「牛は厚いほうがいいんだ。歯ごたえがあるんだから」 「……美由希が食べられない」 この場合どちらが正しいのか。どちらも正しく、どちらも間違っているかもしれない。もしこのバーベキューに関係ない第三者がこの場にいたならば、おそらくは息子のほうに共感したかもしれなかった。 「なら、美由希の食べる分だけは薄く切れば良いだろう」 「消化に悪いよ。後で鍛錬するんだから」 理性しては、目の前の少年が正しいことを言っているのだということは、士郎にも分かっていた。が、せっかくの休日。大枚を数枚もはたいて買ってきた上級肉。薄く焼いてチマチマ食べるのはどうにも抵抗がある。 「……恭也。上を見てみろ」 「上?」 言われて、息子が上を向く。 九台桜隅は周りが自然に囲まれていることもあり、夜空を阻害するネオンも街灯もない。 凛と透き通った空気。見上げた先には夜空が燦爛と輝いている。どれだけ無骨な者でも、見れば放心するほどの美しさがそこにはあった。 「無限に広がる大宇宙。この夜空を見てると、俺たちってちっぽけだよな」 「……そうだね」 同意する声を聞いてから、士郎は続けた。 「こんな夜空の下で食べる食事は最高だ。そう思わないか?」 「そうだね」 「なら、この大自然に負けないくらい、豪快に肉を食いまくるのは、人として自然な行いだと俺は思うぞ」 「…………」 「恭也だって、漫画やアニメに出てくるような骨付きの肉を食べたいと思ったことはないか? いや、まぁあんなふうにはさすがに出来ないが、それでもこれだけの肉の塊だ。それに近い物は実現できる!」 と、士郎はまな板の上に置かれた肉塊を包丁で指して言った。 「なんか、自然の偉大さを比較にした分、父さんの卑猥さが浮き立ってる気がするんだけど……」 「最近、恭也も言うようになったなぁ」 ハハハと乾いた声で士郎は笑った。嬉しくはなかったが、楽しくはあった。 「まぁ真面目な話、あまり残すと明日以降に持ち越しだからな」 「もし残したら?」 「明日の朝飯だ」 「朝から焼肉?」 「肉だ」 「……昼ご飯は?」 「肉だ」 「晩ご飯は?」 「肉だ」 「……ちなみに明後日も?」 「肉だ」 「…………」 「…………」 思わず見詰め合うこと数秒間。切り出したのは士郎だった。 「とまぁ、事さほどこのように、朝昼晩、明後日も明々後日も全部焼肉っていうのは、さすがにつらいだろ?」 「それはまぁ……」 「というわけで、鍛錬に支障がない程度には食いまくらなくちゃいけない。が、あまり分厚くすると焼くのに苦労するし、何より消化に悪い。というわけで結論!」 「何?」 隣で野菜を切りながら、その手を止めることなく恭也が聞いた。見やると、彼はこちらを見てもいなかった。少しだけ悲しくなりながら、その結論を告げる。 「考えるのはやめて、とにかく切ろうと思う。刃物は得意だが、料理は苦手だ。結局適当にしか切れないんだからな」 「……言ってて悲しくない? それ」 恭也が冷めた目でこちらを見上げたそのとき── 「おとーさん、おにーちゃん! ごはんまだぁ?」 「ああ、すぐ作るよ」 答えてから、士郎は言葉どおり悩むのをやめた。とにもかくにも、切る。美由希が食べる分だけは慎重に食べやすい大きさにカットして、あとはざっくばらんに切り続け…… 気がつけば、タン、バラ、ハラミ、カルビ、ホルモン、レバー、その他、総重量二十キロの肉塊が全てスライスされていた。 「さ、ホットプレート出して焼こうか。恭也、準備頼む」 「うん」 今度ばかりは素直に、恭也はホットプレートの電源をいれ、油をしいて熱する。炭を使って焼いても良かったが、後始末の問題と、この別荘を借りた身であることも手伝って、結局プレートを使うことにしたのだ。と言っても焼肉専用のプレートなので、油が下に張った水に落ちる仕組みになっている。十分美味しくいただけるはずだと思いながら、野菜や肉の入ったボールをテーブルの脇に置き、スタンバイ完了と言ったところで士郎はその手を止めた。 「なぁ、恭也。お前、タレはどれがいい? 塩ダレ、ごまダレ、焼肉用のタレの甘口と中辛」 「ごまダレ。美由希は?」 「うーんと、これがいい」 妹が指差した甘口用の焼肉ダレをその手元にあった取り皿に流し入れてから、恭也はごまダレの瓶を手にとって、少量を自分の取り皿に入れた。その様子を見届けてから、士郎もまた、中辛のタレを手に取る。蓋を開けたところで、彼は不意に疑問に囚われた。 「なぁ、恭也」 「何?」 「ごまダレは、ごまがベースだよな。塩ダレは塩だ」 「……うん。そうだね……?」 父が何を言いたいのか、恭也は図りかねているようだった。 「なら、焼肉のタレって、何味だ?」 「焼肉用の味でしょ?」 「…………」 「…………」 ちょっとした沈黙が、不破家を支配した。広大な夜空の下、ホットプレートの油が焼ける音だけが響く。美由希は、父と兄が何故固まっているのか、まるで分かっていないようだった。焼き始めるのを今か今かと待っている。その輝き、期待に満ちた視線からあえて意識をずらして、士郎は言った。 「焼肉用の味って、どんな味だ?」 「焼肉用は、焼肉用だよ」 「…………」 「…………」 さらに訪れた沈黙の向こうで、士郎はだんだん自分で何を言っているのか少しだけ分からなくなっていた。思い返してみれば、こういう気持ちになったことは何度かあったのだ。ホラー映画を見るとき。痒いところに手が届かないとき。就寝後の頭の中で、昼間にやったロジックパズルが消えてくれないとき。インベーダーゲームのクリアまでラスト一機というところで、くしゃみをしてしまい撃墜されたとき。 一言で言うなら、もどかしかった。 「……やめようか。俺たちにグルメを語ることはできそうにない」 「経験の問題だと思うけど」 随分難しい結論に達した息子に少なからず脱力しながら、士郎は肉を焼き始めた。心地よい肉汁の匂いが、やがて九台の空へと登っていく。
「────ん?」 「? どうかした? 父さん」 「…………いや、なんでもない……」 今、何かいたか? そう聞こうとして、士郎はやめた。 何もいない。目で追う限りは。検索するフェースを目から五感へ変えようかと思ったが、それも一歩手前でとどまった。 何かいるかもしれない。が、いてもおかしくはない。ここは別荘地で、自分たちだけの土地ではない。その何かが──もしくは誰かが自分たちを視ていたとしても、おかしくはない。 見ているだけならば。 「…………」 予感。自覚できるほどに明解ではない予兆。だが確かに肥大していく不安を抱きながら、それでも士郎は、肉を食べる手と口を動かし続けた。
そうして、二度と味わうことのない絶望の夜が始まる。
◇
清々しい夜だった。空間だけを切り取れば、今夜はいつもとは違うように見える。珍しく家族で旅行に来たからだろうか。ここが都会でなく、人工の光に邪魔されることなく夜空を見渡せるからだろうか。 月が輝き、星が点在する夜空。だがそれらは、結局は見えるか見えないかの違いだけしかない。そこにあるのはいつもどおりの夜であり、違いがあるわけもない。 そもそも、夜という時限を時間として区切ることに意味があるはずもなかった。日が落ちればそれだけで『夜』である。そこに常時性はなく、恒常性もない。いつもどおりの夜も、いつもと違った夜も、結局ただの錯覚に過ぎないのではないか。 夜は夜であって、ただそこにあるだけの存在に過ぎない。 従って、今こうして自分が感傷的になっているのは、決して夜のせいではない。 そう自身に納得させたところで、士郎は気配を向上させた。 別荘地である九台桜隅は、思ったとおり葉桜が満開だった。緑は自然と人の心を和ませる。そのことに異論はないが、ここまで集合するとさすがに鬱陶しい気がしないでもない。 湖の畔を歩きながら士郎は── 身体が、勝手に興奮していることを実感していた。 自分にさえ緊張を抱く感覚は初めてではなかった。が、こういうときは、 (決まって嫌な事が起こるんだ) 乾いた唇を湿らせながら、士郎は胸中でぼやいた。 静かな夜。時間としては、もう深夜を回っていた。驚くほど静かな別荘地で、ただ空気だけが、これから始まる何かに怯えるように落ち着きなくざわめいていた。それでも静かだと思えるのは、生命の息吹を全く感じないからに他ならない。 虫も鳥も。この地から姿を消していた。危険を予感したからなのか、それとも初めからいないだけなのかは分からなかったが、自然豊かな九台は、それだけに異様な不自然さをかもし出していた。 ともあれ、士郎としては別段理由があってこの時間を狙ったわけではなかった。一通り借りた別荘内の掃除を終え、バーベキューを終え、鈍らない程度に息子の鍛錬に付き合い、美由希が完全に寝静まるまで待っていたらこうなっただけのことである。 (あそこか……) 目的のものを見つけて、士郎は独りごちた。 目線の先──士郎が借りたのとは別の別荘がある場所に、それはいた。 それに気がついたのは、恭也と美由希が寝付いた後。見計らったように、子供たちが寝たと安堵したその瞬間、その気配はどこからともなく、何の予兆もなくポツンと士郎の意識にもぐりこんできた。 誰かは分からない。自分の存在を主張し、こちらを意識している気配に覚えもない。各別荘間の距離は一キロもなかったが、気配だけで何者かを判別するには遠すぎた。 (何者だ?) 身に覚えがあるとすれば、それは昼間の交通事故未遂の件か、ここ二週間の監視の件か。だがどれも、事件性があるかないかも定かではない。自分の家の前を人が通っただけで泥棒だと叫ぶわけには行かないのと同じで、こちらには情報源が少なすぎた。その三つが同一人物である可能性は、否定出来ないレベルでしかないのだ。 だがこの場合、文字通り防犯対策していれば済む問題でもない。それだけに、簡単に判断していい問題でもない。 (いや……) だが士郎は、不思議と迷うことなく三つとも同じ人物によるものだという考えを持った。 根拠はない。正当性を示せる事実など微塵も持ち合わせていない。だが逆に言えば、それが間違いであるという論拠もない。 何かを決意しなければ、動くことさえ出来はしない。そのことを自覚した上で、士郎が取るべき手段は大きく分けて三つあった。 ここから逃げる。迎え撃つ。そして、何もしない。 (三番目は却下だ) その気配の持ち主が敵だとしたら、その存在そのものが罠かも知れなかった。何者かも知れない、気配だけを知らせてくるような相手が敵でない可能性は低い。そんな相手に向かって不用意に飛び込むことがいかに愚かなことなのかは自覚していたが──かといって、その気配の持ち主が何かしらアクションを起こすまで待つわけにもいかない。 この別荘地まで追いかけてきたということは、敵かもしれない何者かが、何らかの目的意識を持って動くつもりでいるということだ。それも周囲の目を気にせず、徹底的に。 (恭也を起こしておいたのは正解だったな……) 何かあったときは逃げるくらいはできるだろうと考えながら、その気配の元をさぐる。 気配が絶えず意識しているもの。それは間違いなく自分だった。敵意はない。圧迫感も。だが目的が士郎であるなら、恭也と美由希からは離れるべきだという彼の決断は、正しくもあり、間違いでもあった。どちらを採用するか。迷いの果てに士郎は前者だと判断し、今こうして他人の土地を踏みしめている。 罠がないか慎重に歩を進め、五感を開放させ、自分の周囲数メートルを索敵する。 だが結局、隣の別荘の庭に到着するまで、気に止めるほどのモノは何もなく──そうして確かに目的の存在はそこにいた。何か手帳らしきものを手にして、そこにいた。 (子供?) 少年だった。身長も低い。見た目の年齢は十四、五といったところだろうか。どちらにしろ、士郎に比べれば遥かに年下であることに違いはない。ところどころ金属で補強された、身体に密着度の高い黒皮製の戦闘用らしき服を着用し、持ち主と同じ身長ほどもある長尺刀を傍らに置いて、どこにでも売っているようなメモ帳に何かを書いていた。 「お──」 「ようやく来てくれましたか」 「──前は何者だ」と続けようとした士郎の声を、見た目にはそぐわない低めの声がさえぎった。思ったよりも大人かもしれないと、その顔を真正面から見据えて思いなおす。 士郎はもう一度息を吸った。 「お前は、何者だ」 「暗殺者です」 にっこりと、少年が言った。静かに息を吐いて、そして笑う。空気が冷たいからだろうか、口を開くたびに白く立ち上る息が、その存在感を否応なく相乗させた。 その少年と相対しながら、士郎は気づかれない程度に小さく、だが出来る限り深く深呼吸した。 (最悪だ) 考えうる限り、最悪の事態が目の前にいる。冷静さだけは保ちながら、士郎は先を続けた。結果は見えていたが、それでも問いただす。 「俺に、なんの用だ?」 「いつ気がつきました?」 質問の答えとは微妙に食い違いがあったが、士郎はかまわず答えた。 「誰かに見られている気がしたのは二週間ほど前からだ。気のせいかとも思ったがな。今日、俺が車で轢いたのも含めて、お前なんだろ?」 「ああ、やっぱりあれで気づかれちゃいましたか」 と、大げさに肩をすくめてから、少年暗殺者は続けた。そしてカラカラと笑う。 「よくわからんな。何が目的だ?」 「ただの好奇心ですよ。車とぶつかったのも、貴方を観察していたのも。いや、冗談じゃありませんので怒らないでください? 僕は本気だったんですから。あ、でもあの直撃は事故なんですよ。いえ、それとも僕のミスっていうのかな? この場合は。ま、ご愛嬌ということで勘弁してください。貴方が僕のところに来てくれたってことは、結果オーライだったということですし……」 その言葉が、士郎に嫌な事実として圧し掛かった。暗殺者のターゲットは他でもない、ここまでやって来た自分自身なのということを一瞬で意識する。考察して、だが結論は出なかった。 (やはり迂闊だったか!) 舌をかんで、士郎は自分を責めた。難を逃れる方法はいくつかあった。しかしそのどれもが最善ではない。最良でもない。目の前にいる少年がもし本当に暗殺者なのだとしたら、いかにあがこうと、自分は彼によって殺される。 自分を殺す方法などいくらでもあるのだから。 (どうする?) 確かに、死なずに済む方法はある。彼を撃退する。ここから逃げる。恭也と美由希を見捨てる。誰が犠牲になろうとも生き延びる決心さえあれば、自分が死ぬことはない。 だがそれらは、どれも自分にはできないだろう空言だ。 「言い忘れてました。僕は皇設楽といいます。僕の用件は、大体お分かりですね? 貴方を殺しに来ました」 それを見透かしているのだろう──少年が、嫌味な笑みを浮かべて言った。 「ここから退くことは許しません。貴方が僕の目の前から立ち去ったと判断すれば、貴方の子供が寝ている別荘を爆破します。方法は一つ。僕を殺してください」 「貴様……っ!」 退路はない。もう戻れない。 何もかもが崩れ落ちていく。 何が正しかったのか。 どこで間違ったのか。 判らないそのままに、暗殺者がやってくる。ならば── (進むしかない!)
だがその考えそのものが間違いであることを。 士郎は知ることになる。死の絶叫と共に。
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