◇

 

 息を吸う。そして吐く。

 たった二つの挙動は、簡単かつ、生きるうえで至極当然の行為だった。健康でいる限り、自然と身体が反応する事象でもある。そうでなければ確実に死が待っているだろうが、そのできて当たり前のことを、士郎はいったん意識して中止した。

 乾いた土を蹴って、士郎は思いっきり後方に跳躍していた。緊張する意識の中で、危険だけを選別して把握する。

 ざっ──

 と、駆け出してくる音。それと同時に寄ってくる気配は明らかに殺気だった。星明りに照らされ闇に染まり切っていない空の下で、その部分だけが黒く特化した一個体は、その小柄な肉体を利用してとんでもない速度で接近してくる。

 腰に差してある小太刀を左手で抜き、空いている右手で、士郎は飛針と呼ばれる鉄製の針を少年に投げつけた。効果的な攻撃でないことは承知していた。案の定、装備している手甲でそれをはじくと、少年──皇設楽と名乗る暗殺者は、自分の身長と同じくらいの長さの刀を、軽々と片手で振り下ろしてきた。

(!?)

 違和感が彼の胸中を襲う。少年の剣圧がその動作に比べて小さかったことへの疑問も晴れぬまま、再びやってきた第二撃を小太刀で防ぎ、士郎はもう一歩だけ遠のくように後退した。

 彼の攻撃は軽かった。ただひたすらまでに軽く──だがそれでも一瞬は自分を押し戻すだけの攻撃力があることに、士郎は軽い疑念を抱いた。

(なんだ?)

 物理力の矛盾。この別荘地に来るときの車の件でもそうだが、この少年は何かがおかしかった。

「!」

 だがすぐさま思考を切り替えて、士郎は息を吐いた。その間に体勢を立て直し、残るもう一本の小太刀を抜く。意識を整えて、神経を足に集中させた。

 そして──

 心臓の鼓動が爆発する。

 空気の音。足にかかる反動。髪の毛一本、その先に至るまで、全身に血液が循環するような感覚が駆け巡る。熱を持った身体は、意識の変革についてこようとして少なからず悲鳴を上げていた。構わず、続ける。

(神速!)

 世界の全てがモノクロになる。景色が背景に、空間が平面になる。意識は重苦しかったが、身体は軽く踊っていた。決意してしまえば、行動するのに問題はない。

(恨みはないが……これで、終わりだ!)

 心中でわびる。戦いを終わらせるための必殺の一撃を覚悟する。が、攻撃対象たる暗殺者の動きを視界に捉えて、士郎は驚愕した。

 少年は士郎の視線を真正面から受け止めていた。敵──すなわち自分の動きに備えて、少し遅れ気味に、だが確実に体勢を変えていく。

(見えているのか?)

 その疑問は、次の少年の一撃で確信となった。

 薙ぎ払った刀を小太刀で防がれると悟った瞬間、彼は上半身をそらしただけで薙ぎを突きへと変換した。紙一重でそれを避けながら、士郎は少年に密着した。手甲で防がれた小太刀をあっさりと捨て、零距離射程での掌打を彼の胸部に打ち込む。それは実際には届かなかったが、牽制にはなった。動揺が走る少年の黒瞳もそのままに足払いをかけ、鉄板の仕込んであるブーツで蹴りを繰り出す。

 刀を持たない左腕でそれを受けて、少年の小柄な身体がそのまま後方に飛んでいく。だが着地の反動を利用して再び間合いを詰めると、士郎の小太刀を自らの刀でとどめつつ、空いた逆の手を短く突き出した。

 身体が震える。わき腹に激痛が走る。衝撃は骨を響かせ、そのまま内臓に伝わって士郎の意識を揺るがせた。

「くっ!」

 痛みにあわせて身体をよじる。その動きに沿って、士郎は刀で少年を切りつけた。頚動脈を狙った剣閃は、しかし避けられて少年の肩をえぐる。剣先に伝わる肉の感触と、飛び散る鮮血。それを視認するよりも早く、返すように再び刀を振り下ろす──が、再度、それは手甲で止められた。その間隙を縫って、再び長尺刀が突き出される。

 痛みによる揺らぎは一瞬だった。脳から肩に伝わる神経の中で、そこに異物が混じっているのを自覚する。見るまでもなく、肩は貫通されていた。

 即座に、士郎は熱を持った肩に力をいれて筋肉を引き締めた。肉が刀を圧迫する。それだけで、刀を持つ少年の動作に遅れが生じた。慌てて後方へ飛び去ろうとする彼の傷口めがけて蹴りを叩き込む。刀を持つ小さな手が柄から離れ、

「がぁっ!」

 呻き声をあげる暗殺者を後方の地面にたたきこんで、そこでやっと、世界が色素を取り戻した。

「くっ──はぁっ!」

 息を吐く。身体全体が悲鳴を上げる。頬に伝わる汗は、運動によるものだけではなかった。神速状態による神経の昇華は、肉体に極度の疲労をもたらす。本来鍛えることが不可能な神経を使う代償──神速とはつまり、そういう類の技だった。どれだけ肉体を鍛えても速度上昇には限界があるが、それを精神と神経により突破する技。現に、およそ十数秒程度の時間使用しただけでも、士郎の身体はすでに限界に近い悲鳴を上げていた。

「くそっ!」

 毒つきながら、士郎は肩に突き刺さったままの長尺刀を抜いた。血が吹き出るのを無視して、彼は右手に隠し持っていた鉄製の糸──鋼糸を投げつけた。糸は設楽との中間辺りに落ちている小太刀の柄に絡まり、そのまま刀を伴って士郎の手の中に収まる。

 呼吸で高ぶる神経を沈め、士郎は小柄な暗殺者を見据えた。

 皇設楽は──

 彼は士郎から受けた肩の傷を気にせず、ただ上着をおもむろに脱ぎはじめた。黒い戦闘着の下に、これまた黒のランニングシャツが姿を見せる。上着を片手に持ちながら、まるでそれを武器にするかのように、長尺刀を持っていた時と変わらぬ構えを取った。

(剣士の構えじゃない)

 士郎はそっと独りごちた。

 例え長尺刀という『剣』を使っていても、彼の構え、その動きは、剣を扱う者が会得した体術ではなかった。あれは……

(殺しの技だ)

 改めて実感する。彼が暗殺者であることを。

 殺人のためだけに洗練され、収束した動作──本来なら、剣士とてそれは変わらないはずなのだが、士郎は何故か、自分と彼の間に隔たりを感じた。

 敵は動かない。

 それを感じ取って、ゆっくりと、士郎は息を整えた。

 疲労した身体を、そして緊張した精神を休ませるわけには行かなかったので、出来うる限り意識的に楽な体勢に移行する。

 そうしてもう一度冷静になってみれば。

 本物の暗殺者というものの怖さを、士郎は実感せずにはいられなかった。

 人を殺すことに躊躇いを抱かない者たち。嫌悪も、違和感も、不安さえ感じない者たち。鑑みれば、自分を含めた御神の剣士が『暗殺者』と呼ばれなかった理由はここにあるのかもしれないと、士郎は不意に思った。

 御神流。正式には、永全不動八門一派、御神真刀小太刀二刀術と呼ばれる古流剣術。小太刀を主要武器とし、飛針や鋼糸といった暗器も扱う流派で、その遣い手である御神と不破は、過去より要人警護や暗殺を請け負い、日本の裏で暗躍していた一族だった。

 その観点から見れば、士郎もまた一流の暗殺者であると言えるかもしれなかったが、それでも彼は、自分を暗殺者と自称するには抵抗があった。

 剣士という機能を持った存在。組織に属さず、個人で戦いを繰り広げ、時として殺しも引き受ける御神は、だが決して暗殺が本業になっているわけではない。人を殺すことに何の躊躇いもない殺人狂では決してない。しかしながら、裏社会にはおおよそ最強の銘として御神流が恐れられていることも事実だった。その理由のひとつが、さきほどの加速術である。

 超人的な加速を可能にする御神流の奥義の歩法『神速』。

 精神が肉体を凌駕するこの技は身体に掛かる負担はすさまじく、そのため使用時間が制限されているという欠点がある。だがおよそこの技に──人間の限界を超えた『神速』の速度についてくることができる技術を持った流派を、士郎は知らなかった。

 しかし今、その速度についてくる現物が目の前にいる。

(世界は広いな)

 素直にそう思う。興味がわいた。それ以上に恐怖も感じる。

 地面を踏みしめる。戦闘態勢は崩さぬまま、士郎はあたりを見渡した。範囲内に罠らしきものは見られない。もし目の前の少年暗殺者が本気で罠を仕掛けていたならば、おそらく引っかかった時点で命を落とすだろう。

 職業的に暗殺業を担う者は、おおよそ目的達成のために手段を選ばないといわれている。注意だけは十二分に払う必要があった。

 と、その心理を見透かしたのだろうか、少年暗殺者がクスリと笑った。

「ご心配なく。罠の類は張っていませんよ」

「……そう言われて信じろいうのか?」

「僕の武器は貴方の足元にある長尺刀だけです。信じる、信じないはそちらの勝手ですが……?」

「ちっ!」

 どちらにしろ、注意しなければならないことに変わりはない。最悪なのは罠ではなく、その罠を仕掛け、止めを刺してくる暗殺者なのだ。

 その彼の武器──少年が持っていた長尺刀は、見た目にしても百六、七十センチはあるだろう。柄の部分を抜きにしても、小太刀の数倍はある。剣を持って戦う者のほとんどがそうであるように、彼の間合いは少なくともその数倍──六メートル前後ということだ。

 対してこちらの武器は、間合いの広さでは圧倒的に不利な小太刀が主軸。

(罠のほうがいくらかましだったかもしれないが……)

 だが現時点で、彼の手元に剣はない。長尺刀は士郎の足元に転がっている。これを彼が手にすることだけは、なんとしてでも防がなくてはならなかった。向こうの必殺の間合いに入ろうと、こちらの攻撃が届かないのでは話にならない。引き分けにすら持っていけない。

 様子を探りながら、士郎は切り出した。

「質問がある」

「……なんですか?」

「何が目的だ」

「……何ですって?」

 逆に問い返されるとは思っていなかったが、それ以上に驚いたのは、少年の顔が目に見えて歪んだことだった。あえて言うなら、疑惑の表情というべきか。まるで、殺す標的を、いざ殺す寸前になって人違いに気づいたかのような疑心の顔。

 何故彼がそんな顔をするのか判らなかったが、士郎は続けて同じ疑問をぶつけた。

「何の目的で俺を狙う」

「…………」

「…………?」

 ふいに訪れた沈黙を保つ暗殺者の態度に、さしあたって変化はなかった。ただ黙したままの彼の視線に淀みはなく、発する殺気にも迷いはない。

 数秒、もしかしたら数分は経過したかもしれないほど、二人はじっとその場で相対した。均衡は続く。殺気の奥に含まれる必殺の気配をお互いに読み取った膠着状態が続き──

「…………おい」

 だがさすがに痺れを切らして、士郎は切り出した。それがきっかけだったのだろう、暗殺者──皇設楽の表情が改めて変化する。落ち着きを取り戻したらしい彼の目から色が落ち、心の底から呆れたように見えたのは、士郎の気のせいではなかった。

「本当に、分からないんですか?」

「何がだ?」

「……もう一度聞きます。貴方ご自身に、暗殺者(ぼく)に狙われる心当たりはないのですか?」

「ない」

 これは迷うことなく断言する。ないものはないのだから仕方ない。

 それを見た設楽が、失礼なほど深々と嘆息した。

「…………呆れましたね。本当に、この裏業界が──いえ、この世界が今、貴方と言う存在をどう認識しているか、全くご存じないのですか?」

「……だから、一体何のことだ?」

 設楽の言っている意味が分からず、士郎は切り替えした。

 自分について、世界が認識していること。

(アルに一度、子連れ狼現代版とか言われたことはあったが)

 知り合いの政治家の言を思い出すが、それがこの暗殺者となにかしら関係があるとも思えない。

「教えろ。一体何のことだ」

「不破士郎、貴方は……」

 その時だった。

 鼓膜が振動する。爆風に脳が揺さぶられ、心臓がその鼓動を一時的に停止する。こみ上げてきた嘔吐感を我慢したその矢先、士郎は視界の隅に光を見た。

 それは明かりだった。この世で最も純粋な赤い光。破壊を司る赤き揺らめきが、その燐分が、高らかと天へと舞っていく。

(爆発──?)

 疑問が浮かんだ直後、士郎は目を見開いた。炎が立ち上るその場所は士郎の知った場所だった。距離、方向、その他すべて。間違いなく、間違えようもなく、燃えているのは士郎が借りた別荘に違いない。

 だがあそこには──

「恭也! 美由希ぃっ!」

 その瞬間、士郎の中で何かが切れた。

 

      ◇

 

「あああああああああっ!」

 恐怖と痛み──心の被害を隠すことなく、彼の絶叫が木霊した。と同時に、姿が消える。いや、違う! 姿を見失ったのだ。自分が──!

 感覚で、皇設楽は判断した。即座に判別して、決意する。

「くっ!」

 手に持っていた上着を隠れ蓑に、設楽は身体を静めた。だが遅かった。

「──っっっ!」

 声にならない悲鳴が漏れる。肩から背中にかけて灼熱が駆け抜けていく。斬られた。そう認識した時には、設楽は横へ跳躍していた。

(これが本気になった御神の遣い手? さっきの超加速も尋常じゃなかったのに、さらに速くなれるのか!)

 心中で愚痴りながら、設楽は算段した。

 まずしなくてはならないこと。現在の最優先事項。

(彼を止めなければならない!)

「聞きなさい! 不破士郎。あれは僕の仕業じゃありません。信じないかもしれませんが、プロの暗殺者は基本的に標的以外は殺さない……って、くそっ! また消え──!」

 完全に姿の見えなくなった敵の存在を追って、設楽は今度はまったくの勘で一歩前へ進んだ。手を伸ばし、両腕の肉と骨がともに斬れるのもかまわずに、自分の前にいるだろうそれを掴み取る。

(捉えた!)

 直後に走り抜けた腕の激痛を無視して彼を──その服を引き寄せ、眼前に唐突に現れた御神の剣士を、設楽は迷わず地面へ叩き付けた。

「がはっ!」

 すぐさま彼が動けないように上へ乗り、その要とも言うべき右手首を踏みつける。落とした剣を蹴り飛ばし、残ったもう一方も同様に彼の元から弾く。

「ああああああぁぁっ!」

 咆哮を上げる獣の顔面を、設楽は血が滴る腕で容赦なく殴りつけた。

「聞きなさい。いいから、とにかく。ああっ、もうっ! 聞きなさ──聞け! 不破士郎。僕を殺して子供たちが戻るのなら、いくらでも殺しなさい。ですが、今はそうじゃないでしょう? 貴方が今なすべきことは、僕を殺すことじゃない。彼らの安否の確認だ! いいですか? 聞いてますか。聞こえますか?」

 その間も殴り続ける。右ほほ、左ほほ、そしてあご。だがあごは殴ると手が痛いので一度でやめる。その後もやはり殴る。右ほほ、左ほほ。何度も繰り返し殴る。殴る。殴って殴って殴り続ける。拳が壊れるかもしれないほどくらい殴って──

 だからというわけではないが、その殴られている当事者の声に、設楽は気づかなかった。殴り続けるその手は止まらない。

「いや、痛い。ぐっ! おい。 ぐはぁ! ちょっと。 くぅっ! 待て。 がはっ! 痛い」

「くそっ。車には轢かれるし、貴方は自分が狙われている理由を全っ然自覚してないし。大体、なんだって別荘地にスーパーもコンビニもないんですか? バーベキューはさぞ美味しかったでしょうね! こっちは何も食べずに空腹だってのに! せめて食料品店くらいあってもおかしくないでしょう? そうでしょう?」

 そしてやはり殴る。何度も殴る。

「それは。ぐはっ! 八つ当たり。ぐほっ! やめろ。がふっ! 痛い。ごふぅっ!」

「ねぇ、聞いてますか? 不破士郎!」

「だから! 痛いって言ってるだろうがっ!」

「うわっ!」

 下からの急な反撃に、設楽は身体をのけぞり、そのまま数歩後退して尻餅をついた。見ると不破士郎が、肩を怒らせながら身体を起こしている。何故か怒っている風なのはともかくとして、彼は再び剣を取る様子もなく、あれほど充満していた殺気もなくなっていた。血走っていたはずの双眸も、以前の落ち着きを取り戻したようだった。

 ホッとため息をついて、設楽は言った。

「ああ、やっと正気に戻りましたか」

「それはこっちの台詞だ!」

 手をわななかせて叫ぶ士郎の反応を理解できず、設楽はきょとんと首をかしげた。

「え?」

「人の顔をボカスカ殴りやがって。手加減なしか? 恨み言が聞こえたぞ!」

「……まぁ、ちょっとした気晴らしだったのは認めますが」

「くっ! いや、いい。文句は後だ!」

 青痣だらけの、でこぼこに腫れ上がった顔を燃え盛る別荘へ向け、

「さっき言ったことは本当だな? お前の仕業じゃないんだな!」

「暗殺者生命を賭けて誓います。あれは僕じゃありません」

 迷うことなく、設楽は断言した。間違いなく、紛れもなく、あの別荘の爆発は自分の手によるものではなかった。では、誰なのかと言うことだが、心当たりは一つしかない。

「今は信じてやる。だが、もし恭也と美由希に何かあれば、俺はお前を殺す!」

「お好きにどうぞ。多分、あれは僕に貴方を殺すように依頼した一味の仕業でしょう。チェン・ユィスィという男です。ご存じないですか?」

「知らん!」

 そのときにはもう、不破士郎はここにはいなかった。声が遥か前方から聞こえてくる。目線で追う必要もなく、巨大な気配が静かだった別荘地を駆け抜けていく。彼の大切な者がいる場所に向けて、駆け抜けていく。

「間に合わないでしょうね、きっと」

 誰に言うでもなく、設楽は呟いた。

「それよりも、思っていたより連中の動きが早いことのほうが気になりますね。僕が裏切る(・・・・・)ことを考慮した上で、向こうも保険をかけたつもりなんでしょうけど。ったく……」

 最後のぼやきは、ここにはいない剣士に向けたものだった。

 枯れ果てた文句もそこそこに、設楽は意識を自分の両腕に持っていった。腕の傷口から、血が止め処なく流れていく。両腕ともに肉と骨が半分ほど切断されているのだから、それも仕方ないと言えば仕方ない──が、力を入れて筋肉に圧力をかけようとしても、力が伝わらないことには苛立ちを禁じえなかった。脳からの指令がカットされるもどかしさが、設楽の胸中を支配する。

(神経が切断しているのは間違いないか……)

 斬られた瞬間は、今でも鮮明に思い出すことできた。超常的な加速状態における、抜刀による連撃技。腕を失う覚悟で身を乗り出していなければ、さらにやってきただろう後続攻撃が設楽の首を飛ばしたに違いなかった。

(腕二本で済んだのはましというわけですね。一応、半分は繋がっているし)

 出血過多のためか、設楽は自分の視界が揺らぐのを感じた。意識を失うかどうかのギリギリのところで、だが感覚だけは研ぎ澄まし、士郎の気配を追う。

 燃え盛る別荘地で、士郎は戦っていた。充満する闘気と、彼が放つ殺気に炎が反応して、ここからでも分かるほど盛んに炎粉が天上へと舞い上がっていく。

 ふいに気になって、設楽は士郎が戦っている敵の気配を捕捉した。おそらく十数人ほど──それも尋常じゃないほどに武装しているらしいことに気づいて、訝しげに眉をひそめる。

(重火器? チェンの配下の連中でしょうけど、何故ここに……いえ、おそらく僕の他に監視役がいたんでしょうね。さしずめ、僕はおとりというわけですか……)

 そして否定する。心配すべきは、彼の身ではなく、自分の怪我のほうだった。

(まぁ、とりあえず彼に関しては問題ないでしょうね。今の彼に勝てる人間がいるわけがない)

 再び士郎の気配が消える。いや、消えたと言うよりは、どこかうっすらと陽炎のように揺れ、それがもう一度明確に点滅したとき、同時に数人──武装している連中の気配が消えた。

(また神速……)

 その間にも、設楽の腕からは血は流れ続けていた。冷静に観測するほどの余裕もなくなりかけた頃──

「御神の奥義。あれが『神速』か。まったく、とんでもない技だな」

 後ろからやってきたその声は、当然ながら設楽のものではなかった。

 気配だけで察知する。この声は敵ではない。それを知っていた設楽は、警戒せずにその声の持ち主に問いかけ、それと同時に責めた。

「見えたのですか?」

「まさか。私は戦闘タイプの能力者じゃないんでな」

「それもそうですね……で、なんだってこんなに遅かったんです? 出血しすぎでもう意識がフラフラなんですが……」

「ああ。私の診療時間は午後九時までなんだ。救急は担当外でね」

「…………」

 そのとき初めて、設楽は声のする方を向いた。

 ウェーブのかかった髪をオールバックにまとめた、年の頃二十歳半ばの女だった。髪飾りも何もない。化粧や、服装などお洒落した様子もなく、ただ丸形の縁なし眼鏡に覆われた鋭い眼光と、機能だけを求めて着用された白衣が彼女を理知的に見せている。

 そしてその見た目通り、彼女は医者だった。設楽もまたそのことを知っていた。何のことはない。彼が呼んだのだから。

 その彼女に向ける視線を強める。こういう時に聞く冗談は不快でしかなかった。その視線を鼻で小さく笑ってから、彼女は肩をすくめて見せた。口元に浮かぶ笑みが、どこか余裕を醸し出している。医者である彼女が慌てていないのだから、自分はおそらく大丈夫なのだろう。

「そんな顔をするな。依頼どおり治療はしてやる。輸血もしないとまずいだろうな。すぐ御神の元へ行きたいんだろうが、どうせあの男はお前が現れなくても、遅かれ早かれ巻き込まれていたんだ。慌てる必要はない」

「…………」

 言葉どおりに受け取って、設楽は彼女に自分の身体を預けた。女性にしては長身の彼女と、男にしては小柄な自分。すっぽりと彼女の腕に収まり、彼女の白衣を赤く染めながら、設楽は意識を断絶させた。

 

      ◇

 

 複雑な音は、だが間近で聞いてみるとただの一音にしか聞こえないものだった。

 ドンッ!──という単調な衝撃によって吹き飛ばされる自分を客観視する。何が起きたのかに関しては、理解しすぎるほど理解していた。

 別荘の前に到着した途端の爆発だった。それが手榴弾によるものだということは知覚できたが、それがどこから来たか、誰が投げた物か──その考えがまとまるちょうどその時、吹き飛ばされた身体が地面をすべり、先の暗殺者との戦いで貫かれた肩の傷が悲鳴を上げた。激痛が走るが、声を出すことは何とか我慢する。

 手、足、顔、胴体。それ以前に、頭。心臓はもとより、とりあえず五体満足なのに安堵して、士郎は硝煙で視界の遮られた空間に気配を向けた。

 感じる人の気配。自分と九十度以上離れた方向から、十数人の殺気を感じる。距離からして五十メートルといったところか。

(敵?)

 そうでない可能性のほうが低いと判断して、士郎は動いた。爆発の衝撃で地面がめくれ、岩が露出してしまっている地面を、数歩で飛び越える。

 別荘の中に、人の気配はなかった。

(恭也が起きていても、いきなり爆破されたら逃げようがない!)

 慌てている自分をどうにか制御して、士郎は煙の流れ、空気以外の人為的な動きで敵の位置を把握した。正確には十三人。微かに鼻腔を刺激する火薬の臭いは、すでに爆発した手榴弾のものではなかった。うっすらと見える敵影。その規律正しい動き。重火器装備をした、なんらかの戦闘訓練を受けた集団だろうと判断する。

 だが、

(気配の消し方は素人だ!)

 視界はまだ晴れていない。感じる敵の吐息、その足音。気配を殺して、士郎は敵の側面に回りこんだ。息を止め、一気に間合いを詰める。

 再び神速へと移行する。

 御神の奥義の一つ、薙旋(なぎつむじ)と呼ばれる抜刀技を発動させる。子供たちの安否が確認できないことが、士郎を急がせていた。身体の悲鳴を無視した奥義の連続──コンマ数秒の世界で動く彼の存在に、武装した敵はまったく気がついていない。

 小太刀による抜刀の四連撃、体勢を整える勢いを利用して、もう一撃。一人に一撃。計、五人を昏倒させる。最初の少年を相手にするより遥かに気楽な面持ちで、だが確実な焦燥に駆られながら、士郎は敵を見据えた。一瞬にして現れた彼と、一瞬にして五人の仲間が倒され事実に、部隊はあっさりとその落ち着きを失う。

(次!)

 銃を構える隙を、相手に与える気はなかった。間を詰め、確実に一人ずつ沈めていく。神速の多用は、数が増すごとに身体にかかる負担を増大させる。だが、こと近接戦闘が主体の剣士が、射撃武器を持つ数人の敵を相手にするのに技を出し惜しみする余裕がないのも事実だった。このような見晴らしのいい場所では特に。

 油断すれば、その隙に彼らは落ち着きを取り戻して態勢を立てなおすだろう。それだけは防がなくてはならない。煙が晴れていく。隠れる場所のないこの場所で、剣士がどれだけ不利かなど火を見るより明らかだった。

(十一! 十二! これで……!)

 踏み込む。今一度神速を発動して、こちらを捕らえ切れていない敵の背後に回った。

「最後だ!」

 決意と叫び。剣を振り下ろし、急所に撃ちこむ。あっさりと崩れ落ちる敵を見つめながら、だが士郎はまだ警戒を解かなかった。

 息が乱れ、身体が軋む。神速の連続使用による疲労は、思った以上に彼の体を蝕んだ。立てない。

(倒れる──っ!)

 そう思った瞬間、士郎は自分の足に自ら剣を突き立てた。

「くぅっ! くはぁっ!」

 血が吹き出る。だがその痛覚を利用して、何とか倒れることだけは防ぐ。

「はぁ……はぁ……」

 息が整う間もなく、足から噴出す血流すら無視して、士郎は歩き出した。炎で包まれた別荘。その入口を探す。子供たちがいるかいないか。外からでは判断できなかった。

「恭也ぁっ! 美由希っ!」

 心臓の鼓動が激しく高鳴る。脈拍が異常を脳に訴え、クラリと立ちくらみした瞬間、鉄の音がした。それが銃声だと分かった途端、意識が瞬間的に断絶する。

 痛みは感じなかった。ただ熱を持って、その傷は存在を主張してきた。腹部に貫通した穴を、空気にも似た虚無感が通り抜ける。

 吐き気がする。我慢の甲斐なく、血が口から沸いて出た。

「がはぁっ!」

 今度こそ倒れている──そう自覚しながら、士郎は膝を地面についた。撃たれただろう腹部を押さえる気力さえ出ない。腕が動かない。唯一、剣を握る指だけは、その力を入れたまま保つことが出来た。

「さすがと言うべきかね、不破士郎」

 声がした。低く、どこか馬鹿にしたような声。少年のものではなかった。

「武装した部隊をあっさりと殲滅するとはね。だが、まぁいいいさ。結果オーライというべきだな。あのナイフ・ザッパーの相手をしてくれたおかげで、こちらは動きやすかった。例を言うよ。ありがとう」

 軋む骨を強引に曲げ、士郎は後ろを向いた。

 男がいた。黒い服を着た男だった。炎が周りで燃え盛っているせいで、顔までは見えない。だがその口元がニヤリと歪むのを、士郎は確かに見た。

 視界がかすむ。傷の痛みでも、出血のせいでもない。少年暗殺者との戦闘による疲労でもない。

 これは──?

「さて。銃弾の毒でそんな気分じゃないかもしれないが、クエッションだ。『八景(やかげ)』と『八相(はっそう)』はどこだ?」

(毒……だと!?)

 言葉どおり毒づいて、士郎は呻いた。声にならない悲鳴を上げて男を睨みつける。気にかかるべき事柄は一つ。問いかけも一つ。他に知りたいことは何もなかった。

「こ……子供……たちを、どう……した」

「気になるか。まぁ当然といえばそうなるな」

「こ……たえ……ろ……」

「心配するな、無事だよ。俺が預かっている。気が済んだか? ならこっちの質問にも答えてもらおうか。お前が所持しているはずの小太刀『八相』はどこだ? お前が今持っているのは、どうも『八景』だけのようだが?」

「くっ……や、八景なら、ここにある。だが……」

「だが……?」

「は、八相?……は知らん。なん……なんだ……それ……は」

 右手に収まっている小太刀を改めて握り締めながら、士郎は言った。声が枯れる。血がにじむ。それに追い討ちをかけるように、再び銃声が響いた。

「があぁっ!」

「もう一度聞く。考えて答えろ。『八相』はどこだ?」

「し、知ら……ない……」

「……ちぃっ!」

 三度目。銃弾が肉を破り、骨を砕き、だが貫通せずに体内に残る感触がダイレクトに伝わってくる。冷たい金属の触感が、士郎に激痛と嘔吐を催した。

「まぁいいさ。ならとりあえず、八景だけでも貰い受ける」

「な、何を……」

「本当に知らないのか? 『後継者』にしては無自覚だな。さっきの戦いも見ていたが、能力を全く使えていない。契約もしていないようだが、これでは宝の持ち腐れだ。フン、まぁいいか。さて、まだ聞こえるか? 不破士郎」

 男はすぐ傍にいた。身体が弛緩し、出血と毒で意識が遠のき、だが痛みで決して気を失えない士郎の耳元で、

「八相を持って来い」

 男が静かに言った。燃え盛る炎の雄叫びと、崩れ落ちる建物の悲鳴にかき消されることなく、その声は確実な波動となって士郎の鼓膜を振動させる。

「時間は……そうだな、四日程やるよ。四日たったらまた来てやる。そのとき何の成果もなければ、わかるよな? 子供たちは殺す。死体を宅配されたくなければ、死に物狂いで探せ」

「……な……ぜ……」

「知る必要はないさ。いや、八景でさえ使いこなせていないお前には知る資格はない。だが利用価値はある。だからまだ殺さない。自害するのもいいが、そのときはあの世で子供たちに謝るのだけは忘れんなよ? じゃあな」

 身体が動かない自分を嘲けるように笑い、そうして男は気配を消した。視覚が途切れ、聴覚が止まり、触覚が消滅する。

 何も感じない。何も見えない。何も聞こえない。

 身体中の痛みも、吐き気も、何もかもが希薄になっていく。何も得られず、何も感じず、何も心に届かない。

 無力に打ち拉がれて、だがいまだはっきりと脳裏に響く男の嘲笑と、生きているかもしれない子供たちを想って、士郎は泣いた。

 動くことも出来ず、意識もないままに──

「うおおおああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ」

 九台の別荘地に、血まみれの剣士の絶叫が響き渡った。

 

 


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