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3
「勝手だよな、兄さんって」 叫ぶわけでもなく、なじるわけでもなく──ただなんとなくといった感じの言葉だった。あるいはそれは独り言だったのかもしれない。が、それがどこか愚痴のように思えたのは、要するにその事実を自覚しているからだった。 「勝手に家を出たくせに、さも当然のように戻って来て──それで? その格好からすると、またどっか行くのかい?」 「いや……まぁ、そうなんだが……」 言い訳にもならない小声で呻いて、士郎は靴紐を結ぶその手を止めた。玄関に腰掛けたまま身体をねじって後方を伺うと、居間のほうへ続く廊下の角──その壁にもたれかかるようにして、男が立っていた。 短髪に刈り上げ、士郎をそのまま数年若くした感じの青年である。そのたれ目がそう感じさせるのか。どことなく力の抜けた表情で、彼は腕を組んだまま呆れたようにため息をついてみせた。 「まぁ、何がどうとは言わないけどさ。いい加減、落ち着こうとか思わないわけ? 生活力がないのは仕方ないとしても──フラフラしていられる歳じゃないだろ?」 大きなお世話だとは思うが、彼の愚痴は止まらない。 「なんだったら、出かけている間だけでも、恭也君、俺が預かろうか? なんというか、兄さんに育てさせることが凄く不安で仕方ないんだけど……」 「あのな、一臣……」 「母さんも言ってたけど、あの子、兄さんの子供頃そっくりの目をしているからね。せいぜい、今のうちにしっかりと教育しておかないと」 「おーい……」 最後に肩をすくめ、不破一臣は言った。 「で、どこか出かけるの?」 「なんでそれを聞くのが最後なんだ? いや、まぁいいけどな。ちょっと青森の方にまで行ってくる」 「それで、その荷物?」 問いかける弟の視線が刺さるのを無視して、士郎は手早く靴紐を結び、立ち上がった。手元にあるドラムバッグを肩に担いで、 「ちょっと向こうで人と落ち合う約束しててな。恭也も連れて行くよ」 「そういえば恭也君は?」 「静馬のところだ。恭也拾うついでに、あいつと打ち合ってから発とうと思ってる」 「ふーん。ま、そういうことにしておくけど……」 「…………なぁ、そんなに俺は信用ないか?」 「あれ? 信用あるつもりだったのか? 俺や美沙斗にも黙っていなくなったと思ったら、いきなり子供つれて返ってきて、なおかつ弟に相談なく継承権まで放棄したのはどこの誰だった?」 「……そう言われるとその通りなんだが。押し付けられる形で跡継ぎになったことに文句を言いたいのも分からんでもないけど」 何か言い分はないものかと考えて、士郎は唸った。 「俺は勝手か?」 「違うのかい?」 即座に問い返されて、士郎は仕方なく考察した。 確かに、皆伝を得た途端に家を出奔したのは事実だった。 両親だけでなく、弟や妹にも打ち明けずに旅に出た過去は消せないし、消すつもりもない。未だに父はそのことを不快に思っているらしく、隠居することが決まった時は迷うことなくこの弟を跡継ぎに指名した。 そのことに文句などない。むしろ、継がなくて良かったと思っている。そんな心境を知っていたのはたった一人の親友と、当時付き合っていた女だけだった。 「…………まぁ、家のことに関しては、そうかもな」 渋々、認めておく。 「長男なのに、その責任を逃れたって言われたら文句は言えない」 「それ以外では?」 一臣の口調は、やはり責めている風ではなかった。そう感じるのは、彼の声質のせいかもしれない。彼は穏やかにのんびりと、優しく丁寧な口調で──しかし言っている内容だけは辛辣に──どこか力の抜けた声を紡ぐからだ。その気になったら自分と同レベルの剣士という事実をつい忘れてしまうほどに、一臣の態度はどこかつかみ所がない。 「最低限、自己責任は果たしているつもりだけどな。恭也のことも、自分で育てるさ。今更あの女を見つけようとは思ってない」 「よく言うよ。見つけたら叩きのめそうとか、盗まれた分の金額も利子つけて返してもらおうとか思ってるくせに」 「うっ!」 その通りだったので、士郎は思わず呻き声を上げた。 「悔しい時になんでもないって顔して、だけど密かに見返してやろうと画策するのは兄さんのいい癖だよ」 「……いいなら、いいじゃないか」 自分でも良く分からないことを言いながら、士郎は眉間にしわを寄せた。このままずるずると会話をすることに苛立ちを覚えて、強制的に打ち切ろうと玄関の引き戸を開ける。 時間にして、朝の八時くらいだろうか。太陽が雲に隠れているせいか、薄暗い朝の空気は少し湿っていた。 「んじゃ、出かけてくる」 「いつ帰ってくるのか知らないけど、恭也君、ちゃんとしたもの食わせなよ?」 「大きなお世話だ」 「人の忠告は素直に聞くべきだと思うけど?」 「心配されんでもちゃんとやるさ。今までだってそうしてきた。自分のことくらいは自分でなんとかするよ」 「ほら。やっぱり勝手じゃないか」 我が意を得たりと微笑んだ弟を半ば無理やり意識から追い出して、士郎は引き戸を閉めた。乱暴に見えないように、ゆっくりと丁寧に。 「ま、嫌いじゃないけどね。兄さんのそういうところ」 ドアの向こうから聞こえたその声に苦笑をもらして──そういう会話が出来る相手に奇妙な充足感を抱きながら、士郎は実家を後にした。 (ま、強くなって帰ってくるさ) 一歩を踏みしめる。いつもの一歩。剣士として歩むその足を止めないために、自分はここを発つ。再び帰ってくるために。守りたいものを、守れる強さを身につけるために。 だが── 実を言えば、これが弟との最後の会話だった。
◇
「…………」 墓地に墓が立っているのは当然のことだった。 それらに違和感を抱くのは、自分の中の何かに因るもので、墓地の何が悪いと言うわけでもない。灰色の墓石はまだ真新しく、水で洗うまでもなく光り輝いていた。手元に水の入ったバケツがあるのは、ただの儀礼に過ぎない。 墓参り用の生花というものを、士郎はあまり好きに離れなかった。第一、個性がないように思える。故人を祷るのであれば、その本人が好きだった花を贈ったほうが遥かに良識的な気がするからだ──が、これはもう宗教的な問題なのだろう。どうでもいいことではあるが。 「結局、重すぎたのかもな」 そっと、士郎は独りごちた。誰もいない。誰も来ない。従って誰も聞いているわけでもない。だがその声に、どこか確認を取るような意思が含まれていたことを自覚して、士郎は苦笑した。 士郎以外、誰もいないのは当然と言えば当然だった。ここは古来より彼の一族──御神と不破の家の土地だからである。代々の御神流の遣い手が眠る場所。故に、ここに御神と不破以外の姓を持つ墓はない。とは言え、本来なら家族が同じ墓の中に入るのは通例であるから、墓の数もさほど多くはなかった。 「命を背負いすぎたのかも知れん。俺たちは……」 愚痴は風に乗ってあっさりとかき消された。士郎自身、それが愚痴であるということは承知していたし、実を言えばここに来たのはそれが理由だった。だからと言うわけでもないが、彼は花も線香も持ってきていなかった。 今目の前にある生けたばかりの花と、もう燃えカスしか残っていない線香は、おそらく自分でない誰か──と考えて、この時期はずれに墓参りにやってくる人間は一人しか思い浮かばなかったが──が、あげたものに違いない。 「俺を勝手だと思うか? 静馬」 死人は答えない。当然だった。それでも、士郎は言わなくてはならなかった。自分のために今一度、意思を確認する必要があった。 小太刀二刀、御神流。 その宗家、長女の結婚式──主要人物が一堂に会した御神本家を襲った爆弾テロによって、士郎と息子の恭也、妹の美沙斗とその娘である美由希、この四人を残して御神関係者は死に絶えた。 だが── 家族が死んだと言う事実が衝撃だったことは認めるが、その後の生活に何かしら変わるものがあったわけではなかった。悲しみに暮れて我を見失うほど士郎は弱くはなかったし、その死が彼の生活を脅かすほど、彼は家に依存していなかったからだ。 悲しくないわけではない。涙も流れた。家族を殺した者たちを恨みもした。だが結局、それでも今の生活を捨てるほどの激情が生まれないのは、やはりどこか自分が薄情な気がしてならなかった。 (割り切っているのか?) 命なんてものは、結局そんなものだと。簡単に壊れる、もろく弱いものなのだと。 (違う。俺は──後悔してるんだ) 守りたかった。命を懸けて、守りたい者たちがいた。 一臣や美沙斗、今目の前の墓に眠る御神最後の正統継承者になってしまった義弟・御神静馬。彼らをはじめとする御神の親族と不破の家族。 そして父と母も──親孝行などしたことなどなかったが、それでも大切な者たちであることに違いはない。 (結局、俺は何も出来なかった) 嘆きと乾き。満たされない想い。今も胸のうちを時折渦巻く感情。薄暗い恨みと、後悔と、自責の念。 それを自覚しながら──だが過去とは関係なく今を生きている自分は、やはり勝手なのだろうとしか思えなかった。そう思うことで、士郎はどうにか自分を保てていた。 「俺は、俺が生きることに対する責任しか果たせない。果たせそうにない。そう思うのは、逃げなんだろうか」 今の生活を捨てることはできない。その原因の一つが、彼の子供のことである。 親として、息子・恭也を育てることに異論はない。彼が自分で自分の生き方を決めることが出来るようになるまで、親の役割は続く。そのことに不満があるわけでもない。ただ、普通の親のようになることは出来ないかもしれないと、士郎は思っていた。 責任放棄だろうか? 違う。親の責任は──特に剣士である自分の責任は、この世界での力強く生きていく方法を教えることだ。社会に保護されることが当然となっているこの世界で、自分の生き方を見失わない方法を教えることだ。 それだけが原因ではない。だが、果たして子供がいなければどうなっていたのかは、士郎自身にも分からなかった。 「……俺は仇を討とうとは思ってない」 だが現実には、彼には子供がいる。この手で守るものがいる。まだ守れるものがある。そしてそのための生活もある。それらを捨ててまで、もはや取り戻せない過去に囚われ狂気に走るほど、彼は激情に蝕まれていなかった。 だからこそ、士郎は決意を固めておきたかった。自分を見失わないためにこそ、今日彼はここに来ている。墓を参るためではなく、過去と決別するためでもなく、自分をもう一度再確認するために。 ただ、心残りもあった。 「美沙斗は……往ったよ。復讐のために」 御神宗家は滅びたものの、無論、遠縁に当たる人間なら生きている者も大勢いた。しかし小太刀二刀術を学び伝える御神流の遣い手は、今このときを持って、士郎と美沙斗の二人だけとなったのだ。 その妹も今はいない。連絡先も告げず、一方的に娘を士郎に預け、夫と家族の復讐のために姿を消した。剣を手に取り、修羅となる道を彼女は選んだ。 「止めなかった俺を、お前は憎むか? だがすまん。例えそうでも、俺はあいつを止める気にはならなかった。一人の剣士として、人間として、あいつはあいつの道を選んだ。それを間違っていると言い切るには、俺は人を殺しすぎている」 この手で、敵を何人も血の海に静めた。彼らとて、ただ自分の生き方をしていただけだ。どちらが正義などと、語る気は毛頭ない。 「俺は、結局俺の命しか背負えなかった。こんな俺だ。たとえ俺が死んでも、他の誰かに責任を感じて欲しくはない」 続ける。息を吸うことなく、一息で。 「だけど……いやだからこそ、俺はやはり生き方を変えることは出来ない。この剣で誰かを守ることが出来る限り──守れるものがある限り、俺は戦う。その道を貫くために、もう往くよ」 と── (誰かを守ると言うことは、その誰かの命を背負うと言うことだ。それすらも放棄するのか?) 誰の声か。わかっていた。これは自分の声だ。そして、義弟の声でもあった。 親友が生きていた頃、自分に問いかけてきた言葉。それを自問しているに過ぎない。だからこそ、士郎は迷うことなく自答した。 「俺に守れるものなんて限られている。恭也と美由希。アルバートや他の連中も含めて、俺はただ、彼らが彼らの生き方を貫けるようにするだけだ。俺は命を背負えるほどの器じゃない」 (勝手だな。無責任とは思わんか?) 「そうだな」 けれど──
お前たちを守れなかった俺に、一体他の誰の命を背負えというんだ?
◇
ああ、これは夢だ。 そう思えるくらいの覚醒を果たして、士郎は現状を把握すべく脳を活性化させた。 明るい。まぶたの上から光が差している。それが太陽の光だと実感したのは、光そのものに温度を体感したからだった。 ゆっくりと、まぶたを開ける。 目の奥が痛んだが、士郎は無理やり焦点を合わせた。天井は随分と見慣れたものだった。和室の天壁。和風の室内灯。実際には室内は暗く、明かりは網戸の隙間から漏れたものだった。 それよりも、士郎は鼻を突くたたみの匂いの方が気になった。さらに布団の質感まで覚えがあることに気づいて、疑問を抱きながらも身じろぎしてみる。 うまく動かない身体を無理やりねじらせて、だがその瞬間に走り抜けた激痛に苛まれながらも、士郎は眼球を泳がせた。そして気づく。 室内には人がいた。 見知らぬ女だった。ウェーブのかかった長い髪。年の頃二十代後半の、切れ長の瞳に理知的な雰囲気をまとわせた美女が、白衣姿で本を読んでいた。 (誰だ?) 女の顔に見覚えはなかった。医者だろうか。だとして、誰が呼んだのか。そもそも、ここはどこなのか。何故この部屋に見覚えがあるのか。 「お?」 と──こちらの動きに気づいたらしい、手に持っていた本から目を上げて、女は、一瞬聞き間違えたかと思うほど低いテノールの声を紡いだ。 「目が覚めたか?」 細く白い手が士郎の額を撫でた。汗ばんでいたからだろう。冷たい彼女の手を心地よく感じながら──汗で額に張り付いた髪をやさしくかきあげてくれるその指の動きに、士郎は直感的に彼女を敵ではないと判断した。 どちらにしろ、身体全体に力が入らないので逃げようがなかったのだが。 「俺は……?」 何とはなしに、士郎は聞いた。まだはっきりとしない脳で思索する。 ここはどこで、俺は一体どうなった。 「出血多量で意識を失っていたんだ。しかし、もう傷はふさいだし、怪我も治した。輸血もしておいたから、心配する必要はない」 意味を理解することは出来なかった。傷。怪我。出血? 「…………俺は……生きている?」 「残念だが、ここは天国でも地獄でもない。せっかく治療したのに死なれるのも遺憾に思うが、死にたいならあえて止めはしないよ。ただその場合、貴方の子供たちも道ずれだろうが」 「!」 そして今度こそ、士郎は意識を完全に覚醒させた。 恭也と美由希。自分の子供たち。怪我。出血。自分が意識を失っていた意味。 全て思い出す。 勢いに任せて身体を起こし──だが、立ちくらみに視界を失って、士郎は再び力なく横たわるしかなかった。 「ここは──っ!」 「貴方の家だ。不破士郎」 女が答える。その冷静な口調が腹立たしかったが、結局、どんな答えだろうと苛立ちは消せなかっただろうことを自覚して、士郎は何も答えなかった。 「…………」 (ここは俺の家……) 目の焦点が次第に回復し、見慣れた天井が目に入る。そうして、改めて士郎はその事実を素直に認識した。部屋に見覚えがあるのも当然だった。ここは自分の部屋だ。 情報は徐々に、だが確実に士郎の脳に浸透していく。それでも冷静さを取り戻せるほどの猶予も、女が誰なのかを確認する余裕もなく、士郎は力なく寝そべったまま彼女を睨みつけた。すぐに動かせたのは眼球だけで、顔を向けるのにさえ力が要った。 「き、恭也と美由希は!」 「……死体は見つからなかった。あの後検証してみたが、死んだ可能性は低いだろうな」 「くそっ!」 だがそれが本当なら── (あの男が言ったことは本当なのか!?) 思い出される優先順位は、酷く苛立たしいものばかりだった。子供たちがいないこと。男の声。その表情。撃たれた事実。暗殺者。八景。そして── (四日やるよ) もう一度、身体に力を入れる。今度は首を動かして、士郎は女を見た。 「俺は! どれくらい眠っていたっ!」 「約半日だ」 「半日も──っ!」 頭痛と眩暈、吐き気とだるさを強制的に押し切って、士郎は身体を起こした。不思議なことに、剣で斬られ、銃で撃たれたことによる殺傷の痛みを感じることなかったが、それでも無理な動きに骨が軋み、身体が悲鳴を上げた。 「無理するな」 「しかし!」 「事情は分からないでもない。気持ちもな。しかし、満足に動けないのでは話にならん。傷はふさいだが、貴方の身体は完全じゃない。治癒熱も出ているから解熱剤は打てない。今日一日、寝ればそれで体力も回復するだろうから、今はおとなしくすることだ」 「一日も寝ていられない!」 「その身体で何ができるわけでもない」 「正論などいらん! 二人を助けに──!」 「どこに? どうやって?」 女の言葉はことごとく正しい。事実を理性が理解し、本能が否定する。結局、返すことのできる答えを持っていない士郎は呻くしかなかった。 「……くそぉっ!」 張り上げる声にさえ、力が入らないことがもどかしかった。 「まだ無理をすべきではない。貴方の子供たちに関しては保障できないが、今の貴方を戦わせるわけにも行かない。明日までに私ができることはしておこう。それまで、おとなしく寝てほしい」 「…………」 そこで初めて、士郎は冷静になって女を観察した。 ウェーブのかかったロングヘアー。白衣の下の衣服にも飾り気もなければ、化粧気もない。だがどこか、不意に見つめてしまうような大人の美しさをまとっている。存在感というのだろうか。初見の女性に対して、素直に好感が持てたのは久しぶりだった。 「……あ、あんたは?」 「神逆無月という。職業は、見ての通り医者だ。わけあり患者専門の闇医者だが。皇設楽の依頼でね。今回の仕事の、貴方も含めた医療担当というところか」 「皇……設楽……?」 「貴方が戦った暗殺者だ。覚えてないか? ま、いいさ。説明は貴方の身体が全快してからにしよう。そろそろ寝たほうがいい。少し寝苦しいだろうが、我慢してくれ」 ゆっくりと身体を倒しながら、士郎は彼女──無月の言うとおりに目を瞑った。 目を閉じても、暗闇は訪れなかった。室内は暗い。網戸を閉じているのだからそれも当然だったが、今は日中であるため、まぶたを通して少量の光が入ってくるは仕方が無かった。 だが一方で、眠気はすぐに訪れた。身体が疲れているのか、もう一度起き上がろうと言う気迫は起きなかった。熱があるせいで意識が朦朧としてくる。 恭也と美由希。崩れ落ちる意識の中で、思い浮かんだのは二人のことだった。守ると決めた存在。守れなかった家族の分まで守ろうと心に決めた存在は、今はここにはいない。 (俺のせいだ! 俺の!) 自覚する。それ以上に自責する。 自分は無力だ。何もできない。守るどころか、生きることさえできていない。 思わず横を向いて顔を背けると、額のタオルがずれ落ちた。無月が指先でそれをそっと取り上げ、タオルを水でぬらす気配がする。氷がぶつかるカラコロという音が、心地よく耳に響いた。 「すまない……」 誰に言った言葉なのか。攫われてしまった恭也と美由希に対してか。娘を預け、復讐のために今も戦い続けているだろう美沙斗に対してか。亡くなった親友や弟、御神の先代たちに? それとも、看病をしてくれている無月に対して──? 唯一、その言葉を聞き届けた無月が、ずれた布団を直してくれた。泣いてはいなかったが、彼女はそう誤解したかもしれなかった。 額に濡れたタオルが置かれた感覚を最後に、士郎は再び混沌の眠りに就いた。
◇
不破士郎が寝付いたのとほぼ同時だっただろうか、廊下に人の気配を感じて、神逆無月はそちらへ意識を向けた。 和室のふすまを開けたその敷居の上に、無月にとっての依頼人、皇設楽がいた。昨夜と違った私服姿──白いポロシャツにジーンズといった格好は似合ってはいたが、傍らの長尺刀がその雰囲気をぶち壊しにしている。 「どうです? 彼の具合は……」 「一日寝れば治るだろう。出血よりも、銃弾に込められていた毒のほうが危なかった」 熱の下がらない状態ではやはり寝苦しいらしく、彼は顔を高揚させ、汗をかいていた。身体が回復している予兆なのだから下手に薬を打つことも出来ない。結局、無月がしてやれるのは、額に濡れタオルを当てることと、汗を拭いてやることくらいだった。 「解毒はしたし、傷はふさいだ。後は、熱が下がれば回復するだろう」 「……戦えますか? 彼は」 「それは起きた時本人に聞いてくれ。私は応えをもっていない。ただ……」 「ただ?」 「彼は……そうだな。私から見れば、何か思い詰めているように見えた」 「…………」 「自分の進む道に迷っているわけでも、悩んでいるわけでもない。見失っているわけでもない。ただ、そこに意義がないことに失意を感じている……ただの客観視だから根拠は無いが」 「直感……ってやつですか?」 「まぁ、そんなところだ」 歯切れが悪いとは自分でも思いながら、無月は同意した。一方で、深々と嘆息してみせる設楽の態度にどこか懸念を感じる。少年は少なからず落胆しているように見えた。といっても、目に見えて何かが変化があるわけでもなく──強いて言うなら、息遣いが少しだけいつもと違うだろうか。 何に対しての落胆か。考えるが、一つしか思い浮かばなかった。 彼は、不破士郎が自分と違うことに失意している。無月にはそう見えた。 「無月さんがそう言うなら、当たらずとも遠からずでしょうね。自分の存在意義か。特に彼のような剣士なら、そういうことに突き当たっても仕方ないんでしょうけど……」 「皇設楽」 「なんですか? っていうか、そのフルネームで呼ぶの、やめてもらえません? せめて苗字か名前でお願いしたいんですけど」 「ならば黒の刃か? エッジ・オブ・ザ・ネザーフィールド。なんにせよ、お前を定義付ける名前であることに違いはない。そしてだからこそ、『すめらぎしたら』の名は区切ってはならない。違うか?」 「…………」 「それと同じさ。お前は自身の名前に意味を見出した。なら人生には? お前は、お前が進むと決めた道則に対して、何かしらの悩みや不安を抱いたことはあるか?」 「……いえ……」 「抱くのが普通なのさ。皇設楽。私でさえ医学の道を進むと決めるのには時間を要した。自分の人生の全てを賭ける理由を探した。彼──不破士郎にもまた、剣を手に取る理由が必要だ」 「……何が言いたいんですか?」 機嫌を損ねたというよりは、本当に理解できないといった風に、皇設楽と名乗る暗殺者は眉をひそめた。 「理由が必要なのだよ、人が戦うためには。定義が必要なのさ、生きるために。そしてそれ以上に欲は行動の原点だ。それを持つことなく戦える存在であるお前は、だからこそ暗殺者なんぞやってのけるんだろうが……」 「…………」 「今回の件。不破士郎はおそらく何も知らない。何の予備知識も持たない彼が戦うには理由がいる。お前はそれがわかっていたのだろう?」 「……何のことだか」 飄々と、彼は肩をすくめた。無月には、少なくともおどけている風には見えなかった。 皇設楽と言う存在は、たとえどれだけ怒り狂っていようと、たとえどれだけ悲しみに暮れていようとも、目的のためなら笑い転げることができる。談笑している相手の首を飛ばすことができる。だからこそこの男はつかみ所が無かった。まず本音と言うものが見えてこない。 彼の外見を信じてはいけない。それは彼と付き合う上での鉄則だった。 「お前が何を企んでいるかは分からんし、どうでもいい。私は医者だ。怪我人を治すためにここにいる」 「僕の依頼でね」 無月はすげなく無視した。 「繰り返すが、私は医者だ。患者を守る義務がある。いや、違うな。私がそう決めた。だからこそ、私はお前や不破士郎の傷を治した。これからも怪我をすれば治療はしてやる」 「…………」 「だがいいか? これは忠告だ。暗殺者の、特にナイフ・ザッパーの貴様に言っても無駄かも知れんがあえて言う。理由なく他者の──それも子供の未来を摘み取ることは私が許さん」 「怖いですね」 「死に行く者を助ける気は無いさ。義理も義務もない。だが例えどれほどの悪党であろうと、生きようとする者を助けるために私は医学を身につけた。患者の進む道がどちらを向いていようと、私は何も言わんし、何も言えん。私は治療をするだけだ。だがはっきり言って、今回のお前のやり方は好かない。当事者でありながらそれに気づいていない不破士郎は、今はまだ死ぬべきではないはずだ」 暗殺者は応えなかった。真正暗殺者──ナイフ・ザッパー。暗殺者と称される者たちの中でも屈指の実力を持つ彼らは、数で言えば全体の一分にも満たない。区別としては、暗殺専門の戦闘訓練を受けているかいないか、組織に属しているかいないかで区別されるのが通例で、ナイフ・ザッパーはそれで言うなら暗殺訓練を受けた個人戦闘者だった。 世界でたった十三人にしかいないナイフ・ザッパーの、その中で最高の実力者と認定されている皇設楽と名乗る少年は、自分ではなく、昨夜戦った剣士の方を見ていた。 「殺す対象者がどんな存在か。それを判断し、生きる価値がないと診断すれば殺す。それが皇設楽という真正暗殺者の戦い方のはずだが?」 「その通りですよ」 「なら、お前が不破士郎と戦った結果、子供たちがさらわれたのはどういった理由だ? 予期していなかったとは言わせない。お前は全て予測済みで動いていた。違うか?」 「…………もしかして、登場を遅らせたのってそれが原因ですか?」 「さてな」 無月はとぼけて見せたが、目線は設楽に向けたままだった。 「今度の件。お前の最終目的を考えるなら、これまでの行動はある意味効率的なのかも知れない。だがそれが真正暗殺者の戦い方だと言うのなら、私はこの仕事は降りるぞ」 小さく、設楽がため息をついた。 「…………肝に銘じておきましょう。けれど──言い訳させてもらえるなら、これまでの行動には誓って作戦じみたものはありません。ただの結果です。ま、こうなってしまったときの布石は打っておいたのは事実ですけどね。ええ、恭也くんたちが攫われるかもしれないことについては、確かに予想はしていました。でも、だからといって、そう簡単にやめられるほど単純な好奇心じゃなかったんですよ」 「好奇心?」 およそ出てくるとは思っていなかった単語だけに、無月は目を見開いて暗殺者を見た。 「ただ、知りたかったんです。八景を『あの人』から受け継ぎ、『彼女』が心を許したこの人が、一体何を見ているのか。何のために戦っているのか。結果は──」 「?」 設楽は一瞬躊躇したようだった。 「結果は、僕のそれとは違ったようですね。まだ結論を出すのは早いかもしれませんけど……」 最初に、彼が落胆したように見えたのは気のせいではなかった。無月はそう判断したが、それでも気を遣うことはしなかった。 「……不破士郎には私が全て話す」 「そうですね。そのほうがよさそうだ。遅かれ早かれやってきた問題ではあっても、彼に何も判断材料を与えずに巻き込んだのは明らかに僕のせいですからね。そうと知れば、彼の怒りの矛先は間違いなく僕に向かうでしょうし……お任せしますよ」 最後まで、彼の口調は変わらない。淡々と、軽く告げて部屋を出て行く彼の後姿は、やはり小柄な身体に見合って小さく見えた。そっとふすまを閉じて── そして、無月は士郎に視線を戻した。 不破士郎。御神流剣士。二子の親で、現在はボディーガードで生計を立てている男。年齢は三十路を超えているはずだが、どこか自分と同年代に見えなくもない。この場合、童顔である彼をうらやむべきか、年かさに見られる自分を恨むべきか。 結局、どちらも結果は同じだと気づいて、無月は嘆息した。 「さて……」 ぬるくなったタオルを変えてやると、小さく患者が身じろぎした。額に浮かぶ汗だけでもふきとってやり、まだ熱覚めやらぬ顔に手のひらを当てる。 (まだ熱いな……) 熱が下がるまで、まだ時間はかかりそうだった。それでも、昨夜に比べれば遥かに体調は向上している。設楽に言ったとおり、今日一日寝れば明日には動けるようになるだろう。戦えるほど回復するのは、おそらく明後日以降か。 「貴方が戦いに巻き込まれたのは決して設楽のせいではない。が、子供たちが攫われたことについては完全無欠にあの男のミスだ。かまわんから腹いせしてやれ」 眠ったままの患者は、だがその言葉を聞いて少し苦しみが止んだように見えた。 「だが、自覚すべきなんだ。不破士郎。八景を受け継いだその事実を。あの剣を手に取った者として、少なくとも今度の戦いは戦い抜く義務がある」 応えが返ってくるわけもなく、無月は独り言のように続けた。 「故に、明日、全てを話そうと思う。八景と八相。それらを造った『火凪蘇芳』のこと。皇設楽とその関係についても。全てを知る権利と義務が、貴方にはあるのだから」 だから今は、安らかに眠るといい。 何も考えず、どこまでも深く。 せめて今だけは──
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