|
◇
「お前は道具だ」 そんなことは分かっていた。自覚していたからこそ、余計に嘔吐感が胸を突いた。 地面がぬかるんでいるのは、雨が降ったせいではない。ここら一帯がいつも湿気に見舞われているからに過ぎない。あばら家の、見事に何もない屋内の、その床にうずくまりながら、設楽はその声を聞かされていた。 「お前は道具だ。わたしが創り上げた、人を殺すための道具でしかない。そのための刃は、お前はすでに父から与えられている。使いこなせないのは、単にお前が未熟だからさ」 淡々とした女の声を、設楽は無理やり思考から追い出した。 腹部の痛みに苛まれ、弛緩したように巧く動かせない全身を、力の限り引きずって這い上がる。息をするのも苦しく、また面倒だった。だが、今は出来る限り酸素が必要だった。 「『黒の刃』を手に取ったなら、お前に残されているのは殺戮のみ。その先にある未来は生でも死でもない。ただ殺しを実行する。それが全て」 「…………」 どういう攻撃をすればここまで深いダメージを負わせることが出来るのか、設楽はそのことだけを考えていた。痛みはいつまでたっても引く気配を見せていない。いつものことだけに驚きもしないが、身体がいうことを利かないのでは胸のうちをついて出る殺意を完遂することもできやしない。 「お前に武器は必要ない。何故ならお前という存在そのものが武器だからだ。体術も、剣術も必要ない。お前の存在が武器となる。お前という存在が刃だ。黒の刃」 「その名で僕を呼ぶな!」 思わず設楽は叫び返していた。どれだけ聞きたくない言葉も耳に入ってしまう。その事実が恨めしかった。女の言葉に、どうあがこうと耳を傾けてしまう自分が悔しかった。 「ならばその刃 震える手で地面を掴む。土が削られ爪の間に入り、ひび割れていた一部が割れて血が噴出す。だが設楽は、それすら意識を覚醒させるための材料にして起き上がった。 女を睨みつける。殺してやりたいと言う気持ちを込めて女を見上げる。 彼女は古ぼけたローブを着ていた。背は低い。だが相対的には自分と同じ程度の身の丈だった。すっぽりかぶったフードとその白く長い前髪のせいで、女の顔は鼻から下しか見えない。だがその部分だけでも、女の年齢は推し量れた。しわだらけの肌。唇には亀裂が入り、とても血色がいいとは言えない。それも紫ではなく、灰色だった。 老年の彼女は歩くように自然に、なんの予備動作もなく足を振り下ろした。そのかかとが設楽の脳天に突き刺さり、顔面から地面に沈み込む。再び視界がゼロになり、脳を揺さぶる振動に意識が飛ぶ。痛みを自覚するまでに数秒を要して、設楽は悶絶した。 「殺されるのを待つか? それともお前が殺すのか。生きるために殺すことも、意味もなく殺すことも、いわんや快楽で殺すのだとしても、一体それに何の違いがある? 殺人は殺人だ。殺しという行為に違いはない。だが──」 女は言う。設楽の後頭部に足を乗せたまま。 「生まれた以上、お前は生きる権利がある。それを行使するかはお前の自由だが。ここで抗わなければお前は死ぬ。お前が生まれた理由は唯一つ。剣を殺すためだ。人を殺すためだ。それを行使せず、やろうともせず、ここで放棄すると言うならそれはそれでもいいかもしれない。お前の人生だ。最後はお前が決めろ。私はもうすぐ死ぬ。お前も死ぬ。ならば、もはや誰も剣を追う者はいない。剣を敵視する者はいない。刃に傷つくことなく、傷つけることもない」 事実を淡々と述べる声から、少しずつ怒張が消えていった。 「さて……もう一度、そしてこれが最後の問いだ。お前はここで死ぬか。それとも、私を殺して生き抜くか? 選べ」 「僕は──」 地面から顔を離す。それは、酷く労力がいる行為だった。足を押しのけることが出来るわけもないので、手で身体を支え、空間を作って顔を地面から離す。 「僕は……皇……設楽だ。黒の刃じゃない。だけど……」 「けど?」 「僕は死なない! 僕は生き抜く! 僕は生きる!」 地面に這いつくばった姿勢のまま、頭を踏みつけられた体勢のまま、設楽は叫んだ。 「なんのために?」 「剣を殺すために」 「刃なしでか?」 「違う! 僕は皇設楽だ。この名が刃 決意は、自然に全身に力を生んだ。存外にスムーズに腕に力が入る。片手で女の足を押し戻しながら、設楽はもう一方の手で女のすねを握った。そのまま、力を入れる。 ほどなくして、何かが割れる音が響いた。手の内で骨が砕ける振動が伝わる。 「僕は生きる。僕は生き抜いて、あいつが残した全ての『刃』を! 『剣』を殺す」 「それがお前の結論か。黒の刃。わたしの最高傑作。九つ目の刃として、お前は生きる理由と死ぬ理由を同時に手に入れたんだ」 設楽は無言で手に力を入れ続けた。骨が砕け、肉が圧迫され、血が噴き飛び、やがて女の細い足が弾け飛ぶ。ようやく頭にのしかかっていた圧力から逃れて、設楽は起き上がった。今度こそ完全に。 立ち上がる。 向き直る。 女と。 彼女は、足を一本破壊されたにもかかわらず、バランスを崩すこともなくそこにいた。片足で、まるで普通に足があるかのように立っている。血がとめどなく流れていたが、それさえも女は気にしていないようだった。 「お前はここから始まる。黒の刃。設楽。わたしの弟。もうひとりの息子。忘れてはならない。お前は今──」 唐突に、ドンッ! と、女のか細い身体が爆発した。内臓が散乱し、血飛沫が設楽の身体を頭からぬらした。設楽は何もしていなかった。自然現象のように、弾けとんだ身体の一部が霧散して消える。 だが女は何事もなかったかのように、その灰色の、乾いた唇を歪ませた。もはや心臓がないはずの身体で、彼女は続ける。 「お前は今、刃を手にした。故に問う。お前にとって、刃とは何だ。剣とは何だ」 設楽は応えるかどうか一瞬躊躇した。女が本当に聞いているかどうかも怪しかった。命があるのかどうかも分からない。たが、自然と言葉が口をついて出た。 「僕は皇設楽だ。黒の刃じゃない。だけど、この身に宿る刃 女は何も応えてこなかった。死んだのかと思ったが、ふいに唇が開いて、そこから乾いた笑い声が響いた。 最期に小さく、女の声が耳に届く。それは今までとは打って変わって優しげな口調だった。優しく、温かく、彼の心を包み込んでいく。 「……さよならだね、設楽」 その微笑みは、その笑い声は、もう風のすすり泣きのようにか細く、短く、断続的なものだった。右足がなく、心臓部を中心に大きな穴が開いた彼女の身体は、左半身も吹き飛んでもはや見る影もない。 だが一方で、その声の心地よさに身を委ねながら設楽は言った。もう死んだかもしれない彼女に向かって、 「だから貴女を殺すよ。僕を創った貴女を。火凪夏織 その瞬間、残っていた女の身体が爆発する。 鮮血を浴びながら、設楽は空を見上げた。涙が流れたわけでも、悲しみを感じたわけでもなかったが、それでも何故か、そうしたい気分だった。 「さようなら。姉さん」
そしてそれが── 真正暗殺者
◇
夢を見るくらいにはまどろみに身を任せていた設楽は、自分を意識する気配に気づいておもむろに目を開けた。眠っていたせいで眼が熱い。身体を脱力感が覆い、起き上がるのに労力が要った。その気配が設楽を殺すつもりだったなら、間違いなく死んでいたに違いなかったが、不思議と設楽は警戒することなくその持ち主を見つめた。 「お話は済んだみたいですね」 こちらから話しかけるのもどうかとは思ったが、視線の先にいる相手が何も言わないのを見て、設楽は話題を切り出すことにした。彼が──不破士郎が何をしに来たか、何を言いに来たか。それくらいは予想がついた。だが彼が切り出したのは、予測していないことだった。 「聞いたよ。夏織を殺したそうだな」 「…………そっち……ですか?」 無月との会話で何が話されたか。おそらく今度の事件の全容だろうが、不破士郎が気にかけているのがその部分であることに、設楽は小さな苛立ちを覚えた。 「お前が死宝剣と呼ばれる八本の剣を利用させないための戦いをしていることは聞いた。まさか蘇芳さんがそれを作ったなんて思いもよらなかったが。だとしても、お前が夏織を殺した理由がわからない」 「…………」 「聞かせろ。俺が火凪蘇芳と死宝剣に関する知識を知る権利と義務があるなら、お前はそれを俺に話す義務がある」 そう言うことかと、設楽は納得した。確かに、火凪夏織──不破士郎の妻であった女を殺した理由は、無月にも話していないからだ。 話すべきかどうかと迷って、だが士郎の言い分ももっともだと思った。話してどうなるものでもなければ、彼が知ったところで何かが変わるわけでもない。もし変わったなら、設楽がそれを終わらせるだけだった。 「火凪夏織は、僕の試作品です」 「……し……さく?」 それが、故人を表現する上でかなり冷徹な言葉であることを設楽は自覚していた。それ以上に残酷な言葉であることも。 「僕たちは、火凪蘇芳によって作られた『剣』です。彼が用意した、彼が知る限りもっとも戦闘に適した人材──その才能を秘めた男と女を持って強制的に生ませた戦闘のための道具です。夏織は僕より前に同じ目的で生まれ、けれども親である戦闘者の才能を半分近くしか受け継がなかった。故に、蘇芳には失敗作と呼ばれていました。しかし彼は、夏織に戦闘技術を教え、戦場に送り出し──結果、彼女と貴方が出会って、そして恭也君が生まれた」 「…………」 沈黙は数分。静かに続いた。やがて、士郎が思い切ったように声を出す。声ですらない、枯れた息遣い。そう感じたのは気のせいではなかった。彼はまだこの事実に追いつけていない。この真実を平然と受け止められるほど冷淡でも薄情でもなければ、ましてや死んだ女に対して罵倒するほど器量の小さな男でもなかった。それが例え、自分の財産を持ち逃げし、子供を押し付けた元妻であったとしても。 彼の表情は以前にも増して複雑になった。 「……確かに夏織はメチャクチャな女だった」 「僕もそう思います」 「だが、それでもお前に殺されるほど弱くもなければ、そんな理由をもつような奴じゃない」 「単に通過儀礼みたいなものですよ。確かに、彼女は僕より強かった。僕は彼女に一度として勝てませんでした。最後の儀式を除いて」 「儀式?」 その問いには応えず、設楽は続けた。その答えにいくまでには、まだ説明が必要だった。 「貴方と夏織が出会った後、蘇芳が貴方に八景を、夏織に八相を渡したことは僕も知っていました。だから、夏織が継いだ『八相』と言う銘の刀が今どこにあるのかも知っています。ところが実際には、八相が彼女によって使われたことはありませんでした。だから世界の目は貴方に向いたんです。死宝剣を蘇芳から直接手渡された唯一の人物として、『後継者』として、貴方は注目を集めていました。御神ということも手伝ってね」 それが今現在、裏社会が士郎へ向ける認識だった。 「彼女は恭也君を貴方に託した後、僕の育成に全力を注ぎました。火凪蘇芳と死宝剣。自分という存在を生み出した者への復讐のために」 「復讐……?」 「貴方だって理解できなくはないはずですよ? 龍に家族を殺された貴方なら。彼女自身、そう公言してましたしね。まぁでも、むしろ自分のような存在をもう生み出したくなかったんでしょう。僕にはそう見えました。彼女はおよそ殺しの技術では右に並ぶ者はいないほどの実力者でしたが、根っこの部分はお人好しでしたからね」 士郎がうなずくのを見届けてから、設楽は続けた。 「彼女は僕に暗殺技術を叩き込み、そして最後の仕上げに自分を殺させました。持てる技術を全て叩き込んで暗殺者に仕立て上げた、彼女にとって復讐の道具である僕の、最初の課題として。血こそ繋がってはいないものの、同じ目的で生まれたことに関して言えば、彼女は僕の姉であると同時に、母親でもあります」 「夏織が死ぬ理由になっていない!」 士郎の叫びは当然のことだと、設楽は思った。彼は、なんだかんだと言っても一度愛した女を蔑むようなことは決してしない。夏織が身体を許した理由の一端を、設楽は見たような気がした。 「言ったでしょう? 彼女は失敗作なんですよ。もとより、彼女の寿命は長くなかった。戦えば戦うほど、いえ、たとえ戦いから身を引こうとも、その身体に起こる崩壊を止める術はなかった。容器に水を入れすぎればあふれ出すでしょう? 出口がなければどうなります? 破裂するんです。彼女はその器に、容量以上の力を持っていた。生き続けることが出来ないくらいに強大な力を、蘇芳によって植えつけられた。だから死んだ! 自然死する前に、全てを僕に託して! 自分や僕のような存在を二度と生ませないために、蘇芳と死宝剣を断絶する必要があった! だからこそ、彼女は僕という作品を完成させることに残りの人生の全てを賭けた!」 「…………」 語気は緩やかだった。ただそれを紡ぐ息だけが荒くなっていく。珍しいことだと、客観視した設楽の意識が、他人事のように警告してきた。 自分は今、自制できていない。熱くなるな。自制しろ。知られてはいけない。僕という人間の内を他者に明かしてはならない。けれど── 夏織のことを話す事実が、設楽に人間らしさを取り戻させていた。彼にとっての彼女は母親であり、姉であり、師に他ならない。その彼女を失って一番悲しんだのは、一体誰なのか。この無自覚な剣士に、それを──その全て教えてやらなくてはならない。苛立ちと腹立たしさを、彼はもう抑えることはなかった。 「夏織にその力を与え死に追いやったのも、僕をこの世に生み出したのも、今こうして僕と貴方が敵対しているのも、全て火凪蘇芳から始まったことです。僕が死宝剣を破壊、封印するのは僕の存在意義だけじゃない。彼女の意思だ! 僕が彼女の意思を継いだ! 僕が後継者なんだ!」 訪れた静かな沈黙は、目の前の剣士によって小さく破られた。 「……夏織は……本当に死んだのか?」 「僕が殺しました」 断言する。見た目にはショックを受けている風には見えなかったが、士郎は確かな悲しみを抱いたようだった。 「理解できましたか? 不破士郎。貴方が何に対して憤慨しようと勝手ですが、僕の目的──死宝剣を奪還するという行動の邪魔をしないでください」 だがその言葉を受けて、しばらくの沈黙の後、士郎が切り出した返答は思っても見ないことだった。 「……夏織のことは……残念だと思う。色々と複雑で、答えはすぐに出そうにない。感情論だけで言えば、正直言ってお前を許せない気持ちもある。だけどお前の事情もわかった。だから、夏織のことで恨むことはできない。恨めそうにない。だが──」 静かに、己に言い聞かせるようにゆっくりと、士郎が続ける。 「だが、それとこれとは話は別だ。恭也と美由希が攫われたことについて許す気はないし、もとから俺はお前と手を組む気もない!」 それはまるで新たな決意の宣言のように、設楽には聞こえた。 敵のアジトの場所は、おそらく無月から聞いているのだろう。今回の敵の目的も全て。自分の行動目的全て。夏織のこと。死宝剣のこと。チェン・ユィスィのこと。なら、もう彼に語るべきことは何もない。 士郎の態度は設楽としても願ってもないことだった。 「僕もです。もとより独りで戦ってきました。今になって貴方の力を借りようなんて思っていません」 そう言いながらも、設楽はどこか目の前の剣士に親近感を抱かずに入られなかった。 先程の彼の言葉は本心に違いない。夏織のこと抜きにして、今このとき、彼は自分が何のために戦うか、戦わなければならないかをはっきりと意識している。忘れていない。実は妻が死んでいたのだということを知っても、自分を見失っていない。 (これが夏織の愛した男……) 改めて思う。彼が不破士郎なのだと。唯一、夏織がその心を開き、子供を作ろうとさえ思わせた男なのだと。と同時に気づく。 (僕は彼に嫉妬してる?) そうなのかもしれないと、続けて自答する。夏織が唯一心を許した相手は、後継者である自分ではなく、目の前にいる男なのだ。 (……認めるしかない。けれど、僕は僕の戦いを続けます。それが僕の役割ならば。たとえ彼を殺すことになろうとも。いいですね、夏織) 決意は自然と彼の精神に余裕を生んだ。この男の前で、もはや道化も茶番も必要ないと判断して、設楽もまた、本心から告げる。 「奪取された八景を奪還して破壊します。それが僕の役割だから」 「恭也と美由希を助ける。絶対に死なせはしない」 しばらく沈黙して、そして今度は、士郎が切り出した。 「邪魔をするな」 「そっちこそね」 「俺は戦う」 「これは僕の戦いです」 「今度こそ守りぬく」 「邪魔する者は殺します。例え貴方でも」 「それが──それだけが俺の剣の意味だ」 「それが僕の存在全て。夏織の意思を受け継いだ僕の全てですから」 いつしか、声が合わさる。それに気づいて、設楽は士郎を見た。士郎もこちらを見ていた。言うべきことも、語るべき言葉はもうなかった。
再び戦いへ。目的の元へ。 決戦の地は、再び九台桜隅へと移る──
|