5

 

 この家は彼女の家ではなかった。

 他人の家。その家主が寝ている間に使用したのは、彼の寝室と台所以外にはトイレと風呂場くらいなもので、従ってこの家のつくりがどうなっているかなど彼女には知る由もなかった。つまりは、どこをどうすればはしごも使わず屋根の上にいけるのか、彼女にはわからなかった。

 屋根の上で会話が始まって数分間。静まり返ってさらに数分。神逆無月(かみさかなつき)は二人の戦士がお互い張り合いながら家の中に立ち返り、独自に戦いの用意をして、独自に出て行く様子を他人事のように見つめていた。

 他人事。

 まさしく、彼女こそがそうだった。自分は患者を診るために呼ばれ、その仕事はおおよそ果たしたといってよかった。皇設楽と不破士郎。この二人を傷つけられるほどの存在は少ない。強者となると、さらに少ない。二人が相対しない限り、この二人が自分を必要とすることはもうないだろう。

「ま、役に立ったならそれでいいんだが……」

 出て行く間際、士郎が随分と懇切丁寧に礼を言ってくれたのが印象的だった。こちらは仕事だからと突っぱねたが、照れくさいと言う感情を久々に抱きながら彼を見送る。その後に続いて出ようとした設楽が皮肉っぽく笑いながら、

「随分と、彼を贔屓してましたね」

「まぁな」

 無月は即答した。隠す必要もなかった。

「惚れました?」

「うん? ああ、まぁ確かに、戦う男は魅力的だ。お前なんぞよりもよっぽどな」

「手厳しいですね……」

「事実だ」

 無月の言葉はにべもなく、だが設楽はそれに対して怒りを感じた風には見えなかった。

(ま、こういう男だってことは知っていたけどな)

 胸中で独りごちる。もっとも、聞かれたところで目の前の少年は微塵も気にしないだろう。皇設楽はそういう人間だった。

 彼は、おそらく誰よりも自分という存在を自覚している。それが無月の設楽に対する評価であり、そしてそれは大概の部分で正解だという確信があった。この男の強さは、暗殺者としての技術でも、戦闘者としての技量でもなんでもなく、ただ自分を知り尽くしていることに他ならない。

 そういう彼だから、おそらく今の質問さえも客観的に現実の一可能性を見たに過ぎないのだろう。設楽の問いかけを含み笑いで返して、無月は言った。

「少し違うな。惚れた……というよりは、興味を持ったのだ。父親としての彼に」

「……父親?」

「先程、お前にも言っていただろう? 彼は例え事実を知ろうと、それがどれだけ辛辣な真実だろうと、自分の目的と、そして生きる理由を見失っていない。家族を、そして大切な者を守るために戦うことこそが、彼の本来の姿だ。それを自覚した彼は強い。私が興味を持ったのは、彼がどんな父親なのか。その一点だよ」

「…………」

「もう十年近く前のことだが、私の父は私を守ってくれた。私の命を守ってくれた。研究機関から。それこそ、今お前たちが敵対している龍からも。世間からも。修正血漿体などという、血によって壊れた事象を修正する体質を持って生まれた私を……な」

 隠していたわけでもなんでもない。厳然たる事実として、彼女もまた異能名存在であることに違いはなかった。

 学名、ダウンド・ライト・プラズマ。

 それが、彼女の持つ特異体質の正体──いや、能力といっても良かった。数十年前に発見された稀少物質。修正血漿体と名づけられたそれは体内の血液内に微量に含まれ、それが触れた物質の状態を解析し、壊れているようなら修正する性質を持つ。『修正』というのは俗称でしかなく、正確には構成分子の『再生』のことであるが──もう少し平たく言えば、血漿体は血液に触れた存在を正常状態に戻す作用を持っている。

 無論、修正される対象はその物質が壊れている──つまり異常状態であることが大前提であり、正常に存在する物に触れても何も起こらない。

 その特性や科学的性質が何であるにしろ、結局のところ、この体質のおかげで無月は研究機関に身の自由を奪われ、だが同時にこの力があるからこそ、無月はここにいる。ここで設楽と士郎の怪我を、たった数日で完治させたのは、間違いなく彼女の功績だった。

「──同じく血漿体所有者だった父が私の研究所のデータを改竄し、誤認だということで私は自由を得た。代わりに父は死んだが。親が子を守る。哺乳類なら、そして今の社会なら当然かもしれないが、私は何故か、その当たり前のようなモノがこの上ない大切で、同時に幸せなものなのだと感じた。あって当たり前だと言う考えが間違いなのだと実感した。そして同時に、絶対に逃してはならないものだと、その時そう思った」

「恭也君と美由希ちゃんにとっては、彼は紛れもなく父親ですからね」

 設楽が同意する。その声には、同情も慰みもなかった。

「その類の幸せは、私の手にはもう戻らん。後は……そうだな。子供を生んで、親としての幸せをかみ締めるくらいか? 相手がいればの話だが」

「……無月さんが結婚!?」

 なんだか変なものでも食べたように顔をしかめた設楽に、無月は憮然として返した。

「失礼だな。私とて恋くらいはするさ」

「いや、まぁどうとは言いませんが。あまり見たくないかも。無月さんが男になびいてる姿なんて」

「存外に失礼だぞ。私が男に抱かれて何が悪い……って、まぁそのことはいいんだ。どちらにしろ、不破士郎が戦士であり、同時に父親であるならば、何より子供たちのために彼を死なせてはならない──そういう気がしたのは確かだ。それが答えだ。理解したか?」

「……でも、これからの戦いで、彼は死ぬかもしれませんよ」

「死なんよ」

 無月は言い切った。彼は死ぬ気がしない。予感もない。数多くの人間の死を見取ってきた自分が、今度のことではまったくと言っていいほど悪い予感がしなかった。

「断言しますね」

「私がいる」

「そりゃ、心強い。僕が怪我した時もお願いしますね」

「金を払えばな」

 そう言うと、設楽は思いのほかウケたらしく、声を出して笑った。

「ええ。まぁいいでしょう。そのほうが貴女らしい。僕は僕で。彼は彼で。そして貴女は貴女で。各々で戦えばいいことだ。役割を理解しているならば、何も問題はありませんからね」

 そう言って、少年の姿をした暗殺者は出て行った。戦地へ赴くために。

 その気配が完全に消え去ってから、無月は微笑した。設楽の言葉を心中で反復する。

──役割。

 そう、役割だ。敵は私の役割をもう終わったと考えるだろう。設楽も、士郎でさえも。そしてあの男も。

 ならば、自分の本当の役割はこれからだ。

 決意は彼女に自然な行動力を促した。踵を返して、家の中に戻る。道具が必要だ。それと、自分の最大の武器である血液も。

 自分のこれからの行動を思って、彼女は笑った。

 無月の本当の仕事は、これからなのだから。

 

      ◇

 

 時は、暗殺者と剣士が出立した一昨日に遡る。

 

 意識が覚醒するということに、恭也はどこか嫌な予感を覚えていた。が、一度目覚めてしまった脳をもう一度睡眠へ、または意識を失うことへ意識的に誘うには労力がいる。

 結果的に、彼は目を開けるしかなかった。

 胸を突く圧迫感。緊張を解くことなく眼球を泳がす。現状を把握するよりも早く、わずかに感じられた危機感を裏付けるかのように、その声は鳴り響いた。

「何故殺さなかった。答えろ、姫月!」

 女の声だった。やけに響いた声。感触だけで、恭也は今自分がいる場所だけでも把握することにした。

 と言っても、うつ伏せになっているのでさほどたいした動きは出来なかった。土の温かさと冷たさが同時に頬に伝わってくる。顔を動かさずに視線だけで前を見やると、土壁の向こうに明かりに照らされて反射している鉄色の棒が数本見えた。鉄格子? ここは牢屋? それも洞窟のような感じのだ。そういう結論に達した頃、さらに大きな声が、鉄格子の向こうから聞こえてくる。

「何故殺さなかった! 質問に答えろ。返答によっては以下に貴様でも──っ!」

「俺でも、どうするんだ? フェイフォ」

 もう一つは、男の声だった。

 姿は見えなかった。思ったほど、ここを照らしている光量は小さなものらしい。わずかに、その影が鉄格子に分離されて牢屋の中に入ってきている。

 どうやら自分が誘拐されたらしいということくらいは判断できた。この場所に見覚えもなければ、どうやってここまで移動したかも覚えていない。何より、身体が手錠やロープで縛られているのがいい証拠ではないか。

──どんな時でも、自分の状況を把握することを忘れるな。

 父の教えを忠実に守っていることに不確かな自信を持ちながら、恭也は耳を澄ました。

「どうするもない。チェン様に報告するまでもなく、私が裏切り者として引導を渡す」

「そのチェン様に、現場指揮を任されているのは俺だぜ?」

「知ったことか。裏切り者に指揮など任せてられるわけがない」

「って、もう決定事項みたいに言うのね、フェイフォちゃんってば♪」

 男の口調は軽かった。というよりは、相手の怒りを逆なでするような話し方だ。思ったとおり、女の方は激情したように声を張り上げた。

「ふざけるな! 何故、子供たちを殺さずに攫った? 何故八景だけで、八相がない? 何故不破士郎を殺さなかった。全てお前の独断だ。チェン様の命令を無視し、目的を逸脱している男を裏切り者と呼んで何が悪い!」

「ま、順に質問に答えると、子供たちは人質。八景しかないのは、不破士郎が八景しか持っていなかったから。だから殺さなかった。利用できるからな。臨機応変に事を運べとの命令どおりでしょ? 以上説明終わり♪」

「だが! 部下であるわたしたちにさえ秘密に独断専行する男が、裏切ってない保証がどこにある!」

「うーん。何て答えりゃ、納得してくれるかねー」

「お前が死ねば納得してやるよ」

 静かな声。だが明らかな殺気が、洞窟の中に充満した。女のものだ。恭也は目を閉じた。これから殺しが行われる。信じたくはなかったが、そんな予感がした。

「ふむ。困ったちゃんだね、ホント。ま、いいけどさ。でも勝てないぜ? 絶対に」

「日本人なんかに負けるほど、中国の、ましてや龍の戦闘技術は甘くない」

「だーかーらー、その国籍や人種で人を判断するのやめなって、この前も言った──」

 男の言葉は、最後まで聞こえなかった。恭也の耳にも聞こえるほど鋭利な音が響く。何か刃のようなもので空気を切った音だと認識した瞬間、同時に身体を振動が襲った。

 恭也自身が襲われたわけではなかった。

 何事かと思って神経を研ぎ澄ます。洞窟全体が震えたように感じた。男か女か、どちらかが投げつけられたのかも知れない。

「ま、こんなもんか」

 男の声だった。その口調はやはり軽い。怪我もしているふうではない。女は──?

「くそっ!」

 毒つく声が聞こえる。状況はすぐに理解できた。男が女を投げ付けのだ。洞窟の土壁が、まだわずかに振動を繰り返している。ぱらぱらと後頭部に土ぼこりが当たった。

 が、状況を冷静に判断できたのは、実はここまでだった。

 唐突に──

「おい」

「──っっ!」

 恭也は震えた。心臓が鷲掴みされたかと思うほどの高鳴りを感じながら、身体が自然と震えだす。目を瞑り飼いもなく、悪寒は全身を駆け抜けた。

 怖い。逃げ出したい。嫌だ。死にたくない。父さん、美由希──!

 男の声は牢屋の外からやってくる。そこに含まれた殺気は、女が発したものなど比較にならなかった。直感で分かった。格が違う。鉄格子の向こうにいる男は、人間の姿をした化け物だ。どう足掻こうと勝てない。

 恭也は打ち震えた。死ぬ。殺される。嫌だ。その意識だけが彼を支配する。感覚も麻痺していると言うのに、男の声だけははっきりと聞き取れた。

「いいか? この世に生まれたばかりの赤ん坊が最初に何をするか知っているか? 泣くことだ。泣いて己の立場を構築する。自分は弱い存在であると。泣くことで己の存在を確立するんだ。どうすれば守ってもらえるか、本能で知っているんだよ。赤ん坊はな」

「な……なにが……言いたいんだ」

 女の声は途切れ途切れだが、それでもかすかに耳に届いた。

「いいから聞け。意志ある生命体が、生きるうえでしなくてはならない最優先事項は己を知ることだ。自分を知れば、自ずと立場も理解できる。立場を理解できれば、自ずとしなくてはならないことも見えてくる。が、それが理解できないとお前のようになる。お前が俺を殺す? それが出来るなら、何故チェンは、わざわざ日本の暗殺者ギルドから金を出して雇ってまで俺に現場指揮権を与えたんだ? 理由は簡単だ。お前らでは役不足だからだよ。不破士郎と皇設楽に、お前ではどう足掻いても勝てない。本来、獣は勝てない戦いは絶対にしない。己の力量を一番知っているからだ。だが人間は馬鹿だからな。くだらんプライドが邪魔して己を見失う。お前のように。いいか? 最後にこれだけは言っておく。図に乗るな。立場をわきまえろ、三下。お前では天地がひっくり返っても俺には勝てん。今度逆らったら殺す。それを俺は許されているんだ。お前のご主人様であるチェンに。お前の価値なんぞ、そんなもんだということを自覚しろ。したな。なら行け。二度と逆らうなよ!」

 女は答えなかった。早足で──おそらく大したダメージでもなかったのだろう──彼女のものと思われる足音が響き、やがて小さくなって消えた。

 恭也は安心しなかった。まだ男がいる。緊張が走る。そして今度こそ、

「おい」

 男の矛先がこちらを向いた。もう一度深く目を瞑る。息を吐く。カタカタと、歯が鳴る。怖い。殺される。死にたくない。嫌だ。何で。怖い。俺じゃ勝てない! 父さん!

「聞こえているな。起きているな。聞こえたら返事しろ」

 意識を失うのだけはなんとか踏みとどまって、恭也はコクッ──と、首を縦に振った。通じるかどうかわからなかったが、男は「よし」と軽くうなずいて、なにやらカチャカチャと金属音を奏で始めた。

 何をしているのか。予想したが、予測は出来なかった。やがて、それ以上に甲高い音が一回だけ鳴り、男の気配がゆらりと揺らぐ。

 そこで初めて、恭也は驚きに唾を飲み込んだ。

 男の足音が近づく。彼は今、こちらに近づいてきている。殺──

「殺すつもりはないから、そのつもりで聞け」

 その思考を、男の声が遮断した。

 お前は人質その一。妹はその二。両方とも無事だからまずは安心しろ。落ち着いて聞けよ? んで、人質である以上、お前たちは殺さない。無事でない人質に価値なんかないからな。これは俺の勘だが、不破士郎は必ず来る。お前たちを助けに」

 男のそれはどこか学校の先生のようなゆっくりとした口調だった。先ほど、あれほど恐怖した殺気も、今は綺麗さっぱりと消えてなくなっている。

 数分はたったかもしれない。その分だけ恭也は落ち着きを取り戻して、不思議に思いながらも顔を上げた。

 男がいる。暗くて、しかも唯一の弱い明かりは逆光で、今は男にさえぎられているものだから、男が長身で、どこか頭がツンツンと逆立っているくらいしか把握できなかった。

「……ウ……ニ?」

 そんな言葉を思わず口に出す。言ってから、恭也はハッとした。まずい。

「ウニって……まぁそんな髪型だっていうのは認めるが……」

 自分の髪の毛をなでながら、だが男はさほど気にした風ではなかった。どかっと地面に腰を下ろし、にやついた瞳でこちらを見下ろしている。

 その表情に少なからず憤慨して、恭也は男を睨みつけた。だがそんなものが通用するはずもない。男は小さく口笛を吹くと、軽い口調でなんとも唐突なことを言ってのけた。

「俺と賭けをしようぜ、不破恭也」

 


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