◇

 

「来たか……」

 唇の端が歪むのを押さえられずに、姫月陸王は言った。

(しかし……なんだって敵のアジトの前で気配全開にしてやがんだ? 馬鹿か? あいつら)

 疑問に思いながらも、陸王は予定の行動に移ることにした。

「さ、お兄ちゃんのところに行くぞ。美由希」

「う、うん……」

 少しはこちらに慣れたらしく、少女は怯えながらも素直にこちらの言葉に従ってついてきた。闇に包まれた洞窟を歩くこと数分。やがて目的地に着く。と、少年の牢屋の前に見知った女がいた。迷彩服に身を包んだ、黒髪の女は──

「フェイフォ?」

「そうよ」

 女──フェイフォは、外からやってくるあからさまな敵意に負けず劣らずの殺気をこちらに向けて言った。美由希が怯えたように自分の後ろに隠れる。少女の頭を撫でて落ち着かせてやりながら、陸王は嘆息した。

「また文句言いに来たのか? 今度は殺すって言ったはずだぜ?」

「いいえ。殺されるのは貴方よ。今のわたしは八景の遣い手。今までのわたしとは違うのよ。だから、貴方を殺せないのが残念だわ」

「ん?」

 言葉の意味を図りかねて、陸王は眉をひそめた。

「何の話だ?」

「敵が来たわ」

「知っている」

「あれの迎撃が貴方の任務でしょう? こんなところにいていいの?」

「ああ。まだいい。距離もあるし、洞窟は一本道じゃない。ここにたどり着くまではかなり時間がある。だからまだ準備はいい。それまでにしておかなきゃいけないことがあるんだ。お前も、もういいからチェンの元へ行け。邪魔だ。俺には部下は必要ない」

「フフ。ええ、もちろんそうさせてもらうわ。ま、せいぜい楽しんでちょうだい」

 思わずキスしたくなるほど妖艶に笑って、フェイフォはその場を優雅に去って行った。一昨日とは全く違う彼女に、陸王は多少の違和感と、それ以上に同情を禁じえなかった。

(まったく、俺が何も知らない(・・・・・・)とでも思ってんのかね……)

 だがすぐに、彼女のことは思考から除外する。牢屋を開けると、鉄格子の向こうに見えた兄の姿に、美由希が駆けて行った。

「おにいちゃん!」

「大丈夫だ」

 その言葉どおり、彼はどうやら五体満足のようだった。食事は与えていたし、手と足を縛って自由を封じている以外は、自由にさせていたのだ。そうでないと困る。

 だが、ここに来たのはそれを確認するためではない。

「それじゃ、そろそろ賭けの開始と行くか。どうだ? 俺が与えた課題の答えは出たか?」

 問いかけながら、陸王は恭也の身体を拘束している縄と手錠をはずした。今度こそ開放された身体を訝しげに動かしながらも、しがみついてきた妹の頭を撫でてやる様はなるほど──兄としての彼は、かなり信頼されているようだった。

 が、いつまでもそうしてもいられない。陸王は切り出した。

「さて。答えを聞かせてもらおうか? 不破恭也」

「…………俺は……」

 陸王は待った。恭也が中々話そうとはしない間も辛抱強く。決心がついていないというよりは、言葉を選んでいると言った感じだったので、陸王は待つことにした。語らずして殺すべきではない。そんなことは楽しくない。面白くもない。

「……俺は……死にたくない」

「何?」

 何を言い出すかと思えば。命乞いかと思ったとき、さらに恭也が続けた。

「誰も殺したくない」

「……?」

「誰も死なせたくない。死んだら誰かが泣く。俺が死んでも、あなたが死んでも。きっと誰かが泣く。もうあんな悲しみはたくさんだ。あんな悲しい顔をさせるのも嫌だ。誰も失いたくない。誰も悲しませたくない。美由希も……父さんも」

「…………」

 静かな口調だった。ふと陸王は、彼の視線が誰も見ていないことに気づいた。呆然と、とは少し違う。だが何かに思い耽っている様子で、恭也はさらに続ける。

「俺はまだ子供だから、何が正しいかなんて分からない。分からないから子供で──開き直りだけど、子供だから今目の前にあることにしか目を向けられない。あなたの問いに答えられるほど、俺は強くない。それを示すことも出来ない」

 そうして、初めて恭也が陸王を見上げた。

「だから、俺は俺の気持ちを言うことで、あなたと戦おうと思った。それしかできない。あなたと戦うには、これしかないから。今の俺は弱い。あなたに勝つことは出来ない。でも──でも!」

 感情が少しずつ高まっているように、彼は声を荒げた。美由希が不安そうに兄を呼んだが、恭也は聞き入れなかった。

「死ぬのは怖い! 死にたくない! 殺したくない! 誰も死なせたくないんだ! 例えそれが敵でも! 傷つけずに終わるなら、そのほうが良いと思うから……」

 叫びは大きく木霊して洞窟に響き渡り、最後の言葉は尻すぼみに小さく消えて行った。

「……それが、お前の答えか? お前の今の気持ちか?」

 恭也は答えなかった。肩で息をして、その様子を美由希が不安そうに見つめている。

 陸王は言った。

「その考えを俺なりに評価すると、一言で言えば『甘い』。が、人を思いやることに異論はねぇよ。殺しが良くないっていうなら、それはそれでかまわない。だが食のために動物を殺すのはよくて、快楽のために人を殺すのは駄目。そんなのは人の決めた都合でしかない。殺すことが悪なのではなく、その過程が問題なんだ。ま、要するにだ。ありふれた価値観に縛られるなってことさ。それはお前を、自ずと限界に導いてしまう」

「…………」

「他者を殺すという行為も、俺から言わせれば『生きるため』の一手段でしかない。なら生きるためには何をすべきか。答えは簡単だ。足掻け。動ける限り。全ての可能性を試せ。暗殺者である俺は、だからより生を実感できる。そのために今ここにいる」

 生を求める者は、だからこそ輝いている。そうでなくては面白くない。

「生きている限り、生き抜け」

 そうしようと思わない者も、意思なく生きている者も、それは彼にとっては悪同然だった。生きる価値もない。殺す価値さえない。

 だが──

 この少年は違う。少なくとも生きることを諦めなかった。そのためにどうすればいいか。子供であることを自覚し、その上で何が出来るかを判断した。それが果たして正しかったかどうかは問題ではない。行動に移すこと。それが重要だった。

 何も出来ないことを自覚している人間に訪れるものは二種類あった。絶望に殉じた死か。もしくは、何も出来ないからこそ何かを成そうとする羨望に則した生か。

「思ったとおり、お前は面白い。それじゃ、そろそろ『本題』に入ろうか」

 ニヤリと微笑むと、恭也はキッとこちらを睨んできた。

「かかって来いよ! 戦って勝ち取れ! 戦って、俺に一撃でも入れられたらお前の勝ちだ! ここから兄妹揃って出してやる!」

 問いかけは返ってこなかった。もしかしたら、少年はその覚悟も出来ていたのかもしれない。陸王には「出来ることをする」という点に対して彼が疑問を抱くのをやめたように見えた。

 スッ──と、恭也が美由希を諭しながら後ろへやった。心配する妹にけなげに笑いかけ、そして次の瞬間、

「っ!」

 ふわっと、少年の身体が浮く。瞬時に、陸王は自分の顔面を片腕で防御した。二の腕に、強烈というほどではないもののかなりの衝撃が走る。恭也のつまさきが腕にめり込み、そのまま陸王の体を後ろに押した。

「ふん!」

 鼻で笑いながら、腕にのしかかる彼の身体に向けて手刀を放つ。それ以前に彼が飛び去るのを見計らって瞬時に腕を止め、すぐさま攻撃を蹴りに切り替えた。

「ぐぎっ!」

 あごにヒットするはずだったそれは、だが恭也の腕に塞がれてしまった。それでも幾分かは衝撃がいったらしく、浮いた彼の身体が回転しながら地を転がる。口を開けていたせいだろう。立ち上がった彼の唇の端から、口内を切ったらしい小さな血筋が流れていた。

「!」

 掛け声も何もなく、再び恭也が地を蹴る。

 お互い武器はない。身体が凶器だった。加えて、狭い牢屋でできる行動など限られている。それを考えて動かなくてはならない、いや、考えなければならない場所を選んだのだ。そうでなくては面白くない。ただ勝つだけならいつでもできる。陸王が味わいたいのは、そんなことではなかった。

 こちらの顔面向けて放たれた拳による連続攻撃を全て手で叩き落とし、陸王は死角から恭也の顔面向けて拳を放った。防御されかけたそれをフェイント気味に直前で停止させ、その動きに気をとられているうちに逆の拳で殴りつける。今度は確実に頬にめり込んだはずだが、吹き飛ばされた恭也は止まらなかった。

 先ほどのフェイントを学習したのか、拳で殴ると見せかけて身体を空中で回転させて蹴りが繰り出される。二の腕でそれを受け流すと、今度はこちらの腕を掴んでさらに接近してきた。

 腕による防御を不可能にし、逆の腕では届かない位置から拳を繰り出す。一連の動作は見え見えだったが、発想そのものは悪くなかった。同じ体格、同じ技量の相手なら、今の動きで十分翻弄されただろうが、

(まだまだ甘い……)

 そう思いながらも、陸王は口元に浮かぶ笑みを止められなかった。

 拳をあえて顔面で受け止める。強度で言えば彼の拳のほうが高いはずだが、それでも苦悶の声を上げたのは恭也の方だった。

 空中でバランスを崩した恭也の身体を服ごと引き寄せて、陸王は鉄格子に向かって彼を投げつけた。鉄に叩きつけられ苦痛に顔を歪ませる少年の頭に向けて、踏みつけるように足を振り上げ、躊躇なく振り下ろす。

 だがそれを転がって避けて、恭也が再び跳躍した。今度は低く。体勢を変え、足のすねを狙って蹴りを繰り出し──

(いや、違う)

 蹴りではなく、それはこちらの足を踏み台にしただけだった。ワンステップで自分と同じ高さまで飛び上がり、真下から指を差し出す。真下から、鉤状に曲げられた指の行き先を読み取って、陸王は慌てて身体をそらした。眼前を、少年の小さな指が通過していく。

(こいつ、ためらいなく目潰しを狙ってきやがった!)

 感心しつつも、身体を崩しながらさらに攻撃しようとした恭也の腹部に、陸王は容赦なく膝蹴りを叩き込んだ。

「ぐふっ!」

「そんなに甘くねぇよ」

 耳元でささやいてやる。苦痛に顔を歪める恭也の身体が浮いたところを狙って、陸王はさらに足を振り上げた。つまさきが彼のあごにヒットする。

「がっ!」

 宙に吹き飛びながらも、恭也は足掻き、空中で足を振り上げた。届くとでも思ったのだろうか。だが悲しいかな、それは虚しく宙を切っていく。

 届かない蹴りに落胆したのか、恭也の悲痛な呻きが聞こえた。

(……これで終わりか? 終わるのか? 不破恭也!)

 少なからず終わりを予感したその時──

 キラリと、視界の隅に光る何かを確認して、陸王はぎょっとした。それを凝視する時間もない。眼前に迫ってくるそれは……

(飛針だと!?)

 鉄製の針のような形状をした、飛ばすことで攻撃する武器を飛針と呼ぶことは当然ながら陸王も知っていた。だがそれが何故、今ここを飛んでいる?

 驚きながらも、陸王は顔を背けた。頬に風を感じたその瞬間、もう一つの事実を愕然と認識する。恭也の片方の靴底の、つま先の部分がはがれていた。

(こいつ! 靴底に武器を隠してやがった──っ!)

 驚嘆にも似た形相で、陸王はそれを眺めた。後ろで、針が土壁に刺さる音が嫌に耳についた。そして、同時に気づく。恐る恐る頬を触ると、そこはヌルッと湿っていた。薄くだが皮が切れて、うっすらと血が浮かんでいる。指で拭ってやればそれだけで止血されてしまうような浅い傷だったが、それでも一撃には違いなかった。

「お前……」

 呟く。そして認識する。

(俺の裏をかいた。いや、違う。俺が、お互いに武器を持っていないと思い込んでいたことを見抜いて、その隙を突いてきやがった!)

 それはつまり、陸王の完敗を意味した。

 

 

 幾分か恭也が落ち着いてから、陸王は二人を牢屋から出した。

「いいんですか?」

「あん?」

 おずおずと聞いてきた恭也の頭を、陸王は無造作に撫でつけた。そうしてみると、この少年はそれなりに可愛らしい顔をしている。顔が赤く腫れ、青痣が出来ているが、その端正な顔つきは自然と彼の父親を連想させた。

その彼が何を聞いてきているのか、少しの間、陸王は分からなかった。

「ああ、いいんだよ。お前は賭けに勝った。勝負に勝ったのはお前だ。人の生き死になんてのは、ただの結果だ。もっと過程を見ろ。そうすれば、例え負けたとしても人生それなりに楽しめる」

「…………」

「お前の勝ちだ、恭也。正直言って、あの攻撃は読んでなかった。結果を呼び込んだのは明らかにお前の実力だよ。胸を張れ。自信を持っていい。お前はもっと強くなる。だから生き抜け。生きて、いろんなものを見て、体験して、感じて、吸収し、強くなれ。そうしたらまた戦おう。今度は、本気で命のやり取りでな」

 恭也はうなずかなかったが、代わりに、こちらを見上げる視線から敵意が消えていた。

「……あの……俺はあなたのこと、そんなに嫌いじゃないです」

「サンキュ」

 もう一度、今度は強めに少年の頭をかき回して、陸王は言った。それから、その後ろに引っ付いている美由希に向かって微笑み、

「さ、そろそろ行くといい。この方向に行けば、一本道で外に出られる。お前らの足だったら二十分もあれば着くだろう。いいか? 何があろうと絶対に引き返すな。俺がお前らを保障できるのはここまでだからな」

「……うん」

「ああ、恭也。ちょっと最後に言っておくことがある。分からんかも知れないが、聞け」

「え?」

 不意に足止めを喰らって、少年は戸惑ったようだった。だが、言っておかなくてはならない。

「御神なんてものを習っているなら、いずれその問題に突き当たるだろうが。忘れんなよ。人殺しなんていうものは、所詮は一過性のものに過ぎないんだ。命を奪うことが罪ならば、世界の生命種全てが大罪人だ。いいか。人を殺したから悪いんじゃない。殺さなくても、悪であることはある。善悪は常に変化する。不変じゃない。ならそこに正義と悪を見出すのには意思がいる。信念がいる。だが、意思なき者はそれだけで悪だ。お前は、殺人は最低だと言った。人を殺すことはいけないことだと。ならそれを、これから一生かけて証明して見せなきゃならん。お前は生きて、その答えを見つけなきゃならない。何のために戦うのかを知らなくてはならない」

「…………」

「従って、重要なことは一つだ。死ぬな。いいな?」

「……うん!」

「よし、もう行け!」

 促すと、恭也は美由希をつれて洞窟の向こうへと消えた。

(素直な子だ。敵であるはずの俺の言葉にも、正しいと思ったら耳を貸す度量を持っている)

 恭也自身は気づいていない。自分がしたことに。己の才能、未来への可能性。陸王が見出したのは、まさしくそのことだった。

「ひょっとしたら、父親よりも強くなるかもな。面白い。そうしたら、約束どおり今度こそ命を奪う戦いをしようぜ、恭也」

 今はもう影すら見えなくなった少年剣士に向かって、陸王は言った。

「だが、まぁその前に今回の依頼を果たさないとな。恨むなよ、これも仕事なんでな」

 そして笑う。

「俺の敵は一体誰だろうなぁ」

 感慨にも似た言葉は、とっくに答えを知っている陸王が吐いても何の響きも持たなかった。

 おもむろに、恭也たちが進んだ方向とは逆へ足を向ける。

 その先からやってくるむき出しの気配に──陸王は久々に楽しい戦いが出来ることを予感していた。

 

      ◇

 

 二十分。金色ウニ頭をした暗殺者の言ったとおりの時間を掛けて、走り抜けた先にたどり着いたのは草木の生い茂った場所だった。洞窟から先へは道がない。あるのは崖──ではないが、油断して足を滑らせたなら、きっとどこまで落ちていくだろうくらいには切り立った斜面が恭也を待ち構えていた。

「…………」

 明かりに目が一瞬くらむが、それでも懸命に、恭也は歩ける道を探した。踏み出すたびに、足元から土屑が零れ落ちて斜面を転がっていく。美由希を後ろに待機させておいて良かったと、恭也は心底思った。

(どうする? 考えろ。前は切り立った崖もどき。後ろは敵のアジト。あの人は絶対に戻るなって言った。それはつまり、戻ったなら、今度こそ俺たちに命はないってことだ)

「おにーちゃん」

 後ろから呼びかけられて、恭也はどうしたものかと迷った。一度振り返って、もう少しだけ待って置くように言い聞かせ、もう一度、前を見る。

「…………」

 じっと見やる。日本はさほど広くない。ここがどこかは分からなかったが、雰囲気からしても海外には見えなかった。日本であると根拠のない仮定の元に、恭也は周囲を見た。

(……あれは)

 対面には山があった。あまりにも自然すぎて、逆にその事実に気づかなかったが、つまり自分たちが今いる場所も山の斜面ということになる。さすがにここから降りる手法はない。下の見えない崖を、美由希と共に下る自信はなかった。

 ならば逆に……

(登れるか?)

 軽く身体を前に出して、恭也は上を見上げた。太陽は沈みかけていたが、それでも洞窟の中の暗闇よりは明るい。光の反射で見えにくかったが、ここからさほど高くない位置で斜面が消えていた。とどのつまり、自分のすぐ上に地面があるということだ。

 問題はどうやって登るか……だが、これに関しては悩む必要もなかった。自分がまず上に上がって、美由希を引き上げる。これしか方法はない。妹を背負って登れるほどの腕力が自分にないことくらい、恭也は自覚していた。

「美由希」

「なに?」

「外に出るよ」

「うん」

「俺が今から上に登るから。そしたら次は美由希だ。合図したら、ここまで出てきて、手を伸ばして」

 言って、恭也は妹が落ちないくらいの、だが上に登った自分と手が届くだろうくらいの場所まで洞窟の出口に近づくと、そこに足でラインを引いた。

「この線の上に立って、手を伸ばして。ちゃんと引き上げるから」

「ヤダ。こわい」

 言うだろうと思っていただけに、恭也の対応は迅速だった。

「……いいか、美由希。ここにいたら、父さんとはもう会えないんだ。嫌だろ?」

「……うん」

「なら、がんばろう。美由希も御神の子なんだから」

「おにーちゃんは──」

「うん?」

「おにーちゃんはこわくない?」

「……怖いよ。けど、大丈夫。美由希がいるから、俺は大丈夫」

「みゆきがいるから?」

「ああ」

「……なら、みゆきもがんばる」

「いい子だ」

 それでも恐々とうなずいた美由希の頭を撫でてやってから、恭也は思い切って身を乗り出した。風は強くない。冷たくないと言う意味でだが。崖の土は掴んでも崩れる様子もない。大丈夫だと自分に言い聞かせて、手と足を動かす。といっても、大人用の鉄棒で懸垂をする程度の高低差だったので、わりとあっさりと恭也は上へ登ることが出来た。

 登りきった場所もまた木々に覆われた林だった。斜面ではないが、さほど広くもない平地である。草木が生い茂ったその向こうに、少しばかり開けた場所が見えた。それがどうやら車道であるらしいことに気づいて、

(ここは……)

 漂い感じる木の匂いに覚えがあった。

「九台?」

 答える者はいない。今は美由希を引き上げることが肝心だと、恭也は確かめることは諦めた。下にいるだろう妹に声をかけようとして──

 不意に、その声を口の中で止めた。

「やっぱりこんなことだと思ってたわ」

 どこか呆れたようなその声には、聞き覚えがあった。

「逃げたりしちゃ駄目じゃない。聞き分けのない子はお仕置きしないとね」

 振り返るべきか否か。ああ、だがどちらにしろ、後ろに感じる殺気と、自分の首に当てられた剣先に抗う術はなく、恭也は硬直するしかなかった。

「死になさい」

 そしてゆっくりと、女の気配が動く。腕が上がり、それが自分に向けて振り下ろされる様を、恭也は背中越しに感じていた。

 


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