7

 

 洞窟は湿気を含んでいた。五月の陽気もこんな暗闇までは届かないのだろう。肌にまとわりつく温度はかなり低かったが、寒いと言うほどでもない。

 全身が総毛立つのはまったく別の原因からだった。自分に向けて、というよりはこの洞窟に入った者たち全てに向けて放たれている空気のようなもの。そこに含まれる悪意と敵意。そして殺意。歩くだけで汗が浮かび、地面を踏みしめるたびにズキズキと心臓が痛む。

 洞窟は、狭いように思えたのは入口付近だけで、入ってみればかなり広々としていた。大人一人がゆうに歩けるだけの広さはある。さすがに襲われたら逃げ場はないが、学校の廊下程度の広さの道は──下手をすれば狭い場所を這い付くばって行かなくてはならないと覚悟していただけに、その辺は嬉しい誤算だった。

(ありえんか……)

 だが考えて見れば、敵がわざわざそんな場所にアジトを構えるわけもない。士郎は苦笑しながら──そうするだけの余裕はあった──さらに歩く。

 粘土質の土で出来ているため、所々が湿気でぬかるんでいた。入口から差していた光も届かなくなり、やがて深淵の闇が士郎を覆う。

 そこで初めて、士郎は足を止めた。

「…………」

 目が慣れるには時間が必要だった。やがてうっすらと土壁が輪郭を取り戻し、先へ続く道が姿を現す。

 途中で道別れしていても、士郎は迷いを抱かなかった。正確に言うなら、迷うという行為をしなかった。ただ赴くまま、殺気が導くままに足を進め、やがてそれまでよりも広い空洞に行き着く。

 もはや明かりと呼べる光源はどこにもなかった。一応手元にライトは持ってきていたが、自分の位置を知らせる間抜けな行為をするわけにも行かない。暗闇に満ちたその空間は広さ的に言えば小学校の体育館ほどだと、肌に感じる空気の開放感から判断する。

 その一点。

 士郎が見据えたのは暗闇の中でさらに黒くぽっかりと開いている穴だった。それが先に続く通路だと判断した即時、そこに一個の影が揺らめく。一人の人間だった。男──だと判断したのは、その背格好と髪型からである。体躯はいいし、身長も高い。ウニのように逆立った髪もまた、暗闇の中で鈍く存在を揺らめかせている。

 無駄に目立った奴だとは思いながらも、士郎は油断だけはしなかった。ここにいる以上、男は間違いなく敵なのだ。と──

「遅かったな、不破士郎。剣は持ってきたか?」

「……お前か」

 驚きはしなかった。

 声には聞き覚えがあった。二日前、士郎を不意打ちで奇襲した声だ。恭也と美由希を攫った声。毒を注入した銃弾を自分に撃ち込んだ声。大切なものを奪った声。

 沸き起こった殺意を、士郎はなんとか自制した。自分の感情は後回しでいい。

「恭也と美由希はどこだ」

「この奥にいるよ。二人とも無事だ。んで、剣は?」

「持ってきていない」

 隠す気もなく、士郎は白状した。

 その一瞬、男の気配が微かに揺らいだ。動揺したというよりは、予測どおりの事態に喜んでいる。そう感じたのは気のせいだろうか──?

 もとより男が言った『八景』と『八相』を持ってこいというその指示は、守ることが決して出来ない約束だった。その最大要因が、八相がすでに皇設楽の手中にあることである。死宝剣を追い続けるかの少年暗殺者が、子供たちを助けるためだからと言ってその一振りを預けてくれるわけがなかった。尋ねるまでもないことだ。彼は敵ではない。が、決して味方ではない。

「おい。それは違反じゃないか? こっちは一応約束どおり子供たちには手を出していないって言うのに。ああ、もしかして理由とかあったりする?」

「あると言えばある。ないと言えばない」

「どっちだよ」

「お前に話す言葉はないな」

 断言する。続けて告げる言葉は一息で足りた。

「そこをどけ。さもなくば殺す」

「息子と違って随分あっさりと言うね。さすがに御神流剣士、人を殺すことに抵抗はないってか?」

「あるさ。だが、そうしなければならないのなら、俺は迷わない」

「覚悟は出来ている……か。そうでなくちゃな。ま、月並みな言葉だが──」

 今度こそ、文字通りゆらりと、男の影が揺らいだ。

「俺を倒さないと、先へは進めない。この先に恭也と美由希はいる。だが気をつけろよ。時間はあまりないぜ? あと三十分もすれば(・・・・・・・・・)、この洞窟全てを充満するほどの毒ガス弾(・・・・)が起爆する。それまでに俺を倒して、息子たちを助けて、またここから出られるか?」

「出るさ」

 迷いはない。迷う必要はない。すべきことは決まっている。しなくてはならないのだ。後へは退けない。退く気もない。ならば、今できることは迷うことなく完遂する。否。しなくてはならない。

「行くぞ」

「来な」

 暗闇の向こうで、男が手招きをする。黒いカーテンが敷かれた空間で、その唇が歪む様子が見えるはずもなかったのだが──

 男の嘲笑を睨みつけながら、士郎は一足飛びで男に詰め寄り、決意の元に一刀を振り抜いた。

 

      …

 

 ずっと昔から──というのは、御神の皆伝を取った頃からではあったが、一体、御神とはなんなのだろうという思いが士郎にはあった。

 永全不動八門一派、御神真刀小太刀二刀術。八門というくらいだ。一つの武術から派生した流派であることには違いない。それはつまり、御神の同門が他に七つあると言うことにもなる。

 殺人剣術を今に伝える流派。その一族。

 一体、何を考えて今を生きているのか。

 否。正確に表現するなら、生きていたのか(・・・・・・・)だ。御神はもう滅んだ。今ここにいる自分と妹を残して、全てが死に絶えた。

 守るため。生きるため。他者の幸せのため。自分たちの未来のため。あえて戦う道を望み、あえて外道の流れに臨み、剣を手にとって闘う一族、御神と不破。

 命をさらけ出して生きる者たち。命を奪って生きる者たち。だと言うのに、人と同じだけの幸せを得ようとする者たち。

 どうしようもないほど臆病で、同時にどうしようもないほど贅沢な者たち。

 剣を取り、立ち塞がる敵の道を壊しながらも、自分たちが壊れることを何よりも恐れる者たち。

 戦わなければ、剣を取らなければ、死ぬこともなかったはずなのに。

 それを知りながら剣を手に戦い、死んでしまった者たち。

 

 幸せを望んではいけなかったのか。

 

 楽しさを味わってはいけなかったのか。

 

 生を実感してはいけなかったのか。

 

 答えは出ない。出るわけもない。その答えが、御神を否定してしまうかもしれないことを思うだけで鳥肌が立った。御神の先代たち。士郎と同世代の遣い手たち。彼らの生き方全てを容易に否定できるほど士郎は万全でも万能でもなければ、それを知った上で知らない振りが出来るほど達観しているわけもなかった。

 怖い?

(そうだな)

 自答する。答えを出すことも、知ることも、見つけることさえも。

 

 怖い……

 

 だがあの少年と出会って、士郎に芽生えたのは小さな疑問と曖昧な不安、そしてそれ以上に羨望の気持ちだった。

 一個の機能に殉ずる者──死宝剣の破壊に己をつぎ込む皇設楽は純粋に見えた。

 そしてその通り、彼は純粋だった。会話をしていてわかった。彼は何よりも誰よりも自分を知り尽くしている。だからこそ一途でいられる。何も寄せ付けず、何にも依存せず、その目的のためには何を破壊することも厭わない。

 真正暗殺者。彼が最強ではなく、最高と呼ばれる所以。

 彼に迷いはない。彼は迷わない。

 

 それはきっと、戦士としては正しい生き方だから。

 

(うらやましいんだ。俺は……)

 

 例え人として間違っていようとも、それは一つの究極の形だから。

 

(希望と現実……だが俺は、人を捨てるわけには行かない)

 

 望む形。現実の自分。その落差。隔たり。

 戦いに身を委ねる中で、死を受け入れ、死に殉じ、死に臨む。およそ表には出ないこの業界は、その覚悟の出来ていない者から死んでいく。迷った者から命を落とす。

 覚悟は出来ている。迷いもない。

 今も──ないと断言できる。戦うことに迷いは、ない。その目的も見失っていない。だが、どこかで自己を責めていた部分があることは自覚していた。目を塞いでいた事実が、彼と出会ったことで、話すことで、顔を見ることで浮き彫りになっていく。

 家族を守れなかったこと。剣を続けていくことの意味と意義、そしてそんな生き方しかできない自分自身について。

 何もかもが無意味かもしれない。そんな意識が不意によぎってしまう。前を向いて歩いているつもりで、その実、地の底で足掻いていただけかもしれないことに不安を感じている。

 皇設楽に会ったことで、士郎は気づいてしまった。

 己の中の不安に。閉ざされるかもしれない未来に。

(やられたらやり返される。わかっていたことだ。いつか、御神も滅ぶ時が来る。確信はしていたし、予感もあった。あんなに唐突だとは思わなかったが……)

 だがそんなものかもしれないと、士郎は漠然と思っていた。時代の流れは、御神を必要としなかった。ただそれだけとも言える。そして、世代の移り変わりはいつも突然なのだということも知っていた。

 御神は滅んだ。家族も死んだ。

 自分の帰る場所はもうない。

 もう自分には、前に進むしか道が残されていない。それどころか、御神には道さえもないかもしれない。後ろを振り向くことすら許されていないのかもしれない。

 そういう考え方しか出来ない自分もまた、いつかは必要とされなくなるときが来る。

 御神に道を求めてはいけない。

 だが剣を手に戦ったその先に、自分ではない誰かの小さな幸せがあるのだと──

(信じたいんだ。俺は──っ)

 だから生きる。

 だから戦える。

 何かが、士郎の中で融合していく。信号が伝わり全身へ走り抜け、それは脳にも届き、明確な決意となって不破士郎という人間の精神を支配した。決意は行動を生み、彼の意識をさらに昇華させていく。

 迷う必要はない。今このときだけは。

「恭也と美由希だけは守り抜く!」

 まだ自分には戦える理由がある。彼らだけじゃない、英国で政治をしている友人も。他の、おそらくは時代のために正しいことをしようとしている者たちを、守る力が自分にはある。盾になれる力がある。

 剣は道具。剣術は凶器。

 だが、それを決めるのは自分。使い方を見極めるのも自分。

 答えはない。それを知るだけの度量も、勇気も。

 それでも守れるものがあるなら、守りたい存在があるなら、自分はまだ戦える。

 もう理屈は必要なかった。

「なぁ、静馬。俺は随分と臆病になったよ。年かね。いや、元々そういう人間だったんだろうな。大切なものを失って初めて、自分を知るなんてのは皮肉も良いところだ。けど、悪いがもう少し待ってくれ。恭也と美由希を残したままで、お前たちのところへは逝けそうもない」

 

(俺はまだ、逃げるわけには行かないんだ)

 

      …

 

 視界の隅で動いたそれを、士郎は見逃さなかった。光がない空間で、物質が光ることはない。迫り来るその刀剣もまた、何の輝きも持っていなかった。鈍く黒い塊が男の手に握られ、道具として素直に軌跡を描く。刃の部分をこちらに向けて。

 旋回する刃がこちらのこめかみを狙っていることを察して、士郎はぎりぎりでそれを交わした。体勢が崩れる中で、男の気配と、刃の動きを同時に読み取る。

 刃の方は、剣でどうにでも裁くことが出来た。が──

 死角から飛び込んできた男の蹴りが、士郎のみぞおちを容赦なく貫いた。呻く暇もなく意識が反転する。

 その間にも士郎の身体は動いていた。無意識に、無自覚に、自己を守る保存機能が働く。あるいはそれは、剣士としての本能だったのかもしれないが。なんにしろ、士郎は右手に握った小太刀を、男の足が引っ込む前に投げつけていた。

 近距離で飛び道具を放たれたならば、よほどの反射神経がない限り躱すことはできない。明かりのない場所でならなおさらだった。士郎の意識が戻った時に右手に剣はなく、それは男の左胸に深々と突き刺さっていた。

(剣を……)

 右手に小太刀がないこと知って、士郎は今度こそは意識的に手にあった紐を引いた。それはそのまま繋がっていた柄に伝わり、男の傷口を広げる結果となった。カランと乾いた音を立てて落ちる小太刀の後ろで、

「がぁぁぁっ!」

 暗闇の向こうで、さらに黒い何かが噴出していく。敵の血の臭いに感化されてようやく神経が回復した頃、自らの身体に遅れてやってきた衝撃に、士郎はそのままひざを崩して嘔吐した。

「ゲホッ! ゴホッ! ウォェッ──!」

 口に広がる甘酸っぱい風味をかみ締めながらも、士郎はすぐさま起き上がって男と距離を取った。追撃はなかった。噴出していた飛沫が少しずつ収まっていく。肩で息をしながら、男が呻いた。

「やるね。とっさに躱さなかったら、心臓に直撃喰らってた」

「……さほど、たいしたダメージを追った風には聞こえんが」

 皮肉ではなく、士郎は素直にそう思った。あれほど高く舞い散った血の量は尋常ではない。失った血液は補充出来ないことを考えて見れば、しばらくまともに動くことも出来ないはずなのだが、男の気配に緩みはなく、その立ち方もしっかりしていた。男の声だけが素直に痛みを訴えてくる。

「ま、慣れだな。わざと体内の血液を少なくして戦う訓練をする。暗殺者っていうのは、人を殺す職業だ。当然、反撃される事だってある。そうしたときにも動けるようには訓練しているさ」

「そこまでして人を殺すことに何の意味がある」

「需要と供給さ。他人を自分の代わりに殺して欲しいなんていう奴はこの世に吐いて捨てるほどいる。だがまぁ、そんなのは俺がお前に何故剣を手にしているんだって聞くのと同じくらい陳腐だぜ? そんなこと関係ないだろう? 守るためだろうが、憎悪のためだろうが、例え愉悦のためだとしても、戦いの場にそんなことは関係ない。俺はお前と戦えればそれで良い。楽しめればそれで良い」

「愉悦欲しさに戦いに身を投じている口か」

「誤解されるのもなんだから言っておくが、少し違うな。俺が欲しているのは、勝利の愉悦でも、人を殺す快感でもない。生きている実感だ。戦いは命を奪い合う行為だ。だからこそその分、生きていることを感じ取れる。その結果が死であろうと俺はかまわん!」

 瞬間──

 男の気配が消えた。姿も。なにもかも。

 反射的に、士郎は後ろに反り返った。直後、上に何かが通り過ぎるのを漠然と見送る。影はなかった。空気の流れだけが、如実に男の動きを知らせてくる。

 一瞬後、通り過ぎた空気の向こう、士郎の遥か後方で、壁が破壊される音が響いた。

(殺気も気配もなく、そんなことが可能か?)

 人が行動を起こすには意識がいる。意識はすなわち気配となって周囲に伝わり、それが何かを壊すものであるなら伝わった瞬間に殺気となる。つまり意識なく行動しない限り、殺気を微塵も感じさせず、さらには気配もなく何かを意識的に破壊すること(・・・・・・・・・・)など出来はしないはずなのだ。

(いや、常識で考えるな!)

 自分に言い聞かせながらも、士郎は対処に迷っていた。

 男の姿が消える。影さえも、瞬く間になくなる。気配が追えない時点で、この暗闇の中で敵の行動を先読みするのは不可能に近かった。

(どうする? 敵の位置は知れない。従ってこちらから攻撃は出来ない。ならこちらも気配を消すか? いや、それだと何の解決にもならない!)

 考える間にも脳天に刺さる空気を感じて、士郎は身体をよじった。首のすぐ横を細い何かが走り抜けていく。それが男の腕だと判断したのは、首筋が切られたのとほぼ同時だった。吹き出る血を無視して、後ろを眼球だけで確認する。

(くっ)

 男の顔がすぐ傍にあった。彼が息を吹けばこちらの耳にかかるほどの距離に。金色の目立つはずの髪形よりもなお、その黒い瞳がくっきりと闇に浮かび上がり、ぎょろりとこちらを見ていた。

 背筋に走る悪寒を無視して、士郎は右手で男の腕を掴み、肩を軸にして左手にあった剣の柄で男の肘を打ちぬいた。生々しいほどに何かが折れる音が響く。それでも苦悶の声すら上げない男を前方に投げ返したところで──

「っ!」

 唐突に、士郎はひざを付いた。

「!?」

 何をされたのか。訳が分からず、士郎は違和感を抱いた腹部を手で押さえた。痛みはない。が、立っていられないほどの脱力感が全身を襲う。視界が回転し、ただでさえ暗い景色がさらに黒く歪んだ。

(何をされた?)

 不可解な事態だったが、自分の身に何が起こっているのかは理解できた。

(内臓が振動している?)

 その疑問を裏付けるように男が自慢げに呟く。

「今のは効いたろ? 右腕を犠牲にしただけの成果はあったはずだぜ? 音も、衝撃も、触った気配や感触すらなく、狙った対象だけを破壊する技──遠当ての応用さ。破壊力のわりに痛みが後れてやってくるのが難点だけどな」

「がっ! ぐっ!」

 そしてその通り、やがて時間差と共に訪れた衝撃に、士郎は苦痛に顔をゆがめた。痛みよりも苦しみのほうが先に士郎を襲う。痛撃で逆に鋭利になった神経が、冷静に症状を訴えてきた。

 内臓のいくつかは破壊されているかもしれない。だが即死していないところを見ると、致命傷というわけではなさそうだった。

 どちらにしてもここでは確かめようもない。食道を上がってくる液体に鉄に似た味が混じっているのを知って、士郎は迷わず吐き出した。

「あんたは強い。が、場所が悪かった。ここは俺のフィールドだ。闇は俺の専売特許だからな」

 男の声が響く。だが士郎はそんなことはもうどうでもよかった。足にも手にも力が入らない。肉体的に何かしらの限界が来ている。痛覚も麻痺しているのか、もう痛みは感じなかった。

「時間がない。さっさとケリをつけようか。次で終わらせてやるよ」

 男が跳ぶ。影が消える。気配も消える。その全てが認識から除外される。そうして、間もなく士郎へ死をもたらす。

 身体は動かない。動けない。動かなければ死ぬというのに。

 理解していた。そんなことは。

 戦わなければ死ぬ。死なないためには戦わなくてはならない。

 分かっているのだ。そんなことは。

 剣を手に取った時から。自分には戦う道しかないことくらいは。そんな自分がいかにちっぽけな存在であるのかということについても。

 だが生きて欲しい者がいる。守りたいものがいる。それと同じくらい、死ぬのはごめんだ。決意したことをやり終える前に、死ぬわけには行かない。

 だからこそか、士郎はゆっくりと顔を上げた。男の姿が掻き消えたのと、それはほぼ同時だった。

「俺は終わらない。終わるとすれば、こんなくだらない戦いのほうだ!」

 唾を吐く。肺の空気を一息だけ吐き捨て、士郎は叫んだ。力の限り。

「あああああああああああああっっっ!!」

 振動が肺を揺らし、横隔膜を痙攣させ、鼓膜を麻痺させ、だが同時に脳に活を入れる。その行為は、自然と士郎の精神をもう一度戦いへと昇華させた。

 意識を持ち上げる。踏み込みは思ったよりも軽かった。

 考えるよりも先に感じる。先の絶叫をその身に受けた敵の居場所を、空気の響き方だけで把握して、士郎は跳躍した。

 そしてほどなく加速する。神速という御神が誇る絶対領域へ。

 ただでさえ暗闇だった空間が、音を立てて真っ白へと移り変わった。否、白でもない。そこは無だった。色のない空間とは黒ですらなく、まさしく何もない無明の空間──その中を感覚だけで走り抜ける。

 駆け抜けた先にいるだろう見えない敵を見据えて(・・・・・・・・・・)、士郎は剣を振り下ろした。彼が持ちうる、おそらく最高最速の四連撃──『薙旋』と呼ばれる御神の奥義が、吸い込まれるようにして男の身体へと食い込んでいく。

 一撃、二撃、身体をひねり返して三撃……

「──っ!」

 だが最後の四撃目を繰り出す前に、唐突に士郎は体勢を崩した。要の握力が抜けて、剣が滑り落ちて行く。神速が解かれ、それでも最後の力を振り絞って、士郎は拳を男に繰り出した。

 後に続いたのは、衝撃でも痛みでも、勝ったか負けたかも判らない戦いの行方でもなかった。

 …………

 無音が続く。静寂と言うにも程多い無音の空間──を実感して、ようやく聴覚が麻痺しているらしいことに士郎は気づいた。

 時間にして数十秒。だが十数分にも感じられるほどゆっくりとした時の流れを混迷して、士郎はやがてゆらりと立ち上がった。握力が入らないので、鋼糸で剣を手にくくりつける。無理にねじ込んだせいで糸が手に食い込んだが、その痛みが逆に士郎の意識をはっきりと蘇生させた。

 そうしてようやく息が整い、身体が知覚を回復させた頃──士郎は暗闇の向こう、見えない敵に向かって叫んだ。

「おいっ!」

 答えはなかった。反応も。死んだのかもしれないと思ったが、耳を澄ますと微かに聞こえる呼吸の音が、士郎を少なからず安堵させた。

「俺は……もう行く。ガスが満ちる前に、逃げられるようなら逃げるんだな」

 設楽が聞いたら、きっとお人好しと言って笑うかもしれなかった。

 名も知らぬ敵。顔さえ見ることのなかった敵。その生きる道を完全に断絶することが出来ないのは甘さでしかない。それは自覚していたが、士郎は何故かこのほうが自分らしい気がして、少し──本当に少しだけだが、晴れ晴れとした気持ちでその場を後にした。

 


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