◇

 

 痛みそのものを楽しみながら、姫月陸王は嘆息して見せた。もっとも、それを聞きとがめる者などここにはいないのだが。

「……ったく、あの状況下で、俺の位置をっ、把握して、さらに的確に急所に叩き込んでくるとはね。それも、峰打ち(・・・)で」

 苦笑する。笑いは肺を揺らし、横隔膜に伝わって陸王に痛みを訴えたが、それでも彼は笑った。

「甘いな。が、だからこそ危険なんだろう。龍が御神を畏れる理由はこれか」

 確証はなかったが、陸王はなんとなく感じていた。

 大切なものを守るためなら命すら厭わず、利益など見向きもせず、守りたいもののためなら限界すら突破する者。確かに、弱肉強食を謳う龍にとっては天敵もいいところではないか。

「だが忘れるなよ、不破士郎。あの時、震撃を打つために俺がお前に接触した瞬間、お前は死んでいたんだ。俺がもう少しその気になっていれば、お前は死んでいた。内臓を揺らすのではなく、心臓を破壊するつもりだったなら、死んでいたんだ」

 気づいていないかもしれない。後で気づくかもしれない。だが結果はどちらも同じだった。もうここにはいない御神の剣士に向けて、ゆっくりと独りごちる。

「甘いのは俺も同じか。あのまま本気で殺しあえば、俺も殺されていたかもしれないがお前も確実に死んでいた。暗殺者はそれが出来るんだ。それが出来るから、俺たちはプロなんだよ。あいつを舐めるな。殺すと決めた以上は必ず殺す。それが本物の、プロの暗殺者だ。まぁ、これ以上は面倒見切れんがな」

 何も見えない空間。自分以外に誰もいない空洞で、陸王はぼやき続けた。

「メチャクチャ痛いが、気持ち良いね。生きてるって実感できる。最高だよ、不破士郎。礼を言わなくちゃな。これから俺はもっと楽しめるんだ。息子とも約束しちまったしな」

 それが一方的であったかどうかなど、陸王には関係なかった。

「とりあえずは、後二十分もすれば毒ガスが起爆する。その後一分も経たないうちにこの洞窟はガスが充満するだろうな。果たして、それまでに動けるようになるかどうか、賭けだな。いいねぇ、俺らしくて」

 クククと含み笑いを浮かべ、そしてまたその振動に痛みを触発されて、陸王は笑いながらも苦痛に顔を歪めた。

 

      ◇

 

 殺気に満ちた剣閃が振り下ろされる。何もかもが間に合わないと、そう感じた瞬間、身体が竦んでしまった恭也に出来たことは、そのまま己の死を待つだけだった。

 時が流れる。死への旅立ち。刻一刻と迫る冥府への入口が──だがいつまで経ってもやってこないことに、恭也は訝しげに思いながらも顔を後ろに向けた。

「…………?」

 後ろには女がいた。迷彩服を着た黒髪の女である。

 見覚えはない。だが声に聞き覚えがあった。一昨日、姫月陸王と名乗る男と言い争っていた声。名は確か──

(フェイフォ、だったっけ。何してるんだ?)

 彼女はこちらを向いてはいなかった。ならばどちらを向いているのかといえば、林の方を凝視していた。血の滴る肩を抑えながら。

(血?)

 何故、彼女が怪我をしているのか。その疑問に思い当たった時、木々に覆われた密林の向こうから歩く音がした。草を踏む軽い足音。ほどなくして、フェイフォが睨み続けている雑木の隙間から現れたのは、白衣を着た女だった。

「何者だい?」

 フェイフォが聞く。その隙を見て、恭也はゆっくりと一歩だけ右足を後ろへやり、重心を移動させた。いつでも逃げ出せるように体勢を変える。

 しなければならないことは判っていた。

(この下には美由希がいるんだ)

 決してそれを気取られてはならない。ひょっとしたらこの女暗殺者は気づいているかもしれないが、わざわざ妹をこの死地へ来させるべきではないことは考えるまでもなかった。フェイフォの注意を自分に引きつける。現れた白衣の女が何者かもしれない現状では、考えられる最良の策はそれしかない。

「この状況下で私が誰なのか、聞かなくては分からんのか?」

 そう言った白衣の女の手には、銀色に鈍く光るナイフのようなものが何本か握られていた。眼を凝らして見ると──いや、あれはナイフではない。メスだ。父に以前見せてもらったこのある、医療用の道具。そしてもう一度視線をフェイフォに戻してみるならば、彼女の肩に突き刺さっていたのは間違いなくそのメスだった。

(誰? 敵じゃないのか?)

 考えられる可能性は二つしかない。敵か味方か。だが例えフェイフォにとっての敵だったとしても、こちらの味方である保障にはならない。

 敵の敵は決して味方ではない。それは父がよく言っていた言葉だった。

 判断しかねているこちらを無視して、白衣の女が言葉を紡ぐ。透き通るようなテノールの声に何か暖かいものを感じて、逆に恭也は思わず身震いした。

「後ろから容赦なく、それも無抵抗の子供の命を奪おうとするとはね。物騒な世になったものだ。アサッシンにはプロとしてのプライドとモラルがあったと聞くが、お前はどうやら違うらしいな」

「……もう一度聞くよ。あんた、何者だい」

 女の愚痴を無視して、フェイフォが睨みを利かせる。彼女が戦闘態勢に入ったことを、恭也は五感だけで判断した。女暗殺者の目がこちらから外れているうちにここから動くべきだ。そう告げてくる理性とは裏腹に、身体は動こうとはしなかった。

「何度も言わせるな。この状況で、顔も知らないお前の味方が来ると思うか? 敵に決まってるだろう」

 薄く笑みを浮かべて、白衣の女が続ける。

「さて、その敵からの用件は一つだ。その少年から手を引いて立ち去れ。さもなくば……」

「さもなくば?」

(──っ!)

 フェイフォを包んだ変化は後ろからでも判った。殺気が──人を殺す直前の気配が彼女の全身に充満する。先ほど恭也自身に向けられた必殺の気配は、だが今は、その矛先は自分ではなかった。

「私が相手になろう。愚かな女暗殺者」

「フン。今のあたしに、お前ごときが──っ!」

 跳躍する暗殺者を、白衣の女は冷静に見つめていた。その視線がフェイフォからこちらへ移ったように見えたが、それも一瞬で元に戻る。

 その心地よい声色から、信じられないほど冷徹な台詞が出てくる。

「それは三流の台詞だな。もう一つ言えば、私のことを何一つ知らないお前が私の実力の何を知る? 見た目で勝てると判断したのなら、お前は絶対に私には勝てない。その証拠に──」

 振り下ろされた見覚えのある小太刀の剣閃を身体の上半身だけで躱して、小さく身体を沈めた白衣の女は、そのまま流れるような動作でフェイフォの豊かな胸板に手のひらを押し当てた。

「くふっ!」

 それは軽く静かで、小さいながらも迅速な動きだった。だが見た目以上に威力があったらしい。軽々とフェイフォの身体が宙に浮く。えびの様に身体を丸めながら恭也の頭上を越して飛んでいく女暗殺者が、空中で体勢を立て直し、着地した瞬間に再跳躍した。

 形相に浮かび上がる血管を痙攣させながら、

「おんなぁぁぁっ!」

 怒りに満ちた絶叫が響く。

 一方で冷静に状況を把握しようとしていた恭也はそのとき初めて、フェイフォの握るその小太刀が八景であることを知った。父の持っているはずの剣が振り上げられ、女に向けて振り下ろされる。何故彼女が八景を手にしているのか。その疑問も晴れぬままに、眼にも止まらない速度で繰り出された九つの斬撃(・・・・・)を、白衣の女は冷静に見つめていた。

 驚くこともなく冷静に──

「言い忘れていたが……」

 ゆっくりと、その唇を動かした。

私のメスは爆発するぞ(・・・・・・・・・・)

 それその通り、フェイフォの肩に突き刺さっていた銀色の刃が、鈍い音を立てて暴発した。

 

      ◇

 

 死ぬほどの痛みなど、今まで幾度となく経験してきた。否、むしろ生きていることそのものが、彼女にとっては痛み同然のことだった。だが死ぬことは許されない。生きるために殺す。生まれながらに『龍』に育てられ、暗殺技術を身につけ、標的を殺すことだけが許されたフェイフォにとってみれば、己の腕が吹き飛ぶほどの感覚は決して初めてのものではなかった。

 痛みなど問題ではない。

 痛みは我慢できる。頭痛や吐き気も。だが出血による身体の異変だけは、どうにも施しようがなかった。血がなくなったことで浮遊してしまう感覚を制御することが出来ない。

 それがそのまま姫月陸王との実力差であることも知らず、フェイフォは呻いた。

「何故だ」

 腕もろとも吹き飛んだ剣が、日本人の少年の方に落ちていく。

 死宝剣。『八景』と言う銘の魔剣の契約者となった自分は、それこそ確実に強くなったはずだ。鍛えている自分の、強くなった自分の攻撃が、こんな飄々とした女に通用しなかった理由が、フェイフォにはまるでわからなかった。

「何故だ!」

「ああ、私が増幅された斬撃を見切ることが出来た理由か?」

 女は笑った。唇をゆがめただけの、吐息すら噴き出さないほどの微弱な笑いだった。

「八景は一振りで八つの影を作り出す。つまり一度で九つの斬撃を生むわけだが、その軌跡は本来なら縦横無尽だ。しかし、契約者になったばかりのお前の生み出す影はそれこそ通り一辺倒。少し武術をかじったものなら先読みするのは容易い」

「遣い……こなせていないのか、わたしは」

「情報があれば、その対処法などいくらでも思いつく。そもそも死宝剣を完全に操ることが出来る者などいない。いなかったのだ。そのために、かの男は火凪夏織と皇設楽を作り出したのだから」

「……何のことだ」

 わからない。何を言っている? 設楽とはあの皇設楽か。エッジ・オブ・ザ・ネザーフィールドと呼ばれる暗殺者。夏織とは誰だ? 死宝剣を扱えないのは……

「そういうものなのさ、死宝剣は。剣に込められた能力は使いこなせれば絶大だが、逆に完全に扱える人間がいないという最悪の欠点がある。それをチェン・ユィスィが知らぬはずもない。奴はもとよりお前が八景を扱えるなどとは思っていない。知らないところを見ると、捨て駒にされたな」

「わ、わたし……が……」

 駒? わたしが? 使い捨ての、ただの兵隊だというのか。いや、知っていた。チェンはそういう男だ。徹底的に現実主義を貫き、漁夫の利を狙って勝ち登ってきた男。兵を家族のように扱うのは、己にとって有益だと考えているからこそだ。逆に言えば、彼が切り捨てたものはもはや用済みとも言える。

「知っている。ああ、知っていた。だからなんだ。わたしは──っ!」

 それしかないんだ! と言う叫びは、かすれて声にならなかった。

「メスに塗っていた弛緩剤が回っているはずだ。もとよりお前の動きは本来の数割程度にすぎん。私がお前の動きを見抜けた二つ目の理由だ。薬は弱いが速攻性だから、しばらく動くことは出来まい。止血はしておいてやるよ。だが良識が少しでもあるなら、もう手を引くんだな」

「殺せ。さもなければどこまでも追い詰めて、私がお前を殺す」

 殺すことしか許されていない自分は、敵を殺さないで終わることはない。

「そうか。なら待つとしようか」

 それだけ言うと、女は吹き飛んだ腕の中にある八景を手に取り、そのまま視界から消えた。仰向けで寝そべった自分の頭上で、少年に話しかける女の声が聞こえる。

 フェイフォは信じられなかった。

 これではまるで、本当に三流だ。龍に拾われ、暗殺者として育てられた今までの人生全てが無駄になる。築き上げてきた時間は長くつらく、だが崩れ落ちるは一瞬だった。

 もう自分に価値はない。チェンはフェイフォという暗殺者を切り捨てた。

(わたしは! わたしはっ!)

 終わってなるものか。せめて、あの女だけは道ずれにする。ああ、そうだ。例え用済みであったとしても、せめてチェンにとって捨て駒になるくらいの利用価値(・・・・・・・・・・・・・・)がなければ、自分が生きてきた意味すらないのだ。

「殺す!」

 明確な意思は一つ。

 だがそれだけで、今のフェイフォには十分だった。

 

      ◇

 

 それは、時間にしてほんの数秒のことだった。迷彩服を着た女暗殺者と白衣の女が戦い、決着がつくまでの時間はまさに瞬く間の出来事だった。

 少なくとも恭也にはそう見えた。

「…………」

 自らが吹き飛ばした暗殺者の腕から父の剣を抜き取って、白衣の女はこちらへ歩いてきた。その歩みに淀みはない。そうして真正面から冷静に見ると、彼女はかなりの美人だった。

「……あの」

「妹はどうした?」

「……え?」

 唐突な質問に、恭也はどうしたものかと悩んだ。彼女が敵か味方か。判断できていない自分がいる。だがもし彼女がその気になれば、きっとすでに自分は殺されているのだということを察して、恭也は覚悟を決めた。

「……あ、貴女は、誰ですか」

「医者だが、見えないか?」

 女の声は、やはり聞いていてむずがゆくなるものだった。暖かいテノールの声はどこか男のようではあったが、それが逆に神秘的に感じられる。現状が曖昧であることも忘れて、恭也はがらにもなく緊張した。

「……爆発するメスを持っている医者なんて、初めて見ました」

「違いない。ああ、名乗るのを忘れていたな。私の名は神逆無月と言う。不破恭也君、おせっかいかとは思ったが、君を助けに来た」

「…………」

 信じるべきか否か。その迷いを見抜いたのだろう、無月がふと真顔になって言った。

「迷う気持ちは分かるが、そんな時間はない」

「え?」

「時間はないぞと言ったんだ。だから説明は簡潔にしか出来ない。迷ってもかまわないが、即断して即決してもらいたい」

 矛盾している。そう思う間もなく、無月が言葉をつむぐ。

「私は味方だ」

「…………はぁ」

「で、奴は敵だ」

「はい」

 今度ははっきりと、恭也はうなずいた。

「ここに君のお父さんの──不破士郎さんの剣、『八景』がある」

「父さんは?」

「無事だろう。君たちを助けに来ているはずだ。危惧はしていたが、やはり(・・・)いれちがいになったようだ」

「あの……何故、あの人が八景を?」

「君たちが攫われたと同じ日に奪われたと聞いている。ま、この剣の処遇は後回しだ。今はここをどう切り抜けるかを考えよう」

「でも……」

 あの女の人はもう──と言いかけて、恭也は口をつぐんだ。無月の眼がこちらを向いていないことに気付いて、そのまま彼女の視線を追う。

「──っ!」

 同時に、恭也は戦慄を覚えた。

 暗殺者がそこにいた。片腕になり、大量の出血をしてもなおも立ち上がってこちらを睨みつけているその視線を真正面から受けて、恭也は腰が砕けそうになった。

 なんとか自制して、倒れるのだけは踏みとどまる。重心を落として、出来る限り力を込めて地面を踏みしめて、ようやく恭也は呼吸を落ち着かせた。

「ま、訓練を受けた筋金入りの暗殺者が、弛緩剤を打たれたり、腕を吹き飛ばされたくらいで引くわけがないのは承知していた」

 淡々と話す無月の声には、別段驚いた様子は見られなかった。

「予想はしていたが、思った以上に薬の利きが悪いらしい。さて、現状は最悪だ。君はまだ暗殺者と戦えるほどの技術も強さも持っていない。私は戦闘型ではない。構えられた今では奇襲も騙まし討ちもままならん。同じ手はもう通用しないだろうな。そしてなにより、向こうが見逃してくれないだろう。ここで私たちが取れる手段は二つある」

「……ふ、二つ?」

 震える声帯を振り絞って、恭也は聞いた。

「戦うか、素直に殺されるか。二つに一つだ。戦っても殺される可能性はあるが」

「でも、生き残れる可能性もあります」

「そうだな」

 自然と口をついて出た言葉に、一番驚いていたのは恭也自身だった。生きるために、生き続けるために。大事なのは足掻くこと。御神を習い始めたばかりの彼は何を踏みつけてでも生き抜くほどの覚悟はまだなかったが、生きるという戦いを放棄するほど臆病でもなかった。

「小太刀は使えるな」

「はい」

 もう迷わなかった。彼女を味方だと信じるしか、今は生きる道がない。

「私が時間を稼ぐ。君が決めろ。この『八景』で」

 父の剣を受け取って、恭也はうなずいた。手にずしりと重く響く刀身は、今まで以上に鈍く凄然と、だが燦然(さんぜん)と輝いていた。父が愛刀として携帯するようになってから何度も目にしている剣。実戦訓練を経験はしていても、だが本当の戦いの場で真剣を握ったことがない恭也には、その剣はあらゆる意味で重くのしかかってくる。

 だが今、恭也に使える武器がこの八景しかないのも事実だった。

 扱えないかもしれない。剣に振り回されるかもしれない。人を切る覚悟が出来ていない自分が持つにはふさわしくないかもしれない。他者を殺してまで行き抜く覚悟のない自分は、剣を振るってはいけないのかもしれない。

 けれどそれでも、生きたいと思うから。妹を守りたいと思うから。

(そのために戦うのなら、きっと許してくれるよね)

 何かを守るときに、御神はその本領を発揮できる。ならば今こそその時だと、恭也は強く思った。

「……父さん」

 ここにはいない師に向かって、

「不破恭也、『八景』、使わせて頂きます」

 一本しかない小太刀を構えて、恭也は宣言した。

 そしてその瞬間、血走った眼をした女暗殺者の咆哮が九台の林地に響き渡たる。

 それが恭也にとって、生まれて初めての実戦の始まりだった。

 


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