8

 

 その女は見た目にもすでに満身創痍だった。歩くどころか、起き上がることさえ不思議でしかない。だが彼女の足はしっかりと地面を踏みしめ、その眼は確かにこちらを見据えていた。

 自然と、ゴクリと唾が鳴った。飲み込んだ苦味に顔を歪める。

 片腕の敵を見据えて、恭也は八景を下段に構えなおした。小太刀二刀、御神流の見習い剣士。だがこの場には一本の剣しかない。バランスを取るのに苦労したが、もとより父の剣であるという意識も手伝って、手に馴染むのは早かった。

「おんなぁぁぁっ!」

 暗殺者が叫ぶ。その目線も、殺気の矛先も、向けられる先は恭也ではなかった。自分でないなら、ここにはもう一人しかいない。

「私か?」

 どこか他人事のように呟く彼女──神逆無月は、相変らず冷静だった。臆している風にも、気負っている風にも見えない。そしてまた、およそこれから死活をかけた戦闘を繰り広げようとしている風にも見えなかった。

 日常の何気ない自然な動作で、白衣のうちポケットから数本のメスと、一本の扇子を取り出す。鉄製の扇子だった。右手でその羽を開き、左手の指の間には女の腕を爆発させたメスが挟まっている。そのメスにどんな仕掛けがあるのかと疑問に思ったそのとき──

「来るぞ!」

 無月の声ではっと身構えたのと同時だった。人間が発したとは思えないほどの重厚な音が響く。それがフェイフォと──『飛び火』と名乗る女暗殺者の踏み切りだと判った時には、すでに恭也は後方へ弾き飛ばされていた。

「ぐぎっ!」

 その恭也を蹴り飛ばした敵の行動に対して、無月の対応は迅速だった。女の手刀を扇子で受け止めながら、メスで死角を狙って斬りつける。が、もとより実力が違いすぎるせいか、それをあっさりと躱したフェイフォのミドルキックが容赦なく無月のわき腹に食い込んだ。

「ぐっ!」

 痛みに歪む無月の顔が、その視線が、一瞬だけこちらを向く。

(え?)

 半ば無意識に問いかけて、だがその答えを得ようにも無月の視線はすでにこちらにはなかった。

 それでも恭也はすぐにその意味を察した。円弧を描くようにステップを踏んで後退するその方向は、恭也の飛ばされたそれとは逆方向だった。

(囮になってくれてる?)

 その作戦が成り立つほどに、フェイフォは無月に執拗だった。恭也はすでに眼中にないらしく、意識さえもこちらを向いていない。その隙を狙って、恭也は静かに息を整えた。ゆっくりと息を吐く。気配を落ち着け、そのまま闇に溶け込むように全神経をカットした。

 暗闇が落ちる。時間が止まる。

 静かだった。フェイフォの叫び。無月の呼吸。全てが感覚から離れていく。

 時折高らかと鳴る金属音。暗殺用の──その一撃すべてが必殺のフェイフォの攻撃をギリギリのところで躱す無月の鼓動が、十数メートル離れている恭也の耳に届いてくる。高らかと。激しく。切なげに。

 獣が獲物を狙うように。恭也は自分を殺した。気配を殺した。足に力をため、手に八景を握り、その身を前かがみにして、静かに待つ。ただ、待ち続ける。ここから二人の距離まで、一足飛びで駆け抜けるために。

 失敗は許されない。

 二度目はない。

 しくじれば死ぬ。

 どれだけ手負いだろうと、あの暗殺者と自分たちの実力差は明白だった。フェイフォが無月に決定打を浴びせられないのは、無月が戦うのではなく逃げているからだった。攻撃を躱し続けているからだった。

 フェイフォには右腕がない。だがその動きは、無月によって腕を失い、大量の血液を失ったはずの今のほうがより鋭敏なものだった。むしろスイッチが入ってからの彼女は、まさしく戦闘者の動きに他ならない。それは御神の剣士である父の動きを毎日のように見ている恭也が一番良くわかっていた。

 だがその様子が──フェイフォの無月を移すその眼が、どこかうつろなように見えたのは恭也の気のせいではなかった。その異変には無月も気づいたらしく、

「お前……?」

 時折おかしな痙攣を起こす彼女は、どう見ても変調を来たしていた。そしてそれを裏付けるかのように、不意に動きを止めたフェイフォが懐から白い何かを取り出すその様子を、恭也は今度ばかりははっきりと見ていた。それは注射器で、その中には黄緑色の液体が入っていた。首に直接打ち付ける、素人でも扱えるタイプのものらしい。それを首筋にあて、中の液体が吸い込まれるようになくなったと同時に、フェイフォが口から唾液を吐き出した。黄色の液体だった。吐き出したそれに次いで、泥状の塊が口から流れ出す。

「麻薬か。痛みや出血も気にならないほどの。そうまでして──」

 何かを言おうとした無月を、フェイフォの手刀がさえぎった。鋭く伸びた爪が、彼女の黒髪を軽くなぎ払う。手刀だと思っていたそれは、まさしく刃そのものだった。彼女の指の下に、日の光に反射して光る凶器が見える。

「がぁぁっ!」

 再び、暗殺者が攻撃を開始した。どこまでも無月しか眼に入っていない彼女の双眸は血走り、涙が流れ、乾いてその顔に白い筋を作っていく。

 その間隙を縫ってもう一度、無月の視線がこちらを向く。それは一瞬だった。本当に刹那の時間。その次の瞬間には、すでに無月は動いていた。

 今まで逃げの一手だった彼女が、身体を沈めてフェイフォの懐にもぐりこむ。メスで牽制しつつ、鉄製の扇子で足払いを仕掛け──それをものともせずに受け止めたフェイフォの黒いブーツが無月の顔面を蹴り飛ばしたそのとき、恭也は全てを察した。

(今だ!)

 蹴られた反動で仰け反った無月の手から、扇子が舞うように空を飛ぶ。それがフェイフォの眼前で芸術のように煌びやかに開かれ、視界をさえぎられた暗殺者が確実にこちらを見失ったその瞬間──

「っ!」

 判断は一瞬。決意は即時に。猛った血が全身を駆け巡り、恭也の身体を突き動かした。振動はなかった。鼓動が止まり、視界がなくなり、ただ一点──目の前の敵だけが恭也の黒瞳に映る。

 踏み込んでからコンマ数秒、だが恭也はそれこそ今までの人生と同じくらいの長さを実感しながら、八景を構えた。

(父さん……)

 父の顔が浮かんだ。笑いかけてくれる彼の顔。だからか、恭也は迷わなかった。剣を振り抜く。逆刃に向き変えた父の愛刀が、暗殺者の右わき腹から逆の肩口にかけて走り抜けていく。肉の感触、何かを叩き壊す手ごたえ。そして──

「ひっ!」

 扇子が重力に引かれて落ちたとき、目の前に──数センチも離れていないそこに、女暗殺者の顔があった。くりぬかれたような黒い双眸が、ぎょろりとこちらを見ていた。

「あぁ……」

 それは誰の声だったのか。どちらでもなく、どちらでもあったかもしれない。だが恭也は、その女のものかもしれない声に、顔に、姿に、口から吐き出された吐息と唾液と嘔吐物に、意識の全てを白濁させた。

「うわぁぁぁぁぁっ!」

 地面に倒れ込んですぐに、恭也は絶叫と共に起き上がった。それよりも早く、否、身体の形が変わるほどの攻撃にさえ倒れずにいる暗殺者から少しでも逃げるために。窪んだ眼でこちらを見下ろす女から少しでも遠ざかるために。恭也は立ち上がった。

 暗殺者がやってくる。自分を殺しに。

──生きるためには足掻け。もがいて、もがき続けろ。諦めた人間に、生きる資格はない。

 不意に反芻されるそれは、一体誰の言葉だったか。もう記憶になかった。

 暗殺者の足が前に進む。左腕が上がり、その先に装備された刃が光を放った。振り下ろされる動きさえも、恭也には何が起こっているのか判断できなかった。

「あああああああぁぁぁぁっ!」

 もう無我夢中になって、恭也は剣を上に振り上げた。金属音に遅れて、全身をたたみ尽くすような衝撃が手を始点に走り抜ける。

「くぅぅぅっ!」

 重かった。とてつもなく、なにもかもが。暗殺者の攻撃の重み。剣の重み。生きることの重み。敵を倒すことの重み。

 押し返すほどの力は恭也にはなかった。耐え切るしか出来ない。力も技量も、生きる覚悟も、奪う覚悟も、何もかもがフェイフォのほうが上なのだ。だが押し切られれば死ぬ。その刃に身を裂かれて死ぬ。

 血を、臓物を、肉片をぶちまけて、あっけなく、この世から、永遠に、絶対的に。

 終わる。

 それが死──死ぬということ。

 

 死────ぬ?

 

(嫌だ!)

 死にたくない。まだ死ねない。

「死にたくない!」

「死ねぇぇぇぇぇぇっ!」

「死ねないんだっ!」

 その瞬間──

 ドンッ! という音が、恭也の鼓膜を振動させた。あまりにも近距離で発せられた音に脳が揺らぎ、視界が回転する。同時に身体を襲っていた重圧からの解放感に、恭也はそのまま倒れそうになった。

「く……ぐうぅっ!」

 地面を踏みしめる足の指先が、剣を持つ腕の筋肉が、目が、頭が、全てが痛かった。その激しすぎる鼓動に心臓も悲鳴を上げていた。それでも恭也は前を見た。暗殺者を見た。

「──え?」

 視線の先──フェイフォには腕がなかった。無月が投げたメスが、暗殺者の残った腕さえも吹き飛ばしたらしい。爆発し損ねた銀の刃が宙に舞い、地面に落ちていく。それでも倒れない暗殺者の形相は、もう人間のそれではなかった。

「がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 直後、暗殺者の絶叫が木霊する。

 腕を失くし、その傷口から大量の血を噴出させ、目を白濁させた彼女は、だがそれでもこちらに向かって歩いてきていた。

「止めを刺せ! 恭也!」

 後ろから無月が叫んだ。思わず振り向きそうになって、だが結局、フェイフォから視線をそらすことが出来ずに恭也は呻いた。

「あ……うぅ……」

「恭也!」

 わかってる! と、そう返事しようとしても、恭也には出来なかった。同時に、自分が何かを拒んでいることに気づく。気づいてしまった。

(俺は拒絶してる? 何を?)

 問いかけなくても、答えはわかっていた。

 止めを刺すこと。彼女を殺すこと。人を殺すことを、自分は許容できないでいる。あれほど戦いの決意を決めたと言うのに。迷いは一変して恭也の心を蝕み、その意思を簡単に突き崩した。

 人殺しはいけない。自分が言った言葉だった。信じて疑わなかった言葉だった。その想いは変わらない。変わっていない。ああ、だけどその意思を、決意を、考えを、他ならぬ自分が破るのか?

「あぁ……ああぁぁ……」

 手が震える。八景が震える。握っている柄が、汗で滑り落ちていく。

 どうすればいい。どうしたらいい。殺したくない。殺してはいけない。人の命を奪ってはいけない。未来を断絶してはいけない。

「……は……俺は……おれ……は……」

 暗殺者は眼前に迫っていた。もう間に合わない。今から何か防御して、防ぎきることなどできはしない。

 殺さなければ殺される。

 でも殺したくない。

 死にたくなければ殺すしかない。

「殺したくないんだっ!」

 混乱は混乱を生んだ。

「やはり無理か!」

 声が響く。それが誰の声なのかさえも、恭也にはわからなかった。

「逃げろ! 恭也!」

 もう遅い。

 眼前で立ち止まった暗殺者の足が振りあがる。見た目にも重厚なブーツが、恭也の頭めがけて振り下ろされ──

 …………

 静かに。

 ほんの数秒だけ、世界は沈黙した。眼を下に向け、死の一撃がやってくるのを待つ時間が静かに過ぎていった。

「…………」

「……あ」

 それは本当に小さな声だった。無月の声──それを理解できるくらいには冷静なれる時間だった。けれど……

「え?」

 声が聞こえると言うことは、自分はどうやら無事ということらしい。そのことに思い当たって、恭也は眼を開けた。地面に移る頭上にある影。暗殺者のブーツの影。だがそれが振り下ろされることはなかった。いつまで待ってもそれはやってこなかった。

「間一髪か。よくがんばったな、恭也」

「!」

 その声に、恭也は少なからず戦慄を覚えた。心がはじけ飛ぶ。その震えが、驚きから来るのか、悲しみから来るのか、はたまた嬉しさからか。もはやそれすらもどうでもよかった。

 震える。剣を握る手さえ、もう感覚がなかった。視界が歪む。世界が揺らぐ。目にたまった雫を払いのけることなく、恭也は上を見た。そこには──

「よ、息子。元気か?」

 暗殺者の足を握り締めた体勢で、恭也が会いたくてたまらなかった父・士郎がいた。

 


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