9

 

 チェン・ユィスィは己を包み込む空気に身を委ねていた。

 不可思議な感覚だった。鬼王を振り下ろした際の感触は初めて実感したものではなかったが、敵が特別だったからだろうか──それとも閉鎖的な空間で響き渡る銃撃音と硝煙の臭いで、少しばかり聴覚と嗅覚が麻痺したのだろうか。熱くもなく、苦しくもない。かといって心地よさもない。だから爽快な気分になるわけでもなく、印象としてはただ煙たいという見たままにすぎない。肺に入り込んでくる煙からの圧迫感もなく、白く濁った空気が五臓六腑に染み渡っていく。

 ただ暗闇の中に充満する白煙によって、自然と浮かんでくる涙だけは止めようがなかった。目が乾く。痛みを感じるほどでもない眼球から、ゆっくりと雫が流れ落ちていく。頬にこびりついた涙痕を無視して、チェンは愉悦にも似た笑顔を浮かべた。

 いまだ一斉掃射を続ける数十人の部下に向かって叫ぶ。

「撃ち方止め!」

 途端にぴたっと銃撃が止んだ。次第に身体の所在が感覚として蘇ってくる。そうしてみると、ここは随分と悪臭が漂っていた。

「…………」

 暗闇の中で、白き暗幕は少しずつ霧散していった。そのうちのいくつかは気管を通して肺に送られ、多少の息苦しさを伴って再び排出される。だが吐き出した息までが白いかどうかは、この暗闇では判別不可能だった。

 ふと、チェンは気になって鬼王の刀身に触れてみた。知ってはいたが、やはり剣に血はついていなかった。だが確かに手に伝わってきた肉と骨を断ち切る感触。血の臭い。今まで何度となく試し切りしたにもかかわらず、剣の能力はチェンに少なからず高揚をもたらした。

(素晴らしい。これが全て龍の手に入れば一気にシェアを広げることが出来る)

 ゆっくりと、だが確実に、胸の内から愉悦がやってくる。銃撃が止んでから数秒が過ぎた。感覚としては数分と経っていない中でチェンは──

 

 小さな嘲笑を聞いた気がした。

 

      ◇

 

 血が──その臭いが彼を導いていた。

 気配は今なお儚く揺らめき、その所在は然として心もとない。だというのに、どう進めばそこへたどり着けるのかを明確なまでに提示している。

 その命。

 その声。

 その息吹。

 心臓の鼓動。血が駆け巡る脈動。心の叫び。瞳孔の輝き。熱が動く。こちらへ来いと、空気がさえずる。

 彼の元へ。

 士郎はただ、感覚を頼りに疾走した。

 迷う必要はなかった。

 

      ◇

 

 剣と聞いて、まず一番先に思い浮かべるのは刃物ということである。その通り、剣を分類するなら刃物である。それはつまり、原始武器ということだった。実際、どれだけ洗練されようと、どれだけ優れた名匠が作り、どれだけ優れた遣い手の元にあろうと、剣が接近戦用の簡易武器であることに違いはない。

 相手に近づかねば作用しない武器。逆に、剣は自分が攻撃を受けかねない武器ともいえる。接近するということはそういうことだった。黙って殺されてくれる奇特な人間はいないと考えるほうが正しい。およそほとんどの場合、生命体は自己防衛を行う。それはつまるところ、攻撃を受ければそれを防ぐか、また躱すかするだろうし、さらには自分の命を狙う者に対して、自衛手段をとることだってあるということだ。危険因子をそのままで放置するのは愚かなこと極まりない。それは誰に教わることなく、生命体が等しく本能が知っている基本事項である。

 その上で。否、だからこそ。

 剣は生命体に対して有効な武器として存在している。

 銃や爆弾に比べれば生産性も低く、扱う者を選ぶという欠点はあるものの、極めて単純かつ簡易に人を殺せる武器である。刃物という特徴から素人が手にするには多少の勇気がいるが、その分攻撃力は目に見えて高い。世界中で剣を使う際の有効な攻撃手段として剣術が生み出され、それにあわせて剣もまたその形状を多種多様に変えた。

 核兵器が生み出され、化学兵器、重火器が当たり前に存在する現代でも、人が扱う中では簡易で有用な武器としてその需要はある。単一の機能しか持たない武器。それ以外のものを持てず、持つことを疑問視すらされなかった武器。

 

 だが火凪蘇芳の作り出した死宝剣は、それら全てを覆す。

 

 思い返す。思い描く。剣の姿。その機能──は、やはりどう考えても一つしかないのでさておくとして、自分が知る限りの剣の形を、チェンはひたすら想像した。

 死宝剣はその名の通り剣であり、武器だ。

 それ以上には決してならない。だが手の内にあるのは、単一の機能しか持たないはずの理屈を確かに覆した存在であり、重火器さえも跳ね除けさらに上回る能力を有した剣。

 武器は人によって扱われる。そのうえで機能を発揮する。しかし考えて見れば、銃も剣も、いわんや核兵器とて、機能なんてものは単一でしかかないのではないか。

 武器は──『戦う』ために、敵を倒すために生まれたものである。

 一方でどれだけ優れた能力を持っていようと、活用できなければ意味がない。

 武器は活用されて始めてその機能を具現することが出来る。引き金を引けない素人が銃を持ったところで、相手を傷つけられない臆病者が剣を手に取ったところで、それらは無意味でしかない。

 それを自覚した上で、チェンは前方を睨みつけた。

 改めて何かをする必要はなかった。暗闇の中で前方を凝視することも、気配を察知しようとして五感を研ぎ澄ませる必要もなかった。ひょっとしたら呼吸さえ、この場には不必要なのかもしれないと感じて、不意に自分が息を止めていることに彼は気づいた。

 とにかくチェンがしたことはたった一つ。己に言い聞かせることだった。かの敵に対して銃は役には立たない。つまりは──そういうことだ。

 死宝剣『鬼王』を手に、チェンは、ゆっくりと歩いて来る真正暗殺者の姿を見た。

 

      ◇

 

 終わりを視たのは、一体誰だったのか。

 視ることが出来た者が、果たしていたのかどうか。

 エッジ・オブ・ザ・ネザーフィールドの刃を煌かせ、

 誰も見えないように小さく、

 誰にも聞こえないように小さく、

 だが誰もが恐怖する息吹を伴って──

 

 彼は小さく、クスリと笑った。

 

      ◇

 

「何故だ……」

 逃げようもない。逃げられるわけもない。その見解は正しく、物理法則を順次に解きほぐす必要すらないほど明解な結果だった。彼を中心とした四方八方全てからの銃撃。あれほどの銃弾の嵐の中で、全くの無傷でいられることなど出来ようはずもない。

「貴様は……」

 そしてそれ以上に──振り下ろしたはずの『鬼王』がその効果を発揮しなかったことに、チェンは眩暈を起こすほどの衝撃を覚えていた。肉を断ち切る感触は確かにあった。それは今までの試用で感じたものと同一で、だからこそチェンはその効果を信じて疑わなかった。

 理由はわからない。だが彼は──皇設楽は生きている。

 事実を認識するのに労力は要らなかった。理性が本能を押さえつけたなら、それは比較的簡単に終わる。意味はないかもしれないが、確認はすべきだと思った。

「生きているのか?」

「見ての通りですよ」

 その言葉どおり、彼は生きていた。

 穏やかに告げてくる。その口調は初めて会った時となんら変わらない。先ほど撃ち殺されかけた様子なども微塵も見せず、丁寧だがどこかつかみ所がない声。表情の見えない暗闇で、その声だけでは彼が何を考えているかなどわかるわけもなかった。

「随分とのんきですね、チェン。僕を敵に回したというのに──」

「何故死んでない?」

 皇設楽の言葉を遮る形で、チェンは言った。答えが帰ってくる前にもう一度──理性が少しだけ弱まったのか、今度は確かな絶叫になっていた。

「何故死んでいない! あれほどの銃弾の嵐だぞ? 否! 鬼王は確かに能力を発揮していた! 生きているわけがない。何故死なん!」

「一つずつ質問にお答えしましょうか?」

 見えない暗闇の先で、彼のクスリという笑いが聞こえた。

「僕の手には貴方が欲して止まない死宝剣の一振り、『冬鉄』がある。ご存知でしょうけど、この剣の能力は……」

「『重力制御』だ! だがそれが──」

 どうした、という後に続く言葉は出てこなかった。

「そう。剣に物質的に連続するものの重力を制御する。軽くも出来るし、重くも出来る。剣を地面に刺せば、ある領域内の重力さえ思いのままです。自分の前後左右の重力は重くし、上方向の重力は逆転させる。言ってしまえば重力場のバリヤーってところですか。僕はどうも教養がないらしい(・・・・・・・・)ので物理的な解説は出来ませんけどね。ああ、ついでに言えば、上に配置していた貴方の部下は銃弾の反転を受けて死んでますよ」

 軽々と言ってのけるその声に抑揚はなかった。ただ事実を述べているに過ぎない言葉に逆に戦慄を抱きながら、チェンは呻いた。

「……だが鬼王は……ああ、そうだ! 確かに手ごたえはあったのだ。こんな風に!」

 疑念全てをぶつけるように、チェンはもう一度剣を薙いだ。

 結果、それはやはり確かな手ごたえをチェンにもたらした。肉の切れる音。骨を断ち切る感触。実際に対象者に触れていないはずの刃には、やはり血は一滴もついていない。

 距離を無視して相手を切り刻める剣──『鬼王』の本領を目の前にして、チェンはこのとき初めて歓喜を抱くことが出来ないでいた。

「……手ごたえはあった。今もだ!」

「でしょうね」

 さも当然のように、答えが返ってくる。首を狙い、そして落としたはずの暗殺者は、今までと変わらずそこに存在していた。何も変わっていないように見える。というよりも、何が変わったのかわからなかった。

「何故だ!」

 叫びが血を混じらせて吐き出されたとき、暗闇の中で何かが円弧を描いた。宙を舞ってこちらへと──正確には設楽のほうへと転がり落ちていく。暗視スコープをつけた男の首。何のことはない、部下の首だった。

「……何故だ……?」

 どうにか振り絞って、チェンはそれだけを吐き出した。言葉にしてたった一言。だが言葉にするには酷く労力が要った。

「零距離斬撃の剣。確かにその効果は絶大で、絶対的な暗殺能力ですね。でも残念。僕には通用しません。鬼王が何故距離を無視できるのか。それを理解さえしていれば、斬撃を躱すことも、弾くことも僕には可能なんですよ。言ったでしょ? 死宝剣は万能じゃないって」

「そんなはずは──!」

「ないって言い切れますか?」

 言葉が止まる。ないと言い切るだけの自信がありながら、何よりもそれを否定しているのはチェンが手にする剣そのものだった。

「鬼王は、例えるならライフルと似ています。どこから狙撃しているか敵にばれた時点で効果的な攻撃が出来なくなる。鬼王は距離を無視出来ても、『斬る』という行為は省略出来ません。貴方のような素人の剣撃を、かつ目の前で剣を振るような、鬼王の致命的な使用ミスをしていることも気づかない男の攻撃を、僕が躱して、なおかつその斬撃のベクトルを他の方向へ向けることができないはずもないでしょう」

「…………」

 言葉もなかった。口の中に血の味が広がる。息が切れ、鼓動が高鳴り、目がかすむ。それでも自我を失うほど精神的に弱くなかったことが、運悪くチェンを少しずつ冷静へと押し戻した。

「俺が短絡過ぎたということか。何よりも愚かだということか。ああ、そうだな。忘れてはならなかった。俺の慎重さが俺の野望を叶える! そのために手間を省いてはならないことを忘れていた!」

「……野望?」

「武器は強大だ。人の心を容易に狂わす。威力が絶大であるなら、誰もが恐れを抱く。死宝剣は、我々が世界を震撼させるためには必要不可欠な存在だ」

「狂ってる本人に言われてもねぇ」

「俺は狂ってなどいない!」

「……まぁいいですけど。要は、絶対的な力を得ることが死宝剣を集める理由ですか?」

「そんなものはきっかけに過ぎない!」

「きっかけ?」

 そっくりそのままオウム返しに聞き返してきた暗殺者にチェンは笑いかけた。

「俺が死宝剣を集める理由は、ただその力が欲しいからだけではない。見てみたいのだ! 今もまだ人類が欲して止まないその力の到達点を!」

「…………」

 語るべきか──だが語ることが、チェンの落ち着きを取り戻していった。

「死宝剣を作り出した火凪蘇芳という男のことは知っているか?」

「……少しは」

 多少はためらいがちに、設楽が返事をする。チェンは気にしなかった。死宝剣を追いかけている彼が、その製作者のことを知らないわけもないだろうと思って先を続ける。

「お前ほどの暗殺者なら知っているかも知れん。かの刀鍛冶が作り出した剣は八本と言われている。だが俺は、火凪蘇芳に関する資料から一つの結論を見出した」

「……というと?」

死宝剣は九本ある(・・・・・・・・)

「…………」

 小さな沈黙が辺りを支配した。

「九本目。おそらく火凪蘇芳が作り出した最終にして最強の死宝剣。その力の真髄を見てみたい。そのために、まずは死宝剣八本全てを手に入れる。八本全て集めたなら、おそらく最後の剣も自ずと見つかるだろうと俺は踏んでいる」

「……あながち間違ってはいなんですけどね……」

 こちらの言葉を受けた設楽の反応はその程度のものだった。

「驚かないな」

「知っていましたから」

 チェンもまた、驚きはしなかった。

「その通りですよ。死宝剣と分類される物はこの世には九つ。鬼王(おにおう)冬鉄(とうてつ)舞姫(まいひめ)夢桜(ゆめざくら)焔島(ほむらじま)水澄(みすみ)八相(はっそう)八景(やかげ)の計八本に加えて、その八本を打ち滅ぼすために生まれた九本目が存在します」

「……打ち滅ぼす?」

 その言葉は初耳だった。

「役割の問題です。八本全てが敵に渡ったときのことを考えた切り札。九本目はそのためにある。その点で言うなら、貴方の見解は正しいですね。九本目は、他の八本をあわせたものと同等以上の力を持っている。であればこその最終型。火凪蘇芳の最高傑作なんですから」

 まただ、とチェンは思った。

 設楽の声に混じって、かすかに嘲笑が聞こえた。幻聴ではない。それは確かな笑い声だった。

「ふん。どちらにしろ、最後の一本が最強であることに違いはない。そこまで知っているなら、その剣の銘も、能力も、お前は知っているのだろう?」

「知っています」

「教える気は?」

「どっちでもいいですよ。僕としては」

 その物言いに、今度こそチェンは眉をひそめた。疑問を素直にぶつけてみる。

「どういう意味だ?」

「教えても教えなくても同じって意味です」

 その拍子だった。問答無用に勘でしかなかったが、チェンは素直にその感覚に従って疑問の余地なくその場から一歩退いた。風が頬を薙ぐ。遅れて現れた傷跡から少量の血流が流れ落ちた。

「うまく避けましたね。不意打ちのつもりだったのですが」

「……これでもそれなりに戦闘経験はある」

 だがそんなものは強がりでしかないのだと、チェンは実感していた。今の攻撃を躱せたのは単なる偶然でしかないことは、誰に言われるまでもなく自身が知覚している。

「壁になって時間を稼げ!」

 周囲に配置させた部下に向かって、チェンは叫んだ。命令と同時に自分は後退する。数十人の部下が一斉に動いた。だがその中心地で、皇設楽が歯を見せて笑っているのをチェンは見逃さなかった。

「奴を殺せ!」

 もしかしたら絶望的な現実を望んでいるのかもしれないと思わせるほどに、チェンはその言葉を吐き出して愕然とした。鬼王は通じない。戦闘力では遥かに劣っている。勝てないことは、つまり殺されるという結果に直結するからだ。自分は愚かだった。万全の準備をしたつもりで、だが実は素人の知ったかぶりに過ぎなかった。このような醜態をさらすことは屈辱以外の何者でもなかったが、それも命があるなら挽回できる。この苦痛を数倍にして返すことも可能になる。

 今は逃げるべきだ。チェンはそう判断した。

 部下たちが一斉に撃鉄が起した。再び銃弾の嵐が容赦なく暗殺者を襲う。

 

 ──はずだった。

 

「…………え?」

 …………

 支配したのは沈黙。彼の呟きに応えたのは、動きを止めた世界そのものだった。

「……どうした? 何故撃たない! 答えろ! おい! 各部隊は状況を説明しろ!」

 チェンの声だけが空しく響き渡った。そしてやはり、叫んでも何も起きなかった。ライフルを構え、撃鉄が起こされ、火薬の臭いと殺気が充満したまでは思い通りだったはずだ。部下たちの気配もまだ、依然としてその場にあった。だというのに……

 どこで狂った?

 何が起きた?

 俺は、一体どこで判断を誤った?

「おい! 一体どうしたというのだ! 答えろ! 誰でもいい! 何故撃たない! 何故返事をしない! 何故──」

 さらに怒鳴り散らそうとしたチェンの怒声を、

「クククク……」

「──っ!」

 遮ったのは笑い声だった。哄笑。嘲笑。笑罵。感じたのは全てだった。

「クハハハハハハハハハハハ!」

「な、何がおかしいっ! 何が起きた! 貴様か! 設楽! 一体何をした!」

「ハハハハハハハハハハ!」

 暗殺者は笑い続ける。

 その彼に向かって、チェンは何かを罵った。先ほどと同じ罵声だったかもしれないが、何を言ったのかは思い出せなかった。とにかく声の続く限り、喉が悲鳴をあげるのも無視して叫び続ける。

 だが暗殺者は笑い続けていた。何がおかしいのか。何が滑稽なのか。

「俺か? 俺がおかしいのか。笑うな! 黙れ! 黙れよ! くそっ! 一体何が起こっている! 何がおかしい! 教えろ!」

 わかっていた。今自分が言ったとおりだ。滑稽なのは自分。事態をわかっていない自分。慌てふためいている自分。笑い声そのものに恐怖を抱いてしまっている自分。過ちを過ちと認めなかった自分。

 死期を感じてしまっている自分に他ならない。

「ハハハハハハハハハハハハ!」

 哄笑を真正面から受けて、チェンは思考を一時中断した。勝手に止まったといっても良かった。愚かなことだとは自覚していた。愚かでしかないことも自覚していた。メリットはない。だがデメリットはある。その行為が自殺行為にも等しいことは百も承知していた。

 だが沸き起こった衝動は止められなかった。呆然としながらも、持っていたライトをつけて、ゆっくりと前へ向ける。曖昧な光が暗殺者を照らし出した。

 そしてやはり──明かりの下にいたのは見知った少年だった。紛うことなき真正暗殺者、皇設楽である。出会ったときと同じ格好で、出会ったときと同じ顔で、彼は笑っていた。声だけで笑っていた。だがその表情はピクリとも動いていなかった。

「…………」

 笑い続ける彼に向けて、チェンは無自覚のまま鬼王を構えた。

 設楽は自然体でそこにいた。笑い声だけが響く中で、それ以外は何もかもが普段どおりの様相だった。歯を見せて笑い続けている。そこから漏れ出る哄笑は確かな侮蔑と愉悦が混じっていたが、頬の筋肉をふくめ、眉も、眼球も、彼の面は一切が静止していた。

「あ……」

 足を後ろに動かそうとして、チェンはつまずく形で身体のバランスを崩した。それを全力で防いで、出来る限り深く息を吐く。今倒れるわけには行かなかった。倒れたなら二度と起き上がれない。不思議とそれだけは確信を持っていた。暗殺者の哄笑と表情に恐怖しているのだと、折れるはずのない──そう信じていたプライドが悲鳴と共に告げてくる。

 ああ、だがそれは決して不思議なことではないのかもしれない、とチェンは思った。

 死宝剣は通用しない。ならこの場で勝敗を左右するのは純粋な戦闘力だ。それはすなわち、目の前の暗殺者はいつでも自分を殺せると言うことでもある。

 その事を認識しても、チェンは熱くはならなかった。感情を制御しているのか、そもそも感情が沸き起こっていないのか。判別は出来なかったが、とりあえずは慌てていないことだけは確かだった。ひとまず冷静なまま、無感情のまま、彼を見つめる。

 冷静なまま、と言うよりはむしろ考えることをやめた形で、チェンは今度こそ確かに左足を後ろに引いた。

「逃げるんですか?」

 はたと動きを止める。いつの間にか、笑いは止まっていた。

 意識したわけではなかった。逃げるという行動を判断したのは随分前だが、その行為を自覚したのは設楽に言われたからで──だが図星を指されたと思った瞬間、チェンの中で何かが蠢いた。熱い何かが駆け上がってくる。それが激情に準じたものでないことだけは明白だった。動悸が高まり、声が震え、汗がにじむ。

 設楽が一歩、その足を前にやった。反動でチェンはさらに一歩、今度は右足を後ろに引く。再び設楽が一歩進み、チェンもまた一歩後退した。

 それを数度繰り返しながら、それとは全く関係のないところで、チェンは不意に沸き起こった欲求に思考を支配された。

 呼吸がしたい。

 息がしたい。

 空気が吸いたい。

 外に出て、思い切り深呼吸がしたい。

 カチと音がした。

 だがそんな感情すらも、暗殺者は先読みして道を塞いでくる。

「怖いですか? 僕が」

 カチカチと。

 耳に響いたその拍子に、チェンはライトを落とした。地面に転がり、明かりが消える。

「怖いですか? 死ぬのが」

「く、来るな……」

 感情を押し殺した結果、漏れ出たのはその一言だった。身体が震え、剣を落としそうになる。

 となったところで、チェンはハッとなった。音はなり続ける。カチカチと。剣の柄が震え、歯が振るえ、眼球が揺らいで渇き痛む。胸が苦しい。息がしたい。唯一の武器ともいえる『鬼王』を手放すことだけはどうにか自制して、チェンはさらに数歩後ろに下がった。

「怖いですか?」

「ひっ!」

 目の前にその暗闇の中に、ぽっかりと暗殺者の顔があった。ライトはすでに消えているから、見えているのは先ほどの明かりで目に焼きついた残像に過ぎない。だが──その残像であるはずの顔が、その瞳が、唇が、嘲笑うように歪んでいく。

「来るな……っ!」

「逃げて体勢を整えようなんて考えないでくださいね。せっかく貴方が望んで止まないものが目の前にいるんですから」

 死が迫っていることよりも何よりも、設楽のその言い方が気になって、チェンは踵を返そうとしていた足を止めた。

「…………なんの……ことだ」

 その問いかけを、哄笑をもって少年暗殺者が返してきた。

「アハハハ……ハハハハハハハハハハハ!」

「ど、どういうことだ? 何を言っている! お前はなんなんだ! 何をしたんだ! 答えろ! 黒の刃!」

 いつか、彼がその名で呼んで欲しくないといっていた名で呼びかける。ピタリと哄笑が止んだ。

「今貴方が叫んだとおりです。僕が黒の刃。皇設楽の名を持つ刃」

「……何を言って……」

 意味がわからない。何故彼は笑っている。彼は何を言っている。何故彼は死なない。一体何が起こった。彼は何をした。彼は、彼は、彼は──!

「お前は──っ!」

「貴方が望んだもの。貴方が欲して止まないもの。でもごめんなさい。差し上げるわけには行かないんですよ」

 暗殺者は言う。その笑みに、凍えるほどの恐怖を纏わせて。

「僕は黒の刃。エッジ・オブ・ザ・ネザーフィールド──『冥界の剣』と呼ばれる能力を持つ者」

 そのときにはすでに、チェンは目の前にいる暗殺者が何者なのか半ば本能で理解していた。理解してしまった。理解できてしまった。

 胸の内をついたのは、待ち望んだものに対する渇望でも羨望でも、ましてや歓喜でもなく──後悔を越える、ただ純粋なまでの恐怖だった。

 足が振るえ、腰が痙攣を起こしているかのようにすくんでいた。視界が歪み、頭痛が押し寄せ、吐き気が胸を圧迫する。

 ゆっくりと、彼が息を吸う音が聞こえる。そんな音が聞こえるほどに、空間は静謐に包まれていた。世界が止まったかのような静寂。この世の全てが、彼に恐怖しているかのような静粛さ。聞こえる音は彼の吐息。伝わる振動は彼の意思。周囲を侵食するは彼によってもたらされる死の気配。

 その意識全てを込めた言葉が、チェン・ユィスィに襲いかかった。

「ええ、そうです。僕こそが、死宝剣最後の一振り(・・・・・・・・・)。貴方の望む九本目にして、最強の死宝剣『(くろ)(やいば)』そのものです」

 


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