11

 

 空気が乾いた。

 それを舌先で感じた瞬間、暗殺者が跳ぶ。

 背後に顕現した気配に対し、迷わず士郎は後ろを振り向いた。振り下ろされた刀を八景で受け止め、その反動で彼めがけて蹴りを繰り出す。それは軽々と、設楽の身体を後方へ吹き飛ばした。

「……」

 打ち合った八景の刀身を撫でる。ひびどころか傷一つない小太刀。死宝剣という曰く付きの魔剣。その強度が他のものとは比較にならないのは今までの経験で知っていた。それが死宝剣で在る故なのか、それとも……

 だがどちらにしろ、これまで打ち合ったことのない感触を剣の刃触りから覚えて、士郎は訝しげに設楽を見た。

「……」

 その設楽の右手には、見たことのない刀があった。先ほどまで金髪の男──死んだと思っていたが、どうやら生きていたらしい──を串刺しにしていたそれともまた違う、一種独特な形状をした刀だった。

 刀身が、柄が、鍔が──刀全体が漆黒で染まっている。金属特有の輝きさえもない。尺度は通常の日本刀と同サイズだが、刀身の形は直線で、西洋のそれに近いか。日本刀でないのは一目瞭然だった。

 士郎の視線に気づいたのか、設楽が片手でもてあそびながら、その刀を掲げて見せた。

「銘は『舞姫(まいひめ)』といいます。お察しの通り、これも死宝剣です。貴方と本気で戦うために喚び寄せました(・・・・・・・)

「……喚び寄せた?」

「舞姫の能力によるものです。どんな能力かは……」

 と、人差し指を唇に当てて、

「教えてあげません♪」

 似つかわしくないほどに軽く、だが冷酷な笑みを浮かべて設楽は言った。

「その必要はないですからね。この戦いが終わるときは、僕か貴方か、どちらかが死ぬ時ですから」

「…………設楽」

「はい?」

「……戦うしかないのか?」

「迷う時間はないと言ったでしょう!」

 それはほんの一瞬の隙──忠告の言葉は文字通り士郎に苦痛をもたらした。士郎が心にわずかな迷いを抱いたその寸瞬のうちに設楽は跳躍し、剣の腹で彼の横っ面を殴りつけたのだ。

 視界が揺れる。身体が宙に浮き、次いで土の味が口の中に広がった。あまりにも強烈な痛打であったが故か、痛みよりも先に、美由希が騒ぐ声が聞こえた。声のした方を向く。それが振り下ろされようとしていた刀身から士郎をかばう結果となった。

「くっ!」

 反射的に首を曲げる。深々と地面の土に突き刺さる刃を意識的に視界から除外して、士郎は第二撃に移ろうとしている設楽の腹部を思い切り蹴り上げ、勢いで身体を起こした。

「……僕を殺しますか?」

 まるで効いた様子もなく、設楽が軽い口調で言ってくる。『死』を恐れていない、いや、むしろ死ぬことを楽しんでいるかのように。

「それとも僕に殺されますか?」

 漏れ出たのは小さな嗚咽だった。それが自分の発したものだと知った時には、もう眼前に設楽の顔があった。さらに戸惑う。

「どちらにしろ、恭也君は死にますけどね」

 その一言が士郎の動きを一瞬濁らせた。だがそれだけで十分とでも言うように笑いながら、設楽の手の内で輝きのない刀身が躍る。左肩から心臓部へ向けて肉が切り裂かれていく。おびただしい出血が眼前を塞ぎ、赤一色で設楽の顔が見えなくなった。

 どうにか致命傷だけは避けて、暗殺者から遠ざかる。彼は──何故か追撃してこなかった。それでも傷は深い。出血はおびただしく、見る間もなく士郎の衣服を赤く汚していく。美由希の絶叫が聞こえ、次いでそのまま失神したらしい、気配が消えた。

 気にはなったが意識は向けられなかった。目の前の暗殺者から注意を逸らすわけにはいかない。今度隙を見せたが最後、確実に殺される。

「…………」

「まだ、決心がつきませんか? 僕と戦うことに。結果が変わらないなら、戦う意味はありませんか?」

「設楽」

「どうすれば何も失わずに済むかなんて考えないでくださいね。人生なんて、取捨選択の積み重ねなんですよ。今の貴方に在る選択肢は二つ。僕を殺して生きるか。僕に殺されて死ぬか」

「その結果に関わらず、恭也は死ぬか」

「そうです。でなければ僕が死ぬ。夏織が恭也君を生んだ時点で、この戦いは避けられなかった」

 舞姫を持ち替えて、設楽が再び構える。その標的にされていることを自覚しながらも、士郎はまるで他人事のようにその剣先を見つめた。

(本当にそうか?)

 この戦いは本当に避けられないものなのか。そもそも、こういう戦いが成り立つこと自体が不可思議ではないのか。

 何故ならそれは……

(設楽は……)

 世界が畏れる真正暗殺者なのだから。

「お前は……どうしたいんだ?」

「…………?」

 聞き返されるとは思ってなかったのか、設楽が訝しげに眉をひそめた。

「本当に『生きる』つもりなのか?」

「……どういう意味ですか?」

「何故俺たちを暗殺しなかった?」

 不意に舞姫の剣先が下がる。こちらの言及に彼は呆れたようにため息をついてみせた。

「……それこそ、意味ないでしょう? 貴方たちを暗殺することでは、僕は満足できない」

「……満足?」

「ねぇ、士郎さん。夏織は蘇芳を憎んでいました。自分を失敗作として扱った実父を。自分を道具としてしか見なかったあの男を」

 設楽は淡々と述べた。まるで何かを朗読しているかのように抑揚のない声で。あるいは、と士郎は思った。設楽はその言葉を口にはしたくなかったのかもしれない。

「憎悪。怨恨。彼女の戦いの全てはそこに根ざしていた。そんな彼女に僕は育てられた。彼女は母ではなかった。師でもなかった。彼女は僕のマスター。死宝剣『黒の刃』の所有者。彼女は僕を徹底的に鍛え上げ、自分が望む理想を現実のものとしようとしていた」

 少しずつ、顔だけが歪んでいく。

「彼女は自由を望んでいた。蘇芳からの自由。死宝剣からの自由。『殺人縛鎖』からの自由。その自由を、死と引き換えに手に入れた。生きていたときに受けていた全てのしがらみから──全ての呪縛から逃れるために。だけど彼女が死んだ後、ふと思ったんです。僕は彼女の何だったのだろうと」

「…………設楽?」

 あまりのことに、士郎は傷の痛みさえも忘れるほど驚愕した。

 彼は──泣いていた。

 声には出さずに泣いていた。それが本気の涙だと思ったのは直感だった。悲しみなのか、嬉しさなのか。どんな感情で涙を流しているのかは分からなかったが、それでも彼は泣き続けていた。

「彼女は生きた証を残した。恭也君という、たった一人の彼女の子供。彼女の存在証明。なら僕は? 蘇芳に造られた最後の死宝剣で在る僕は……彼女にとって一体なんだったのでしょうね……」

「お前……」

「道具。多分それが一番近い表現なのかもしれません。僕自身もそのつもりでした。僕は彼女の剣となる。だけど彼女は僕を捨てて死を選んだ。でもね、彼女には感謝してるんですよ。だって彼女は、暗殺技術を叩き込むことで僕に『生きる』方法を教えてくれたんですから」

 涙を拭くこともせずに、設楽は構えを説いて、直立不動の体勢から舞姫を振り上げた。

「この戦いは避けられたかもしれない。貴方はそう思ってるんでしょう? そんなことは決してありません。そう──絶対に! そんなはずはないんだ!」

 叫ぶと同時に、彼は舞姫を振り下ろした。二人の距離はおよそ数メートル。跳べば一足で詰められるだろう間合いでしかなかったが、いくらなんでも剣圧が届く距離ではない。普通の『剣』ならば。

 死宝剣であるという意識が特にあったわけではなかったが、士郎は半ば直感的に身体を傾けていた。すぐ傍を風のような何かが通り抜けていく。それは確かな剣圧で、だが空気の刃などではなかった。遥か後方で、その剣閃の直撃を受けた一本の若々しい木が見る間に枯れ果てていく。腐っていくかのように表皮が破れ、幹にひびが入り、葉は見る影もなく浅黒い消し炭になり、そうしてあっけなく塵へと霧散していく。

「……っ!」

「後ろに気を取られている余裕が在るんですか?」

 そんなものはない。最初から。

 否定する声を飲み込んで、士郎は横転した。肩から飛び散った血が地面に斑点を作る。長引けば死ぬということを意識しながら、振り下ろされる黒刀を二本の小太刀を交差して受け止めた。

 舞姫と二本の小太刀が交錯する。黒き刃のその向こうで、文字通りその名を冠する暗殺者が自嘲を含めて笑った。

「そんなはずはないんです。蘇芳が夏織のことを見抜いていないわけがない。でなければ何故、死宝剣でもない、能力者でもない貴方に『八景』を渡したというのですか?」

 力がこもる。小柄であるはずの彼の力は、士郎のそれを上回っていた。

「彼はきっと、夏織が貴方に興味を示し始めた時点ですでにわかっていたんでしょう。いつか夏織が貴方に気を許し、二人の間に子供が生まれることを。そうしてその子供こそが、自分の後継者になることを」

 押し切られる! そう判断して、士郎は瞬時に後方へ跳躍していた。服一枚ギリギリのところで真一文字に斬られた胸部を見下ろして、新たな傷がないことを確認する。そうしてその場から動かない設楽が剣を横薙ぎにするのを、士郎は戦慄と共に見知った。

「くそっ!」

 跳躍する。もしくは伏する。選択肢は二つ。だが選ぶ前に身体は行動に移っていた。本能的に地面に付して転がりつつ、距離を測る。設楽が舌打ちするのが聞こえた。さらに第二撃が振り下ろされる。

 それを紙一重で躱し、剣先が下を向いたその瞬間、士郎は一気に間合いを詰めた。振り上げようとする舞姫の切っ先を交わして、設楽のわき腹に八景を叩き込む。だがそれは彼の左拳で止められてしまう結果になった。傷だらけの拳に刃が食い込み、血しぶきを上げながらも骨の部分で止まる。二本目は──間に合わないっ!

「く──っ!」

 八景が肉に挟まれたことで動きが鈍った士郎の顔面を、舞姫の柄が殴打した。

 吹き飛んで地をすべる。血と砂利が口の中を蝕む。口の中にさらに大きな異物を感じて、士郎は倒れ込んだままそれを吐き出した。白い固形物が転がることなく地面に落ちる。歯が折れたらしい。

 すぐ後ろでは設楽が殺気を顕わにしていた。この体勢では躱せない。だがいつまで待っても、彼の一撃はやってこなかった。

「……いつまでそうしているつもりです?」

 声に従って、士郎はゆっくりと顔を上げた。設楽はもう泣いてはいなかった。ただ、その目線だけが突き刺さってくる。哀れむような瞳。それが本当は誰に対して向けられているのかは疑問だったが、士郎はふらつく身体に檄を入れながら立ち上がった。

「……聞いて良いか」

「なんですか?」

 聞こうか聞くまいか。ここまで来ても士郎はまだ迷っていた。

「……お前は……夏織を憎んでいるのか?」

「…………」

 設楽は答えては来なかった。だが士郎は心底後悔した。聞くべきではなかった。聞いたその返事よりも何よりも、そのことを考えて答えようとした少年の顔を見て、士郎は激しく後悔した。

 見るべきではなかった。彼のこんな、いまにも壊れそうな顔だけは。

「蘇芳は、自分の技術全てを受け継ぐことの出来る後継者を欲していました。失敗作でありながらも蘇芳の作品の中で最強を誇った夏織と、裏の世界に名高い御神である不破士郎。二人の子供ならそれに値すると踏んだのでしょうね」

 どこか呆然とした表情で、設楽は言った。その目はいつの間にかこちらからさらに後方──必死の形相で戦いを見ている息子へと移っている。

「蘇芳の唯一の誤算は、エッジ・オブ・ザ・ネザーフィールドの第二能力。生命体の精神を侵食、肉体に及ぶ全てを完全支配する効果によって、恭也君が能力者になることは高い確率でなくなった。『殺人縛鎖』もまた、夏織や僕が生きている限り彼の身には作用しない。蘇芳の受け皿になれなくなった以上、彼にとってあの子は必要ありません。といっても、蘇芳が姿を消したのは恭也君が生まれる前ですけどね。僕の能力の詳細を知ったからか、本当に死期を悟ったのか。それは誰にも分かりませんが」

 彼が話している間に、ようやく息が整い始める。肩からの血も止まっていた。見れば設楽の左拳はぱっくりと割れていたが、真っ赤に染まりはしたもののそれ以上の血は流れていなかった。何事もなかったように指を動かしている。お互い、まだ致命的といえる傷はない。

「恭也君の身に作用した『殺人縛鎖』は今までのものに比べて遥かに強力でした。生後一ヶ月でシステムが発動したのは、もしかすると蘇芳の報復かも知れないと思えるほどに。蘇芳のそれは残酷です。僕の能力でも理解できないほどに複雑に僕たちの身体を侵食している。だけど恭也君のそれは夏織から僕へ。夏織は死によってそこから逃れ、僕は一人、その呪縛に苦しみ続けている。この身はもう限界なのに、まだ死ぬことは許されない。何故なら僕は死宝剣を断絶するために生まれ、そのために夏織によって生かされていたのだから。だけどもう夏織はいない」

 そのときにはもう、設楽の目線は恭也から士郎へと戻っていた。黒い双眸が次第に輝きを失っていく。

「僕はどうすればいいと思います? 死が目前に迫っている僕はどうすればいいんでしょうか?」

 答えなど求めてはいない様子で、だが口調だけは確かな疑問浮かぶ物言いに、士郎は思わず身体を震えさせた。

「彼女は彼女の自由意志で、生きた証のために恭也君を生み、自由のために死を選んだ。もとより死宝剣をこの世から抹消すべく生きていたはずの彼女は、その使命全てを放棄した。なら残された僕は? 考えなくても分かるじゃないですか! なにもかも! 僕の人生は彼女の思うがままだ! 僕の自由意志なんてどこにもない! だから僕は……」

 息を切る。全てを出し切るような彼の声は、木霊してほどなくして消えた。そうしてポツリと呟く。それは静かで小さく、あまりにも滑らか過ぎて、逆に底冷えするほどの真実を帯びた言葉だった。

「だから僕は彼女を憎みます。僕を人間ではなく武器として捨てた(・・・・・・・・・・・・・・・・)彼女を──彼女が蘇芳を憎んだように、それ以上に、僕は彼女を憎みます」

 

       ◇

 

 火凪蘇芳には一度しか会わなかった。それも彼女との戦闘で大怪我をして、熱にうなされ、朦朧としていた時だ。たまたま喉の渇きに痛みを覚えて目を開けたそのときに、こちらの顔を覗き込んでいたのが彼だった。

 最初は何かと思ったほどに(人間だとは思わなかった)、やせこけた老人だった。頬骨は皮一枚を隔てて突っ張り、頭には毛がなく、頭皮もまたいつ破れてもおかしくないくらい黒ずんでいる。顔中が皺だらけで、これで話す声がしゃんとしているのはむしろ奇跡的なことではないかと思わせるほどの老体だった。

 その口調は老人特有のもので、どこか自嘲のように聞こえた。表情は頑固色に染まっているのかあまり変化はなく、だが時折、誰かの名前を呼んでは懐かしそうに目を細める。雰囲気としては、隠居した老人のように見えた。頑固では在るけれど、根は優しい老人に見えた。

 彼が語ったことの半分以上は士郎には理解できなかったが、その一度の出会いで、士郎は『八景』を受け取った。返事はしなかった。出来る状態ではなかったというのもある。

 彼の言い分からすれば拒否権はなさそうだったが、回復した後に扱ってみたこの小太刀はまさに業物と呼ぶにふさわしい素晴らしい出来だったから、拒否などする事もなかっただろうとも思った。最低の愚作と蘇芳は呼んでいたが、そんなことはない。強度といい、軽さといい、その切れ味といい、類稀なものではないか。

「それ、どうした?」

 八景に満足していたその時、彼女は訝しげに聞いてきた。

「うん? ああ、蘇芳さん……っていったかな。あの人。その人から受け取ったんだけど」

 そう言うと、彼女はしばらく呆然とした。士郎と八景を交互に見比べ、驚きに見開いた目もそのままに、呻くように彼女は言った。

「あの男が……あんたに、それを渡したのか?」

「……あ、ああ。なんだ、いけなかったのか?」

 士郎は少し焦りながら答えた。もしかして、この刀には何かあるのだろうか。もしくは蘇芳がこの小太刀を自分に預けたことを、彼女は快く思っていないのかもしれない。

 かと思いきや、彼女の表情はおよそそういう不快なものを感じている風ではなかった。「いや……なんでもない。で、どうだ? その剣は」

「凄いな。いい刀だ」

「……そうか。ふむ、あいつがどういうつもりなのかは知らないが、大事に扱えよ。この世に一本しかない貴重な刀なんだから」

 随分と素直に、彼女は笑って言った。

(笑って?)

 自分が今見たことに疑問を抱きながらも、士郎は彼女に応えた。その笑顔に少しドギマギしたことだけは悟られまいと、剣のほうに意識を向けながら、再び小太刀を振ってみせる。

「ああ、もちろんだ」

「士郎?」

「……うん?」

「いや、なんでもない。飯食うか?」

「ああ」

 簡単な、何気ないやり取りをして、彼女は台所のほうへ消えた。そういえば、と思い出す。彼女が自分のことを下の名前で呼び捨てにしたのはこれが初めてだと。

「…………」

 そうしてみれば、自分はまだ彼女のことを名前で呼んだことはなかった。当たり前だ。初めて会ったのは二年前。互いの名を知ったのはほんの二ヶ月前だ。そのどちらも殺し合う関係だったのだから、名前を呼ぶ感覚などないに等しかった。

 だがそれでも、士郎は悪い気はしなかった。どうしようかと迷って、だが他に呼び方も思いつかない。いつまでも『アンタ』とかでは失礼だろうし、苗字で呼ぶには他人行儀過ぎる気がする。何より、彼女は名前で呼ぶほうが似合っている気がした。

「夏織」

 呼んでみる。と──

「なんだ?」

 ひょっこりと、彼女が顔を出した。返事が返ってくるとは思ってなかったので、士郎は大いに慌てた。彼女の手に包丁があったからではない。決して、ない。

「い、いや。悪い。なんでもない。いや、そうだな。何か手伝えないか?」

「……なら、風呂沸かしてきてくれ。場所、分かるよな」

「あ、ああ」

 しどろもどろになりながら、士郎は八景を鞘に納めた。庭の隅を回って、風呂釜のある

 小屋へと向かう。タイムスリップでもしたかのような昔ながらの造りの家に、士郎は苦笑しながらも心地よさを感じていた。自分の家も純日本式の屋敷で、トイレが水洗になったのも最近だ。

 台所からは野菜を切る音が聞こえる。味わったことのない懐かしさを感じながら、士郎はまきをたき始めた。

 

      ◇

 

 不思議に思いませんか?

 どうして蘇芳は、初対面の貴方に八景を渡したのか。

 夏織の興味を貴方に向けるためだとしたら?

 人の思惑。感情。それら全てを、巧みに操っていたのだとしたら?

 人の人生なんて、ちょっとしたきっかけでいくらでも変わる。彼に、その未来を予想できなかったはずはない。

 死宝剣の後継者である僕と。

 火凪蘇芳の後継者になるはずだった恭也。

 この二人を使って、蘇芳は一体何をしたかったのか。彼がいない今、それはもう闇の果てに沈んでしまったのだけれど……

 だけど今もなお、僕たちは彼の手のひらの上で踊る猿に過ぎないのではないか。彼がいなくなった後も心の底で支配され続けている。そのことに気づいていないだけで、初めから自由など、僕たちにはなかったのではないか。

 そう思うときがあります。

 僕たちは操り人形。

 どうすれば、自由になれるんでしょうか。

 簡単です。

 糸を切ればいいんですよ。

 そうすれば、人形は止まって動かなくなります。

 

 ね? 簡単でしょう。

 

      ◇

 

「戦う決心はつきましたか?」

 設楽が聞いてくる。それは辛辣な言葉だった。これはもう、確信と言っても過言ではないだろう、彼は──殺されたがっている。

 この場で。他の誰でもない士郎の手で。

 死だけが唯一の自由だと知っているから。

 そんな人間に対して自分が出来ることは何なのだろうと、士郎は自問した。答えが出るわけもない問いかけだった。結局、苦悩するしかない。堂々巡りだ。

「…………」

 応えあぐねていることを見抜いて、設楽が笑った。それは明らかに見下した笑い方だった。

「決心がつかないなら、そういう状況に持っていってあげますよ」

「──っ!」

 呆けていた瞬間が仇となった。突き出された舞姫を躱しきれず、今度は逆の肩口がえぐれる。深い傷ではなかったが、飛び散った血の量は決して少なくなかった。

「貴方の迷いはいったい何のための迷いですか? 僕のため? 自分のため? 違う! 貴方が考えているのは恭也君のことだ。僕を殺せば程なくして貴方の子供も死ぬ。だから手を下せない。自分で我が子を殺すのも同然だから!」

「…………」

 図星だった。薙ぎ払われる剣を受け止め、躱し、間隙を縫って繰り出される蹴撃に吹き飛ばされる。それでも苦悶の声を上げることだけは何とかとどめることが出来た。それさえも呻いてしまえば認めたことになりそうで、士郎はひたすら無言を貫き通した。

「自分が傷つきたくないから戦えない? 子供を助けることが出来ないから戦えない? 恭也君を助ける方法なんてないんですよ! 最初からそう言ってるでしょう!」

「…………っ」

 たった一歩で間合いを詰めてきた暗殺者の姿が、影だけを残して霧散する。瞬きをして目を開けた次の瞬間に、彼は眼前にいた。すぐ下で、攻撃の態勢に入っている。小さな構え。あとはほんの一息、剣を突き出すだけでいい。

 横に躱すには距離がなさ過ぎる。後ろに跳ぶ。その判断はその通り脳を伝わって身体に命令を下す。だがこちらの動きにあわせて彼が跳躍してくることを見たとき、士郎は着地した足を踏み外して後ろに倒れた。後頭部が地面に直撃する。だがそれが功を奏したらしい。剣閃が眼前を横切り、鼻の頭の皮を薄く剥いだ。痛みはない。すぐさま身体を転がし起き上がって、敵である少年を見据える。設楽は少なからず落胆したようだった。

「あくまで攻撃しないつもりですか。いつまで続けるつもりです? こんなこと」

「…………」

「そうですね、これはもう最後の手段でしたが」

 そう言って、設楽は懐から何かを取り出した。黒い直方体で、手のひらにすっぽりと収まるサイズの筐体である。ニィッと、まるでいたずらっ子のような笑みでそれを地面に落とした瞬間──

「なっ!」

 光が迸った。真っ白に反転した世界の片隅で──何も見えないはずの純白に染まった世界の一角で、闇に潜む暗殺者の影が走る。邪魔者がいなくなったことへ歓喜の声を上げ、悪魔は剣を振り下ろした。惨劇に目をそらすことなく勇敢に父を見つめ続けていた少年に向けて振り下ろした。

 

 振り下ろした。

 

(振り下ろした?)

 

 振り下ろされた、その先にいたのは──

 

「…………恭也? 恭也ぁぁぁぁぁぁぁっっ!」

 


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