◇

 

「よっ」

 と──片手を上げて、彼女は現れた。まるで久々に会った旧友に対してするかのような態度で。いや、久々に会ったのは間違いないのだが……

 確かに彼女との関係は微妙な線上にある。実際、もう一度ならず数度と関係(・・)を持ってしまっていた。しかしながら恋人というわけでもない。友達以上、恋人未満? いや待て早まるな。彼女のことは嫌いではないが、決して結婚という二文字は思い浮かばない相手なのだ。そもそも彼女の性格からして、母親というのは果てしないまでに似合っていない気がする。

 だというのに……

「久しぶりだな、士郎。いきなりで悪いが、ちょっといいか?」

「あ……ああ。いいけど、なんなんだ? ホントにいきなりだな。来るなら連絡くらい入れてくれ」

「驚いたか?」

「いや、別に」

 士郎はうそぶいた。

「お前がそういう女だって事はこれまでの付き合いでもう十分すぎるくらい分かってるからな」

「なんだつまらん」

 彼女は本当につまらなさそうに舌打ちして、だがすぐに気を取り直して言った。

「まぁいいか。けどさすがに、今度のことは士郎も驚くと思うぞ」

「あん?」

「聞いて驚け。なんと子供が出来たのだ!」

 チンと、脳内で軽く音がした。思わず後ろを振り向く。貧乏暮らしに電子レンジなどあるわけもない。知っていたことではあったが。

「…………………………なんだって?」

 ゆっくりと彼女に向き直ると、夏織は見るからに勝ち誇った笑みを浮かべた。

「ハッハッハ。さすがに驚いたろ。どうだまいったか」

「い、いや、ちょっと待て。論点が違うだろ。子供が出来た? 本当か? 正気か? 俺の子供なのか? 後でうっそぴょーんとか言ったりしないだろうな?」

「お前はわたしをどういう目で見てるんだ?」

「胸に手を当てて過去のことを振り返ってみろ。何度俺をだましたと思ってる!」

「まぁそういうこともあったかも知れない。覚えてないが。だが今度のは事実だ。いくらわたしでも、こんなことで嘘はつかないよ」

「いや、そりゃそうかもしれないけど……」

 取りあえず、混乱するだけしてしまった後はどうにか落ち着いて、士郎はまじまじと彼女を見た。お腹は未だ膨らんでいない。

 そもそも、彼女は自分がここにいることをどうやって探し当てたのだろうか。実家を出奔した際に用意した隠れ家であるこのアパートのことは、親族を含めて誰にも話していないというのに。その玄関先で騒げばそれこそばれる心配もあったが、そこまで気が回るほどには冷静になれなかった。

 取りあえず深呼吸してから、士郎は出来るだけゆっくりと疑問を口にした。

「い、一体、いつのだ?」

 それはつまり、いつ身体を重ねた時のモノがヒットしたのかという意味で言ったものだった。彼女はそれを明確に汲み取って、だが指をあごに当てながら首をかしげた。

「いつだろうな。ああ、でも生理が遅れてることに気づいたのは結構前だ。最後にSEXしたのはいつだっけ?」

「ああ、いつだったかな。って、そういう話じゃないだろ。いや、そういう話なんだけど。っつーか、本当に俺の子?」

「存外に失礼だな。わたしは生まれてこのかた、男はお前しか知らないんだ。他に誰がいる? 第一、士郎と最初に寝た時わたしは処女だったろう。忘れたのか?」

「いや……覚えてるけど……」

 少しふくれっつらをして見せる彼女はやはり美人で、その職業や、致命的欠陥ともいえる性格を除けば、稀に見る良い女であることには変わりない。だがなんにせよ、心の準備というものを全くしていなかっただけに、士郎の受けたショックは尋常ではなかった。何より彼女と会わなくなってから軽く一年近く経っているのだ。

 そうしてそのことに思い当たった時、士郎はようやくこういう話を玄関で立ちっぱなしで話すことではないことに気づいた。

「取りあえず入れよ。立ち話もなんだし。生むか、それともおろすのか。相談に来たんだろ? そうだよな。これは一人だけの問題じゃないんだし……ああ、でももし生むとしたら、オヤジたちに何て言おう……」

「あ、それはもういい」

「え?」

「相談は必要ないよ。だってもう生んだからな」

「へ?」

 こちらの反応などお構いなく、いともあっさりと言ってのけた彼女は、玄関ドアの脇──丁度こちらから見えないところから乳母車を持ってきた。その寝台でスヤスヤと寝ている子供を抱きかかえて、士郎の目前へ持っていく。

「ほら、男の子。顔つきとかはお前似だぞ、士郎」

「…………」

「パパになった感想はどうだ? うん? ほら可愛いだろ。どうした? 何か息子に言ってやれよ。初対面なんだから」

「………………」

 人生二十数年。その時初めて、士郎はいるかいないかも分からない神様を恨んだ。

 

      ◇

 

 突然やってきて突然去る。それはまるで嵐のように。後にはただ、書置きが一枚。

 

 この子のこと、よろしくね。

   名前は恭也がいいと思うんだ

 

 たった二行──そして肝心の話題の中心となる赤子は、今もゆりかごの中で健やかに寝息を立てている。突然やってきた彼女は子供を残して、逆に士郎の通帳やカード、現金をありったけかっぱらって姿を消していた。

「…………」

 あまりのことに声が出なかった。呆然としたまま、とりあえずすることが思いつかないので(そのときは本当に、怒りも呆れも、そういった感情は沸き起こってこなかった)、ゆりかごの中の赤子を見る。

 男の子。

 生後二ヶ月といっていた。

 確かに目元などは自分に似ているかもしれない。

 恭也。

「恭也か……」

 呟いて、復唱する。声に出してみると、それは存外にいい響きだった。

「恭也。恭也?」

「あぅ……あぁうぁ?」

 寝ぼけたまま、赤子は士郎が突付く指に反応した。頬はすべすべで、ぷにぷにで、可愛らしさにあふれていて、だからこそか……心の内からようやくふつふつと怒りがわいてきた。だがこの子のせいではない。悪いのはみんなあの性悪女だ。

「俺にどうしろって言うんだ」

 唸る。一度怒りをあらわにしたら、後はもう止まらなかった。一通りぶつぶつと彼女の文句を口にして、

「今度見つけたらただじゃ置かないからなっ!」

 最後はやけくそ気味に叫ぶ。

 噴出してすっきりした後、不意に気づく。この状態で家を出るのは危険だ。士郎はどうしようか迷った。

 結局、考えても仕方がないことに気づいて、さらには自分ひとりではどうしようも出来ないことにも気がついて、諦めて士郎は実家に助けを求めることにした。独り立ちするつもりで出奔しているというのに、子連れで帰省して、なおかつ子供の母親には逃げられたなんて知れたらそれこそ大恥だ。

 ああ、それでも大目玉を食らうのは目に見えている。説教くらいは覚悟しておかないと駄目だろう。生後二ヶ月といっていたが、正確な誕生日は聞いていないし、下手すれば出生登録さえしていない可能性もある。

(いや、待てよ)

 その前に実家に帰る費用を何とかしないといけない。何せ、金目のものは全て彼女が持って逃げたのだ。帰省どころか、今日の食事代からピンチである。幸いというかなんというか、彼女はお世話セットだけはきちんと用意して置いていっていた。だがまさか、士郎がこれで過ごすわけにもいかない。

「…………くそっ!」

 知らず知らずのうちにゆりかごの縁を握っていた手に力が入り、すさまじい音を立てて木製の木枠が割れる。その音に赤ん坊が起きないわけもなく……

「うんぎゃあぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 泣き出した子供を抱きかかえてあやしながら、士郎は自分のほうこそ泣きたくなった。

 

 オツムを変え始めて何日かで、子供がこちらにようやく慣れ始めた。いくらあやしても泣き止まなかった赤子が、どうにか自分を敵でないと判断したらしい。我が子ながらこの慎重ぶりには呆れるばかりだが、ミルクを飲んで素直にゲップしてくれるのを見れば機嫌も直るというものだ。

 そうしてさらに何日かが過ぎて、すっかりにわかパパが板についた頃……

 ふと呟いてみる。

「俺……何してんだろ」

 子供を押し付けられたことに対する不満はあった。だが夜泣きすることはほとんどなく、恭也は驚くほどこちらの意を汲み取ってくれる子だった。おとなしくして欲しい時にはまるっきり泣きもしない。目を開けているというのに、目の前を何が通り過ぎても何の反応も示さない。あまりにも赤子らしくないので、逆に心配になるほどだった。

 そうしたところで、やはり目を話せない乳児を抱えてたいした仕事も出来ないので、こつこつ路銀を稼ぎながら日々は過ぎていく。

 風邪を引いたときは病院に連れて行き、寝ずの看病をして。オムツを取り替え、ミルクをやって、ゲップさせる。ようやく旅費がたまって、実家につれて帰ると──案の定、家族一同から大目玉を食らった。育てるかどうかを問いかけられたときには正直迷ったりもしたものだが。

「…………しょうがないよな」

 何の疑いもなくこちらを見上げる恭也の顔を見たならそんなことを言えるはずもない。そうして初めて市役所へ出生届を出して、誕生日を登録。

 ここに士郎の息子、不破恭也が誕生したのである。

 七転八倒しながらも育児をこなす日々は悩みと苦しみと、彼女への苛立ちと怒りと、だが一方で、それ以上の楽しみが確かにそこには存在したのだ。

 …………

 そうしたすべてが、音を立てて崩れ落ちていく。

 

      ◇

 

 それはまさしく悪魔の所業だったのかもしれない。かの剣閃が我が子に突き刺さるその瞬間に光は消え去り、士郎の視界に吹き飛んでいく小柄な身体が映り込んだ。枯れていく。身体がまるで古木のようにひびが入り、風に吹かれて塵と化していく。そうしてサラリと、微塵の跡形もなく消えてなくなった。

「きょ、恭也?」

 つぶやく。呼ぶ。息子の名前。

 応えは帰ってこない。二度と。永遠に。

 その笑顔を見ることもない。

「……あ……あぁ……ああああああああああぁぁぁぁっ!」

 叫びは悲痛だった。声にならない声。叫び声でさえなく、それは獣の咆哮といっても過言ではなかったかもしれない。

 涙は流れなかった。空を見上げる。日は暮れている。月は出ていないが、星が燦然と輝いていた。まるで新たな仲間を迎えたことを歓迎するかのように。

「…………」

 風は冷たく、気温は低い。山の空気は容赦なく身体の体温を奪っていく。そんな中で、その闇と同化するかのごとく佇んでいる暗殺者がいた。

「これで、もう心配の種はなくなったでしょう? さぁ、心置きなく戦ってください。でないと、せっかく死んでもらった恭也くんに申し訳け……が……ぐっ!」

 最後まで言わせるつもりはなかった。スイッチを入れる。加速する。世界を停止させ、自分だけが跳躍する。その飄々とした横っ面を殴りつけて、士郎は彼が倒れこむよりも前にさらに加速した。

 胴を薙ぐ。蹴りが跳ぶ。瞬時の出来事に、暗殺者は見るも無残に吹き飛ばされた。そうして一度元の世界に帰還する。無言で設楽を見ると、血だらけの身体をゆすりながらも彼は笑っていた。声を殺して笑っていた。笑うたびに吐血しながらも、彼は笑うことをやめようとはしなかった。

「がはっ! ハハ! ごほっ! ハハハ! ようやく本気になりましたね」

「…………」

「以前もそうでしたけど、貴方はどうして大切な人のためになるとそんなに力を発揮するんですか? まったく、だから御神は怖いんだ」

 クククと嫌味たらしく笑う彼を睨み付けながら、士郎は低く告げた。

「望みどおり殺してやるよ」

「殺す? 僕を? ハッ! 死ねるというのなら、喜んで死んであげますよ!」

 跳ぶ。今度は両者同時だった。神速レベルの速度で交錯する。真っ向からぶつかり合い、だが身体が小柄なはずの設楽の突進に、士郎は身体ごと吹き飛ばされた。

「くっ!」

 追い討ちをかけるように設楽がさらに詰め寄ってくる。舞姫で八景を牽制しつつ、左手は小さな構えを取る。小刻みに近づいてくる破壊の一撃──これは!?

(震撃?)

 戦慄とともに、士郎は身をよじった。かつて金髪の暗殺者に喰らわされた一撃。その威力とダメージは身をもって知っている。

「うまく避けましたね」

「…………」

 無言のまま、士郎は身体を三百六十度回転して、その慣性力で突きを繰り出した。御神の奥義の一つ『射抜』。零距離で発射したそれは、存外に威力を発揮して少年の肩を軽々とえぐり取る。

「ちぃっ!」

 それでも致命傷にはならない。歯噛みする。持久戦はどちらにしてもまずい。なにより出血しすぎているからだ。

 白黒に分離した世界の中で、設楽が笑う。

「死宝剣を断絶する。僕が死ぬためには、この世に在る死宝の剣を全て抹消しなくちゃならない」

 決意であるはずのそれは、だがまるで懺悔のように響いてくる。

「僕は生きなくちゃならない。誰を殺そうと、誰を踏みつけようと、誰に恨まれようとも!」

 悔いているのか。悲しんでいるのか。違う。そんな生やさしいことではない。

「僕が死宝剣()であり続ける限り、それは決して避けられない!」

「それは誰のための、誰が用意した言い訳だ!」

 舞姫の間をすり抜けて殴りつける。剣を持っていることさえも忘れて、士郎は設楽の顔を殴っていた。不意に世界が色素を取り戻す。

 右半身を赤く染めて、設楽が叫んだ

「恭也君を遺したのも夏織。僕をそんな生き方に導いたのも夏織」

 彼のすべては彼女。

「僕にははじめから選択肢などなかった。誰にも変えられない。世界に根ざした物理法則と同じように、僕の生き方は僕が生まれる前から決まっていた! どれだけ否定しようと殺人を拒めば死ぬ! 生きることも死ぬことも許されない──そんな世界で生きてきた苦しみが、貴方に分かってたまるか!」

 分かっていた。彼の言葉の端々に見え隠れする本音。

 彼はきっと……

 

 彼はきっと、誰も殺したくなかったのだ。

 

「…………正直なところ、お前に同情していた。今でさえ、本音を言えば、迷いは晴れてない」

「まだそんなことを!」

 晴れるわけがない。泣きながら生きなければならない少年と、殺しあうことを割り切ることなど出来るわけもない。

「だけどどんな理由があろうと、どんな苦しみがあろうと、お前は恭也を殺したんだ……」

「…………」

「それを許す気はない。もう情けはかけない。怒鳴ることもしない。はっきりと敵としてお前を殺す」

「ようやく、その気になってくれましたね。あと少し遅ければ、美由希ちゃんも殺してでも、と思ったんですが」

 数秒だけ動悸が激しく高鳴り、息を吐くのと同時に収まっていく。体温が下がっていくにつれ、感情までもが冷徹に凍りついていく。心を闇よりもなお昏い色で染めて、士郎は、もう一度、決意のために息を吸った。そうだ。出来る限り、黒い心で彼を殺す。そうすればきっと、自分は彼を殺した罪をずっと背負えるだろうから。

 そしてすぐに吐き出す。

 同時に告げる。

 静かに。

「いくぞ」

 タンッ──と、まるでタイルの上でステップを踏んだかのように軽い音を立てて、士郎は跳躍した。神速には入っていない。むしろあの状態は危険だった。設楽自身があの速度についてくることが出来る以上、体力が奪われる神速の乱発は出来ない。

 だが……

(どうせ長引かせるつもりはないんだ)

 意識を決する。設楽の後方へ回りこんだと同時に神速へ加速。両手の小太刀を回転して逆手に持ち帰る。一歩。二歩目でさらに加速。だが踏み込みの瞬間、不意に設楽が笑った。

 薙旋。奥義の四連撃は、だが八景の一撃目が彼の左腕を半分ほど食い込んだところで不意に止められる。

「しまった!」

 八景は抜けない。残った左で二撃目を入れるが、これは舞姫によって弾かれる。体勢を崩した士郎の首が、舞姫の突きの直線状に躍り出た。

「うおぉぉぉぉぉぉっ!」

 渾身の力を込めて、士郎は八景を振りぬいた。細い腕が飛ぶ。設楽の顔が苦渋に染まるが、それでも彼は舞姫の剣先を乱すことなく突きを繰り出してきた。

 眼前に剣先が迫る。空中で身体をひねって八景を振り上げ、舞姫と交差する圧力に押されてさらに身体が回転する。気がつけば神速は解けていた。

 瞬間──

 ドガッという音を、士郎は確かに聞いた。鈍い音。それは確かに、自分の頭部で鳴り響いたものだった。衝撃と共に視界が反転する。打たれた振動もそのままに、士郎は地面に打ちのめされた。立ち上がろうと必死にもがく。が、それをしていたのは実は精神だけで、身体は全く動いていなかった。脳震盪でも起こしたのか。まるで言うことを聞かない。

「ぐっ……くぅ……」

 その上から、設楽が息を切らせながら話しかけてくる。

「一度見せた技でどうにかなる相手だと思いましたか? だとすれば随分舐められてますね。一度からくりが分かれば、対処法なんていくらでも思いつく。神速を止める方法がないんだったら、腕一本でも覚悟すれば良いだけの話です」

 空気の流れがほほを撫でた。それが舞姫を振り上げた感覚なんだと分かった瞬間、士郎は自身に一括しながら、何とか身体を回転させた。それでも地面に転がるしか出来ずに、うつむせになっていたのが仰向けになる。視界が開けて夜空が見えた。その星空に溶け込むように、舞姫の黒刀が再び掲げられ、容赦なく打ち下ろされようとしている。

 士郎は逃げることを諦めた。そしてどうにか動かせる腕を振り上げ、舞姫の切っ先に八景のそれをぶつける。弾かれた舞姫の間隙を縫って、左手に握った小太刀を投げるが、それはただ牽制しただけで終わった。

 だが狙い通り、勢いで振り下ろされた舞姫は士郎の首ではなく、左腕を切断する。血飛沫で暗殺者の目をくらませて、その頃には士郎は起きあがれるくらいには回復していた。

「なるほど。確かに腕一本覚悟すれば生き延びられるな」

「…………」

 暗殺者は答えてこなかった。彼の切断された左腕からはもう血が流れていない。意識的に止めているからだろうが、士郎は自分に同じ真似が出来るとは思えなかった。

「終りにしようか。設楽」

「ですね。もう僕も限界だ。それは多分、貴方もそうでしょう?」

「思えば随分世話になったな」

「そうですね、随分遠回りをしてしまいました。この瞬間を(・・・・・)どれだけ待ったことか」

「…………フッ!」

「……ハッハッ!」

 静かに、二人は漏れ出る笑いをこらえていた。何故笑いがこみ上げてくるのか。理由のない感情に、だが士郎は不思議と奇妙な懐かしさを感じた。そしてさらに、その笑いを耐えようという気になっている。先に我慢ならなくなったほうが負けだ。

 だがそれはあっけなく終わりを告げた。両者同時に我慢の限界を超えたのだ。

『ハッハッハッハッハッハッハッハッハッ──ッッ!』

 一息で全てを笑いきって、息を吸うのと同時に笑いが止まる。笑顔のままで、設楽は踏み込んだ。一方で士郎の表情からは笑顔が消える。だがほぼ同時に、彼もまた跳躍した。

 神速へ。沈黙に包まれた、凍りついた『時の世界』へ。

 舞姫が薙ぐ。

 刃は士郎の眼球皮一枚を切り裂きながら通り過ぎ、その隙に八景が設楽目掛けて奔った。苦悶の表情と共に倒れ込む暗殺者を最後に──

 士郎はこの戦いが、本当に終わったことを知った。

 

       ◇

 

 悩むことはないのに。

 これは全て僕が望んだことなのだから。

 それでもきっと、彼は迷うのだろう。

 修羅となってもおかしくないほどの技量を持った剣士──夏織が何故彼に惹かれたのか。その懐の大きさ。性格。強さと弱さ。例え蘇芳による小細工がなかったとしても、彼女はきっと彼に惹かれたに違いない。初めからわかっていたことだけれど、なんだか少し悔しかった。

 どうしたって僕は、彼女の後継者(・・・・・・)にはなれなかったのだから。

 あとは彼を元に戻して、僕がこの世から消えれば全てが終わる。死宝剣全ては断絶できなかったけれど、それも仕方ない。

 さぁ、最後の仕上げだ。

 だからもう少しもってくれよ。僕の身体。

 

       ◇

 

 振り上げた腕が下りなかった。

 設楽はじっとしている。こちらを見上げたまま。そしてふっと小さく笑って、ゆっくりと目を閉じた。止めを待つかのように。

(迷うな!)

 言い聞かせる声さえも苦汁に満ちていた。

 設楽はこれを望んでいた。もし彼に同情するなら、殺してやることも一つの救いの手なのだ。そうしているうちに痺れを切らしたのか、設楽が小声で呟くのが聞こえた。

「何を迷ってるんです?」

 その時初めて、剣を振り上げてから随分経っていることに士郎は気づいた。下手をすればそのまま出血で死んだのではないかと錯覚してしまうほどに、設楽の顔色は青ざめている。

 士郎は打ち震えた。設楽は目を瞑ったまま、血反吐で汚れた唇を小さく震えさせながら言った。

「僕を殺せば全てが終わるんです」

「……ああ、そうだな」

 その同意の声に苦悶の響きを見て取ったのか、設楽の表情が曇った。

「それでも殺せませんか? 目の前の憎い敵を。息子の仇を。だとしたら、貴方にとっての剣とはなんです?」

「…………」

「大切なものを守るための剣──御神とはそういうものなのでしょう?」

「だが恭也を守れなかった!」

「過ちは繰り返させない。それもまた御神の信念のはず。夏織からはそう聞いてますが?」

「……くっ!」

「ここで僕を見逃せば、またいつか同じようなことが起こるかもしれない。依頼を受ければ貴方の大事な人だって殺すこともあるかもしれない。ねぇ、最初に言ったじゃないですか。僕と貴方は味方だったことなんて一度も無い。むしろはじめから敵でした」

「…………」

「殺しなさい。でなければ、僕は、今度は美由希ちゃんを殺すかもしれない」

 士郎は息を吸った。八景を掲げたまま、呼吸を整える。高鳴った動悸は中々治まってくれなかった。設楽は笑っていた。冷たい笑いだった。悲しい笑みでもあった。こうして優位に立っているのは自分なのに、どうしようもなく痛みを感じる。衝撃で気が狂いそうだった。出血のせいで意識が朦朧としてきたせいかもしれない。

 もし対面や、プライドや、そういった自分が持ちうる不破士郎という個人を捨てることが出来たならどんなに楽だろう。きっと泣き叫んでのた打ち回っていただろうくらいに痛みは全身を駆け巡り、士郎の心臓を激しく叩きつける。

 不意に──

「…………」

 もう考えるのをやめよう。

 士郎は思った。迷わないことは、考えないことでもある。選択した結果に従事することは、考えて選んだ後の事柄を受け入れることなのだ。だけれども、決して後悔はしないでおこう。

「…………すまん」

 一言。それだけが漏れ出た。それに答えるかのように、設楽は確かに笑ったように見えた。今度は冷笑ではなかった。確かに、彼は嬉しそうな顔をしたのだ。

 後はもう何の意識もいらない。決意した身体が、脳の司令に従って振り下ろされる。そして──

 ドンッという衝撃が士郎を襲ったのはそのときだった。

「駄目だ! 父さん!」

「な──っ!」

 思い切り横からタックルを喰らって、士郎は剣を振り下ろすことなくその原因と共に横倒しになった。その行為を止めようとした小柄な物体は、必死に士郎にしがみついて離そうとしない。

「くっ!」

「駄目だ! この人を殺しちゃ駄目だ。絶対に後悔する!」

「離せっ! …………って、え?……………………き、恭也…………?」

 士郎にしがみついているもの──それは紛れもなく恭也だった。その黒髪。その顔。声。息づかい。身体つき。全て、士郎の記憶にある息子そのものだ。

「…………」

 驚きのあまり声を失ったまま、少年の顔を触る。左腕は吹っ飛んでしまったので、八景を置いて、血だらけの右手で息子の顔に触れる。頬、目、耳、鼻、口。確かにそこにある。恭也は嫌な顔せずにそれを受けていた。目が潤んでいる、と思ったら、それは恭也の瞳に移った自分自身じゃないか。

「……恭也。恭也! 恭也!」

 そしてようやく、士郎は彼を抱きしめた。出血で朦朧としていたことなど完膚なきまでに吹き飛んでいた。

「……生きてるんだな? 生きてるんだよな? 偽者とかじゃないよな?」

「うん。大丈夫。本物」

「後でドッキリカメラとか用意していないよな」

「うん。してない」

「っっっ!」

 息子の顔を自分の傷だらけの胸に抱え込んで、士郎はむせ返るほどの涙に歯軋りして耐えた。視界が緩み、正直何がなにやら分からなくなる。彼の一言がなければ、それこそ全てを放り出してしまいそうだった。

「どうにか──ゲホッゲホッ! 巧くいった、みたい、ですね」

「…………設楽」

 もう死んでもおかしくないほどに弱りかけた暗殺者に向き直って、士郎は聞いた。

「どういうことだ? あの時、恭也は確かに『舞姫』で……」

 だがその時、

「それについては後でいいだろう、無月!」

「了解している」

 やってきた二人組みに会話を遮られ、士郎は敢え無く諦めを余儀なくされた。というのも、そのときにはすでに設楽は意識を失ったようで、陸王が支えなければそのまま崩れ落ちていたからだ。彼の傷口に血を流し込む神逆無月の表情も幾分か暗い。

「姫月。腕」

「ほいよ」

 どこから取り出したのか。無月の手には使い切ったと言っていた輸血パックが握られている。腕を数秒で瞬く間に補修すると、今度は腹部の傷口へとそれを当てた。

 金髪の暗殺者が、パックを手にしてこちらにやってくる。片手に士郎の左腕を携えて。そうして行われた修復は見事なものだった。一分も経たないうちにあっさりとくっついた腕には違和感もなく、神経も繋がってくれているらしい。指は普通に動くし、つねれば痛い。振ってみたが、傷口の痛みも消えている。

「そっちはどうだ?」

「急いで運ぼう。しかるべき場所で処置しないとまずいな。ここでは応急しか出来ない」

「…………」

 どこか釈然としないままに、士郎は金髪の男に運ばれていく設楽を見やった。

 こんな終わり方をしたことに疑念を感じずにはいられなかった。この結果を裁量することは出来るのだろうか。彼は本当に、こんな終わりを望んでいたのか。

 殺してやるべきだったのではないか。だがもう一度、彼に向けて剣を振り下ろすことが出来ただろうか。

(無理かもしれない)

 恭也の言ったとおりだ。彼を殺せば絶対に後悔する。

「…………」

 彼は助かるのだろうか。それとも死ぬのだろうか。

 どちらにしろ、結局自分では何も出来なかった。助けるなんてことがおこがましいことであるのは承知していたが、それでも本当に、何か出来たことはなかったのだろうか。

 選択肢のない人生を歩んできた彼が、もしここで『止まる』気だったのなら、これからも生きることはやはり苦痛でしかないのかもしれない。

 それに関してはきっと自分では何も言えないことを、士郎は嫌というほど実感していた。個人で出来ることなどたかが知れている。守れるものなど限られている。両手から漏れ出るほどの命を背負えば、その重みに自分が崩れるだけだ。それを誰よりも知っているのは士郎自身に他ならない。答えは出ない。いつだって、自分のすることは手遅れなのだ。

「…………終ったのか」

 空は晴れていた。星が満天に輝き、所々雲が出ているせいで月は見えなかった。その雲から、ポツリポツリと、水滴が落ちてくる。それはやがて、にわか雨のように士郎たちを打ち濡らした。

 大地が湿る。空気がざわめく。雨が地面を打つ音は心地よく、猛る心を静めてくれた。雨粒が目に入るのもかまわず、士郎は空を見上げた。

 雲の流れが速い。すぐにやむ雨だとは分かっていたが、士郎は今だけは、この雨に打たれていたかった。

 

 彼が目を覚ましたのは、それから三日後のことだった。

 


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