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エピローグ
随分と広い部屋だった。目を開けて、最初に飛び込んできた天井が異様に高いことに違和感を抱きながら、光に気づいてふと横を見る。大枠の窓から入る日差しは痛いほどに明るく、部屋の白さが目立つのはそのせいだろう。だが思った以上に窓枠が大きく、また多いことに気づいて、設楽はさらに怪訝な顔をした。 身体は酷く痛んだが起き上がれないほどではなかった。それでも一挙一動に息が切れる。指先に力が入らない。骨が軋む。その危ういほどの脆さに、思わず立つことが怖くなるほど不安定な形で、設楽は身体を起こした。 そうしてしみじみと観察してみれば、 「随分広いですね……」 思わず呟いてしまうほど、その部屋は広かった。設楽のいるベッドが隅に一台。それ以外は何もない。無機質な白い部屋。四角いタイルが敷き詰められた床が、ずっと向こうまで続いている。大きさ的には小さなホールほどはありそうだった。ここから対角に位置する一番遠いところに、外に続くドアらしきものが見える。 「…………」 ふと── その向こうから話し声が聞こえた。廊下側には窓がないので誰の声かは分からないが、声は細々と、だが確かに聞こえてくる。 何度か声をかけてみる……が、それも意味はなかった。返事はない。その時何故そう思ったのか。設楽は無性にその声が気になった。仕方なくベッドから立ち上がって、ふら付きながらもドアのほうへ向かう。 「くっ!」 歩くという行為そのものを苦痛に感じたのは初めてだった。気を抜けば今にも倒れてしまいそうなほどに激痛が身体を苛む。だが逆にそのおかげで目は冴えていた。随分時間をかけてたどり着き、ゆっくりとドアを開ける。 「……あ……れ?」 だが── そこには誰もいなかった。廊下に人気はなく、ドアを開ける寸前まで聞こえていたはずの声もなくなっている。気配も感じられない。 そんなはずはないと、設楽はドアの向こうに続く廊下を凝視した。廊下は一直線だった。部屋と同じタイル。同じ壁。窓はなく、だというのに鮮やかな白一色で包まれた空間は、見つめるだけで吐き気を催してくる。 そうして胸のムカツキを押さえたその時、向こうに見えるドアが開く音がした。ふいに目をやる。廊下の向こうには同じ形のドア。誰かが出て行くところだった。 「え?」 瞬間──設楽は我が目を疑った。 「……ちょ、ちょっと待って!」 呆然としたのはほんの数瞬。ハッとなって、それから慌てて後を追う。悲鳴を上げる身体を引きずって、崩れ落ちそうになる精神に活を入れながら、もう一度ドアを開けた。だがやはり誰もいない。そうしてさらに続く白い廊下の向こうで、再びドアが開く音。 後姿。 その髪型。体型。かすかに見えた横顔。間違えるはずがない。 届くはずもない後姿に向かって、設楽は叫んだ。 「夏織!」 声が響く。 届かない。それを理解しながらも、彼は叫んだ。 「待って! 夏織──っ!」 後姿は消える。 ドアの向こうに。
消える……
◇
「設楽が目を覚ました」 その言葉に、士郎はゆっくりと声の方を向いた。金髪の男──姫月陸王は、今は逆立てていた髪を下ろして普段着姿である。士郎に当てられた病室の隅に、何の遠慮もなく入ってきた最初の一言がそれだった。 「……そうか」 返答というよりは漏れ出た声。士郎の態度を見咎めたのか、陸王の声が少しだけ低くなる。 「恭也の身体検査の結果も出た。どこにも異常はないそうだ。美由希はもとより、アンタの身体についても問題ない。無月の修正は完璧だ。傷跡一つ残さず修復した。残っているのは疲労だけだろう」 「…………」 今度は答えなかった。それは分かっている。医者から告げられたわけではなかったが自分の身体のことだ。異常があるか無いかくらいは察知できる。 沈黙は初めからそこにあった。視線をはずすと、どうしたって視界に入ってくるのは窓の外の景色しかない。そこにある穏やかな空気の流れは手に届くようで遠い。散歩する老人。見舞いに来た家族。花に水をやる看護婦。自分には似つかわしくないほどの世界が、ほんのガラス一枚を隔てた向こうに広がっていた。 不意に、陸王が大げさにため息をついた。がしがしと乱暴に自分の頭をかきなぐり、独り言のように「こういうアフターサービスは普通しないんだがな……」などとぼやきながら、諦めたように士郎に向き直る。 「今更だけど知ってるか? 設楽は暗殺者だぜ?」 彼が何を言いたいのか、士郎には分からなかった。一刻考えて、だが不意に考える必要もないことに気づく。黙り込むのもなんなので、士郎は軽く頷き返した。 「……ああ、わかっている」 「分かっていても、理解してないだろ」 もったいぶったように笑みを浮かべる陸王に、士郎は怪訝な表情で問いかけた。 「…………どういうことだ?」 「あいつは暗殺者だ。世界で最高と謳われるほどの暗殺技術を持つ真正暗殺者」 「だからそれが──」 「あいつは暗殺者で、剣士じゃないんだぜ?」 「──っ!」 だがその一言。たった一言で、士郎は自身に走りぬけた衝撃に耐え切れずに硬直した。言葉に詰まる。息が止まる。瞬きすら忘れてただ一点を見つめる。 「…………」 忘れたわけではなかった。わかっていなかったというのでもない。彼が剣士でなく、暗殺者であることを。 それが意味することも。 その迷いを見透かしたように、陸王が言った。 「決着はまだついてない。俺はそう思うけどな。お前たちの関係は命の有無で──ましてや一回きりの戦いの勝敗で決まるほど単純なものじゃないはずだ。無月のコネで設楽の病室は隔離されているから、時間はたっぷりあるぞ?」 真顔で告げる彼の顔が、不意ににやけたものになる。楽しそうに、彼は笑った。 「ま、もっと気楽に行くんだな。あんたが落ち込んでると恭也と美由希が悲しむぜ?」 そうして彼は病室を出ていった。入ってくるときも突然なら、出て行くときもあっという間だった。 すでに閉まっているドアを見つめる。検査が終わったなら、子供たちがここに来るかもしれない。それを待ってからでもよかったが…… 士郎はだるさの残る身体を起こし、誰にも気づかれないように静かに病室を後にした。
◇
追いかけて。追い続けて。だけど彼女の後姿は遠ざかっていく。痛みに崩れる身体が残酷な結果を彼に告げる。
──彼女には追いつけない。
「──ッ!」 そう感じた瞬間、設楽は弾けたように目を開けた。息が切れ、汗は滝のように浮かんでシーツにしみこんでいく。白い部屋。だが不思議と、先ほどのような嘔吐感はない。喉は痛いほどに渇いているのに、眼球の痛みは潤いによるものだった。肩で息をしながら、それでもどうにか冷静を取り戻して、ゆっくりと目線だけで部屋を見渡してみる。 「……ハァハァ……」 六畳程度の個室だった。そのうち約二畳分がベッドで占領されている。狭くはないが広くもない。何の遜色もない──それは他と変わらない、どこにでも見られるという意味で、その通りここはただの病室だった。 確認してから、もう一度設楽は身体の力を抜いた。うつろな視界を上へ向ける。意識を占領したのは、歓迎したくないことだった。 (夢?) 自問する。アレが夢なのか。広すぎる部屋。どこまでも続く廊下。どこまで言っても追いつけない後姿。だがそうだ。アレは夢だ。そうでなければ、今が夢で、あちらが現実かもしれない。どちらでもいい。どうでもよかった。目覚めているほうが現実なのだから。 そうして今を現実と認識しながら、設楽はただ身体が欲するままに酸素をむさぼり続けた。 口から吸い込む空気が喉を乾かす。だが不思議とたまっていく唾をごくりと飲み込んだとき、不意にドアをノックする音が聞こえた。 「…………」 返事をする気力はなかった。体力的な問題ではなく、ただ単にドアの向こうにいるだろう相手に声を出すことが億劫でしかない。相手が誰かはわかっていた。 やがて返事に痺れを切らしたかのようにドアが開く。包帯だらけの身体は──おそらく便宜上だろう。自分同様、神逆無月の血による修正で彼の傷はふさがっているはずだ。だがはっきりとした視線で見つめたなら、彼が自分と違うことはすぐにわかった。 「……体調はどうだ?」 不破士郎は単調な声でそう言った。設楽は答えなかった。代わりに目線で応答する。見れば解かるでしょう? と問いかけたそれは、確かに彼に伝わったらしい。気まずげに彼は視線を逸らした。 そうしてしばらくの間、何もすることなく、何も話すことのない時間が出来上がる。設楽に語るべきことはなかった。士郎がここに来たのは、きっと自分に聞きたいことがあるからだろう。これから始まるのは会話ではない。ただの質疑応答だ。 「…………ふう。いい加減、こうしていても仕方ないな。設楽、いくつかお前に聞きたいことがある」 「…………」 無言。それが設楽の答えだった。どうとでも──答える気がないとも、答えるからさっさと話せとも取れる反応に、士郎の眉が訝しげに曲がる。 「恭也は何故生きている?」 だが表情とは裏腹に、彼の質問は最初から核心だった。だから設楽は、久方ぶりに声を発した。 「……それはどちらの意味で、ですか?」 「ん?」 「殺さなかった理由ですか? それとも生きている結果に対する原因ですか?」 「…………両方だ」 どうしたものか。設楽は迷いながら、小さくため息をついた。息切れも収まり、取りあえず身体の力を抜くことが出来るほどには落ちついてから、士郎を見あげる。 「後者は簡単です。僕が貴方との戦いで使った獲物は死宝剣『舞姫』といって、所有者の精神によって具現される非物質の剣です。所有者のイメージで形を変え、その想像力によって攻撃力が上下する。その能力『無斬』は、そのエネルギーによって斬られたものを最小存在単位にまで分解し、剣の内部にストック──つまり貯蔵します。そうして使用者の好きなときに取り出して再構成させる。無斬に殺傷能力はまったくありません。だから、それで斬られた恭也君が死ぬことは決してない」 「…………」 「貴方をその気にさせるための手段だったわけですから、殺す必要はありませんでした。でしょう?」 問いかけると、士郎は苦々しく顔をゆがめた。 「それだと腑に落ちないことが多すぎる」 「?」 「恭也を殺さなかった理由だ。恭也を殺さなければ、お前が……」 死ぬんだろう? と。彼がそこで口をつぐんだのは容易に見て取れた。そうして初めて、設楽は幾ばくかさっぱりとした表情で、 「はい。僕は死にます」 そう、彼に告げた。
◇
あまりにもそれは自然な言葉だった。迷いもない。戸惑いもない。一寸の澱みもないその声、その目、その表情。皇設楽は完璧だった。その黒い双眸で見つめられたなら、その覚悟を垣間見たなら、何者も彼を侵すことなど出来はしないだろう。 事実、士郎は声を失った。 追いすがる。意識とは裏腹に、紡ぎ出された声は単調だった。 「何故?」 「前にも言いましたが、僕の身体はもう限界です。恭也君は生き続けて、僕は死ぬ。それだけのことです」 「……だから何故だ!」 まるでそうしたことが悪いことであったかのような物言いに、軽く噴出す形で設楽は言った。 「怒鳴ることないでしょう? 貴方にとっては、恭也君が生きてくれたほうがいいはずだ。でもああ、そうか。僕が死んだ後、『殺人縛鎖』の影響で彼が死ぬことを考慮しているのなら、それは要らぬ心配です。彼は死にません。僕が死んでも」 「…………」 無言で見つめる。今の自分の表情が、息遣いが、指先に至るほんの微動までもが「何故?」と訴えていることに、士郎は気づかなかった。 「舞姫によって分解された一個体を構成する情報は、言うなれば中身を見ることの出来るようになった機械と同じなんですよ。人間を構成する元素から、精神構造に至る全てが露呈される。僕の能力は支配することには長けていますが、改造にはむいてないんです。でも中身がむき出しになったなら、話は変わります」 「確か……」 設楽は頷いた。 「『エッジ・オブ・ザ・ネザーフィールド』──それが僕の能力です。そして舞姫の『無斬』。その能力を試用したときに思いました。これならきっと『殺人縛鎖』を取り除ける。結果は……一年後、貴方が確認してください」 「一年後?」 「僕の寿命です。なんとなくですが、たぶん間違ってないでしょうね。僕はたぶん、一年以内に死ぬ」 「──っ!」 全身に広がったのは猛烈な喪失感だった。解かっていながら、それを考えないようにしていた自分への叱咤。頷くには努力が要った。 「蘇芳が姿を消したのは、僕の能力と舞姫があれば、夏織も含めて自分の作品が束縛から逃れられることを知ったからかもしれません。でも逆に、僕の能力だけでは絶対に取り除けない。その理由は簡単だったんです。『殺人縛鎖』は外部からの呪縛。アレはまさしく『受動力』によるものだったから。それが働いているということは、多分、考えたくないですけど、蘇芳はまだ生きています」 そして、だからこそあの男は姿を消したのだと、だからこそ死宝剣という失敗作に見切りをつけたのだと、設楽は自嘲した。士郎は受動力なるものがどういった類の力か想像できなかったが、あえて何も言わなかった。問題点はそこではない。 「舞姫のことは夏織も知っていたんでしょうけど、見つけられなかったことを悔やんでいた様子はありませんでした。だから彼女は、そのことを僕には教えなかった」 後悔のような、懺悔にも似た言葉を、彼は抑揚なく続ける。 「知っていたら見つけられたかもしれない。いえ、そんなことは関係なく、もっと早く見つけるべきでした。あまりにも遅かった。遅すぎた。もっと早く『舞姫』を見つけることが出来ていたら、もしかしたら夏織だけなら助かったかもしれない」 「……だけ?」 「『殺人縛鎖』を逃れるには舞姫とエッジ・オブ・ザ・ネザーフィールド。二つが必要です。舞姫で分解して僕が支配し、改竄する。だから必然的に、『黒の刃』だけはこの方法が使えません」 それではまるで── 「最初から、お前が助かる方法は……」 「はい。ありませんでした。でもそんなことはどうでもいいんです。道具であり、武器である僕にとっての自由は最初と最後。殺人者としての『生』と、すべてを終えた後の『死』。自害しようと思えばできたでしょう。でもそれは、決して臨んではならないことだった」 「…………」 何故? と問いかけることはやめた。聞けば答えるかもしれないが、それは知ってはならないことだと、意識の片隅で警報が鳴る。だが彼は、話すのをやめようとはしなかった。 「……それをしてしまえば、僕は僕だけじゃない、蘇芳の意向に逆らって『剣』と成り果てた八人の能力者たちの意思さえ無駄にしてしまう。僕が死ぬ時は、絶対に死宝剣を道ずれにしなくてはならなかった。無機質な武器となった八人の──その能力制御機構に触れて理解したことは唯一つ。彼らは滅びを望んでいた。僕と同じように」 そうしてにっこりと、彼は笑った。 「最初からあるはずも無かった不自然な存在が、再び無に還るだけです。貴方が気に病むことはないですよ。でもそうですね、苦しんでくれたなら、面倒なことをした甲斐がありました」 「これがお前の復讐か」 はい。と、彼は答えた。それだけを目的に──いや、確かに死宝剣のいくつかを回収することもあったのだろうが、それさえついでと思わせるほど、彼の行動はその一点に収束していた。 それはつまり…… 最初から、彼は恭也も自分も殺す気などなかったのだと、士郎は彼の満足げな笑顔を見てそう思った。
◇
無月はもう一度少年の腕を手に取り、確かな脈の鼓動に満足した。血の流れも異常ない。もとより何かあっても、それが肉体的な異常なら彼女に見破れないものはなかった。が、事はそれだけにはとどまらない。 死宝剣『舞姫』に分解され、さらには精神を侵す能力で、身体の遺伝子構成そのものが改竄された者の変調など、診療する立場からすれば非常識この上ない。というようなことを言うと、必ず自身も反撃を食うことを知っているので、彼女は変わらず無言で目の前の少年を診る。 そしてしばらくして、無月は精密機器で検査した結果も合わせて結論を出した。 「ふむ。問題ない。健康そのものだ」 「そうですか」 何故か不機嫌そうな声で、患者──不破恭也が言う。 「もう一度聞くが、何か変わったことはないか? 体調的なものではなく、心の問題でもかまわないが」 むしろそちらのほうが大きいのではないかと思いながら、無月は検査前に聞いたことをもう一度繰り返した。 「いえ。別に」 そうは見えない。が、彼は何も言わなかった。 「そうか。なら、これは私の個人的な質問なのだが、恭也君」 「はい」 「何か怒ってないか?」 「……そう見えますか?」 やはり憮然と言ってくる彼の言葉に苦笑を返して、無月は肯定した。 「むしろ目に見えて機嫌を損ねているように思えるが」 「……だとしたらやっぱり怒ってるんだと思います」 「ん?」 妙な物言いに、無月は眉を寄せた。 「どういうことだ?」 「だから怒ってるんですよ」 「ふむ」 結局問答の繰り返しになっているような気がして、無月は素直にその質問から離れることにした。そういえば疑問が一つ残っている。むしろ何故これが最初に出てこなかったのか不思議に思いながら彼女は聞いた。 「そういえば、君は何故アレを止めたんだ?」 「アレ?」 「君のお父さんが、皇設楽を殺すことをだ」 病院内で口に出す言葉ではなかったが、無月は躊躇しなかった。 「…………」 ふと無言になる恭也の視線が、無月からドアの方に向けられる。いや、考察するなら、それは士郎と設楽の病室のある方角だった。そちらへ、少なからず細い目線をやりながら、 恭也は子供にしては低い声色で言った。 「だから、怒ってるんですよ。物凄く」 どうやら度合いが酷くなっていっているらしいことに気づいて、無月はもうそれ以上何も言わなかった。
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