邂逅する死者

 

      1

 

 暗い。どこまでも深い闇。コンクリートの壁にはさまれて、暗く細い路地はどこまでも闇一色だった。

(ここは?)

 自問する。

 見慣れているはずの景色。空間。場所。別段思考が鈍っているというわけでもないだろうに、彼はその答えを出すのに数秒を要した。

(ここは裏界?)

 無法地帯の俗称を思い出す。闇に包まれ、無機質な壁に身を寄せて、彼は空を見上げた。鉄色の双璧の向こうに、月も星も出ていない闇が広がっている。

 見えるのは深い闇。鉄の色。その感触。世界は暗く、寒く、そして痛い。

 まるで生命体を拒むかのような冷たい空気に、彼は身震いした。冷徹な空間。自分を取り巻く景色が揺らぎ、渦巻き、そして凍っていく。

 世界は凍る。

 その痛みに耐えかねて、彼は静かに目を閉じた。

 闇は深い。そして暗く、黒い。より深い闇に包まれながら、一方で彼は不思議な安心感を抱いていた。まぶたの裏で光が花咲き、世界を一瞬だけ彩っている。柔らかな空気。緩やかな流れ。心地よい包容感に、心がゆっくりと沈んでいく。

 消えては現れる光。それを触ろうと、彼は無意識に手を伸ばした。固い何かが指先に当たり、手のひらに入る。握り締めると、それはあっさりと砕け散った。

 そして──

 何の前触れも無く、闇が消えた。閃きの赤。鮮烈の赤。灼熱の赤。一転して暑く、むせ返るような熱波に、凍りついた世界が解けていく。

 空が渦巻き、景色が揺らぎ、狂おしいほどに暑い空気が肺を焼き、身体を蝕んでいく。赤く染まった鉄壁が彼の身体を溶かし始めていた。

「世界は溶ける」

 声。誰の声だろうと不思議に思う間もなく、それは続く。

「だけど世界は続く」

 意味が分からなくて、彼は眉をひそめた。赤い光が目を貫き、世界が再び闇に沈む。

 広がっていく。優しさを失った黒い空間。悲しみに満ちた痛みの記憶。現実との剥離。引き剥がされ、ひきむしられながら、世界はいまだその姿を保っている。露出した骨と肉流れる血流。痛みと悲しみに犯されながら、だが世界は終わらない。

「世界はどこまでも無慈悲だから──」

 声が覆いかぶさってくる。それに触ろうと、彼は再び手を伸ばした。

 今度は何も掴めない。否。掴めるものなど初めから無かった。空虚な手のひらが、視界の先で静かに泳いでいる。崩れるように落ちていく腕。全てが沈み、溶けていく中で、だが両足が触れる地面だけは冷たく、凍えるように痛い。

 気が狂いそうなほどの劣悪な世界の先に、誰かが立っていた。声は、そこから聞こえてくる。黒いセミロングの髪。細いシルエット。揺らぐ景色の向こうにいる存在を凝視する。

 一瞬だけ開けた先に見えたのは、小柄な少女だった。

(女?)

「だから……気をつけて」

 何に? とは聞けなかった。声を出すことは、もうできない。

 何もできない。

 腕がこそげ落ち、足が融解し、心臓が止まる。

 痛みさえ消えうせた世界の片隅で、彼はゆっくりと倒壊していった。

 

 

「…………」

 パチクリと、まぶたを数回たたいてみる。ぼやけた視界。開ききっていない目を、また閉じて、開く。

 目覚めは静かだった。日の光が窓から差し込み、眠っていた神経を徐々に呼び覚ましていく。寝ぼけた瞳に太陽の光は少々痛かったが、それでも彼はゆっくりと身体を起こして布団を剥いだ。

 汗はかいていない。動悸も静かだった。眠りすぎたからか、身体が硬直し、否応無く脳に違和感を抱かせる。眠るという行為に疲労を覚えながらも、彼は大きく背伸びした。自然と、欠伸が出る。

 吹き出る涙。そのかゆみに誘われて目をこする。充血しないように優しく、ゆっくりと、手のひらで押すようにマッサージしながら、一方で彼は目覚まし時計を手に取った。

 止まらない欠伸を我慢することなく、涙の浮かぶ目で時計を見やると、時刻はちょうど長針と短針が重なりかけているところだった。

 九時四十七分。

「…………え?」

 紡ぎ出された反応は、ただそれだけだった。時計をひっくり返して、もう一度時刻を読んでみる。

 九時四十七分。

 思い切り振ってみる。

 九時四十八分。

 長針がカチッと、一歩だけ進む。思わず電池を抜いてみたが、何の意味もなさないことに気づいて、慌てて彼は元に戻した。再び、時が刻まれていく。

「…………」

 朝だった。太陽の光も、草木の気配も、全てが彩られ、活動を開始していた時間。もう一度、彼は時計を見た。時間は止まらない。どこまでも無慈悲に、刻々と進んでいく。

 誰もが過ごす朝の優しさに包まれながら、悲鳴はそのきっかり十秒後にやってきた。

 

       ◇

 

 かつて、これほどまでに気まずい朝があっただろうかと、槙原耕介は思索した。一階にある自分の部屋を出て、リビングに向かうまでの廊下、フローリングの床をすり足で歩きながら、まるで死刑台に登る死刑囚のように怯える自分に苦笑する。

 国守山の頂上付近にあるさざなみ女子寮。その管理人たる耕介の仕事は、その大半が寮生の世話であった。朝早くおきて風呂を用意し、軽く掃除して食事の支度にかかる。学生のために弁当をこしらえ、気持ちよく送り出す。昼間は休憩を取りながらも洗濯、掃除、買い物、その他雑用を済ませ、夕方には再び食事の準備。不規則な生活を送っている若干名のために、夜食も作ることもある。

 おおよそ、彼の平日はこのように過ぎていく。たまに寮生と晩酌を楽しんだり、トラブルに巻き込まれたりもするが、さざなみに来て早四年、もはや慣れたはずだった。つまりは、朝寝坊することなど、事情があるとき以外にはありえなかったということだが。

(風邪かな?)

 可能性としてはなくもない。が、自覚しているわけでもないので、耕介は首をひねった。

 リビングの前に立つ。普段どおり、仕事用のエプロン姿で耕介はそこにいた。百九十はあろうかという長身のおかげで、ドアが小さく見える。向こうから聞こえる声からすれば、いるのはどうやら成人組みらしい。平日のこの時間、学生がいるわけないことに気づいて、また自嘲気味に苦笑する。

(ううっ! 入りにくい……)

 思いっきり引け腰になりながら、だが彼はドアを押した。開けていく世界。差し込む光の先に、二人の女性がいた。

「お、おはよぉございますぅ……」

「あら、耕介さん」

 思いっきり小声であったにもかかわらず、耕介の声に反応して、三つ編の女性がこちらを向いた。寮のオーナーであり、耕介の従姉、槙原愛である。

「おはようございます」

「お、おはようございます、愛さん」

 引きつった笑顔を返すと、テレビに見入っていた椎名ゆうひも気づいたらしい。驚いたような顔をこちらに向けた。

「え、耕介君?」

「ゆうひもおはよ」

「もうおそよう、やで? ずいぶんとネボスケさんやね」

「ううっ。面目ない……」

 がっくりとうなだれると、ゆうひがアハハと軽く笑った。

「耕介君が寝坊なんて、ちょお珍しいね」

「疲れてたんですよ、きっと」

「別に、昨日何か特別なことをした覚えは無いんですけどね」

「そやったら、どないしたん?」

「どうしてだろう」

 腕を組んで考える。寝坊。それも三時間以上も遅れた理由。思い当たることといえば、起きる直前に見ていた夢のことだった。

 夢。闇に包まれた世界。凍りつき、痛みと悲しみで覆われた世界。そして熱。赤く染まり、焼きただれていく世界。

 落ちていく自分。そして声。

『気をつけて……』

 夢で聞いた言葉そのままに、呟く。

 誰の声なのかはわからない。わからないというのに、一方で胸の内に懐かしさを感じて、耕介は心臓を抑えた。

 動悸は静かだった。静かで、だけど熱い。暑さと熱さ。灼熱の赤を思い出して、彼は首を振った。眼球の奥に、刺すような痛みを感じる。

 と、不意に視線を感じて、耕介は顔を上げた。見ると不思議そうにこちらをのぞきこんでいる二人の女性がいる。

 三つ編の赤みがかった髪。おっとりとした、雰囲気の柔らかい感じの女性。見た感じから可愛く、ピンク色が主体のワンピースがよく似合っている。

 対して、隣にいる茶髪のウェーブがかかった女性は、だがこちらもひどく美人だった。こげ茶のブラウスに黒いスカート。シックな色合いが落ち着きを感じさせる。きょとんとした瞳でこちらを覗き込むしぐさは、まるで子犬のように愛らしい。

 どちらも目を見張るような美人である。こちらを覗き込んでくる四つの瞳。

 だが、どこか拭い去れない違和感があった。

「耕介君、どないしたん?」

 茶髪の女性が尋ねてくる。だが聞かれた当の本人は、その内容よりも関西弁ということに驚いていた。知り合いに関西弁を操る人間はいない。友人にも。家族にも。

(いないはずだ)

「耕介さん?」

 耕介の態度を不審に思ったのだろう、三つ編みの女性が首をひねる。が、首をひねりたいのは彼自身だった。親しげに話しかけてくる二人の美女。

 疑問は実に明解で単純だった。

 そも──彼女たちは誰なのだろう?

「……えっと、すみません。どちら様でした?」

「え?」

 二人の細い眉が、見合わせたように寄せられる。

「耕介君、大丈夫か?」

「耕介さん?」

 闇の中で、声は続く。

『世界は無慈悲だから』

 視界が暗転する。声は続く。

『だから気をつけて』

 黒い塊が転がり揺さぶられて、弾けて消えた。

「……ぁ……え?」

 目の前にいる愛とゆうひ(・・・・・)。四つの瞳が、疑惑のまなざしでこちらを臨んでいた。

「……な、なんですか? 二人して。俺の顔に何かついてます」

 聞き返すと、怪訝な表情のまま、二人は顔を見合わせた。訝しげに眉をしかめるこちらを無視して、目だけで会話して、うなずきあう。

「うちのこと、わかる?」

「……ゆうひのこと?」

「そや。えーと、そうやね。うちのことで思いつくことあげてみて」

「何で?」

「ええから!」

「あ、ああ……」

 釈然としないままだったが、押し切られる形で耕介は彼女のことを思索した。思いつく限りのことを羅列してみる。

「椎名ゆうひ。六月一日生まれの二十三歳。ふたご座のAB型。神戸生まれの大阪育ち。天神音楽大学声学科に所属していたが、才能を認められて英国はクリステラソングスクールに留学。その成果もあって、めでたくCDデビューを果たす。現在は大学に復帰。動物好きの納豆嫌い。さざなみ寮においてはお笑い担当。最近の趣味はレースの下着を集めること。それもフリフリの。お気に入りはピンクで猫の刺繍が入ったやつ」

「ちょ、ちょーっと待った!」

 慌てて、ゆうひが耕介の肩をつかむ。

「何で、そないなことまで知ってるん?」

「お前の衣類、上着から下着まで誰が洗濯していると思ってんだ?」

「……ううっ。乙女のプライバシーやで、耕介君」

「そう思うなら自分で洗濯しなさい」

「そらそうなんやけど……」

 顔を真っ赤にしながら、落ち込んだようにうなだれるゆうひに笑い返す。と、今度は愛が口を開いた。

「えーと、私のこともわかりますか?」

「もちろん……って、さっきからどうかしたんですか? 二人して」

 聞き返すべきかどうか、本能が問いかけてくる。それを無視して、勝手に口が動いていた。目の前の二人。槙原愛と椎名ゆうひ。二人の美女を前にして、耕介にあるのはただ不可思議な違和感だけだった。

 それだけはおくびにも出さず、聞いてみる。答えはあっさりと返ってきた。

「いや。どないしたんっていうのは、うちらの台詞やねんけど」

「え、ええ」

 控えめに、愛がゆうひに同調する。

「俺? 俺がどうかしたの?」

「だから、耕介君に聞いとるんやってば。うちらにわかるわけないやんか」

 それはそうだと納得しながら、耕介は首をひねった。

 どうかしたのだろうか、自分は。自分の気づかないうちに、どうにかなってしまったのだろうか。ただひとつ言えたのは、

「寝坊しただけだと思うけど」

「それだけ?」

「違うのか?」

「だーかーらぁ! それはうちらが聞きたいんやってば」

「いや、そんなこと言われても……」

 食い下がってくるゆうひに、耕介はただなされるままに身体を揺らした。

「多分、大丈夫。どうもしてないよ。えっと、愛さん?」

「はい?」

「寝坊した分の給料、引いておいてください」

「いえ、気にしないでください。耕介さん、休日も働いていること多いんですから」

「そうですか? でも……」

「ご褒美だと思ってください」

「えーと。なら、お言葉に甘えます」

「はい」

 にこやかに、愛が笑う。一方で釈然としない顔でこちらを見上げているゆうひの頭をなでながら、耕介は不意に疑問に思ったことを口にした。

「ところで、ふたりとも今日学校は?」

「今日はお昼からです」

「センセが出張で休講やから、今日の授業はなし」

「真雪さんは?」

 二階にいるはずの漫画家を思い出しながら、聞いてみる。答えはある程度想像できたが、とりあえず、予想していないものが返ってきた。

「編集部の人と打ち合わせとかで、朝早く出かけてったよ」

「そう……」

 ただそれだけを漏らして、耕介は眉を寄せた。

 何をすればいいのか。普段なら、考えるまでもなく思い付きがやってくるはずだった。仕事は与えられるものではなく、自分で探すものであるというスタンスは、彼の日常でもある。

 だというのに、何をすればいいのかわからない。朝の食事は当然終わっているだろう。ならば掃除をすべきか。このふたりの昼食の準備を始めるべきか。そういえば、庭の花壇の花にも水をやらないといけない。風呂は沸いていないだろうし、冷蔵庫の中身も補充しないといけない。そういえば洗剤が切れていることも思い出す。やるべきことは多々あった。

「ちょっと、外に出てきますね」

 こちらを不思議そうに見つめる二人をそのままに、耕介は勇み足でリビングを後にした。

 

      ◇

 

 赤い壁。赤い空気。赤い地面。四方を囲む壁は赤く、彼自身を包む空気は赤く、彼が立つ地面もまた赤い。赤。純粋な赤。どこまでも続く赤。それ以外の色は存在していなかった。

 故に、視界も赤である。それ以外に認識は無い。赤い空間。赤い自分。赤しか存在しないために、やはりそこに存在する全てが赤。

 優劣も無く、影も無い。一色に染まりきった空間で、彼は息を吐いた。赤い息。気体であるはずの吐息はやはり赤く、吐き出された瞬間に赤く霧散する。赤い世界へ溶け込んでいく。

 だが──

「耕介さん?」

 一瞬にして赤が消えた。

 呼ばれたことを自覚して声をしたほうを向く。

 キッチンの冷蔵庫の前に立っていたのは、青みがかった髪を黄色いリボンでポニーテールにまとめた少女だった。顔見知りであるはずの彼女を眺め、ややして、耕介は思い立ったようにつばを飲み込んだ。

 世界が消失する衝撃にふら付きながら、それでも何とか平静を保ちつつ、耕介は聞いた。

「何?」

「それ、焦げちょりますけど?」

「え? って、ああぁっ!」

 慌てて、耕介は手元のガスコンロの栓を回した。火を止め、フライパンの上のモノを見やる。診断するなら、黒ずみになる直前といったところか。どちらにしろ食べられたものではない。ハンバーグだったものは、敢え無く生ごみ行きとなった。

「……焦がしちゃったか」

「ボーっとしとられましたけど、どうかされたとですか?」

「え? うん。まぁ、どうかしたのかなぁ。俺」

 なんとも曖昧な返事に、さざなみ寮の住人の一人、神咲薫は眉をひそめた。

「耕介さん?」

「今日、朝からこんな感じなんだ。自分でも何がなんだか」

 肺の辺りに、どこか穴でもあるかのような空白感を抱きながら、耕介は焦げたフライパンを流しにおいた。熱された鉄が、水に触れて音を立てる。湯気が立ち上り、耕介のほほを撫でながら消え失せた。

「風邪ですか?」

「うーん。どうだろう。自覚ないだけにやっかいだね。だるいわけじゃないし、疲れてもいない」

「……そうですか」

「ただ幻覚が見えたりするけどね」

「え?」

 素っ頓狂な声を上げる薫を他所に、耕介はボールに入った肉の塊を手に取った。駄目になった肉の分を考えて、少な目の肉を手のひらで丁寧に形を整えていく。

「多分、女の子だと思うんだ。けど誰だかわからない。髪は多分美緒くらいの長さで、身長は……そうだな。薫よりも少し低いくらいかな」

「え? それって……」

「まぁ、それはさておいて!」

 薫が何かを言いかける前に、耕介は一転して明るく言ってのけた。

「今は夕食の準備しないとね」

「あ、手伝います」

「ありがとう」

 それは別段、なんでもない会話だった。少なくとも、耕介はそう思っていた。

 そしてその日は終わる。

 何もないままに。

 

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