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 朝倉弥生という少女について薫が知っていることと言えば、引っ込み思案な性格と、とにかく本番に弱いという点。後、ずいぶん前に父を亡くしたために、家は母子家庭だということくらいだった。

 セミロングの髪。染めるわけでも、ピアスや髪飾りをするわけでもない。品行方正で、およそ何か問題を抱えている風には微塵も見えなかった。落ち着いた容貌は、だがどこか人を避けている節があったのだろう。友達がたくさんいたようにはとても見えない。

 その彼女もまた剣道部だった。

 薫と彼女の接点といえば、実のところそれだけである。大学にクラスは無いため、学年が違えばもう接点は部活しかない。後輩の面倒を見ることも少なくない薫ではあったが、それにしたところで部活動のみのことで、プライベートなことを話し合うほど親しくはなかった。母子家庭ということも、彼女のことを知る他の後輩から聞いたものだ。だから趣味が何なのか、どんな男が好みなのか、剣道を始めた理由なども含め、およそ個人的なことなど知るべくもなかった。

 知るべくもないまま、知ることになる。

 その朝倉弥生が死んだと聞かされたのは、耕介が珍しく寝坊したその日の夕方のことだった。

 

      ◇

 

「朝倉が?」

 剣道場に胴着を着て入ってすぐ、いつもは静かに準備運動をしているはずの後輩が騒がしかったので注意すると、帰ってきた答えはあまりに重い事実だった。

「ええ。昨日、交通事故にあったらしいんです。ほら、もうすぐ文化祭ですから、当日模擬店の担当の順番を決めようと朝倉さんの家に電話したら、電話に出た人──多分、朝倉さんのお母さんだと思うんですけど、その人からそう言われたんですよ」

「そうか……」

「それで、一応お通夜とかあるみたいなんで、明日の夜、皆で顔出そうかなっていう話をしてたんです」

「……それがよかね。でも、それにしてはみんなやけに普通やね」

 薫が聞き返すと、どうにも困った顔をして、後輩たちが顔を見合わせた。

「えーと。こう言っちゃうと彼女にも失礼だし、神咲先輩も気を悪くするかもしれないけど、そこまで落ち込むほど仲いいわけじゃなかったから」

「…………」

「そ、そりゃあ、気の毒だなとは思いますよ。かわいそうだなって。だけど、泣くほど悲しくはないんですよ。ねぇ?」

 同意を求められた他の後輩が、おずおずとそれに賛同する。

(確かに、そんなものかもしれんけど……)

 けれど、どこかで割り切れない自分がいるのは確かだった。いくら知人とはいえ、仲がよかったわけではない。親しかったわけではない。だから悲しくない。悲しめない。それは何も彼女たちだけではない。朝倉弥生が死んだと聞かされても、悲しいと思えていない自分がいる。

(うちはそれが許せない?)

 ならば悲しむべきなのだろうか。悲しめば、それで済むのだろうか。

 だがそれはあくまで自己満足ではないかという思いもあった。だから口には出さなかったが、自然と表情は険しくなっていたらしい。後輩たちが、どうにも怯えたように身を縮ませていた。

「あ、いや。ごめん。なんでもなかよ。準備運動、続けて」

「は、はい……」

 ばらばらと、散っていく後輩の様子を伺いながら、薫は漠然とした不安に襲われていた。

 

 

 結局──

 その不安は、部活中ずっと消えないままだった。

 不安を抱えたまま、帰宅する。帰宅して、普段のようにキッチンで夕食の準備をしている耕介を見かけた。呆然と立っている耕介に呼びかけようとして、ふと薫は彼の手元から黙々と上がっている黒煙に気づいた。

「耕介さん?」

 返答は、何故か一拍置かれて返ってきた。

「何?」

「それ、焦げちょりますけど?」

「え? って、ああぁっ!」

 慌てて、耕介が手元のガスコンロの栓を回した。しまったと、顔で語りながら手元を見詰める耕介に習って、薫も横から覗き込むと、ハンバーグは黒ずみになる直前だった。食べられないと踏んだのだろう、フライパンごとそれを流しに持っていく。

「……焦がしちゃったか」

「ボーっとしとられましたけど、どうかされたとですか?」

「え? うん。まぁ、どうかしたのかなぁ。俺」

 なんとも曖昧な返事に、薫は眉をひそめた。

「耕介さん?」

「今日、朝からこんな感じなんだ。自分でも何がなんだか」

「風邪ですか?」

「うーん。どうだろう。自覚ないだけにやっかいだね。だるいわけじゃないし、疲れてもいない」

「……そうですか」

「ただ幻覚が見えたりするけどね」

「え?」

 素っ頓狂な声を上げたこちらを他所に、耕介はボールに入った肉の塊を手に取った。いつ見ても手際のいい彼にしては珍しい失敗に驚きながら、その動きを目で追う。

 鮮やかな手つきで、肉をこねる耕介の様子を見つめていると、彼が小さくため息をはいて続けた。

「それとも夢かな? 多分、女の子だと思うんだ。けど誰だかわからない。髪は美緒よりも少し長いくらいで、身長は……そうだな。薫よりも少し低いくらいかな」

「え? それって……」

 一瞬、朝倉弥生のことが頭に浮かんだ。髪と身長。かみ合った特徴はただそれだけだったが、どこかで確信を持っている自分がいる。不安が、徐々に大きくなってくる。

 確かめるべきか。だが、どうやって? 朝倉弥生のことを口頭で伝えられるほど、薫とて彼女と親しいわけではなかったというのに。

「まぁ、それはさておいて!」

 こちらが何かを言いかける前に、耕介は一転して明るく言ってのけた。

「今は夕食の準備しないとね」

「…あ、手伝います」

「ありがとう」

 その日の会話は、それだけで終わった。結局何事も無く、一日が終わる。

(きっと気のせいやね)

 そう自分に言い聞かせながら、薫は床に就いた。

 

      ◇

 

 その判断が間違っていたことは、翌日知れた。

 翌日も、耕介が起きてこなかったのである。

 さざなみ寮はその名の通り寮なので、基本的に寮生の食事は管理人である耕介が用意する。毎食ごとに全員が揃うといったことはあまりなかったりするのだが、当の管理人が起きてこないというのはまずありえないことだった。

 が、起きてこない者を待っていても仕方がない。昨日、彼を起こしに行かなかったのは単に疲れているからだろうという寮生の気遣いだったが、二日続けてとなると、朝食に顔を出した寮生全員が首をひねった。

 耕介は、その巨体に見合わずマメである。料理を含めた自分の仕事に関しては、まず妥協することをしない。そのことは皆も知っていただけに、珍しく全員が揃った朝食はどこか気まずかった。

 起こしに行かなかったのは、この寮最年長たる仁村真雪の

「放っておけ!」

の一言によるもので、薫たち寮生一同、結局耕介抜きに朝食を終えたのである。

 そして今、薫は耕介の部屋にいた。

 朝食の後、一様に怪訝そうに眉をひそめる皆には内緒で、薫は耕介の様子を見に来ていた。

 判断する。そして確信した。

 耕介の様子に変化はない。異常もない。ただ起きないだけである。呼吸もするし、突付けば反応を示す。少々の殺気を込めて剣をかまえもしたが、耕介は反応を示さなかった。医者に見せれば、それこそ寝ているだけといわれるのがオチであろうくらい、彼は健やかに眠りについている。

 とりあえずの処置として、薫は耕介の部屋に霊的な結界を張り巡らせていた。自由意志で起きることができるのならともかく、彼はいま一応の昏睡状態にある。ただでさえ霊能者の周りには霊が集まりやすいのだから、耕介の周りを結界で防御するのは今のところ最善の処置と言えた。

「耕介様の霊波に乱れはありませんね、薫」

 耕介の額に手のひらを乗せながら、白い和装束を着た金髪の女性が言った。薫が実家の剣術流派・神咲一灯流から受け継いだ霊剣『十六夜』の本体、その人である。

「うん。霊的にも何も異常なし。医学でも同じやと思う」

 十六夜の問いに答えながら、薫は懐から札を取り出して、窓際のサッシに貼り付けた。軽く指先を動かし、最後に印を切る。

「よし。これでとりあえずの結界にはなる。けど、このままにしておくわけにもいかん。何か対策を考えんと」

「そうですね。一応の原因さえ掴むことができれば、対応はできるのでしょうけど」

 二人して首をひねる。退魔、いわゆる霊能と呼ばれる分野においては専門家である彼女たちも、耕介が眠り続ける原因がわからないでいた。

 とにかく、事が急なのである。耕介が微小の変化を見せ始めたのが先日で、発覚したのが今日だと仮定する。もし霊的な力が働いているのだとしたら、もう少し何かしらのリアクションがあってもいいはずだった。例え薫や十六夜の知識の範囲内でなかったとしても、行動に移すことができたのである。

「症状がわからんことには、どうしようもないな」

「ですが耕介様は人間です。このまま眠り続けていては、健康のほうにも支障が出るでしょう?」

 言ったのは、十六夜の弟、御架月である。彼もまた、神咲が所有する霊剣であった。

「それはそうだけど……」

 今度は三人で首をひねる。と、けたたましい音を立てて廊下の電話が鳴った。しばらくして誰かが取り、小さくやり取りする声が聞こえる。と思ったら、パタパタというスリッパの音が耕介の部屋の前までやってきて、そして止まった。

「はい?」

「あ、やっぱりここにいた。薫さん? 大学の剣道部の方からお電話ですー」

「ああ。ありがとう、知佳ちゃん。今行く」

 ドア向こうの寮生、仁村知佳に礼を言って、薫は早速受話器を取りに行った。部屋の入り口で彼女に会釈して、咳払いもそこそこに受話器に耳を当てる。

「もしもし。神咲ですが……」

『神咲先輩ですか?』

「どちら様?」

『私……朝倉です。海鳴大剣道部の』

「……………え?」

 思考が止まった。呼吸も瞬きも、瞬転した意識は闇にぶつかって跳ね返り、きっかり一回転して戻ってくる。

 電話の向こう。届いてきた音声。

 聞き間違えたかとも思った。もしくは、また別の朝倉という苗字の人間か。だが、剣道部に「朝倉」という姓を持つ者が「朝倉弥生」以外にいただろうか。

 いるのかもしれない。いないのかもしれない。記憶は確かなはずなのに。完全にいないと告げてくる理性を、心が否定してくる。

 ありえない。ありえるはずがない。だとするなら、今電話の向こうでしゃべっているのは一体誰だというのだ。

 唇が震えた。それでも、何とか声を絞り出す。

「あ、朝……倉?」

『……はい。すみません、いきなり電話なんかして』

「い、いや。それは……構わんよ。って、そうじゃなくて、朝倉?」

『はい?』

「朝倉なんやね?」

 しつこいとは思いながらも聞き返す。応対としては最低だと自覚しながら、それでも聞かずに入られなくなって、薫は受話器に耳を押し当てた。

『えーと。どういう意味かわかりませんが。大学の剣道部でお世話になっている朝倉です』

「朝倉、弥生?」

『その朝倉です。他にうちの部に朝倉っていましたっけ?』

「……いや。すまない。変なこと聞いた」

『いいえ、いいですよ』

 押し黙る。何を言ったらいいかわからなくなって、薫は試行錯誤した。いや、何も考えられなくなったというほうが正しいか。今この時点で、何をすればそれが最良なのか、その判断がつかなくなっている。

 まさか、死んだはずじゃないのですかと聞くわけにもいかない。死んだことを知ったのは確かに他人からの情報で、彼女の死を看取ったわけでも、彼女の死体を確認したわけでもない。

 ひょっとしたら、剣道部の後輩みんなが薫をからかおうとしただけなのではないだろうか。そうだとするなら、彼女たちが平然としていた理由にも納得がいく。

 しかしつむがれた言葉は、至極自然なものだった。

「それで、朝倉。何の用ね?」

『あ、はい。そうでした。神咲先輩に相談があるんです』

「……相談?」

『これから会えませんか? 二人きりで』

「電話じゃ言えんとね?」

『……ちょっと。直接話をしたいので』

 返事をしかねて、薫は軽く唾を飲んだ。

 正直に言えば迷っていた。死んだはずの人間。死んだと思ったはずの人間。死人としゃべったことは退魔士として一応の経験をしてはいるが、ここまで自我を持った幽霊というのも珍しかった。

 だが考えるまでもなく、これはある意味手がかりなのではないかという信号が彼女の脳裏に浮かんだ。

 耕介が変調を起こしたのと同時期に朝倉弥生が亡くなっている。

(いや違う。その逆だ)

 朝倉弥生がなくなった頃に耕介の変調が始まったのだ。その二つを関連付けるにはあまりにも条件や要素が弱すぎる気もするが。

(だが、他に手がかりもない。この際、駄目で元々じゃ)

 結論が出れば、後は早かった。

「朝倉。今どこにおる?」

『家です』

「……住所教えてくれんね。うちがそっちに行くから」

 そうして住所を手元のメモ用紙に殴り書きし、薫は慌てる気持ちを抑えつつ耕介の部屋に戻った。

 

 

 そも、普通の人間であるならば、死ねば魂は消滅する。魂が消滅するから死ぬのではない。否、それは間違いではないが、魂はあくまで身体を動かすエネルギー源である。

 車はエンジンがなければ動かない。エンジン、すなわち心臓が動くことで稼動する。だがそのエンジンも、栄養素たるガソリンがなければ動くことはない。それで最後かといえばそうでもなく、結局人が乗ることでしか車が動くことはないのだ。すなわちそれが魂である。

 肉体だけでは、例え健康であっても稼動しない。魂のない身体では、動いていた心臓もやがて栄養を失い、失速して活動を止める。

 車を降りても人が活動できるように、原則的には魂だけでも存在は可能である。が、人の魂ほど不安定な物はない。というのも、魂そのものはただのエネルギー集合体でしか過ぎないからだ。

 エネルギーは仕事をなす能力のことであり、不正不滅である。が、それはあくまでエネルギーを持つ存在に対してだ。エネルギーは必ず何かと存在を共有する。それ単独で存在は出来ない。

 何故なら、魂というエネルギーの分布状態はその存在範囲においてあまりにも広く、かつ密度的にも薄いために有効に存在を許すことが出来ないからだ。自然界において物質が拡散し、エネルギーが低級化し、情報が失われていくように。魂の劣化は目に見えて早いのだ。

 身体という容れ物で抑えていたエネルギー劣化。北極のど真ん中で、裸ですごせる人間が果たしているだろうか。果たして何秒もつだろうか。魂とはすなわち存在を裸にしたようなものなのであるから、そういう根底からすれば、魂だけで生きることが出来ないのは道理である。

 そして魂を人格に沿って具現化したものが霊体。死んだ者の魂が、何らかの力(怨念や悲しみ、およそ強い心の想いによるものが大きい)によって具象化されたものが幽霊である。この場合はその力によって劣化進行が衰えているのであるが。

 ということを踏まえて、薫は朝倉弥生のことを振り返った。

 彼女が仮に本当に死んでいたとしよう。

 魂だけで活動することは出来ないのはもとより、ならばどうすれば存在できるかといえば、それこそ別の力が働いている可能性が強い。

 恨みや悲しみ、無念といった感情による力。そしてそれが働く場合、ほとんどが幽霊と呼ばれる存在となる。

 だがそうなると、逆に力の方向性が一方的になってしまうために自我を持つことはおよそ不可能となる。よほど強い精神力を持っていない限り、感情に駆られながら自我を持つことのできる幽霊は存在しない。いるとするなら、それはすでに幽霊を超えた存在だ。もしくは、別の肉体を失うと同時に何かに憑依した者。十六夜も、言ってしまえば後者に分類される。

 では浮遊霊ならどうか。浮遊霊は自我を持っている。だが死んだときの感情の方向性がバラバラであったため、目的なく存在を許してしまった者。それが浮遊霊だ。彼らが目的を持って行動することはない。逆を言えば、彼らは目的を持つことが出来ない。故にもし彼女が浮遊霊ならば、『相談がある』と電話することなどできはしないだろう。

 朝倉弥生が人外の生き物だったという可能性は低い。薫が知る他の超常的存在のどれとも、彼女が当てはまることはないだろうと想定する。確信はなかったが。

 何にせよ。

(会ってみればわかる)

 思考錯誤する頭の中、気持ちを切り替えながら、剣を納めた鞘袋を手に、薫は海鳴臨海公園を横切ってわき道に入った。霊剣『十六夜』を持参したのは、万が一の場合を考えてのことである。彼女が剣道有段者で、実家が剣道場であるが故に実物の日本刀を持っていることは部内でも有名な話であったから、研ぎに出していた剣を取ってきたとでも言えばいいと彼女は考えていた。

 信号機もない交差点。横断歩道。その道からさらに分岐する小道に入る。車一台がようやく入れるような道。その一角に、朝倉弥生の住む家はあった。

 

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