4

 

 不公平だと思う。

 私には何もない。

 けれど彼女にはある。

 私と彼女の、何が違うというのだ。

 

 いや。違うのかもしれない。

 だって私は……

 

      ◇

 

 幽霊は笑っていた。笑いながら、彼女はおもむろに口を開いた。

『先輩は、人を殺したことがありますか?』

「え?」

『十六夜』を構えたまま、薫は素っ頓狂な声を上げた。殺気はそのままに、表情だけを崩して弥生を見やる。

「朝倉?」

『人殺しって、どうなんでしょうね。怖いのか、悲しいのか。それとも楽しいのか、簡単なのか』

 いいたいことがわからないといった表情で、弥生は言った。だがそれは聞いている薫も同じだった。

『私は怖かった。悲しかった。でも同時に嬉しかった』

 目を見張る。幽霊は泣いていた。

「朝倉……一体、何を」

『先輩。私ね、お父さんを早くに亡くしたんです。それから、私を育てるためにずっと働いてきたお母さんは、過労でとうとうおかしくなっちゃいました』

「おかしく?」

 聞き返す。最初の彼女の言葉が気になったが、どうやらそれも含めて話してくれるらしいことに気づいて、薫は少しだけ緊張を解いた。

『言葉どおりです。狂ったっていうんですか? 仕事をやめて、夜な夜な出かけては、毎晩違う男を連れて帰ってきました。そうして朝方までずっと、セックスするんです。誰かもわからない男と寝ているお母さんは、知らない女の人でした』

「…………」

 重い。重圧に耐えかねて逃げ出したくなる。ここから立ち去りたい気分を抑えつけて、薫は弥生を見た。彼女は泣きながら、話を続ける。

『そしたらある晩、お母さんが言ったんです。これで最後だって。この人についていくんだって。多分恋人でもできたんだって、そう思っていたら、その連れてきた男は最低な奴でした。お母さんと寝た後、私の部屋に来たんです。後は先輩でもわかるでしょう? 私はその男に抱かれました。無理矢理』

「──っ!」

 息を呑む。まだ話は終わらない。

『お母さん。ある金融会社に借金していたんです。生活費や私の学費も含めて。装飾品やいろんなもの。私たちがどう一生懸命働いたって返せないような多額の借金を。そしたらその人が借金を肩代わりしてくれたって。喜んでました。今考えたらおかしな話で、そして気づくべきでした。その人もグルだったってことに』

「警察には……」

 弥生は力なく首を振った。

『それをしたら、お母さんも捕まっちゃいます。いろいろさせられていたみたいだから。だから私は言えなかった。そして私は毎晩その人に抱かれました。時にはお母さんと一緒に。「親子どんぶり」だって、その人は笑ってましたけど』

 逃げ出したかった。手に持っている『十六夜』が、カタカタと震える。中で聞いているだろう十六夜本人のせいなのか。それとも自分の震えなのか。わからないほど、薫は動悸を激しくしていた。

『そうしていつしか、その人は商売を始めるって言ったんです。私たちは最初、何のことかわかりませんでしたけど。すぐに理解しました。その人が数人の男の人を連れてきたんです。若い人から年配の人までいろいろな人が来て、そして例外なく、私とお母さんを抱いていきました。その人は彼らからお金を貰っていたみたいで、商売ってこのことだったんだって、私は気づいたけど。お母さんはもうどうでもいいみたいでした』

「ど、どうして……」

『もとより弱い人だったから。お父さんが死んだときも、しばらく正気を失っていたくらい弱かった人だから。そのときにもう心が壊れかけてたんでしょうね。だから、快楽に身を委ねるようになるのに時間はかかりませんでした。だけどそれでも、たった一人の母親だから。私はあの人を捨てられなかった。見捨てられなかった! 見捨てたら、それこそ私は人間として駄目になるって、そう思ったから。私はいつもどおり学校に通って、帰ると同時に服を脱いで、待ち構えている男のペニスをくわえるんです。奉仕して、お尻とアソコを同時に貫かれて。いろんな格好や、いろんなプレイをしました。SMからスカトロまで。そうして彼らを喜ばせないと、お母さんが暴力を振るわれるから』

「朝倉。もうよか! やめんね!」

 耐えかねて、薫は叫んだ。だが、弥生はやめない。

『いっぱいがんばったんです。がんばって、精液を飲んで。たくさん膣に出されても我慢して。危険日だって言っても、かまわず生で犯され続けて。時には学校でもしたんですよ? 先輩は知らないでしょうけど。大学で剣道着を着たまま、剣道場で犯されたこともあったんです。その次の部活の日、普通に皆、私がセックスしたところで精神統一していました。正座して、私に注がれて、精液まみれになった床の上で。あれはおかしかったな。ねぇ、先輩……』

「…………」

 薫は返事をしなかった。いや、出来なかった。

『私、これでもふっきろうとしたんですよ。こんな環境でも、剣道だけはやっぱり楽しかったし。先輩は厳しいけど優しかったし。誰にも相談できなかったけど、これも楽しめばいいんじゃないかって。楽しむことができれば、こういう生活も別に悪くないんじゃないかって。多分、私も快楽が身についていたんでしょうね。下着もつけずに界隈を歩くような淫乱になった私の様子を見て、男の人は喜んでました。こぞって私を抱こうとして、その様子がなんだかかわいく思えて。また抱かれるんです。3Pや4Pなんてものじゃなく、もうわからないくらいたくさんの男の人たちに同時に。穴という穴を貫かれて、精液をかけられて、でも気持ちよくて嬉しくて。同時にそんな風に感じている自分に嫌悪を抱きながら……』

「朝倉っ!」

 もう我慢限界だった。薫は剣を捨て置いて、霊体であるはずの彼女を強く抱きしめる。脱力感が薫の全身を駆け抜けたが、そんなのは些細なことだった。薫の腕の中で、弥生は淡白に続けた。いつの間にか、彼女は泣いていなかった。

『そうして、ある日、身体の異常に気づいたんです。眩暈がして、吐き気がして。風邪かと思ったけど、違いました。思い当たることもあって、私は病院にいったんです』

「……まさか」

 薫は愕然とした。

『産婦人科で告げられたのは、おめでとうの一言でした。笑顔で、よかったねって。看護婦が自分も嬉しいんだって顔して、幸せそうに告げてくるんです。私は気が狂いそうだった! 今すぐにでもその看護婦を殴りつけて、殺してやろうかと思ったくらいに!』

「…………」

『お母さんには言えなかった。気持ちよさそうに、男の人に抱かれているあの人に。焦点の合わない目でずっと喘ぎ続けているお母さんにはもう、私という娘の存在は見えてないみたいでした。私は当然、その原因を作った人に言いました。そうしたらそいつ、なんて言ったと思います? 「どっかその辺で生んでから、殺せ」って』

 吐き気がした。彼女を抱く手が震える。彼女がこちらの服を掴んだ手もまた震えていた。

『堕ろすには手術代がいるし、生むのにだって金がかかるからって。家のどこか、便所ででも産み付けて、そのまま流しちまえって。私は怖かった。だってそうでしょう? 自分の中に命がある。どこの誰かも知らない男の子供だけど。それでも命なの! 生んで殺すのも、堕ろすのも、どっちも同じことじゃない。だから私は。私は……っ!』

「朝倉?」

 生きていた頃と同じように彼女は深呼吸した。

『事故を装って、あの人の車の前に飛び出して、轢かれたんです。私の中の命と一緒に』

「……事故じゃなかったとね?」

『自殺です』

 あっさりと、弥生は告白した。

『そして気づいたら、私は空に浮かんでいました。しばらくはどうすればいいのか迷ったけど、すぐに思い当たりました。私にはしたいことがあったんだって』

 ぴくりと、薫は小さく痙攣した。彼女を抱いていた腕を放し、距離をとる。見ると、弥生は笑っていた。

『生前、槙原さんと出会ったのは偶然でした。ちょうど妊娠する少し前くらいかな? 不良に絡まれてたんです。その男たちは、以前家で私を抱いたことのある連中で。私に対して弱みを握っているとでも思ったんでしょうね。「タダで抱かせろ」って、それだけを要求してきました。そしたら、槙原さんが「何やっているんだ」って叫びながらすごい形相で近づいてきて、そいつらを追い返したんです。けど私の方は、抱いた男の顔なんてほとんど覚えていませんでしたから、「ああ、また違う男の人が抱きにきた」位にしか思ってなくて。そしたら彼、息を切らしながら「大丈夫?」って、にっこり笑ったんですよ』

 耕介らしいと、薫は思った。誰にでも優しく、手を差し伸べられるのが、槙原耕介という青年なのだ。

『信じられなかった。こんな人がいるんだってことが。信じられなくて、恥ずかしくて、お礼も言えずに逃げ出して。そしたら次の日、授業の開始時間ギリギリにバイクで貴女を乗せて走ってきた人がいて。そのバイクを運転する人の顔を見て、「ああ、神咲先輩の彼氏なんだ」って。残念だったけど、やっぱりとも思ったんです。だって、貴女は幸せそうだったから』

 思い当たることはあった。数ヶ月前、確かに遅刻しそうになって耕介に大学まで贈ってもらった記憶がある。ただそれだけで、耕介が薫の彼氏だというのは誤解でしかない。だが誤解されることを、薫自身どこかで望んでいたことも確かだった。

『その後、人づてで彼の名前を知って。だけどそこから何も出来ないまま、私は死にました。死んでからはじめて、考えたんです。私のしたいこと。私が望んだこと。それは唯一、私に優しくしてくれたあの人と一緒になることでした』

「……朝倉。しかし、耕介さんは……」

『ええ。私のものじゃない。けど、貴女のものでもない。私は、あの人に抱かれたい。あの人と一緒にいたい。そのためなら、なんだってする。あの人が帰る場所は私のところだって気づかないなら、気づかないなら、はぁ……はぁ……』

「朝倉?」

『気づかない……ない……気づか……』

 重たげにつぶやく弥生に、薫はどうしたものか戸惑っていた。彼女が幽霊だということも忘れ、戸惑い、あせる。と、床に投げ置かれたままの十六夜が薫を一喝した。

「薫。この方は正気を失いかけてます。気をつけて」

「十六夜?」

 間の抜けた声を上げながら、だが薫はすぐさま思考を戦闘用にシフトした。軽いステップでベッドのところに戻り、十六夜を手にする。今度は躊躇せずに刀身を抜いて、意識を一転に集中した。

「神気発勝」

 ポウっと、刀身が淡い光を放った。天井の低い部屋のことを考慮して、剣を下段に構える。だがそこまでだった。その格好のまま、動きを止める。

 肩を上下させながら、弥生は弱々しく、だがこちらをはっきりと睨みながら呟き続けている。その瞳が痛々しくて、薫は逃げたくなった。

『き、気づかないなら、気づか……気づかせ……る。あ、あの人が帰る……場所も……壊す。あなたを……壊す。壊す。壊す。壊す……はぁ……はぁ……ここ……こわ……壊して、壊せば……』

「……朝倉」

 その様子を見つめながら、だが薫は動けないでいた。十六夜が、剣の中から現れる。叱責するような口調で、彼女は言った。

「薫? 何をしているのです! あの方はもう自我を失いかけています」

「けど。けど! うちはこの子を斬りたくない!」

 本音だった。剣を構えながら、薫はどうしたらいいかもわからず、そしてだからこそ迷っていた。本音は斬りたくない。十六夜で一閃すれば、きっと弥生は消滅する。そして耕介は助かるだろう。

 耕介を助けたい。だけど、弥生を斬りたくない。

 ここまでくると、もうジレンマだった。

「薫。この方に同情されるのはわかります。同じ女として、私も同じ気持ちです。けれど、薫は生きている人のために、剣を取ったのでしょう? 耕介様を助けるのではないのですか?」

「わかっちょる。わかっちょるけど、うちは……うちは……」

 表情をゆがめながら、天井に当たらないように、薫は剣を上げた。このまま振りぬけば、苦しそうに悶えている弥生を一閃できるだろう距離まで近づく。

 弥生が、最後の自我を保ちながら吐き捨てた。

『あ、貴女にはわからない。私の想いなんて。恵まれて、愛されて、帰る場所も、迎えてくれる人もいる貴女に同情なんてされたくない。私には彼しかいないの。彼だけなの。お願い。ちょっとでも同情してくれるなら、あの人を私に頂戴!』

「耳を傾けてはなりません、薫!」

『アンタは黙ってて!』

 十六夜に向かって一喝する。だが十六夜も負けてはいなかった。

「貴女様の苦しみはわかるつもりです。私も同じようなものでした。外来で生まれ、親に売られてこの国に来て、迫害されながらあっけなく殺されて、弟と一緒に生涯を終えました。今こうしているのは、本当に運が良かったのだと思っています」

『ならアンタと私は違う。アンタは幽霊のくせに幸せになって、私はこうしてもうすぐ消えてしまう。そんなのいや。絶対にいや!』

「聞いてください。私はだからといって、私たち姉弟を捨てた親のことをうらんでなんかいません。だってそうしなければ生きていけなかったのですから」

『あんたのことなんて、私は知らない!』

 弥生の叫びを無視して、十六夜は続ける。

「人はみんな、生まれた境遇も、環境も、違うのです。公平なんかありません。けれど、私は誰かをうらやんで、その人の邪魔をするような存在にだけはなりたくありません。好きな人を不幸にしてまで、私は生きていたくありません」

『だったら死ねばいいじゃない! だけど私はまだ死にたくない。消えたくない。彼と一緒になるの。一緒に……一緒……セックスして……子供も生んで……幸せになるの。なのになんで邪魔するの!』

 夢を見ているのだと、薫は思った。彼女の焦点は、すでにこちらなど捉えてないかのように泳いでいる。

 もう無理なのだろうか。剣で斬る。そうすれば成仏するだろう。だがそれは、殺すのと同義なのだ。そして気づく。

(うちは……朝倉に同情しながら、結局自分の心配をしているのか)

 彼女を殺せば、自分が傷つくのがわかっているから。

 吐きそうになるほどのむかつきを胸に覚えて、薫は苦渋に顔をゆがめた。わが身かわいさに、そして同情心から彼女を見逃して、耕介を危険にさらすのか。それとも……。

「朝倉。ごめん。うちは出来ない。見逃せば、きっと誰かが悲しむ。耕介さんの家族や寮の皆、そしてうちも。だからごめん。うちは……お前を斬る!」

『先輩……?』

「恨むなら、恨んでくれていい」

「恨んでなんかあげない。そんなのは先輩の自己満足だから」

 うっすらと笑いながら、弥生が言った。その通りだと、薫も思った。柄を握りなおす。覚悟を決めたのか、弥生はゆっくりと目をつぶった。

 抵抗しない者を斬る。その事実が、薫に押し迫った。重圧でどうにかなってしまいそうだった。と、ふらつく身体を、十六夜が支えた。

 盲目のパートナーの顔を見る。お互い、何も言わなくてもわかっていた。そうしなければ前に進めないなら、そうすべきなのだ。それしかないのだ。

 目を見開いて弥生を見る。霊気を込めた剣を、薫は決心して振りかざした。

 と──

 だがそのままピタリと、薫はその動きを止めた。十六夜がいぶかしげに薫に近寄るが、ほどなくして彼女もまた何かに気づいたように止まる。

 目を閉じていた弥生が、苦しげに目を開けて、怪訝そうに眉をひそめた。

『先輩?』

 そして彼女もまた硬直した。

 聞こえきたのはエンジン音だった。小さく、だがだんだんと大きくなってくるその音に、薫は心当たりがあった。否、忘れるわけがない。忘れられるわけがない。

 動けないでいる薫を他所に、弥生が地面を這いながら窓に近づいた。音がけたたましく鳴り響き、やがて一台のバイクが通りに姿を見せる。そしてそのまま、バイクは転倒した。

「──っ!」

 悲鳴にならない悲鳴を上げて、薫も窓に駆け寄った。運転手はなんでもないといった風に立ち上がる。傍らに剣を携えて。

 長身で、着ている服はおよそライダーには似つかわしくないトレーナーと着古したジーンズだった。よく見知った格好でもある。間違えようもない。彼の横に浮いている、十六夜と同じような黒い装束を纏った少年が、彼が誰なのか明示していた。

 そして薫は歓喜した。

 メットの下から顔を出した、他でもない槙原耕介、その人に向かって。

 

【3】へ     【5】へ

Top