5
動きは自然で、だから薫には止められなかった。
生きていたときの癖だろう。必要もないのに窓を開け、弥生はそこから飛び降りた。幽霊なのだから、彼女は物質をすり抜けられるし空も飛べる。だというのに、弥生は窓を開けて、なおかつ飛び降りた後はそのまま地面に激突していた。
「あ、朝倉!?」
『い……痛いっ』
そんなわけはない。そういう感じが、彼女にあるだけだ。痛くもなければ、床に激突して死ぬこともない。彼女の持つ記憶が、そう思い込ませているに過ぎない。
だがそれは、自身が幽霊であることを忘れ去るくらい、彼女が動転していることを示していた。それが痛いほど伝わってくる。意を決して、薫もまた跳躍した。
着地して、耕介を見やる。すぐ傍で呆けたように、朝倉弥生は動かなかった。ゆっくりと門をくぐって、こちらに向かってくる耕介を見つめ、動けないでいる。
耕介は歩きながら、薫に軽く会釈した。
「ごめん、薫。心配かけたね。それから……」
と、弥生を見る。
「こちらでははじめまして、かな? 朝倉さん。いや、前に一度会ってるからそうでもないか。久しぶり」
『…………ど、どうして』
それは薫も聞きたいことだった。どうして耕介がここにいるのか。
「わからないけどね、突然目が覚めたんだ。夢の中で君の姿が消えて、俺にかかっている圧力みたいな、呪縛するような力がふっと消えたと思ったら、そしたらもう現実だった」
『そんな……』
「朝倉様の支配力が弱まったからでしょう」
十六夜が控えめに意見を言った。先ほどのこともあってか、少しだけ後ろに下がっている。だが薫も同意見だった。
「んで、ここにくるのは難しくなかったよ。御架月もいたし、薫と彼女の気配を追うのはさほど難しくなかった。急ぎすぎて、こけちゃったけどね」
そして笑う。それだけで、薫はその場に崩れ落ちそうだった。もう何もかも、体裁もプライドも投げ出して、泣き出したくなった。
「姉さまに薫様もご無事のようですね」
安堵したように言う御架月に笑みを返して、だが同時に薫は現状を思い出した。
そうだ。まだ何も終わっていないではないか。
「……朝倉」
『何ですか?』
「成仏してくれないか? 耕介さんをこれ以上苦しめたくないなら。好きな人を不幸にしたくないなら」
『そんなの……私は……でも……』
「待った薫。俺にちょっと、話をさせてくれないかな」
「…………」
しゃがみこむ耕介に、薫は何も言えなかった。優しげに彼女のほほに手を触れる。ビクっと小さく怯えて、弥生は硬直したままじっとしていた。何か折檻を受ける前の子供のように身を縮めて。その彼女に向かって、耕介は軽く頭を下げた。
「えーと、何から話そうかな。とりあえず、ありがとう」
『え?』
「耕介さん?」
「耕介様?」
三者三様の反応だった。御架月だけは、耕介の心情を理解しているのかいないのか、静かに宙に佇んでいる。
『何を……』
「助けてくれてありがとうって」
『助けた?』
「そう。君が俺を、助けてくれた」
『貴方が寝込んだのは私のせいなのよ? なのに……』
「なら今、こうして薫に素直に斬られようとしているのは何故? 俺に『気をつけて』って、夢の中で忠告したのは誰?」
『──っ!』
「君は強い。そして優しいね。だから俺を助けてくれた。君はもともと俺を支配なんてしていない。俺が勝手に君の霊波に同調したんだ。だから俺は、起きようと思えばいつでも起きられた」
『けど、私はそれを利用した。またあの時みたいに助けてくれるって。そう思ったから』
「うん。そうだね。だけど君は俺を支配しようなんてしなかっただろ? 確かにあの時、長崎の景色を見たときは動転したよ。あの景色はね。長崎時代にいっしょに過ごした親友が死ぬ前のものなんだ。今はもうあの通りは改装されて、全然違う雰囲気になっている。だからかな、一瞬我を見失った」
「…………」
何を言っているのか、薫は理解できなかった。耕介が言っているのが夢の内容だということをかろうじて悟りながら、耳を傾ける。
「そしてごめんな。俺は結局、君を助けられなかった。あの時も、そして今も。何もしてやれなかった」
『そんなこと……ないっ』
耕介の両腕。トレーナーを掴みながら、弥生はうつむいたまま否定した。
『嬉しかった。助けてもらったこと。助けてくれたこと。優しくしてくれて、ありがとうって言いたかったのに言えなかった』
「それは夢の中で聞いたよ」
うつむいたまま、首を振る。セミロングの髪が彼女の顔をすっぽりと覆い隠していた。だから彼女が泣いているなどと思ったのは薫の想像でしかない。
『そしてごめんなさい。私、貴方のこと何も知らないのに、勝手に気持ち押し付けた』
「だけど助けてくれたでしょ?」
『…………』
弥生は何も答えなかった。ただうつむいて、肩を震わせて、耕介の両腕を掴んだまま動かなかった。
「だから、君に聞きたいんだ。俺はどうしたらいい?」
『え?』
「耕介さん?」
驚いて、彼を見やる。だが耕介はこちらを一瞥しただけで、すぐに弥生のほうに向き直った。ズキリとした。胸部に痛みを覚えて、薫は無意識に瞳を細めた。
『どうしたらって? え? どうして?』
「俺は君に何もして上げられなかった。なのに、君は俺を助けてくれた。だからこれは俺のお礼。死ねないし、一緒にいられないけど、だからせめて、何かしてあげられたらって、そう思った」
『あ、あ…………』
「朝倉?」
彼女はそのままじっとして動かなかった。耕介と見つめあい、そしてやがてゆっくりと笑みを浮かべる。
綺麗だと、場違いながら薫は思った。朝倉弥生は美人なのだ。そのことを初めて認識する。それと同時に、一人の女として、彼女には勝てないと思った。思ったら、案外心を覆っていた黒い霧がすっきりと晴れてくれた。
『私は貴方が好きです。死ぬほど。死んでも、好きです。だから……』
弥生は微笑んだまま、耕介を見つめていた。もしかしたらそのままキスくらいするのではないかと思い始めたとき、彼女は静かに続けた。
『私を……殺してくれますか?』
◇
「先日の事故……もとい自殺による事件。こちらが催促したこともあってやっと警察側は運転手、つまり朝倉家を食い物にしていたその男と、その金融会社ならびに関連している暴力団関連の摘発に動き出した。とりあえず発破をかけておいたから、警察は死に物狂いで捜査するだろうな」
男は淡白にそう告げた。
月見台の墓地。朝倉弥生と記された墓の前で、耕介は何も答えなかった。もとより反応など期待していなかったのか、男はかまわず続けてきた。
「朝倉弥生の母、広美が抱えていた借金は、全てもとから男が用意したブラフだったらしい。負債に関して、それを無効とする診断や、広美が携わった詐欺関連の事業に関して裁判が行われるのは数ヶ月以上先だろう。だが本人は気にした風ではなかったな。どうでもいいという感じだったのは、まぁあながち間違いでもないだろう」
言われて、耕介は思い出していた。夢の中で聞いた彼女の言葉。彼女の過去。目が覚めてもまだ彼女の霊波と干渉していたせいだろうか。彼女と薫の声はずっと聞こえてきていた。だから知っている。弥生の過去も。そして、薫がそれにどう感じていたかも。
「現在、朝倉広美は入院中だ。男による媚薬剤の投入過多。血液から麻薬の反応もあったらしい。担当した矢沢医師は詳しくは教えてくれなかったが、書類を勝手に拝見したところ、広美の方は妊娠していなかった。本人に面会してみたが、娘の死にも無関心だったよ。むしろ喜んでいるように見受けられたな」
「そうかもしれない」
「……ん?」
聞きとがめたのか、男の端正な眉が形を崩した。
「弥生ちゃんはようやく解放されたんだ。彼女を苦しめるしがらみから、現実の苦しみから。死んだほうがいいなんて思わないけど、彼女はそれくらい追い詰められていた」
「そして自殺した……か。短絡と言い切れないあたり、哀しい人生だな」
「そうだね」
「気に病んでいるのか? 幽霊とはいえ、彼女を始末したこと」
「うん。してる」
あっさりと答えて、耕介は微笑した。
「あの子は俺に忘れて欲しくなかったんだと思う。そして俺も忘れたくなかった。あの子のこと。だから自分で決着をつけた。薫にさせるわけにもいかなかったから。それに……」
「それに?」
「こうして落ち込んでいる間は、少なくとも彼女のことを考えていてあげられる。それくらいしか、俺には出来ない。それくらいしか……出来なかったんだ……っ」
「忘れる必要はないだろう? それでもやがて忘れて思い出にしてしまうのが人間なんだ。生者が死者にしてやれるのは、せいぜいその死を悲しんでやることくらいだからな」
「………そうなのかな」
「そうさ」
こちらがどんな顔をしているかくらいは察したのだろう。男はそれきり何も言ってこなかった。やがてゆっくりと、彼はきびすを返すと墓地を降りていった。
その背中を見つめる。
「ありがとう。十四郎」
長髪が揺れる友人の背中に向かって、耕介は小さく礼を言った。
「あ、薫? 今どこ?」
電話をかけた先にいる少女──いや、女性か。ここ数年でめっきり大人びた彼女に向かって、耕介は語りかけた。電話の向こうで、息を飲む音がする。
「こ、耕介さん?」
「おう。耕介さんです。んで、今どこにいる?」
「だ、大学です。一応、部活のほうに休むという連絡をしてなかったものですから。先生と主将に」
「そっか。それで、もう終わった?」
「え、ええ……」
恐る恐る答えてくる薫に、耕介は噴出しそうになった。
「なぁ、これから会えるか?」
「え?」
「いや。多分ね。薫は優しいから、弥生ちゃんのこと気にかけているんじゃないかって」
「…………うちは」
「気にする必要ないよ。それが普通なんだし。俺もそうだし」
言ってやると、薫の声が幾分か和らいでいた。
「そうですね。うちも、その……考えてました。朝倉のこと。それからうち自身のこと」
「薫自身のこと?」
「うちは何も出来ませんでした。朝倉は、最初からうちに殺されるつもりでうちを呼んだのに。幽霊になってまで、耕介さんと一緒にいたいって。彼女は本気で耕介さんに惚れてたとです。だから彼女は力に支配されんかった」
「うん。彼女は強かった。だからその意思に反発して、俺を支配したいという負の力が外に漏れて、俺がそれに干渉した。俺がたまたま彼女の漏れた霊波と同期したことは彼女にもわかったんだろうね。意思で抑えていた力が、その偶然にのっかかる形で暴走して、そして俺は眠りについた」
「それでも朝倉は負けていませんでした。うちならもっと早くに心がどうにかなっていたような事実に耐えながら、死んでも、死んで幽霊になっても、耕介さんのことだけを考えていました。自身のことなんて二の次で。凄い子です」
「ああ。そうだね。でも薫、だからって自分を卑下なんてするなよ?」
電話の向こうが沈黙した。
「薫は精一杯のことをしたさ。少なくとも、彼女は自分の身の上話を話せて嬉しかったって、去り際に言っていたしね。そして『ありがとう』とも言ってくれた。俺だけじゃない。薫にも言った言葉だよ」
「…………そうでしょうか」
「薫は彼女を助けられたんだ。それは間違いない」
「そう……だったらいいなと思います。うちにはあれが精一杯だった。もっと精進が必要です」
「アハハ。ま、それはさておいてさ。これからお食事でもいかがですか? 薫さん」
「はい?」
素っ頓狂な声を耳にしながら、だが耕介は逆にそれが心地よかった。
「いや。急遽、愛さんから休暇貰ってさ。寮の晩飯は知佳が作ってくれるって言うし。んじゃ、ここは慰安会と題して薫と食事でもしようかなと」
「え、えーと……」
「俺とデートはお嫌ですか?」
「と、とんでもないっ!」
ぶんぶんと首を振る薫の姿が目に浮かぶようだった。普段真面目なだけに、そういう彼女の姿はさぞ可愛いだろう。じかに見られないことが残念で仕方なかった。
「それじゃ、これから迎えにいくよ。何食べたい?」
「耕介さんの好きなものなら何でも……」
予想していた答えに、耕介は内心で笑った。決して表に出ず、他人の意見を尊重して、だけどもきちんと自分の意思と意見を持った女性、それが神咲薫なのだ。やがて退魔士として、全国を行脚するだろう神咲一灯流が誇る天才剣士。
自分はきっと海鳴に残る。退魔の仕事を引き受けながらさざなみ寮を守り続けたいというのが耕介の意思だった。
だから余計に感じる。やがて来る別れの寂しさ。彼女が持つ可能性への期待感。そしてそれと同じくらい、心配も多分に。今も寮にいるだろう面子も含め、この世代で過ごした数多くの出来事の大きさが、別れを現実的に意識させた。まだ二年以上先ではあるのだけど。
だからせめて、思い切り楽しんでおきたい。
今夜はきっと、弥生の話で盛り上がるだろう。それもまた楽しいに違いない。
「それじゃあ……駅前にあるイタリアンレストラン「レッツ」とか、中華なら「歌人」って店がいいかな。小さいけど腕は確かだし。FOLXもいいよね」
いくつか、薫の好きそうな食べ物を思い浮かべ、それに見合った店をピックアップする。思いのほか楽しげな薫の声を聞きながら、耕介は月見台の墓地を後にした。
邂逅する死者 完