第一章  血の香り

 

 調査隊全滅の報告から三日後。

 日本海鳴市。

 四月七日。

 

 毎年恒例にして、最初に行われる学校行事を終えて、高町美由希は体育館から伸びる校舎への渡り廊下を歩いていた。

 三つ編みにやや大きめの眼鏡。焦茶色を主体としたシックなセーラー服が、彼女をさらにおとなしい女性に見せている。そして見た目を裏切らず、彼女はかなりの読書家だった。その割に体つきがしっかりとしているのは、彼女が習っている武術に起因する。

 ホームルームが始まるのはまだ先だろうと思いながら、美由希はゆっくりとした足取りで、背後の体育館の方に意識を向けた。

 体育館の入り口に立てられた看板の、造花で飾られた『入学式』の文字が目に入る。

 入学。そして卒業。三年間なんてあっという間だったなと、終わってもいないのに美由希は感慨にふけった。二年前は自分もあの場所の主役だったのだ。それがもう最高学年である。二年間で色々あったし、自身でも成長したと思ってはいるが、やはり過ぎてみると早かったという感は拭えないものだった。

 と──

「美由希ちゃーん!」

 校舎の入口付近で呼び止められて、美由希は声をした方を向いた。見ると、青いセーラータイプの制服に身を包んだショートヘアの少女が、美由希を視認して駆けてくるところだった。

「晶! 入学おめでとう」

「へへっ、ありがとう。これで俺も晴れて高校生! よろしく、先輩」

 自身のことを『俺』呼ばわりするほど快活さが、この城島晶という少女の特徴だった。空手を習い、サッカーと野球が趣味。そして料理──特に和食をこよなく愛し、プロも顔負けの腕前を誇る彼女は、現在は高町家に半居候状態にあるため、昔から美由希とも家族同然の付き合いがあった。その晶が、この春めでたく風芽丘学園に入学したのである。

「こちらこそ」

 言ってから、揃ってお辞儀する。顔を見合わせて、二人は笑った。

「なんか変な感じだね」

「うーん。自分でもまだ違和感があるから」

「次第に慣れるよ、きっと。二年前にわたしが風芽丘に入学したときも、そんな感じだったし。恭ちゃんも大学入学したら、やっぱり違和感あるって言ってから」

「……師匠って、勉強してたんですね」

 しみじみと呟く晶に、美由希は苦笑しながら、けれどはっきりと同意した。

「追い上げが大変だったって、忍さんとさくらさんがぼやいてたけどね」

 ここにはいない兄とその友人の話題に、また二人は笑う。

 同時にチャイムが鳴った。ホームルーム開始の合図だ。

「そろそろ行ったほうがいいかもね」

「それじゃ、また後でね、美由希ちゃん」

「がんばれ、新一年生!」

「アハハハ。まかせて!」

 腕まくりをして、晶はやって来たときと同じように駆けていった。それを見送って、美由希はもう一度体育館の方に顔を向けた。

 桜が舞う。

 新一年生が、ドタバタと走りぬいていく。

 入学式の片づけをしている生徒会役員が、忙しそうに出たり入ったりしている。

 新しい季節の到来に少なからず胸をときめかせながら、美由希は自分のクラスへと足を向けた。

 

 始業を終えた学校の帰り、見慣れた喫茶店の前で美由希は脚を止めた。

 海鳴商店街の一角にある、洋菓子喫茶『翠屋』。美由希の母・桃子が店長兼、パティシエを勤める、海鳴市でも有数の味と品質を誇る店である。その洗練された味、食した者を魅了する母の腕前は、はるか遠方からわざわざ買いに来る人がいるほどのものだ。実際、身びいきを抜きにしてもその味は飽きることがない。

 一部、例外はいるようだが。

 その例外を、喫茶と洋菓子の販売部門を兼ねるレジに見かけて、美由希は小さく笑った。彼が喫茶店を手伝うのは大抵忙しいときなのだが、窓から伺った限りでは、今は客足も落ち着いているようだ。それだけに今、彼が何故店内でエプロン姿なのか不思議に思わなくもない。

 訝しげに、美由希はドアを押した。ドアベルがカラカラと鳴る。

「いらっしゃいませー!」

 出迎えてくれたのは、艶やかな黒髪を腰まで伸ばした美人ウエイトレスだった。海鳴大学の二回生で、美由希の兄の高校時代からの友人でもある彼女は、名を月村忍といった。

 物静かそうな物腰とは反対に、思考はきわめて理数系。親しい人に対してはいたずら好きのおふざけ好きで通っている、笑うと人懐っこい笑顔が印象的な美女である。

「あ、美由希ちゃんだ」

「仕事お疲れ様です。でも忍さんはともかく、何で恭ちゃんが手伝ってるの? 今日、大学は?」

 と、美由希はレジについている兄・恭也に視線を向けた。

 短く切りそろえた髪。鋭い目つき。だが顔が整っているせいで、怖いという印象はない。身体の肉付きといい、その物腰といい、武術家特有の真摯な空気をまとわせた青年は、美由希にとっては武術の師匠でもあった。

「今日の講義が急に休講になってな。暇ができて困っていたら、月村に強制連行された」

「あ、なるほど」

 恭也が困った顔をしながら説明した。一瞬、忍のほうに視線をやり、それから小さく息を吐く。何かあったらしいことは察しがついたが、美由希はあえて問いかけるのはやめた。

 別の話題を探して、

「あれ、かーさんは?」

 店に顔を出したなら、必ず声を掛けてくるだろう母・桃子の姿が見えないことに気づいて、美由希は聞いた。

「ああ、買出しに行ったよ。今、さほど忙しくないし」

「そっか……」

「何だ? かーさんに何か用でもあったのか?」

「ううん。別に」

「美由希ちゃんは、学校は終わったの?」

「うん。ついさっき」

「進級おめでとう、美由希ちゃんもとうとう三年生だね」

「えへへ。花の受験生です」

 進級したことの嬉しさと恥ずかしさ、それから少しだけ感じる受験の焦燥感を抱きながら、美由希は苦笑した。レジに近いカウンター席に越を下ろす。

「落ちないといいがな」

 意地の悪そうな視線を送ってくる恭也に向かって、美由希は舌を出して抵抗した。

「大丈夫、恭ちゃんでも大学行けたんだもん。心配してないよ」

「失礼な妹だ」

 眉をヘの字にして機嫌を損ねる恭也の表情に吹き出しながら、忍が美由希の方を向いた。

「アハハ。まぁ高町君の高校時代の成績はともかくとして。美由希ちゃんなら大丈夫だよ、きっと。それで、第一希望はやっぱり海鳴大?」

「うん。家から通えるし……」

「一人暮らしをしなくて済むしな」

 にやりと、恭也の唇が歪んだ。

「しかし独立するいい機会だ。一度くらいは、一人暮らしを経験してみたらどうだ?」

「うーん。それもしたくない、って言えばうそになるんだけど……」

「けど?」

 と、忍が首をかしげる。

「修行もあるから、なるだけ恭ちゃんと離れたくないし」

 聞き様によっては誤解を招く物言いに、一瞬だけ忍の頬に赤みが差した。それをごまかすように、恭也を肘で軽くつつく。

「慕われてるね、お兄ちゃん?」

「ふむ、本人にもやる気があるようだし、なら今日からはメニューを倍増するか」

「え? 倍?」

 思わず素っ頓狂な声を上げて、美由希は目を瞬かせた。メニューとは、恭也と美由希が習っている武術の訓練メニューのことである。

「ああ、香港にいる美沙斗さんと相談してな、そろそろ最終段階に入ってもいいんじゃないかという話になった」

「最終段階……?」

 と、呟いたのは美由希ではなく、忍だった。が、美由希自身、それがどういうものなのか知らないので、恭也の言葉の続きを待つ。

「奥義の伝授だ」

「……って、もしかして?」

「今までの実践戦闘訓練で、美由希もおおよそ基礎の段階は完成領域にある。後は奥義のみだ」

 彼はどことなく嬉しそうだった。

「お前が苦手としている抜刀系の技も含め、弱点克服のための増加メニューは以前から考えていた。それが終わり次第、奥義の伝授に入る。俺自身が習得している奥義もかなり我流だから、美沙斗さんが知る限りの正攻法で修行する。いい機会だから、俺も一緒にな」

「わたしは大丈夫だけど。恭ちゃん、膝は?」

「順調だそうだ」

「そうなの? 病院、ちゃんと行ってる?」

「昨日、桃子さんに頼まれて、私が連れて行きました。ブイ!」

 と、勝利のポーズを取って勝ち誇る忍に、美由希は苦笑しながらも感謝した。

 恭也は以前、ひざを二度ほど壊している。一度目は事故。二度目は過度の肉体の酷使によって。そのため、彼の足には骨を補強するためのボルトが今も入っているのだ。いつも痛みを感じるらしいその足が、実は治るのだと知ったのがおよそ二年前。あれからだいぶ良くなっているそうだが、それでも油断は禁物だった。

 何故なら、普段のトレーニングにおける疲労だけでもひざの怪我が悪化する可能性は十二分にあるからだ。それだけに、妹として(弟子として)は病院にはこまめに行って欲しいのだが、恭也は自他共に認めるほどの病院嫌いで通っている。そうすると、もう強制連行するしかないのだが……

(フィリス先生が担当になって、少しは病院に行く気になったかと思ったのに)

 と、恭也の主治医である美人医師のことを思い出して、美由希は複雑な顔になった。だがとりあえず、その兄を病院に連れて行ってくれた忍に対して、美由希は頭を下げた。

「いつも兄がご迷惑おかけします、忍さん」

「いえいえ。内縁の妻としては、夫の世話をするのは当然だよ」

「あー、コホン」

 もう毎度のことらしく、突っ込む気力も見せずに恭也は話題を元に戻した。

「まぁ……そういうわけで、フィリス先生からも時間制限と適度の休憩をいれるという約束で、修行のほうの許可を頂いている。早速今夜から、試してみるか?」

 数秒ほど逡巡した後、美由希は大きく「はいっ!」と応えた。

 

      ◇

 

 永全不動八門一派、御神真刀流・小太刀二刀術。通称、御神流と呼ばれる古流剣術は、小太刀を主要武器とし、飛針や鋼糸といった暗器も扱う、どちらかといえば暗殺技能に長けた流派だった。

 裏業界においてはおよそ最強の銘として、御神流は恐れられていた。剣士としてだけでなく、暗殺者としての彼らの戦闘力のすさまじさは、だが数年前、皮肉な形で幕を閉じることになった。

 爆発事故。

 表向きにはそういう形で、事件は一応の解決を迎えている。一族の中枢を担う人物の結婚式──御神を支える御神宗家と、その分家である不破家の主要人物の全てが揃い踏みした結婚式会場で、悲劇は起こった。

 もとより、恨みを買うことなど日常茶飯事の裏業界である。だがその戦闘力と、頑ななまでの正義感に沿った御神を疎ましく思った連中は、彼らの存在を許しはしなかった。

 そして爆発。

 生き残ったのは、当時式場にいなかった(正確には行けなかった)恭也とその父・不破士郎、そして士郎の妹である御神美沙斗と、その娘である美由希のたった四人である。

 まだ赤ん坊だった美由希は熱を出して病院に運ばれ、美沙斗はそれに付き添っていたことで爆死を免れた。修行の旅に出ていた士郎と(当時はまだ不破性だった)恭也は、賃金不足で帰れなかった。そうして──

 彼ら以外は、皆死んだ。御神流を扱える人間は、この時点でたった二人になったのだ。

 その後、美沙斗は姿を消し、美由希が恭也の義妹になった。

 父・士郎が、海鳴で今の母である高町桃子と出会い、惹かれあって結婚。恭也と美由希は高町性になり、妹の『なのは』が生まれ、幸せな暮らしが始まろうとしたその時──

 英国上院議員、アルバート・クリステラのボディーガードの仕事中、またも爆弾テロで、今度は士郎が帰らぬ人となった。

 あの頃のことはまだ鮮明に覚えている。

 桃子の悲しみを押し殺した顔。士郎と交わした「御神を教えてやる」という約束にすがりついて、義父の死を認めなかった美由希の顔。

 そして、士郎が死んだことを自分のせいだと責め続けた少女のこと。

(フィアッセは今、確か英国だったな)

 父が死んだ地で、歌手として舞台の上に上がっているだろう少女──今はもう、立派な一人の女性のことを思い出して、恭也は感慨深げに夜空を見上げた。

 悲しみは、士郎を知る全ての存在に平等に降り注いだ。恭也でさえ例外ではなかった。幼かった少年が、父であり、師であった男の死に無感傷でいられるわけもなく、ただ精一杯、泣くことを我慢するだけしか出来なかったのだ。

 それから後は、今になってみれば懐かしさと愚かしさでいっぱいだった。終ぞ追いつくことが出来なくなってしまった父の背中を追いかけるために、焦り、ただがむしゃらに修行を繰り返した自分。その代償は、今なお恭也に大きく圧し掛かっている。ひざを二度も壊した結果、御神の剣士として恭也が完成することはなくなった。

 それでも──と、恭也は思う。

 父との約束──美由希を剣士にするという約束の下、今は恭也が御神最後の師範代として、美由希に剣を教えている。美由希は確かに覚えが悪かったが、一度習得したことは決して忘れないタイプの優秀な弟子だった。剣士としての自分に未来はなくとも、師として弟子を成長する過程を見るのは楽しかった。

 剣を手に取って早数年。教え始めたころは途方にくれたが、それも今では遠い昔のように思えてくる。そしてそれ以上に、月日の速さを実感するのだ。

 加えて、二年前の実母・美沙斗との再会以来、美由希の成長は目に余るものがあった。復讐の道に走っていた美沙斗を自分の手で救い出してから、美由希は変わったように見える。いや、実際に何が変わったのかと明確に出来るものはないのだが、それでも彼女の成長には目を見張った。

 そして一年ほどまえ、美由希はとうとう御神流の皆伝を得た。美沙斗の許可を貰い、御神正統後継者の証である『龍燐』を継承したのである。あれからさらに一年。美由希の実力から言えば、今はもう恭也と同レベルにいた。

 ただ技術的な問題で、彼女はまだ師範代である自分に勝てたことがない。経験が少ないことも要因の一つだろうが、二年前に実母・美沙斗を凌駕した事実は、遠い過去のようである。

「ところで──」

 少しばかり遠い目をしながら、恭也は隣に目を向けた。

「いつまでへばってるんだ? 美由希」

「うぅ……」

 地面に倒れたまま動かない弟子は、恭也の言葉にうめき声でしか答えてこなかった。

「まぁ、確かに訓練の量は増やしたから、疲れるのはわかるが……」

「そ、そうじゃなくて……」

 と、美由希は涙目で師の方を見た。

「何だ?」

「恭ちゃん、さっき手加減なしで『薙旋』使ったでしょう」

 言われて、恭也はああ、と思い出した。

「いや、手加減はした。本気を出していたら、今頃お前はあの世行き──『神速』で加速していたからなおさらだ。だからちゃんと峰の部分で打っただろう?」

「…………」

「そんな目で見るなよ」

 と、責めるような弟子の眼差しから目をそらして、恭也は空を見上げた。星が燦爛と輝く夜空に感嘆しながら、小声でぼやく。

「ま、確かに不意打ちではあったが」

「うぅ……絶対、わざとだぁ」

「何を言っている。敵がわざわざ『襲います』と宣言してから襲ってくるわけがないだろう? いい練習じゃないか」

「……こじつけだよ……」

「避けられなかったお前が悪い。まぁ、なんにしろ、それだけ文句言えるならもう立てるだろ」

「……はぁい」

 そうして、渋りながらも立ち上がる。

 不意に、恭也は何かしら不安なものを感じた。別段今に限って思ったことではなく、以前から感じていたことでもある。その理由は、実は薄々だが分かっていた。

(性格だな……)

 美由希は確かに強い。そしてこれからもっと強くなるだろう。今はその過渡期なのだ。まだ経験不足、技術不足であるが故に師である自分に及ばないが、本来ならもう勝っても可笑しくないほどの実力を備えている。

 そう──それはつまり、奥義の取得、完成に至らせるまでもなく、彼女はすでに自分と同じレベルにいるということだ。高町美由希と言う剣士の才能は、実は師である自分にさえ底が見えない。

 それは羨ましくもあるし、妬ましくもある。だがそれ以上に、師として弟子の先を見つめるのは、楽しくもあるのだ。

 しかしながら、美由希にはその性格が邪魔をして中々本気になれないという欠点があった。どれだけ実践的な戦闘演習をしようと、彼女の心のどこかに、これが演習であるという感覚がある。無論、恭也とてそれはあったが、未だコントロールして実力を発揮できない彼女にとっては、それはマイナスファクターでしかない。

(優しすぎるのも問題だな……)

 恭也が思うに、高町美由希と言う少女は、性格だけで言えば元来剣士には向いていないのである。感情が爆発すれば、おそらく二年前のように、唯一の完成された御神の剣士である美沙斗さえ凌駕するというのに。

「……どうしたの? 恭ちゃん」

 見つめすぎたせいだろう。起き上がった美由希が、その視線に気づいて言った。

「おーい。もしもーし!」

「…………」

 それには答えず、恭也はさらに目線を細めた。

 普段かけている眼鏡をはずし、シャツにジャージ姿の彼女は、三つ編みはそのままにリボンだけがシックな色調のものに変わっていた。

 客観的に見れば、美由希は美人の部類だろう。身内びいきでなく、かわいいと思う。妹や弟子としてというよりも、一般的男性の意見として、その意識は確実に恭也の心中に存在していた。

 そう言えば、美由希は恭也以上に異性関係がない。彼女の周りにいる男性と言えば、恭也を除けば、恭也の古くからの友人である赤星勇吾くらいなものだ。その彼も、今は大学生活のために海鳴市を離れている。

(いかん、いきなり心配になってきた)

 自分のことを完全に棚にあげて、恭也は一人ごちた。と──

「隙あり!」

「っ!」

 それは一瞬の出来事だった。折れた小太刀の柄を投げつけ、それをフェイントにして無事だった刀を恭也の頭上から振り下ろす。

 だがそれは、結果から言えば恭也に届くことはなかった。ひょいっと首を動かすだけで投げられた刃の残骸を避け、振り下ろされる刀を無視して軽く足払いをする。バランスを崩した美由希の腕をとって引き寄せ、

「うわっ!」

 彼女の悲鳴を無視して、恭也は軽く身体を後ろに倒した。その反動を利用して、そのまま逆方向に流すように彼女を投げ飛ばす。

「ふぎゃん!」

 三メートル程後方で顔から地面にダイビングして、美由希は沈黙した。妹が跳んで行った方を向くと、彼女は顔を地面につけたまま尻だけが高らかと上がっていた。受身が取れなかった証拠だった。

「ふがいないぞ、弟子」

「大人気ないよ、師匠ぉ」

 答えは、意外とすぐに返ってきた。鼻の辺りを押さえながら、美由希が起き上がる。

「そもそも不意打ちに声をかけてどうするんだ? 晶じゃあるまいし」

「うぅ……」

 言い返す言葉がなかったのだろう。目に涙を浮かべながらも美由希は押し黙る。そんな弟子の様子を無視して、恭也は腰につけていた携帯用の時計を覗き見た。

 時間は深夜を回っていた。それ自体はいつものことなのであまり気にはしなかったが、今日は修練のメニューを増やしただけあって、恭也自身も疲れていた。自然とため息が出る。

(今日はもう上がるか)

 そう考えかけて、ふと、恭也は視線を上へ向けた。星が輝いているとはいえ、今日は月が出ていなかった。だからだろう、いつも使っているこの修練の場所も、木々に囲まれている分だけ普段より幾分か暗い。

 どこか、森の雰囲気に違和感を覚えたのはそのせいだろうか。

「恭ちゃん?」

「ん? ああ、いや、なんでもない。もう上がろう、美由希。クールダウンしておけ」

「はい」

 素直にうなずく弟子の反応に満足しながら、恭也も片付けに入った。

 

      ◇

 

 月の出ていない夜は、だが慣れてしまえばその雰囲気も満喫できた。少しばかり感じる微妙な違和感は、師である恭也も実感していたらしい。これといって弊害があるわけでもないので、美由希たち二人は片づけを終え、今日の実践訓練で見つけた修正箇所を語らいながら山道を歩いていた。

 踏み慣らされていない道を歩きながら、美由希はふと隣に歩く恭也を覗き見た。彼は前を見ていた──当たり前だが。

 高町恭也。兄。厳密には従兄妹。自分に剣を教えてくれる師。共に剣を学ぶ盟友。尊敬できる人。尊敬している人。最も身近な異性。最も意識している男性。

 暗闇の中でさえ前を向いて、どれだけ苦労しようと、苦難が待ち構えていようと、行く手を阻む障害を乗り越えていく。それが高町恭也という『剣士』だった。御神流は関係なく、それが彼という人間の本質だった。

 以前から「実力的に美由希は俺と並んだ」とか、「俺には剣士としての未来がない」などと言ってはいるが、実際に毎日剣を打ち合っている自分だからこそ、美由希は恭也の偉大さを身に染みて分かっている。

 彼は強い。

 確かに、将来的には技術面で彼を抜くかもしれない。だが生涯、彼には勝てないだろうという意識が美由希にはあった。強いて言うなら予感のようなものだ。女の勘、と言ったら笑われるだろうか。

 二年前、実母・美沙斗が道を踏み外していた時のことは今でも覚えている。恭也でさえ敵わなかった美沙斗に、自分は勝てた。

 何故だろう? と考える。

 おそらく、例えもう一度同じような状況下に置かれても、同じ結果が出せるとは思えなかった。母と兄と、姉のように慕っているフィアッセ・クリステラが絡んでいたからこその結果──完成された御神の剣士に勝つことができたのではないかと思えて仕方がない。

 あの時は感情だけで動いてしまった。動けてしまった。美沙斗を止めたい思いで一杯だった。フィアッセを助けたい気持ちで一杯だった。

 これからも、ずっと恭也と一緒にいたい想いで一杯だったのだ。

 だがそれは本当の実力じゃない。感情の起伏で戦闘力が変わるということは、下手をすれば、勝てる相手にも勝てなくなる可能性だってある。

 要するに、自分はまだまだ弱いのだ。自制が出来ていない。だからこそ、最近になって特に思うようになった。

 強く、もっと強く──どこまでも強くなりたい。それも自分独りではなく、

「ねぇ、恭ちゃん」

「何だ?」

「一緒に強くなろうね!」

「……なんだ、いきなり」

「ううん、なんでもない」

「変な奴」

「ふんだ」

 いじけて見せると、小さく、本当に小さくだが、恭也の頬が緩んだ。勿論、こちらが向いていないことを知っているからこそ恭也は笑っている。だがその雰囲気が、美由希は一番好きだった。

 その人の前でしか見せない表情──妹であるなのはの前でしか見せない兄の顔、友人の前でしか見せない年相応の男性の顔、他家族の前でしか見せない長兄としての顔。恭也にだって人付き合いがあるのだから、そういうのがあっても可笑しくはない。本人に自覚はないのだろうが。

 普段意地悪で、うそつきで、めったなことではほめてくれない兄が、自分に見せる顔。決して見えない──見せてくれないが、穏やかで優しい雰囲気の中で自分を見ていてくれるこのときが、美由希にとっては何よりも楽しい時間だった。

 と──

 唐突にやってきたそれを壊す存在に、美由希は不意に立ち止まった。

「恭ちゃん?」

「ああ」

 端的な答えに安堵して、美由希は神経を尖らせた。よかった。勘違いではないらしい。かすかに鼻をつく、この独特な臭いは間違えようがなかった。

「血の臭いだね」

「ああ。それもかなりの量の……な」

 同時に、美由希と恭也は懐からまだ使える小太刀を取り出した。血の臭いを漂わせているというだけでは、敵と決まったわけではない。獣かもしれない。もしかしたら、誰かが怪我をしているのかもしれない。

 しかしながら、鋭敏に研ぎ澄まされた五感から得た情報が、速やかに脳に危険信号を送ってきた。

「行ってみよう」

 そう言ったのは恭也だった。勿論、美由希にも反論の意はなかった。方向を転換して、二人は駆けた。距離にしてみればかなりあったのだろう。だが戦闘用へ意識を変更したことから、二人はさほど苦もなくそこへたどり着いた。

 血の臭いが凝縮された空間だった。漂ってくる向こう側に、その原因がいる。すこし段差が出来ており、その存在がいるのは美由希たちからすれば下の位置だった。

 気配はしない。何かが動く様子もない。暗闇のせいで、下に何がいるのかわからない。

 結局、行ってみるしかないということになった。そして──

 二人は絶句した。

 美由希には、それがなんなのか理解できなかった。

 何故? どうして? どうやって? 誰が一体こんなことを?

 問いかける。言葉もなく。ただ呆然と。意識だけがから回る。めまぐるしく動く景色に酔いを覚えて、美由希は今にも崩れ落ちそうになった。それを恭也が支える。

 カラカラに渇いたのどから、ようやく声が紡がれた。

「…………母……さん?」

「……ああ、美沙斗さんだ」

 兄の肯定の言葉を聞いた瞬間──

 美由希の悲痛な叫び声が、深夜の森に響き渡った。

 

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