第二章  生還の桜

 

 歪な沈黙。だがそれは決して静寂などではなかった。耳届くのは人の吐息と鉄の廊下で増長された雑音。秒針が刻む音が聞こえたときには美由希は本気で我が耳を疑った。ここには時計はないはずだ。あるのは薄暗い廊下と誰も(・・)座らない待合椅子。そして……

 一際異彩を放つ天井の赤色灯──その『手術中』という文字がくっきりと浮かぶのを目にすれば、それだけで眩暈がするほどの吐き気を覚えた。

「…………」

 待つこと数十分。その間、立ち尽くしているのは自分だけではなかった。誰も言葉を発せず、誰も目線を合わせない。兄と母。そして自分。扉の向こうには幾人かの気配。美由希はただ、彼らを待つことしか出来なかった。

 答えが出るまでの間、じっとしているのはとにかく苦痛だった。だが何をすれば良いかわからない。何を話せば良いか分からない。考えもなく声を出した瞬間──その代償とばかりに張り詰めた精神の糸がプツリと途切れてしまうことは想像に難くなかった。

 自分の弱さ。心の不安。肉体的にどれだけ強くなろうと、鍛えることに限界のある脆弱な精神。自分がどれだけ脆い存在なのかを自覚する一方で、だがそれを認めたらあっさりと崩れてしまうに違いないと密かに畏怖する。そうなれば二度と立ち上がることなど出来なくなる。それは美由希にとって何よりも恐怖だった。

 やがて音もなくランプが消える。ハッとなったそのときには、重い手術室の扉は開かれていた。

 響く数人の足音。そしてため息。場の空気から一気に緊張が抜けたかのような吐息が部屋から漏れ出る。そこに悲壮さがないことに少なからず期待しながら、美由希は医師の登場を待った。

「フィリス先生!」

 恭也が呼ぶ。

 それに応える形で手術室から出てきたのは小柄な女性だった。銀髪に金色の瞳、一目で外国人と分かる容貌の、見目にはとても医師には見えない童顔の女性である。手術用の手袋をはずしながら、彼女──フィリス・矢沢は一仕事終えたような安堵の吐息をついた。

「ご心配なく。患者さんの命に別状はありません」

 胸を張って断言する彼女の言葉に、美由希だけでなく、恭也と桃子も心底ほっとしたように頬の筋肉を緩めた。

「明日には目を覚ますと思います。念のために数日入院してもらう必要はありますけど、それも検査だけですから。今度の日曜にはお花見するんでしょう? その頃には体力も戻ってるでしょうから、無事退院できますよ」

「そうですか、よかった」

「ありがとうございました、フィリス先生!」

 桃子が頭を下げる。恭也もまたそうしていたのを見て、美由希は慌てて同じように背を丸めた。三人が頭を上げるのを待ってから、フィリスが笑顔を一瞬だけ消して続けた。

「ただ……ちょっと気になることがあるので、後で少しお話があります。今日はもうお疲れでしょうから、明日にでも……」

「今では駄目ですか?」

「いえ。明日、ゆっくりと。もしかしたらさほど重要じゃないかもしれないのでそのほうがいいです。わたしが疲れたというのもありますし……だから皆さんも休んでください。美由希さん?」

「は、はい!」

 いきなり呼ばれて、美由希は思わず背筋を伸ばした。

「お母さんの事は心配ありませんから。安心してください」

「……あの、フィリス先生……」

「はい?」

 スーッと息を吸い込んで、美由希はもう一度音がするほど頭を下げた。

「本当にありがとうございました!」

「……どういたしまして。もう夜遅いですから、ゆっくり休んでください。明日は……そうですね。午前中に診察は終わりますから、午後一時にわたしの部屋に来てもらえますか? その頃には美沙斗さんも目覚めているでしょうし……」

 ね? と微笑みかけてくるフィリスに、美由希は涙ぐみながら頷き返した。

 

      ◇

 

「ココアの粉をパッパッパ♪ ホカホカミルクをトポトポ入れて♪ スプーンで溶かしてクルクルしましょ♪ 苦くて甘いチョコ添えて♪」

「…………」

 なにやら訳の分からない歌を耳にしながら、御神美沙斗は目を開けた。力が入らないのは疲れが取れていないからか、それとも単に歌のせいだろうか。思ったより寝覚めは悪くない。だが普段に比べれば身体が重かった。

 それはさておき。

(ここは?)

 最初に目に入ってきた白い天井と蛍光灯、部屋そのものに染み付いた薬品のにおいで、美沙斗はすぐに自分がいる場所を理解した。ここは病室だ。だがどうして? その場所への疑問もさることながら、身体に残るわずかな違和感に気づいて、彼女は出来る限りすばやく思考を回転させた。記憶が照合しない。何故自分はここにいる?

 疑問に思いながらも日の光に導かれて左を向くと、そこにいたのは白衣を着た小柄な女性だった。もしかしたら娘よりも幼いかと思わせる銀髪の少女が、どうやら歌の発生源らしい。彼女はこちらの視線に気づいて、見た目どおりの可愛らしい声を上げた。

「あ、目覚めました?」

「あの……」

「安心してください。ここは病院です。ところでココア飲みます?」

「は? あの……いえ……」

 答えに窮していると、その反応の何がおかしかったのか、白衣を着た少女はクスリと笑って告げた。

「フィリス・矢沢です。ここ海鳴大学付属病院で医師をしています。お加減はいかがですか、御神美沙斗さん?」

「……う、海鳴?」

 まず真っ先に驚いたのは病院の名前だった。思わず繰り返し呟いた単語に再度驚きながらも、美沙斗はゆっくりと身体を起こした。全体的に脱力してはいたが、不思議と痛みはなかった。

「眠っている間に検査の方も終わって、異常がないことがわかりました。体力が戻ってないでしょうけれど、安静にしていれば大丈夫ですよ。ご家族が来られるまであと少しありますから、取りあえずココアでもどうです?」

「……それよりもここは……あの(・・)『海鳴』なんですか?」

「ええ」

 にっこりと微笑むフィリスに対して、美沙斗は逆に眩暈を覚えた。自分は確か、中国とキルギスタンの国境付近にいたはずだ。所属する香港警防の仕事──ある研究所の調査のために。調査対象となっていた研究所に着いて、そして……

(そして?)

 思考が一時中断する。目を閉じて視界を暗闇に落としてから、美沙斗は香港を発ったところからもう一度記憶を探りなおした。隊長である陣内啓吾の顔。手渡された指令書。上司であり、調査隊の指揮を執っていた女性との会話。他隊員のやりとり。そして森に入り……地下に眠る薄暗い研究所への階段を下りて……

(くそっ!)

 雑音が入る。画像が乱れ、努力する暇さえ与えずプツリと切れた。苛つきを覚えながら脳裏を振り切っても、記憶は再生する気配を全く見せなかった。あるのは漆黒。ただただ渦巻くだけの闇。

 痛みが走る。それは瞬時に眼球から脳に走り、血管を通って全身を苛んだ。

「……っ!」

「駄目ですよ! 記憶に混乱あるんでしょう? あれだけの出血で、脳に血が送られてなかったんですから、無理に思い出そうとしないでください!」

 一転して医師の顔になった少女に支えてもらいながら、美沙斗はすでに痛みの治まった身体を寝かした。息が切れるほどの痛みでもない。それは行ってしまえば針で刺されたような小さな痛覚でしかなかった。だというのに、それだけで全身に残っていたわずかな体力が根こそぎ持っていかれた。

「大丈夫ですか?」

「……はい」

 頷こうとしたが、首は巧く動いてくれなかった。脱力した身体は疲弊して指先を動かすことさえ億劫なのだが、一方で空腹感だけは収まることを知らないらしい。グゥ〜と場違いな音を奏でる。

「……」

「フフ。お腹すいてるみたいですね。食欲があるなら大丈夫です。食事持ってきますけど、起きて食べられますか?」

「……」

 態度で答えようとしたが、それもうまくいかなかった。眠気はないが、倦怠感と脱力感で起きられる気力が起きない。仕方なく、美沙斗は正直に答えた。

「……無理のようです」

「みたいですね。ならベッドの上部を起こしますから。それで食べましょう」

「……あの、それよりもここは本当に海鳴なんですか?」

「ええ、そうですよ。思い出せる範囲で良いですから、詳しいことは後で聞かせてください。後三十分もしたら美由希さんたちが来ますから……その時にでも」

「美由希が……?」

 ベッドに起こされながらその名を呟く。片時も忘れた事のない名を自ら声に出して、そのときにしてようやく美沙斗は、本当にここが海鳴なのだと実感した。

 

   

 

 ノックの音は控えめだった。

 それその通り遠慮がちに入ってきたのは、久方ぶりに見る娘だった。その後ろから、控えめにその兄が──美沙斗にとっては甥が姿を現す。その手にある花束が掲げられるのを見て、美沙斗は落ち着いて彼に微笑み返した。

「よかった。元気そうですね」

「心配かけたみたいだね。美由希にも」

「ううん。でも本当に無事でよかったぁー」

 心底ほっとしたような表情の美由希の目には、すでにうっすらと涙がたまっていた。申し訳なく思う反面、素直に嬉しいなどと思ってしまう自分に苦笑しながら、美沙斗は食事をして多少は自由が利くようになった手で彼女の瞳を優しく撫でた。指先に暖かい液体がしみこむ。

「もう大丈夫だから。泣き止みなさい……ね?」

「うん」

 そうしてまた嬉し涙をためる娘と、それに微笑む自分。これでは堂々巡りだ。それでも悪くないと思ってしまう辺り、自分には彼女が必要なのだとつくづく実感してしまう。

「それでフィリス先生。昨日おっしゃられてた話なんですが」

 そう切り出した恭也もにこやかに微笑んではいたが、それとは対照的に、先ほどまで見た目通りの少女だったフィリスの顔から笑顔が消えた。それは間違いなく医師の顔だった。

「お話というのは、もちろん御神美沙斗さんのことです。ああ! いえ、勘違いしないでくださいね。幸いお身体に異常はありません」

 慌てて否定するその言葉は、不安を隠そうともしない美由希に向けられたものだった。

「今は出血過多と、輸血による後遺症があるでしょうが、それも明日には治っているでしょう。もう一日様子を見ますけど、この調子だと問題なく明後日には退院できます」

 ほっと一息つく。それは恭也たちだけでなく、美沙斗自身とて同じだった。

「お話したいのは悪いことではなくて、むしろ良いことなんですけど、でもひょっとしたら悪いかもしれないんです」

『?』

 三者三様にハテナ顔を浮かべる。医者らしからぬ歯切れの悪さに美沙斗はどうしたものかと迷ったが、見ると恭也と美由希も同じだったので黙っておくことにした。

「……ああ、ごめんなさい。言い方が悪かったですね。わたしも少し混乱してるんです。そうですね、順を追って説明しましょう」

 そういって、フィリスは机の上にあった一枚の写真を手に取った。

「今日の午前中に、リスティが……ああ、わたしの姉なんですけど」

 その名を知らないのはどうやら自分だけだったらしい、付け足すように注釈して、フィリスは続けた。

「彼女が警察の鑑識が撮ってきた写真をこちらにまわしてくれたんです。アレだけの出血量ですから、刑事事件の可能性もありました。救急から警察のほうに連絡が言ったのは仕方がなかったんです」

 なにやら言い訳じみた表現になっているのは、美由希の表情が少なからず曇っているからだった。何か言いたそうに口をあけ、だが写真を見た途端に眉間にしわがよる。甥から娘へ、そうして自分へと順に手渡されたものは、確かに自分のものとは信じ難いほどのおびただしい血痕だった。

「見てお分かりかと思います。調べるまでもなく、これはもう致死量なんです。これだけの出血をして生きているのは不可能でしょう。医師として断言します。普通なら一パーセントの可能性もなく死んでいます」

 不思議な感覚だった。医師に確実に死んでいるといわれても、現に自分は生きている。まさか幽霊というわけでもあるまい。

「でもフィリス先生!」

「ええ。美沙斗さんは生きてます。どこにも異常はありません。あれだけの出血をしたのにもうほとんど健康体です」

「それは、出血しただろう傷口がない……ということですか?」

「はい」

 恐る恐る言った恭也の言葉にも、フィリスは迷わず頷き返した。

 自身の身体を見下ろす。病み上がり特有の浮遊感はあったが、痛みらしいものはなかった。出血したというのに、傷口がどこにあるのか自分でも見当がつかない。

「ですから……こう言ったら失礼かもしれませんけど、異常がないことが異常なんです(・・・・・・・・・・・・・・)。信じられないことかもしれませんけど、救急車で貴女の応急処置をした者から聞いた傷の状態と、実際私たちが診た傷は大きさが違っていました」

「あの……それってどういう……?」

「隠しても仕方がないので正直に話します。美沙斗さんは、手術中に全快した(・・・・・・・・)んです。自己治癒能力をどれだけ高めても不可能なほどの速度で」

「…………」

 シン──と、室内が静まり返った。

「話そうかどうか迷いましたけど、わたしたちのこと(・・・・・・・・)もありますから、恭也さんたちには知っておいて欲しかったんです。もちろん御本人にも。ですから美沙斗さんには、退院した後もしばらく様子を見ていただきたいんです。出来るならしばらくお仕事は控えてもらえませんか? 恭也君や美由希ちゃんに聞いた限りだと、危険なお仕事のようですし」

「…………」

 誰も答えなかった。視線は自然と美沙斗に集まったが、気まずくなった場をサラリと受け流して、美沙斗は言った。

「それは、上に報告してみないとなんとも言えません。怪我のことを話せばいくらか休暇はもらえるとは思いますが」

「もらってください」

 はっきりとした物言いだった。彼女が医師なのだと言うことを改めて実感しながら、美沙斗はだが素直には頷けなかった。

「身体は明後日には体力も戻って万全になるでしょう。でも──脅すわけではないんですが、医者(わたしたち)に異常が見つけられなかったことを覚えて置いてください……変ですね、わたし。健康ならそれに越したことはないのに」

 自嘲気味に笑うフィリスに申し訳なく思いながらも、美沙斗はこれからのことを思索した。

 今の会話で解かったことはシンプルだった。要するに自分の身体は異常なのだ(・・・・・)。逆に理解できないことは複雑で、全く解決の糸口が見えなかった。抜け落ちた記憶。自分が海鳴にいる理由。共に調査に向かった仲間はどうなったのだろうと、気になることは多々あった。

「先生」

 端的な呼びかけに少し驚いたように目を見開いて、フィリスがこちらを向く。美沙斗はさらに無感情に告げた。

「職場への連絡をさせてください。わたしに何があったのか。これからのことも含めて、おそらく一番情報を持っているのはあちらでしょうから」

「…………職場復帰は医師の診断で認められません。最低でも一週間、出来れば一ヶ月は身体を休ませてください。検査が必要ですから。それが条件です。いいですか?」

 考える。だがどうしたって連絡は取らなくてはならない。現状を知らないでいるにはあまりにも不安要素が多すぎた。どうせ向こうが強制送還を発令すれば、医師の診断書は紙くず同然なのだ。彼女には悪いが、ここは頷いておくべきだと美沙斗は判断した。

「わかりました。それでお願いします」

 

 その数分後、美沙斗は生還の報告と共に、仲間が全滅した可能性があることを知ったのである。

 

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