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◇
そこにそのように在るようになってから、一体どれほどの歳月を迎えたのだろう。木々はその間、何者にも脅かされることなく、静謐に、悠然とそこに佇んでいた。自然が奏でる窮極の芸術。美しき宝はここにあるといわんばかりに咲き誇った桜が、日の光を浴びて思いきり背伸びをしている。舞い散る花びらが甘い歌声で客を誘い、盛大な歓声で迎え入れる。何度足を運ぼうとも見惚れる美しさを目の当たりにして、美沙斗は思わず感嘆の息をついた。 「凄いね」 「でしょ?」 隣で娘が我がことのように自慢する。だがここは、聞けば他人の土地なのだそうだ。すぐ傍に見える池の水面にさえ淀みはなく、透き通った青き世界で優雅に泳ぐ鯉の色鮮やかさもまた目に余る。 海鳴は都会ではないが決して田舎でもない。人口がそれなりにある街でこれほどの自然が保護されていることは、美沙斗にとっても驚きだった。 国上山山中の桜並木。海鳴の自然保護区域であるここは、だが美由希の親友、神咲那美が住む女子寮のオーナーが所有する土地らしい。毎年その人のご好意で使わせてもらっているそうだ。 「いつ見ても綺麗ねー」 そう呟いているのは桃子である。どう見ても一子の親とは見えない童顔な彼女だが、これでも高町家の大黒柱だった。今の彼女は子供のようにテンションを上げて、しかし桜に感嘆しながらもてきぱきと花見の準備をする姿はさすがというべきか。 「さ、美沙斗さんも座ってください。お弁当にお酒、カラオケセットも準備ばっちりです!」 「今日はレンと晶の合作なんだよ」 そう言われてみれば、以前高町家に居候させてもらった時には見られなかったほどの豪華な料理が重箱に色鮮やかに詰められていた。桜花も凄いが、こちらの力の入れようも凄い。 城島晶と鳳蓮飛。ショートカットの活発そうな少女に、中国風の服を着たボブカットの少女。以前から二人共に料理が上手なのは知っていたが、これはさすがの美沙斗も度肝を抜かれた。聞けば美沙斗の全快祝いも兼ねているという。思わず目頭が熱くなったのは、娘にさえ秘密だった。 あれから数日が過ぎ、美沙斗は実にあっさりと退院した。香港警防本部から事件の内情を知らされた時には驚いたが、全滅して自分だけが生き残ったこと以外は本部でさえ何も知らないに等しかったことが、逆に美沙斗を冷静にさせた。 とにもかくにも、元気付けてくれようとする桃子たちの厚意に甘えて、美沙斗は気分を一転させた。フィリスが言った通りに怪我のことを報告すると、その通り一ヶ月の休暇をもらえたことにも驚いたが、直属の上司である啓吾がこちらに向かったこともあって、彼女はそのまま現状に甘えることにした。 そうして向かえた日曜日。花見に参加したのは高町家と、それと深い付き合いのある数人で構成されていた。桃子とその娘であるなのは。恭也と美由希。高町家居候のレンと晶。よく高町家に出入りしているらしい月村忍と、そのお付きのメイドであるノエル。そしてこの場所の提供者である神咲那美とその友達の少女──名は確か久遠といったか。なにやら獣耳と尻尾の突いた不思議な服装の女の子──そして自分。それで全員である。去年まではここに恭也の友人と、姉同然の付き合いのあるフィアッセ・クリステラがいたそうだが、両者共に都合が悪く参加できなかったそうだ。 何はともあれ、美沙斗にとっては久方ぶりの花見だった。夫の生前に何度か経験したくらいだから、もう二十年近く前になるか。 ほどなくして宴会が始まる。乾杯の音頭は桃子が取って、それぞれ思い思いの飲み物を手にグラスを打ちつけ傾け合う。日本酒の程よい米の香りが鼻腔をくすぐり、喉を潤し身体を火照らせた。 「すごいね。どれから手をつけていいか迷うな」 「アハハ。お好きなものからどうぞ」 晶に差し出された重箱から、美沙斗は煮物を箸で一つまみした。口に運ぶと、昆布の甘味が舌に染みてなんとも心地よい。 「うん。おいしいね」 「ありがとうございます!」 「美沙斗さんは、お嫌いなものとかあるんですか?」 「いや、何でも食べるよ」 そういうレンが作ったものは、どちらかというと中華風な味付けだった。香港にいる美沙斗からすれば馴染みのある味わいである。 「うん。このえびシューマイもおいしいね。以前から思ってたけど、レンちゃんは、中華が得意なのかい?」 「ウチは父方が中国人なんで。自然とそっちが身についてもーたというか……」 「へぇ……」 「中華は味覚だけでなく栄養面でもばっちりですから、たくさん食べたってください」 もちろん、と頷くと、文字通りふにゃっとレンの表情が緩んだ。 その隣では美由希と那美がお互いに飲み物をお酌しあい、さらに向こうでは恭也にお酒を飲ませようと絡んでいる忍の姿が見えた。久遠となのはは仲良く唐揚げをつまみ、桃子はそんな二人に料理をよそってあげながら、自身はハイペースでグラスを傾けている。 「…………」 ふと── 「あ」 誰にも聞こえないほど端的にうめき声を上げて、美沙斗は自分の目頭にたまった雫を指先でふき取った。 (泣いていたのか? 私は) あくびをしたわけではなかったから、原因がわからず彼女は戸惑った。また一人で生き残ってしまったことを悔いているからだろうか。自覚できるほどには悲しみもつらさも消えていないせいかもしれない。だが悲しんで目を背けているばかりではいけないことを、彼女は少し前に娘に教わったばかりだった。 「母さん?」 「……え?」 不意の呼びかけにビクリと背筋を伸ばして横を見ると、いつの間にか隣に美由希が座っていた。不思議に思って那美の方を一瞥すると、「久遠。あまりお酒飲んだら駄目だからね」などという声が聞こえる。ああ、そうしてみたなら、獣耳の少女が甘酒で随分と頬を赤くしていた。それほど長い時間耽っていたのだろうか。 「どうかしたの?」 「いや、なんでもないよ」 自然な形で、美沙斗はそう答えていた。それに嘘偽りはない。だが美由希は納得しなかったらしい。 「身体のこと、気になる?」 「……ならないと言うと嘘になるけどね」 違う。そういうことではない。漠然としたものが、少しずつ形になり始めていた。 彼女が恐れているのは、自分の身に起こっていることが理解できていないからではない。ましてや、生き残ったことに後悔しているわけでもない。 目の間にある光景は一度捨てたもの。自分には要らないと思っていたもの。離別したはずのもの。二度と手にしないと誓ったはずのもの。だが、何より大切だと感じていたもの。 至極簡単なことだった。この景色の中に入ることに怯えている。壊せないものほど恐ろしいものはない。自分では絶対敵わないものが目の前にあるのだから。 じっと花見に興じる彼らを見つめる美沙斗の横で、美由希が小さく微笑んで言った。 「大丈夫だよ」 「え?」 「なんとかなるって」 「突然だね。で、その根拠は?」 別段、いじめるつもりでもなんでもなかったが、美沙斗は唇の端が曲がるのを抑えられなかった。 「うーんと……なんとなく……ってのは、駄目?」 舌をペロッと出して、美由希は笑った。 「母さんが生きてくれているなら、それだけで十分だよ。そりゃあ、調査隊の他の人たちには気の毒だとは思うけど」 「うん。わかってるよ」 娘の言いたいことはわかっているつもりだ。美沙斗は軽く、唇を湿らす程度に日本酒を流し込んだ。 「生き残ったものに出来るのは、死者への追悼と、それを二度と起こさないよう努力すること……少しずつだけど、前を向けるようになったのは美由希のおかげだからね」 「あはは。なんか照れる」 いくらかアルコールを含んで上気した美由希の顔が、さらに赤くなった。 「美由希」 「ん?」 「美由希は本当にいい子だね」 「え? へ?」 美沙斗の胸中に沸き起こったのは、単純なまでに純粋な欲求だった。 支配したのは溢れんばかりの暖かな気持ち。だがそれは同時に胸を締め付けるほど強烈な求愛の痛みを伴って美沙斗に襲い掛かった。それもこれも可愛い過ぎる娘が悪い。愛し過ぎるその仕草が悪い。 勝手な言い分で自己完結して、美沙斗は美由希を思い切り胸に抱きしめた。 「か、母さん? ちょっと! 何? どうしたの?」 パニックになっている娘を無視して、美沙斗は自分とそっくりな黒髪を撫で、そのさわり心地にうっとりとする。ようやく落ち着いた美由希が、恐る恐るといった風に聞いてきた。 「えっと……母さん? もしかして酔ってる?」 「まさか。たしなみ程度に呑んだだけだよ」 「うー……でも恥ずかしいよー」 「うん。私も少し恥ずかしいけど……でもずっと子供のころ、こうしてあげられなかったからね」 「……」 そう言われたら返す言葉もなくなったのか、美由希が腕の中でおとなしくなった。緊張していた硬さが次第にほぐれ、赤子のようにこちらに身体を預けてくる。美沙斗は軽く、だが本気で後悔した。何故この娘を手放そうとしてしまったのだろう。あまつさえ、手段のために目的を見失って彼女に刃を向けてしまうとは。 過去の傷はまだ癒えたわけではなかったが、それでも美由希が自分を母と呼んでくれて、加えてこうして抱くことが出来るだけでなんとも幸せな充足感が得られるのだから単純だ。まさか自分がここまで簡単な人間だとは思わなかった。 と── 「あーーーーっ!」 なにやら素っ頓狂な声を上げたのは、もう一人の母親である桃子だった。酔っているのかいないのか。外見からは想像がつかない。 「美沙斗さんと美由希がラブラブしてるーっ」 「ラブラブって、桃子さん……」 訂正。十分酔っているらしかった。少なくとも、気分がハイになっていることは間違いない。 「桃子さんもラブラブしよっと。ほら、美由希」 「え?」 などと戸惑っているうちに、娘が桃子の、うらやましいくらい豊満な胸の中にすっぽりと納まった。 「か、かーさん!?」 「あ、いいなぁ。それ」 桃子が美由希に抱きついているのをうらやましげに言ったのは忍である。いつの間にか、周囲の視線がこちらに集中していた。 「じゃ、あたしも高町君にラブラブしよっと」 「いや、待て月村。いくらなんでも話に脈絡がなさすぎだ」 「忍さんも、何さりげなく恭也さんに抱きついてるんですかーっ!」 「お嬢様。どうせならもう少し胸を強調されたほうがよろしいかと」 「ノエルさんもあおらないでください!」 「久遠もやるー」 「くーちゃん?」 「ほれ。おサル。そろそろ歌え」 「うっせーな。今行こうと思ってたとこだ……よし! 城島晶、『恋時雨』歌いまーすっ!」 「ああ、もう何がなんだか……」 最後の呻きは恭也のものだったが、女性陣にもみくちゃにされているうちにそれも次第に消えていった。忍と、いつの間にか参戦していたノエルの豊満な胸に圧迫されて気を失ったようではあったが、美沙斗は「まぁいいか」的な感じで見捨てることにした。 「いいんでしょうか。なんだかどんどん収拾がつかなくなってるみたいですけど」 と、何故か一番現状を心配しているのが最年少のなのはだったりするから、ここの面子は特殊といえるのかもしれない。見るものが見れば可笑しな連中だと思うのだろうが、自身も立派にその一員だということに思い立って、美沙斗は胸中で笑った。 「まぁ、大丈夫なんじゃないかな」 無責任かとは思ったが、美沙斗はそう答えた。 「そうですか?」 「うん。たぶん、みんな、自分が何をしているかくらいはわかってるはずだから。だからなのはちゃんも、今は楽しもう」 「そーですね。なんだかその方が楽みたいですし」 なにやら達観したかのような結論に至った少女に微笑を返して、美沙斗はもう一度、見事に満開の桜を見上げた。あまりにも純粋な花びらは桃色というイメージが強かったはずなのに、蒼白に輝く様は見惚れるほどに綺麗だった。その混じりけのない破片が風に揺られて舞い散り、湖に浮かんで波紋を呼ぶ。 そうして美沙斗は今一度、自分が先ほど言った言葉を範疇した。 今は楽しもう。 自然と漏れ出た感嘆の吐息が、手の内にある日本酒の──混じりけのない純米酒の水面に浮かぶ花びらを揺らした。
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警防隊のデータベースにアクセスを繰り返しながら、啓吾はその情報を出来る限り脳へと叩き込んでいた。情報を外出させるわけには行かない。出来るのは、記憶することだけである。暗室の中で、目の前のコンソールにしがみつく様は傍から見れば異様だっただろうが、コンピュータを連結しなければ処理できないほどの膨大な情報量を思えばそれも仕方ないといえた。 椿三影。現存する最悪の犯罪者の情報。記憶しなくてはならない状況下で、しかしその内容はそれをことごとく阻もうとする。『驚愕』という感情がこれほど強大な衝撃になるのだということを、啓吾はこのとき初めて知った。 しかし──ふとその情報の中に存在した違和感に、啓吾はキーボードをたたく指を止めた。すでに流してしまった資料の中から漁るようにして検索をかけ、検出された結果に目を通す。 驚きはなかった。感情らしいものは何もわかない。ただ単純に思考が停止する。カーソルによって色の反転された文字が飛び込んでくる。項目は三影の行動履歴だった。どうしてこのような情報があるのかを考える余力すらなく、啓吾はその一文を見つめた。
──西暦19××年より三年間、日本長崎県長崎市において、HELL&HEAVENと称されるグループに所属。恋人、和泉十鬼との間に一子をもうける。娘の名は『テテニス』。現在消息不明。
「………………」 何もかも全てが理解できない。だというのに心は次第に解凍されていく。混雑して一気に膨れ上がった感情の捌け口さえ見つからず、啓吾はただ放心するしかなかった。
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イギリス──
舗装されていない草道を歩きながら、フィアッセ・クリステラは空を見上げた。夜だというのに幻想的なまでに明るい。月と星。湯上りで少し湿った金色の髪を風になびかせて、彼女は小さく深呼吸した。 春といっても、四月上旬のイギリスの気温はまだ低い。少なくとも肌着一枚で夜を散歩できるほどの暖かさはないから、彼女も普段着の上からブラウンのジャケットを羽織っていた。身体は火照っているが、それでも時間がたてば手先から冷えるので、たまに手を合わせて息を吹きかける。 はぁ〜〜…… 暖かい缶コーヒーがほしかったが、こんな片田舎に自動販売機があるわけもない。文明機器は彼女が住む建物とその近辺にしかなく、それも自家発電なので、当然周囲に電柱もない。その代わりここには満天の星空が、何者にも邪魔されることなく広がっている。 空気の冷えた夜、それを一人で見上げるのが彼女のお気に入りだった。寒くても夜の空気に触れたくなるのである。以前、日本に住んでいたころはそうでもなかったが、祖国に帰ってからどうも回数が増えている気がする。何故だろうと思索する間もなく、彼女は目的地についていた。 雪の下から目覚めたばかりの背丈の低い草原を歩き、広がる森の一歩手前で、フィアッセは足を止めた。 すぐ向こうには森が広がっている。どれもこれも大人の背丈の何倍も伸びた樹木である。森の中に一歩入れば分厚い枝葉の天蓋にさえぎられて、夜でなくとも薄暗く、空気はひっそりと澱んで痛いほどに寒かった。それでも新芽の息吹が感じられるこの時期、様々な色合いの緑に敷き詰められる空間は、太古の神殿のようにおごそかで──だからだろうか、不思議と夜でも怖いと感じたことはなかった。 その森の入り口にひっそりと建てられた石。暗いせいだろう。墓標は見えなかったが、何と刻まれてあるかは知っていた。ティオレ・クリステラ。フィアッセの実母だ。 ここは世紀の歌姫と言われた、世界最高の歌手が眠る場所。 自分の技術を後世の伝えるためにクリステラ・ソングスクールなるものを創設し、引退後はそこで歌手育成に取り組んでいたティオレは、一年半ほど前に病気でこの世を去った。その死を悲しむ者は多い。もちろん、フィアッセも例外ではなかった。 しかしティオレの人生は、仏教の言葉を借りるなら大往生だったのではないかと思う。亡くなったときの母はこちらが呆れるくらいに笑顔だった。 今はフィアッセがスクール校長になって、生徒を指導する立場にある。まだまだ現役の、まだまだ勉強中の身ではあるが、教える立場というのも面白い。連日忙しく、どうしたってゆっくり休める日は少ないのが実情であるから、こうして夜の散歩をすることが彼女にとってはいい気晴らしになるのだった。 「こんばんわ。ママ」 と── 亡き母の墓石に語りかけたその瞬間に、フィアッセはハッとなった。墓のすぐ傍に人がいることに気づいたのだ。景色に溶け込むように祈りをささげていたせいか、気づくのが遅れてしまった。 「あの……」 人影は立ち上がり、ゆっくりとこちらを向いた。背丈や体格、うっすらと見える髪形からして男のようだが、誰なのか判別がつくほど周囲は明るくなかった。しかし何故だろう──人影の髪の色が黒いということだけはよくわかった。闇夜にも違和感のない黒。それは天然自然の暖かさを含んだ、フィアッセの好きな髪の色だった。 「このような夜分に、このような形で失礼いたします。フィアッセ・クリステラ女史。また勝手に敷地内に入ったことを含め、突然のご無礼をお許しください」 流暢な英語だった。少なくとも、暴漢の類ではないのだと判断する。だがいつでも逃げられるように一歩、気づかれないように後ろに下がりながら、フィアッセは聞いた。 「どなたですか?」 「我が名は椿三影。フィアッセ・クリステラ女史。貴女をお迎えにあがりました」 男が一礼する。その、とても犯罪者には見えない優雅な振る舞いに、フィアッセは訝しげに眉を寄せた。 「迎え?」 「はい。貴女に会っていただきたい人物がいます」 「私に?」 「はい」 「どなたですか?」 男は一度言葉を切った。言うべきか否か。表情が見えないので判別しかねたが、いくばくか逡巡したようだった。やがて意を決したように改まって姿勢を正す。 そうして彼は、およそフィアッセが予想だにしなかったことを口にしたのだ。 「その少女の名は『テテニス・クラーケン』。変異性遺伝子障害病、症例第一号にして、人類最初のHGSです」
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