|
第三章 ルシフェル
風に運ばれてきた春の香りに、彼は懐かしげに目を細めた。花の散り様は儚く美しく、空さえ覆うように盛大に、蒼白の花吹雪が視界を埋める。 (これが桜か) 彼はそっと一人ごちた。 舞い落ちた花びらを、木々の間から差し込む光が照らし出す。反射してきらきらと輝く花の道を歩くのは、思いのほか心地よかった。 ふと、風がやんだ。 それでも花は散り続ける。音もなく。ひらひらと。舞い落ちる。 桃色に包まれた空から視線をはずして、彼はゆっくりと目を瞑った。まぶたの裏に見えたのは静止した空間。闇ではなく、光ある世界でもなく、停滞した空虚な世界。魔属である自身にとって、その世界は逆の懐かしさを含んだ空間だった。 やがて誰かが近づく気配を感じて、彼はまたその世界から脱却した。後ろを向くと同時に足音が止まる。いつの間にか、再び風が吹いていた。 その風に栗色の髪をなびかせて、年のころ中学生ほどの少女がそこにいた。こちらを真正面から見つめ、ただにっこりと微笑んでいた。 そうして、その美しい表情どおり優しげな声で、彼女は言った。 「泣いているの?」 彼は首を横に振った。涙は流れていない。それは確認するまでもなかった。 「そう。でも、とても悲しそう……」 「君がそう思っているなら、その通りかもしれない」 「どうして? やっと会えたのに……」 「喜ばしく思っている。だがこれは、同時に君の人生を無に帰すことでもある」 「…………」 少女は微笑んだまま、無言で頷いた。 「でもいいの。だって会えたから。二百年。永かった。本当に」 その頃には、彼女の瞳から一筋の涙が流れていた。 「ようやくお会いできましたね、お父様」 小さな身体で精一杯笑おうとしているその少女の頭を、彼はそっと撫で付けた。 それが、最初で最後。 『テテニス・クラーケン』と名乗る少女が人間であった最後の一時だった。
◇
「テテニス・クラーケン。出生、所在地、家族構成、学力を含めた身体能力その他、彼女に関するデータ全ては未公開であり、どのような権限を所有する者もそれを閲覧し、知識を得ることを許可されない特一級機密指定になっています。その姿さえ秘密にされているという徹底振りから、一説には『存在しない』という噂もあるそうです……」 見慣れた応接間で、フィアッセの右腕とも言うべきソングスクールの副校長、イリア・ライソンは手元の書類から目を離すことなく続けた。 「彼女について一般公開されている情報はたった三つです。名前と、変異性遺伝子障害病の症例第一号であること、そして──」 そこで初めて、彼女はフィアッセのほうに視線をくれた。息継ぎにもならないほど短く息を吐いてから、さらに続ける。 「その高機能性──HGSであること。残念ながら、彼女が人類最初のHGSであるかどうかについての確認は出来ませんでした。遺伝子障害研究センターの米国本部に問い合わせてみましたが、回答は同じです。閲覧できることが全てであると」 湯気立つ紅茶を口に含み、フィアッセは軽く舌先を暖めてからのどに流した。唇のかすかな隙間から漏れ出た息が、赤茶色の水面に波紋を立てる。それを冷静に見つめ、さらには見つめている自分の顔を水面に確認して、彼女はおもむろに顔を上げた。 対面に座る男は差し出した紅茶には手をつけず、じっとこちらを見ていた。黒髪の、典型的な東洋の顔立ちをした男である。瞳が金色であったこと、それから全身黒尽くめであることなどが手伝って、印象的に黒猫のようだと彼女は思えた。 背は英国の平均と同程度で、その引き締まった肢体はフィアッセのよく知る青年を連想させた。そうして意識して見ると、似ていなくもないことに気づく。顔立ちではなく、その身に纏わせた空気がそっくりなのだ。 普通の人間には出せない『ニオイ』。直感でわかった。椿三影──彼も戦いに身を置く者なのだ。 その戦士に向かって、イリアは不快感を隠すことなく聞いた。 「椿さんとおっしゃいましたね。存在さえ疑われているテテニスという方を、しかもこのような夜分に校長をお連れしてまで会わせたい理由をお聞かせ願えませんか」 「……残念ながら」 しかし三影は、迷うことなく首を横に振った。 「その理由は話せません。失礼ですが、貴女には知る資格がない。先ほど貴女が言ったとおりですよ、イリア・ライソン殿。テテニス・クラーケンに関する情報は一切が機密となっています。それは情報管理者も例外ではありません」 「…………」 全くの正論に、イリアは呻くように口をつぐんだ。だがすぐ何か言い返そうとしたイリアを止める形で、フィアッセは口を挟んだ。 「わたしにも、ですか?」 「…………」 無言の視線が、静かにイリアのほうに向けられる。彼女もそれに気づいたのだろう、苦虫を噛み潰したような顔になった。退室しろと、三影は言っている。 「イリア」 そっと促すと、イリアは心底不満げにため息をついてから、一礼して客間を去っていった。 「……すみません。この件は出来る限り外出させたくないのです」 「いいえ」 でも……と、続ける。 「わたしが、そのテテニスさんに会うことで何かあるのですか?」 「その質問に答える前に、少しお願いがあります。丁寧語は疲れるので、出来たら崩したいのですが」 「ええ、どうぞ」 いくらかほっとしたのは気のせいではなかった。それだけ彼から感じる気配は異質で、フィアッセ自身、どうにも無意識に緊張していたらしい。手に浮かぶ汗を密かにぬぐって、彼女は椿三影と名乗った男性に先を促した。 「では、お言葉に甘えよう」 大仰、とまでは行かないが、彼の口調がガラリと変わった。不思議と嫌な感じがしないのは、その口調に比べ物言いが穏やかなせいだろう。 「先の質問の前に、確認しておきたいことがある。クリステラ女史は……ご自身の抱える病気についてどこまでご存知か?」 「……わたしの?」 質問を質問で返されて、フィアッセは目をきょとんとさせた。 自分の病気。変異性遺伝子障害病。その高機能性。HGS。生体熱変換能力。使うだけでフィアッセ自身の身体を蝕む諸刃の剣。 自身の能力のことも含め、知っていることは少なかった。自分は専門家ではないし、医師でもない。はっきりとわかるのは、自分の身体は人間としてもHGSとしても、どこか欠陥があるということだけだった。 日常生活に支障をきたさないほど健康になったのは成人してからだし、今でも服用し続けている薬の量は増えることはあっても減ることはない。答えあぐねていると、三影は小さく微笑んで見せた。こちらがわかっていないことを見透かすような態度に眉をひそめると、彼はゆっくりと、諭すように話を続けた。 「HGSとは、いや、そもそも変異性遺伝子障害とは何なのか。これは根底の疑問だ。女史は不思議に感じたことはなかったか? 何故、全く共通項のない者たちが世界で同時多発的に遺伝子の障害を発症させたのか。何故超能力の発現を可能とする体質保持者が現れたのか。現段階での科学技術ではその不具合に対する一時的治療、対策は取れても、根本的な根絶は不可能だ。いまだ誰も真実にたどり着いていないことが何よりもその証拠ではないか」 「真実……」 まるで自分ならそれを知っているかのような物言いに、フィアッセは口を閉ざすしかなかった。 「事は全てそこに集約する。何ゆえHGSが生まれたか。その真実を知るだけの覚悟が女史にないことは承知のうえでこれから語ろうと思うが……」 ふと言葉を切って、彼はこちらを見てきた。 「よろしいかな」 「よくないって言っても、話すのでしょう?」 微かに笑うだけの余裕を持ちながら、フィアッセはそう切り替えした。 「そうだな。その通りだ」 彼もまた軽く笑い返してから、本当に何気なく、またあっさりとした口調で続けた。 「ではその遺伝子障害発症の真実について話す前に、私はもう一度自己紹介をしたい。第一に、私は人間ではない」 「…………はぁ?」 唐突な告白に、フィアッセは思わずあんぐりと口を開けた。 だがその心情としては、不思議と驚きはなかった。ただ、なんとなくそうかもしれない──と感じたのは、彼がどこか自分に似た空気も持っていたからである。HGSとは少し違う。だが普通の人間とも少し違う。確定できない違和感を言葉にしたとき、彼が人間でないという告白は、ことのほかしっくりとフィアッセの理解を促した。 なんだか自分を取り巻く世界が常識からどんどん外れて行っているようで、多少ついていけない感はあったが。 「私は俗称として魔族に分類される存在だ。種族といってもそれらは単体個々で存在し、およそ集団的特性を生態的にも持たない。故に彼らは魔に属するもの。『魔属』と称することが正しい。ここまではいいかな?」 「えっと……」 よくはない。わかったのは彼が人間ではないということだけである。ましてや彼が何を話したいのか、フィアッセにはさっぱり先が見えないのだった。が、あえて口にする疑問も思い浮かばないので、黙って頷いておく。 「魔属の定義は簡単だ。異次元生命体、この一言に尽きる。異次元に存在する生命体のことはすべからく魔属と呼ぶ」 「魔属? 異次元?」 脳裏に思い浮かんだのはエイリアンのような生命体である。 「人間じゃないんですか?」 「違う──というのは、あくまで生態系の話だ。ホモサピエンスではない、というだけにすぎない。映画などで見る化け物の姿をとるものもいれば、この世界でよく見かける形のもの──ヒューマノイドもいる。人型であろうとなんであろうと、やはり彼らは人間ではない。だから人間の定義は通用しないし、彼ら自身、定義を共有していない。異次元生命体には特色も共通点もない──ことはないのだが、言ってしまえば『地球上の生命体』と言った風な大雑把過ぎる分類なのでね、それを特定することは出来ない」 異次元という言葉から連想するには、フィアッセの知識は乏しすぎた。 「異次元って何ですか?」 三影は一刻会話をとめ、優しく解説し始めた。 「この世界は立体──すなわち三次元だということは理解できるかな」 「はい」 それは難しくなかった。 「零次元は、点。一次が線。二次が面だ。三次元にとって、三次以外の次元は全て異次元──すなわち『ここ』とは異なる次元となる。ここではない次元で生きる者たち、それが魔属だ。砕けた言い方をするなら、魔属のことは異世界の生物とでも思えばいい。正解ではないが、概念としてはそれがもっとも近い」 なんとなくは理解した。試行錯誤の末、先のエイリアンのイメージは捨て去ることにする。そうして思い直せば、不思議と彼の言っていることは嘘ではないのだと、フィアッセは直感で感じ取っていた。よくよく考えればこんな会話は笑って聞き流すような内容である。それは彼女自身が『普通』でないからという点も大きかったが、何より椿三影という人物から発せられる気配には、到底これまでの話を『虚構』としてしまってはいけないという圧力が感じられた。 そうはいっても、話の本筋が見えてこないのは相変わらずである。 「あの──」 と、フィアッセはその会話(というよりは、むしろ三影の独白に近いその話)をさえぎった。 「先ほどから、全然、これっぽっちもお話が見えてこないのですけど……結局、椿さんは、一体何をおっしゃりたいのですか? そのことがわたしの病気と何か関係があるのですか?」 すると三影は、ふっと軽く笑った後、自虐的に目線を伏せた。 「関係か。順序だてて話をするのは──特に何も知らない者に話すのはあまり得意でもなければ気も進まないのだが、今度ばかりは仕方がない」 そして不意に目を上げる。視線があった瞬間、フィアッセは思わず身体を硬直させた。 「まず定義から崩そう。HGSを含めた遺伝子障害病──文字通り障害として認識されたその病気が、本当は病気ではないとは考えたことはないか?」 「え?」 その漏れ出た声は、言われたことに対する驚きから出たものではなかった。彼が何を言おうと驚かないだけの覚悟は内心ひそかに決めていたから、それはむしろ、質問に対する驚きよりも三影の試すような笑みにあっけにとられたからである。 とはいえ、話の内容を即時理解できたわけでも、納得できたわけでもなかった。 「そう──変異性遺伝子障害はそもそも障害ではない。だから病気でもない。病気でないから、薬などいくら使っても根底の治療にはならない。いや、治療しようとすることそのものが間違いだ。不治などといわれているのも当然だろう。もとより壊れていないのだから、治しようがない」 「…………で、でも!」 言葉を発するのには労力が要った。口が重い。つむぎ出された声が、自分のものではないかのような感覚で、フィアッセは意見した。 「わたしや、知り合いの『羽もち』の子たちはみんな、身体が不自由で、子供の頃から病弱で──たくさんの薬を服用して、どうにか日常生活が送れていました。それでも、わたしたちは病気ではないんですか?」 「断言しよう。違うのだ。逆に、女史は何故それを病気と決め付ける? 可笑しいのは自分ではなく、周囲だとは何故思わない? 女史は、自身の抱えている肉体的な苦痛が、医療によって病気だと知った。だがそこで、医者が間違っているとは思わなかったか? 医学界そのものが間違っているとは考えなかったか? 昔は風邪を引くのは物の怪の仕業だと考えられていた。それが当時の専門家の常識だった。誰も疑問に思わなかった。だが今の時代、未開人以外でそのようなことを言う者はいまい。この時代にあるものが絶対の真実である保障はないというのに」 「間違ってる……!? でも……まさか……」 その思いが頭から離れない。それが本当なら今までの投薬、子供時代の入院生活、薬漬けになって、研究の対象で身体をいじられたあの頃の苦痛は何だったのだろうか。そんな目にあったのは何も自分だけではない。多くのHGSたちが、変異性遺伝子障害を持つ者たちが、今もなお健康とは程遠い暮らしを送っているはずなのだ。フィアッセ自身はまだ恵まれているほうなのである。 その感情、記憶、身体に刻まれた病人としての経験が、三影の言葉を拒絶した。 「例え医学が間違っていても、今の医学でわたしたちは助かってきました」 本当なら、成人するまで生きられないだろうといわれていたフィアッセである。それが偽者であろうと、助けてくれたものを否定する気にはならなかった。 「そうか。なら私もそれには感謝せねばなるまい。少なくとも、お膳立てが整うまで女史を生かしてくれたのだから」 「…………!」 そのとき初めて、フィアッセは目の前の男性に遺憾を覚えた。言葉遣いは丁重だし、口調は穏やかだったが、一瞬垣間見たそれは、まさしく彼の本音のように思えたからだ。険しくなった視線に気づいたのか、三影が苦笑して見せた。 「気を悪くしたのなら謝ろう。だが現在の医学が、HGSや変異性遺伝子障害者の寿命を逆に縮めているのも事実だ」 「…………え?」 こればかりは全く予想しなかったことだった。 「変異性遺伝子障害が起こった原因。HGSが生まれた理由。その要因を考慮したなら医療など全く必要ないことなど容易にわかるはずだ。そうなっていないのは、その原因を知らないから──ではなく、気づいていながら黙認したからだ」 処理が追いつかない。感情が凍りついていくのが、肌身でわかった。反射的に何故と、そしてまさかという疑念と痛みに満ちた声が出る前に、三影が言った。 「何故なら遺伝子が突然変異した『障害者』たち──便宜上、そう呼ばせてもらうが──の状態を解明し、対処したところで、自分たち『人類』には関係ないということをあらかじめ知っていたからだ。逆にそれを刺激することで、『障害者』たちが本来の生態を取り戻し、真の能力を発揮することを恐れた彼らは、『障害者』たちの身に起こった未知の状態を『障害』として認知させた。果たしてそれは間違っていなかった。今の人類の科学力では、その原因を突き止めることなど決して出来ないこともわかっていたからだ。それどころか、逆に障害でないはずのそれを障害だと誤認してしまうことも十二分に予測可能だったはずだ。結果は──女史自身がよく知っていよう。現在における不治の病とされ、最大の難病の一つといわれるまでになった」 三影の説明は淡々としていた。彼にとっては事実を冷酷に述べているに過ぎないのだろう。言っていることは理解できないではなかったが、信じたくなかった。 まさか。そんな。どうして。ありえない。嘘でしょう──と。感情としては単純で、ただ一つ、フィアッセを支配したのは『疑念』のそれである。胸中で渦巻くそれを御することが出来ずに、困惑顔で彼女は呻いた。 「……どうして……そんなことに……」 言ってから後悔することは多々ある。これもその一つだった。知るべきではない。知らないほうがいい。本能がそう告げてくる一方で、知っておくべきだという矛盾が胸の中で警告を鳴らす。 三影はじっとこちらを見つめ、話してもいいのかと視線で問いかけてきていた。それだけで、フィアッセは覚悟を決めざるをえなかった。もとより話す気でいたらしい彼の口を止める術は最初からなかったのだから。 そうして彼は── 「当然だろう? たとえ出来損ないであろうと、HGSが『人工魔属』であるなどとは決して口外など出来ないさ」 フィアッセの心臓を鷲掴みにするほどのことを、こともなげに告げたのだ。
◇
≪椿三影、並びにフィアッセ・クリステラを確認しました≫ すぐ傍で聞き知った声が聞こえた。 「よし、各員配置につけ。包囲完了しだい、行動に移る」 返答はなかった。コレも作戦説明の際に、彼が部下たちにきつく念を押したしたことである。作戦開始前、並びに作戦中は、決して無線による応答はするな。それが厳命だった。 その通りの行動に満足を覚えながらも、ところどころにまだ明かりのついている建物を見上げる。 立派な建築物だった。だが脆い。人間の建てたものだからか。コレと同じような建築物に、普段から自分たちは寝食しているのだと思うと、あまり心地のいいものではなかった。なにより、これからの自分たちの行動を思えば、気分よくいられるわけがない。 彼はどこの宗教にも属していなかった。だからというわけでもないが、こんな神に祈りたい気分になったとき、祈る神がいないのは些か不便な気がした。そのためだけにどこかの宗派に属する気も起きないので、適当に十字でも切っておく。 満点の夜空に、一筋の光が走ったとき、再び耳元で声がした。 ≪配置、完了しました≫ 息を吸う。後戻りは出来ないことを、彼は知っていた。決意の元に声をはく。 「了解した。では作戦名『セカンド・ルシフェル』を開始する!」
|