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第五章 悖逆の魔属
身体に小さな歪を覚えたのは、少女の彫像を見たときだった。 「フィアッセ?」 なんだろう? という考え、その結果を得る前に、自分よりも早く自分の異常に気づいた母が、彼女の顔を覗き込んだ。そんなに変な顔をしていたのだろうか。 「なぁに?」 「どうかしたの? 俯いてるけど、楽しくなかった?」 「ううん。そんなことない。楽しいよ」 嘘ではない。それは彼女の、心の底からの言葉だった。普段身体が弱いために滅多に外に出られない彼女にとって、今日は久々の外出である。しかも母も一緒なのだ。楽しくないわけがない。 世界的にも有名な歌手である母・ティオレの日常は多忙を極める。本人はとても気さくだし、いたずら好きで万人から好かれる女性だが、その小柄な身体のどこにそんなパワーがあるのかと、娘ながらに信じられないほど仕事にも精を打ち込む人だった。 コンサートツアーを開くことになれば世界中を飛び回ることになる。通院(もしくは入院)を繰り返す娘を連れまわすわけにもいかないので、そうなると長期間会えない時が続く。今日の外出は、彼女にとっても久々の母とのデートだった。 「それにしても、面白い彫刻よね」 美術館の展覧会。幻想種という題目の元に、石像、木像、色々な彫像が並べられた様は壮観だった。幻想種であるから、そのほとんどが伝説や神話に出てくるような幻の生き物である。ペガサスやユニコーン、ケンタウルス、人魚…… もとより病弱で、本を読むことも多かった彼女は、そういった神秘的な物語も好きだった。その中に出てくる空想の生き物が立体となって現実へと飛び出てきた姿は、狭い世界しか知らない少女の目を奪った。 「…………」 そして何より、彼女の目を輝かせたのは『竜』だった。翼の生えた大型爬虫類のような姿をした獣ではなく──もちろん、それも格好いいことには変わりなかったが、その格好良さを遺しながら優しさと美しさを備えたもの。 人の──それも少女らしき女性の背に羽ばたいた竜の翼。祈るように手を組み、天を駆り世界を伺う少女の姿は天使にも神にも見えたし、その瞳がどこか悲しげにも映った時は、悪魔かもしれないと思ってしまった。 「綺麗ね」 「うん」 見つめる時。その角度。その全て。竜の翼を持った少女の彫像は姿を変える。美しいと思った次の瞬間、怖いとさえ思えてしまう一面を垣間見せる。彼女はまさに天使と悪魔。果たしてこの少女はどんな物語に登場し、どんな活躍をするのか。 期待を込めて、彼女は作品紹介のプレートを見やった。だがそこには作者の名前も引用した原本も何も記されておらず、ただ題名が一つ、見慣れぬ文字で刻まれている。 英語ではない。これは、ラテン語だ。読めるはずもない言語。目が追いつかない。だが意識の片隅に、ちくりと痛みを伴って割り込んでくる音があった。
──創世の竜
そしてまた、身体に小さな痛みが走った。
◇
静かに時が過ぎ行く中で、苛立ちだけが募っていく。拳に込めた力に痛みを感じて、恭也は顔をしかめた。 あれから──というのは朝のニュースを見てからと──変化はあまりにもなさすぎた。ニュースで報じていたことは、フィアッセという女性を直接知る彼らにとってはまさにばかげたものでしかなかった。彼女が人を殺す? それも無差別に? あの幼馴染のアイリーンさえも手にかけた残虐な手口? そして彼女自身がそれを認めたなどと…… (冗談じゃない!) 静かな怒りを知らず体現していたらしい。すぐ傍に控えていたなのはがビクッと身体を震わせた。 「おにーちゃん……」 「あ、ああ。すまない、なのは。驚かせたな」 出来るだけ笑顔を──上手く笑えた自身はなかったが──作って、妹の頭を撫でる。安心したわけではないだろうが、彼女は落ち着いたようだった。 どこか普段の明るさを失ったまま、ただ時間だけが流れていく。だが気落ちしてばかりもいられないと、高町家でもっとも料理が上手と評される桃子が、夕食の準備に取り掛かろうと気合一発立ち上がったそのとき── 電話が鳴った。 家族全員が息を呑んだのは言うまでもない。取り急ぎリビングにあった子機を取った晶が、彼女らしくないほど慌てて落としたところを、床に落ちる前にレンが拾った。 「このアホ! ああ、すんません、おまたせしました、高町です……ああ、槙原さん? えっと、那美さんですか? ……え? お師匠?」 その声に全員が恭也を見た。 「さざなみの耕介さんです」 「耕介さんが……俺に?」 何の用だろう、と目線で問うと、レンは首をかしげて言った。 「ってゆーか、お師匠と美由希ちゃんにお話があるって言ってはりました。あ、どうぞ」 子機を受け取る。正直、ほかの事を考える余裕のなかった恭也は、電話の相手の見えない意図に困惑した。 「もしもし。代わりました、恭也です。すみません、今ちょっと立て込んでて……え、ええ。フィアッセのことです」 やはり彼もフィアッセが逮捕されたことを知ったらしい。詳しいことを聞くために電話してきたのだろうが、こちらとて事態を全く把握できていないのだ。教えられることなど何もなかった。 それを告げようとする前に、電話の向うの槙原耕介は声を低くして言った。 ≪……突然で悪いけれど、質問していいかな。フィアッセ逮捕の報道は見ただろう? あれ、どう思う?≫ 「何かの間違いでしょう」 即座に恭也は断言した。 ≪だけど自白したってテレビでは言っている。罪を自供したらしいね。それでも、間違いだと思うかな?≫ 「何か事情があるはずです。フィアッセがそうしなくてはならなかった事情が」 ≪何かって、彼女が人を殺すような事情って、何?≫ 「耕介さん」 ただでさえ、状況がつかめずにイライラがたまっていたところに、このやりとりである。恭也は我知らず声を重くした。 「一度しか言いませんが、フィアッセは人殺しなんか絶対にしません。何があろうと絶対にです。だから、これは何かの間違いですから、さざなみの皆さんにもそう伝えてください。すみませんが、忙しいのでこれで。もしかするとイギリスに行くかもしれないんで、あまりのんびりしていられないんです」 ≪それは、君個人の意見? それとも、高町さん家みんなの意見?≫ カチンと来た。 「いい加減にしてください!」 恭也の怒鳴り声に、何人かがびくりと身体を硬直させた。この家で恭也が怒りをあらわにすることは滅多にない。だからこその怖さを発揮して、高町家のリビングを震撼させる。 「フィアッセはそんなことをする女性じゃない! それは彼女を知っている人なら誰だってそう思うはずです。家のみんなだって、あんなことは信じていません!」 言葉で確認したわけではなかったが、その表情を見れば一目瞭然だった。ここにいる誰もが、フィアッセが殺人を犯すなどという愚考を抱いていない。 電話の向うから小さな吐息が聞こえた。 ≪そっか。気を悪くさせたみたいで悪かったね。けど……ならやっぱり君らが適任だろうな≫ 「え?」 ≪今、そこに誰がいるの? 那美と久遠は傍にいる?≫ こちらの怒りも疑問も全く取り合わず、耕介は奇妙な質問を投げかけてきた。苛立ちは収まらないが、相手は一度謝罪している。これ以上責めるのは大人気ないし、向うもわかってくれただろうからと、恭也はもう一度リビング全体に目線を向けた。 口を開くのは苦痛だったが、恭也は答えた。 「……いますよ。それからうちの家族と、レンと晶。月村とノエル」 ≪そうか……昨日花見だったんだよね。フィリスやリスティは参加しなかったんだっけ。こりゃ、全員集めるのに苦労しそうだな≫ 「は?」 ≪ああ、いや、こっちの話……えっと、恭也君。もう一度、ちゃんと確認させてほしい。フィアッセのこと、何があっても信じることが出来る?≫ 「もちろんです」 迷いはなかった。戸惑いもない。考える間もなく、恭也は断言していた。嘘偽りのない、心の底からそう思っているからこそ、ついて出た言葉である。 ≪わかった。そんな君だからこそ、彼女も頼りたくなるんだろうね≫ 「彼女?」 だがやはり何も答えず、耕介は一方的に話を進めた。 ≪大事な話があるんだ。今から迎えにいく。みんなそこに集まって、家を出ないようにしてほしい。それから、恭也君と美由希ちゃんには戦える準備もしておいてほしいんだ≫ 唐突な展開だった。 「……どういうことですか?」 話の行き先が見えない。だがその疑問も、耕介は取り合おうとしなかった。 ≪それもこっちにくれば話すよ。今はしなくちゃいけないことが多いから。迎えにいく方法がちょっと奇抜だから驚くだろうけれどね。ここにくればもっと驚くから、とりあえずの疑問はさざなみに来るまで保留ってことで良いかな? 都合の良いこと言ってるのはわかっているけど……≫ 「……よくわかりませんが、それはフィアッセに関することですか?」 ≪うん≫ なら疑問の余地はなかった。迷う必要すらない。耕介はおそらく、この件でフィアッセに関する何かを掴んだのだろう。あまり深い付き合いではないが、同じくさざなみ寮に住む那美の耕介に対する評価を聞けば、彼がどのような人物かを図るのは難しくなかった。 偏見でものを言う人物ではないはずだ。そこに思い当たったとき、恭也は耕介が意地の悪い質問を投げかけてきた意図を、少しだが察することが出来た。 やり方はともかく、こちらを試したのだろう。フィアッセの味方になれるかどうかを。多少の不快感を覚えるのと同時に、しかし恥ずかしくもあった。 向うが電話を切る前に、恭也は急いでそれだけは謝罪した。 「すみませんでした。怒鳴ってしまって」 ≪いや、こっちも意地悪しちゃったからね。おあいこということで。それじゃ、待ってて。すぐに行く≫ 電話が切れたのとほぼ同時だった。耕介とのやり取りをみんなに説明しようと思う間もなく、高町家の庭で風が巻き起こる。何もない空間に波紋が立ち、やがて漆黒の布が羽ばたき開いた。 「や、お待たせ」 人一人がすっぽり納まるほどの布風呂敷から出てきたのは、先ほどの電話の相手、槙原耕介だった。
◇
太陽が赤く空を染め始めた頃── 目の前で和気藹々と語り合う女性たちを半眼で見つめながら、三影は彼女たちには聞こえないように嘆息して見せた。 「思った以上に味方がいてくれたことには驚いた。想定していたよりも戦力が集まったことに対しても、耕介と、クリステラ女史の人望のおかげだ。感謝する。が──」 そこで一度言葉を切って、彼は部屋の片隅にこじんまりと身体を寄せている友人へと視線を向けた。 「事の重要性と深刻さを、加えてあまり時間がないことを理解していながら、何故、ここは同窓会のような雰囲気になっているのだ?」 釈然としない疑問をそのまま耕介にぶつけると、彼は苦笑を浮かべながらも、手を止めずに言った。 「まぁ、久しぶりに会った人が多いしね。フィアッセのことだって心配していただろうから、その辺は仕方ないんじゃないかな。ね、恭也君」 急に振られたせいか、高町恭也と名乗った少年は困ったように頬をかいた。 「そうですね。俺もフィアッセのことは心配でしたから。話を聞くだけだと思っていたので、フィアッセがいたのには驚きましたけど、それ以上に安心しました」 なるほど、と、三影はひそかに納得した。 確かにここに集った者たちは、フィアッセ・クリステラにとってかなり身近な存在なのだろう。輪の中心にいる彼女の笑顔を見れば、彼女自身もまた嬉しそうなのは一目瞭然だった。未知への不安と恐怖、そして重圧。押しかかってくるのはそれだけではない。独りで抱えられるほど、彼女が強いとも思えない。 (彼女の『心』を守るには、結果的によかったのかも知れんな) 身体さえ守れば目的は達成される。非情になってしまえばそれで終わる。だがそれではおそらく、ここにいる誰も納得しないに違いない。 恭也が目線で謝罪を示した。 「すみませんが、大目に見てあげてください」 「了解しているつもりだ。だがそれにしても……」 納得はしたが、文句がないわけではない。味方がいるならそれに越したことはない。その士気が高まるなら、この程度の雑談も多めに見よう。しかし── 「いくらなんでも、女性の比率が高すぎやしないか?」 その問いかけに、耕介と恭也、そしてその後ろに控えていた霊体の少年が苦笑いを浮かべた。啓吾はといえば、久方ぶりに会う娘の元気な姿に顔が緩みっぱなしという体たらくだったが、それはどうでもいいことではある。 そうして改めて見るなら、男性は三影と耕介、陣内啓吾と高町恭也、霊剣の本体である御架月を含めてもたった五名。対して女性陣は── 槙原愛、リスティ・槙原、陣内美緒、我那覇舞、木暮奈緒、仁村真雪、神咲那美、久遠、 高町桃子、高町なのは、高町美由希、御神美沙斗、城島晶、鳳蓮飛、 月村忍、ノエル・K・エーアリヒカイト、フィリス・矢沢、 そしてフィアッセ・クリステラとイリア・ライソン。 計、十九名。よくもまぁこれだけ集まったものである。 「正直な意見を言わせてもらうなら──」 部屋の隅で固まる男性陣を代表して、耕介が言った。 「確かに、ちょっとばかり居心地が悪いかな」 密かに、御架月と恭也が頷いた。 確かに息苦しい。リビングは決して狭くはないが、それ以上に人数が集まりすぎている。それも女性ばかり。これが男だったらぞっとする思いだった。もっとも、その場合は三影も容赦なく外に放り出しただろうが。 そんなこちらのことなど眼中にないかのように、女性陣は黄色い声で楽しそうに語り合っている。 「ところで耕介さんが家に来たときのあれは何ですか?」 不意に恭也が話題に上げたのは、高町家の面々を耕介が迎えに言った方法のことだった。 「ああ、あれは『闇羽衣』って言ってね。三影お手製の瞬間移動用の風呂敷……らしいんだけど?」 話を振られて、三影は多少顔をしかめながらも頷いた。 「空間移動は敵に察知されるからな。集団行動するには不向きだ」 「瞬間移動と何が違うんです?」 「本質はどちらも同じだ。一瞬で別の場所へ移動するという点ではな。ただ、瞬間移動は空間移動に比べて移動距離に制限がつきやすく、術者への負荷も高い。行ったことのない場所には移動出来ないという欠点もある。対して空間移動に距離は関係ないが、物質を媒体として移動することが多いために移動条件に制限がつく。負荷は低いが、周りの空間に与える影響が大きいために感知されやすい。一長一短だよ」 『なるほど』 頷きながらもわかっていない三人から目をそらして、三影は未だ喧騒覚めやらぬ女性陣のほうへ顔をやった。 「さて、そろそろ話を始めたいのだが、誰でもいいからあの騒ぎを鎮圧してもらえないだろうか」 誰でもと言いつつ、その視線は耕介に向けたつもりだった。が、当の耕介はその視線をあっさりと恭也のほうに向ける。それにつられて、全員が恭也を見た。 「お願い、恭也君」 「頼むよ、高町君」 「頑張ってください、恭也様」 「…………」 無言でこちらを見てくる少年に、三影はゆっくりと頷き返した。ほっとしたように顔を緩める恭也に、端的に告げる。 「君が頼りだ。期待する」 何故かさめざめと泣く恭也の後ろから、比率にして二十パーセントの男性陣が心の中でエールを送る。来客のチャイムが鳴ったのはそのときだった。
◇
突然の訪問客はそれほどまでに意外な人物だったらしい。椎名ゆうひの登場で再度喧騒に包まれたさざなみ寮リビングを、高町恭也の人望で強制的に鎮めた後──三影が行った彼女らへの説明はとてつもなく簡略したものだった。フィアッセにしたものよりも遥かに短く、要点を抑えて解説する。 説明前に、駄目だしをしたのは耕介だった。 「真相を話すのはいいけど、出来るだけ手短に、まとめて、みんなにわかるように、丁寧に話してくれ」 「……また難しい注文だな」 「そうでもしないとあっさり日が暮れるだろう? お前の説明は長い上にくどくて専門的だから、聞いてもわけが判らない場合が多いんだ」 その物言いに、フィアッセさえも苦笑を浮かべているのを見れば、傷つくなというほうが無理というものだ。かくして三影は、要所々々をまとめ上げ、素人でも子供でもわかるように例を挙げつつ簡単に説明する羽目になったのである。 三影としては、場の雰囲気が想定していたものとは若干違う方向へ向かっていることに些か不安と疑念を感じていたが、それでもHGSが人工のものであることを語ったときはすでに知っていたフィアッセでさえ顔を青くし、「まさか」という声がいくつも重なった。幾人かが目を背け、反論し、声を荒げ、憤然と立ち上がろうとするところを他の面子に抑えられる。 皆の気分が──特に仁村真雪の機嫌が落ち着くのを待ってから、三影は続けた。 「クリステラ女史を取り巻く状況は三つ。つまり、捕獲、抹殺、そして保護だ。捕獲して利用を目論む者、利用どころかその能力を使用されることに反対している者、そして彼女に本来の役割を期待する者……」 「椿さんは?」 「三つ目だな」 恭也の質問に、三影は顔を向けずに答えた。意図したことが伝わったのか、幾人かが眉をひそめる。三影がただ意味もなくフィアッセを守る側にいるわけでないと気づいたらしかった。 「諸君らを集めたのはもちろん女史を護るためだが、その前に選んでもらいたいことがある」 「選ぶ?」 眼鏡の女性がタバコを吹きながら大仰にこちらを睨んでくる。彼女──真雪を含めた皆の態度は顕著だった。三影が耕介の友人だから、「怪しいけれども話を聞いてみるか」といった程度に過ぎない。そのあからさまに信用のない視線は、いっそ心地よく三影に次の言葉を促した。 「どの陣営に就くかを選んで欲しいのだ。女史の身近な人間だからこそ、その選択は重要だと考える。クリステラ女史を捕獲する側、抹殺する側、保護する側。どこに味方しようと諸君らの自由だ」 突き放したような物言いに、幾人かがさらに機嫌を損ねたようだった。小声だったが、馬鹿にするなという声まで聞こえた。フィアッセにそんなことするわけないという意思の表れだろうが、三影はそれを容赦なく蹴り落とした。 「だが選ぶ前に言っておく。世界すでに動き出した。例え真実がどうであろうと、女史はすでに犯罪者であり、世界中からその身を狙われる状況にある。彼女の味方をすることはすべからく人類の敵──つまり、犯罪に手を染めることと同義だ」 「そんな! そんなのっておかしいですよ!」 叫んだのは恭也の妹、美由希である。双眸に明らかな怒りを宿してこちらを睨む姿はなるほど、確かに『彼女』の血筋を引いていることを納得できるものがあった。 「フィアッセは何も悪いことしてないんですよ? なのに!」 「では聞くが──」 少女の正直すぎる意見に、三影は真正面から答えを返した。 「一体、何がおかしくないのだ?」 「え?」 きょとんと。美由希は意表を付かれたように顔に疑問符を浮かべた。さらに問いかける。 「言い変えようか? 一体、何なら正しいのだ?」 「あの──」 彼女が何かを言う前に、三影はさらに言葉を紡いだ。 「何が正しくて何が間違いか。正義と悪。真と偽。それらは唯一のものでもなく、また不変でもない。絶対とは程遠い、不安定なものだ。ではそれらをどのようにして定めることが出来る?」 「何が……言いたいんですか?」 うろたえた自分を必死に隠して、美由希が一歩前に出た。その剣幕に皆が息を呑む。恭也が何かを言いかけようとして、それを耕介が止めた。 「観念は視点によって変わるということだよ、美由希殿。百年程度の歴史しかない日本国憲法が絶対的に正しいとは言えないのと同様、社会正義など時代の流れでいくらでも変わる。例え『個』が正しくとも『全』が悪であれば、『悪』が『正』と──立場が逆転するのが人の世だ」 勝てば官軍とはよく言ったものだと、三影は続けた。歴史は勝者が作る。 「正義とは『個』が信じる『義』に過ぎない。人それぞれ考えが異なるように、君の正義は君だけのものだ。それが『善』か『悪』かは関係ない。ならばそれらを他に求めることも、また強要することもしてはいけないのではないか?」 出来る限り言葉を選んだつもりだったが、それでも美由希は納得しなかったらしい。 「フィアッセはこれまで『歌』でたくさんの人たちを助けてきました。フィアッセの寄付で医療施設が充実して、助かった人はたくさんいるんです。世界中で、フィアッセの歌を好きになってくれた人たちがいるんです! なのに、一部の身勝手な人たちの身勝手な考えで、今の居場所全てを奪われるなんて、そんなの絶対におかしいですよ!」 皆が息を吐いた。彼女の言っていることは正しい。それは三影とて同意だった。だが甘い。彼女が欲しているのは、己に都合のいい正義でしかない。フィアッセに救われた者たちとて、だからといって命を懸けてまで恩を返してくれるとも限らない。 「だがそれは、きっと『人』として正しい気持ちなのだろうな。美由希殿」 そっと、三影は微笑み返した。驚いたのは美由希のほうである。目を丸くさせて、彼女は呻いた。 「しかし覚えておくといい。この世の全ては無作為ではなく、また無意味でもない。生まれる命もまた等価値ではありえない。必然の上に成り立つ全ては弱肉強食の名の元に連鎖する。それが自然だ。だが人は、自然から擬似的にではあるが独立し、独自の観念を作り出した。同時にそれは、人の価値観は人にしか通用しないことを意味する。理不尽だという君の怒りも解る。だがその道理もまた個々のものであり、『全』足りえることはない。立場が違えば価値観は異なる。環境が異なれば道理も合わない」 「そんな──!」 納得できずに何かを言おうとしたところを、今度ばかりは恭也がとめた。 「美由希。程度の差はあれ、椿さんの言っていることは正しい。間違っていない」 「恭ちゃん! それ本気で言ってる?」 恭也はそれには答えず、ただ静かに付け加えた。 「だけど美由希の言っていることも正しいんだ。だから俺たちに出来るのは、自分を信じて、自分の考えを貫くことだけだ。場合が場合で、事例が極端ではあるけど、全てを敵に回してでもフィアッセを護る信念を持ち続けるだけでいい。いや、そうしなくちゃいけない!」 まだ納得しかねている美由希に、三影はゆっくりと言葉を注いだ。 「この世に善悪も正誤もない。あるのはただ、命ある者の『意思』だけだ。君は君の意思を──それによって生まれる、女史を護りたいという『意志』を貫けばいい。だが忘れないで欲しいのは、道理も定義も、全ては個体の都合によって定められたものならば、この世でもっとも人から遠い存在──魔属たる私に、そして敵の指揮官らには通用しないということだよ」 「…………」 言葉なくうなだれる美由希にもう少し話を続けようとしたとき、 「って、ちょっと待て」 急に会話に割り込んできたのは、耕介だった。 「敵も魔属なのか?」 三影は隠すことなく頷いた。一時、場が騒然となる。静まり返るのを待つ前に、不満を爆発させた形で真雪が前に出た。 「結局、アンタはあたしらに何させたいんだ? フィアッセ嬢を護るためってのは解った。で? 敵は? その目的は? 戦力が必要だって言うなら、なんで知佳たちを呼び寄せるのを拒んだ」 「ここを手薄にするわけには行かない。それが一つ。二つ目は彼女らが組織に属して動いているなら、決してそれを信用できないからだ」 「……組織?」 「言ったろう? クリステラ女史を護ることは人類全体への反逆を意味する。属する組織が公的機関である以上、彼らは間違いなく敵なのだ。それに……」 「それに、なんだよ?」 喧嘩腰で睨み付けてくる真雪に、三影はそっと微笑を返した。嘲笑ったとでも思ったのだろう。彼女の顔に赤みが差す。それを無視して、三影は耕介に向き直った。 「彼女らと連絡が取れたか?」 耕介は力なく首を振った。 「……いや、留守電だった。薫も電話に出ない……葉弓さんや、楓ちゃんも」 「そうだろうな。女史と近しい者を、いつまでも自由にしておくはずがない」 「知佳たちも危険だって?」 その表情が、今までにない険しいものになる。その意味を知っているらしい幾人の顔から血の気が引いた。 「私が耕介を頼ったように、他にも接触を試みようとする可能性は皆無ではない。敵がその先手を打ってもおかしくはないさ」 「てめぇ! それがわかってて知佳たちを見殺しにしたのか!」 「死んだと決め付けるのは早計だ。無事であるかどうかわからんというだけだよ。例え彼女らが死んでいても、その点について言えば私には関係ないな。見知らぬ人間の命まで保障は出来んよ」 この言い方はむしろ失策だと三影は自覚していた。案の定、真雪の額に青筋が立つ。すぐ傍で、耕介の従姉弟である愛が三影の言葉に怒ってというより、彼女の反応に青ざめた顔で後退りした。 「真雪さん! 落ち着いてください!」 「愛は黙ってろ! いいか? 耕介の親友だって言うから黙って聞いてたけど、さっきから言ってることが気に食わないんだ。目的、動機、他のことも色々、なんか隠してるだろ? あたしらのこと便利な道具だとでも思ってんのか? もし知佳になんかあってみろ! 事が終わればあたしがアンタを殺してやる!」 「承知しておく」 美沙斗をはじめとする数人に取り押さえられながら怒声を上げる彼女の言葉はどこまでも非難でしかなかったが、三影は彼女の言葉を受け流した。それが、さらに気を損ねることを承知した上で、言葉を紡ぐ。 「解っているだろうが、遺された時間はあまりない。君らに選択を促しておいてなんだが、与えられる考える時間でさえ、せいぜい一時間が限度だ」 口をつぐんだ真雪に、三影は謝罪の意味も込めて微笑み返した。喧嘩腰で話をした今までの全てを、一言で纏め上げる。 「先ほど恭也殿が言ったとおりだ、真雪殿。私がどうあろうと、己が信念を貫けばいい。君らの『選択』に必要なだけの情報はすでに渡した。それでも不安なら、私を信用できなくともクリステラ女史を信じればいい」 淡々と、感情のこもっていない声で三影は言った。誰もが言葉を飲み込み、じっと何かを見つめている。それはそれぞれ違うものだったろうが、その視線が三影に向けられることはなかった。 混乱しているのだ、彼女たちも。だからといって、多くの時間を費やせる余裕もない。話しても問題はないことは解っていた。真雪ほどの知能があれば、理解できるだろうことも想像できた。だが、話すにはまだ早いという判断が勝つ。 胸中で心苦しく思いながらも、外見でそれをうかがわせることなく、三影は小さく、だが全員に聞き届く声量で告げる。 「今から一時間後。答えを聞かせていただく」 どよめく少女らを──憤然と怒りをあらわにしている真雪を背にして、彼はそっとリビングを後にした。
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