◇

 

 気持ち良いくらいの晴天だった。次第に赤くなっていく太陽が反射して、キラキラ光る水を庭にある花壇にやりながら、耕介は小さくため息をついた。晴れた空とは対照的に、気が重かった。さざなみのみんなを巻き込んだ一端が自身にあることを自覚しているからである。

 後ろからそっと近づいた気配に、耕介は振り向くことなく語りかけた。

「また何で、あんな怒らせるような言い方したんだ?」

「彼女らが信ずるべきは私の言葉ではない。クリステラ女史のほうだ。私への怒り程度で女史を取り巻く事実を取り込めないのなら、いつか彼女らは女史を裏切り見捨てることになる」

 三影は耕介の傍を通り過ぎ、すでに水撒きの終わった花壇の前に立った。その後姿からは表情はうかがえなかった。

「……今世界で何が起こってるのか、三影は知ってるんだな」

「おおよそは。だが、どうにも不安がぬぐえない。私は何かを見落としている気がする」

「不安?」

 てっきりそういうものとは縁遠いものと思っていただけに、耕介には意外な告白に聞こえた。

「ああ、誰かの掌で踊っているだけのような……そんな疑念がある。ここにきてからずっと違和感が絶えない。抜け穴。喪失感。開いていてはならない小さな穴を、見逃している気がするのだ」

 彼とて一個の生命体であるから、そういう感情を持っていてもおかしくはなかったが、耕介は妙な気分だった。およそ彼が慌てているという様相を、過去の経験から想像するのは難しかったからである。

「知佳たちは無事かな?」

「すまない」

 彼は初めて謝罪の言葉を述べた。

「正直なところ、無事でいる可能性は低い。先に名の上がった少女はHGSなのだろう? なればなおさらだ。貴重な資源をむざむざ自由にしておくほど、敵が呑気とも思えん」

 それは真実なのだろうと、耕介は思った。彼は客観的事実を述べている。そしてこのまま戦い続ける限り、こういったことがすぐ身近で起こるかもしれない。

「わかっていて、どうして私の味方をする気になった?」

「考えなかったわけじゃないんだ……別に」

「ん?」

 何が言いたいのか図りかねたのだろう。三影が小さく疑問の声を上げた。

「俺は管理人だから、寮のみんなの安全を最優先しないといけない」

「なら、なおさら何故だ?」

「フィアッセをお前が連れてきたとき、嫌な予感がした。だからかな……お前の傍にいたほうが安全だと思ったんだ。みんなにとっても」

「死の危険性は高い」

「どっちでも同じだと思う。いや、むしろお前の傍にいるから俺たちはまだ無事なんだろうって、今なら思うよ」

「それは事情を知った今であって、私がここに来た時ではあるまい」

 随分気を遣った台詞に、耕介は苦笑を返した。

「それはそうだけど……さっきも言ったとおり予感だって言ったら、信じるか?」

「……むぅ」

 その呻きは、賛否どちらとも取れた。

「結局こうなった今、俺に出来ることは嫌われてでも彼女たちを護ることだ。そりゃ、三影に電話したのが原因だって言われたらもうどうしようもないけどさ」

 かすかに漏れた笑い声は乾いていた。互いの顔が見えない会話が、どこか硬いまま続く。

「でも遅かれ早かれ、俺が……っていうより、さざなみ寮が巻き込まれてたんじゃないかって言う実感があるのも確かなんだよ。うちが特殊なのは理解してるつもりだ。海鳴全体が特異なんだってことも。いつかは誰かが、その異常性を壊しに来るんじゃないかって覚悟はしてたんだ」

 それにね、と。小声で続ける。

「ぶっちゃけた話、数ヶ月前に一度、陸王から連絡があったからなんだけど……」

 それ以来久しく会っていない友人の名を出すと、三影は今度こそ驚いたようだった。

「さざなみがまた(・・)狙われる可能性があるかもしれないってことは、聞いてたんだ。それが現実になったって、お前が来たときに思ったよ」

「…………」

 三影は応えなかった。先を続けて良いものとして、耕介はたまったつばを飲み込んだ。

 ここから先、続けるべき言葉を声に出すのには勇気が要る。それが間違っているという不安はなかった。むしろ確信めいたものまである。一時、間を空けてから、彼は言った。

「なぁ、狙われているのは本当にフィアッセだけ(・・・・・・・)なのか?」

 ほんの一瞬、彼の気配が揺らいだ。

「どうしてそう思う?」

「なんとなく」

 本音だった。嘘偽りなく、なんとなく、そう思う。そしてそれが正しいとも、なんとなく思えてしまった。

「今は話せない」

 三影は肯定してから否定した。

「何故?」

「何が敵なのか、いや、何を敵とするべきなのか、わかっていないからだ。私個人、迷っているということもある。今、こうしてここにいることを、真に正しいことだと断言することが出来ない」

「珍しいな」

 それも、彼という存在を知った上での正直な感想だった。こうしてさざなみや高町家の女性たちを巻き込むことを、彼は心のどこかで後悔している。

「出来ることとできないことがある。私も、耕介も、HGSや、他の人間とて、どれだけ強くても、出来ることは限られる。魔属は万能かもしれないが、全能ではない」

 人は不完全であるが故に、寄り添い生きていく。魔属とて、一生命体に違いないのであれば、そこには必ず限界が存在する。

「だけど……」

 耕介は小さく断ってから続けた。

「俺はお前が何者かを知っている。どんな奴かを知ってる。フィアッセを護ることで何をしようとしているかはわからないけど、『人間』好きなお前が、俺たちの悪いようにはしないって思った。強いて言うならこれが答え。駄目かな?」

「……まいった」

 小さく──だが今朝の会話以上に心の底から困ったような声で、三影は天を仰いだ。その様子が苦笑まじりだと感じたのは勘違いではなかったと思う。

「それでは非情になりきれん」

 彼らしい答えだった。

 それが計算づくかといえば嘘になる。期待と希望と、それから少しだけ彼の人間らしさを利用する形になったことへの後悔を込めて、耕介は三影に向き直った。

「よく言うよ」

 それは苦笑か失笑か。どちらにしろ、それは彼の言葉を否定した。

「俺よりもお前の方が誰かを切り捨てるのを嫌ってるくせに」

 本当は全てを助けたいと思っている。椿三影という男は、およそ人間でない分、人間よりも理想の人間であろうとする。そんな彼だからこそ、耕介は三影を信じようと思った。いや、むしろ信じなくては駄目だと思った。彼を──彼でなくとも、誰かを信じなければ、きっとみんなが笑いあえる未来は来ない。といっても、それでさえ理由を挙げればただなんとなくそう感じるという程度のものでしかなかったが。

 不安は尽きない。三影の言葉ではないが、今自分がしていることが正しいとはっきり言えるほど、耕介も決意を固めているわけではなかった。迷いはある。戸惑いも、そしてきっと恐怖も。みんなをこうして巻き込んでしまっていることへの後悔も。拭い去ることの出来ない負の感情を持て余しながらもその原因さえわからないとくれば、どうしていいか決断しかねるのは仕方のないことかもしれない。

 だが耕介は、そんな風に仕方ないで考えを捨てることも怖かった。

 と、その思考を遮るようにして、

「なぁ、耕介くん?」

 ひょこっと庭先に顔を出して、ゆうひが手に持っていたチケットをひらひらと振った。

「みんなお腹空いたゆうてるから、人数も多いし今日は出前でもとろかって言うてるんやけど……」

「ああ、なら何か作ろうか?」

 彼女の提案はもっともだった。幾人かは昼食を食べずにここにきたらしいから、時間帯を考えれば空腹になっても仕方がない。ふと時計を見ると、もう午後六時を回っていた。夕食には少し早いが、準備を始めても良い頃合である。人数が多いから時間はかかるだろうが、決して億劫とは思わなかった。

 耕介は頭を振って思考を切り替えた。今はまだ駄目だ。考えるにしても行動するにしても、情報が少なすぎる。

「さっき奈緒ちゃんが冷蔵庫の中見て言うてたけど、食材足りひんねんて……」

「ああ、そうだった」

 水道の蛇口を止めつつ、耕介は舌を鳴らした。

「しまったな。今日買い物に行くつもりで夕べ結構さらえたんだった」

「ほな、出前に決定やね。ところで、このピザの割引チケット、今月分はどこ?」

「今月分って……それまだ期限切れてないだろ」

 ゆうひが持っていたチケットを指差す。覗いてみると、確かにそれは四月いっぱい使えるよう記載されていた。が──

「なに言うてるん。今日はもう五月やん」

「………あん?」

 軽く耕介の誤りを訂正したゆうひとは対照的に、耕介は思考が一時停止した。

 しばし会話が止まる──と、言うより、会話を続けることが出来ないでいると、三影が急に蒼白な顔をして詰め寄ってきた。チケットからゆうひへと視線を移す。微妙にゆうひが後退りしたが、三影は気にせず聞いた。

「椎名殿、つかぬ事を聞くが、今日は何月何日だ?」

「え? 何日って……確か、五月四日……のはずやけど……」

 彼女が何を言っているのか、耕介にはしばらく理解できなかった。その困惑をそのまま口に出す。

「お前、何言って……だって、フィアッセが逮捕されたって報道されたのは……」

「日本時間の今日の朝。英国の時間で言えばまだ昨日だ。故に──」

 三影もまた理解しかねている様子だった。一度言葉を切って、二人はゆうひを見つめる。

「今日は四月十二日のはずだ」

 三影の言葉は事実だった。今日はまだ十二日。フィアッセが逮捕されたと報道されたのは今朝である。が、しばし目を瞬かせた後、今度はゆうひが困惑気味に呟いた。

「何言うとるん? フィアッセが逮捕されたんはもう三週間も前よ?」

 居心地の悪い沈黙が流れた。

「……………………マジで?」

「マジマジ」

 思わずゆうひと顔を見合わせる。彼女が本気であることに気づいて、耕介はそのままの表情で三影に向き直った。

「嘘ちゃうよ? ほら」

 言われて、二人は彼女の腕時計を見た。液晶画面には確かに五月四日と表示されている。それでけでなく、時間的も狂っていた。時計は午後九時を回っているが、実際まだ日が暮れ始めたばかりである。

 ただならぬ気配に何事かあったのかと、恭也がそっと寄ってきた。

「どうかしたんですか?」

「恭也君。今日、何月何日だ?」

「え? 四月十二日でしょう。先週、始業式と入学式があって、花見をしたのが昨日。フィアッセが逮捕されてから、まだ一日も経ってないはずです」

「だよな」

 どういうことだという疑問を、耕介はそのまま目線で三影に問いかけた。が、彼は空を見ていた。じっと、見えない何かを憎々しげに凝視する。そして確かに彼は、そこに小さな穴が開いているのを見つけたようだった。ハッとその目が見開かれる。

「あれは……結界? ──時間軸をずらされたのか?」

 憎々しげに──その感情が誰に向けられたものなのかはわからなかったが、三影にしては珍しく声だけでなく表情まで荒げて言った。

「三影?」

「私がここに来たからか、それとも来る前からか、どちらかはわからんが。海鳴市全域、ひょっとするとその隣接市に至るまで、結界で囲まれている可能性がある。それも時間変動を狂わせる類の悪質な結界だ。実際には私たちはまだ一日と経っていないが、結界の外ではすでに三週間の時間が流れているらしい」

「まさか……って、ゆうひがいい証拠か。あれ? でもそういえばゆうひは何で突然海鳴に帰ってきたんだ?」

「え?」

 今度は彼女が驚いたように目を瞬かせた。

「えっと……あの……あ、ほら。ちょうど関東方面にコンサートに来とってんけど、その間にちょっと休暇ができたんや」

「……ふーん」

 変に慌てたように取り繕う彼女に奇妙さを感じながらも耕介は頷いた。彼女の様子はどこか変だったが、その思考を恭也が遮る。

「えっと、よくわかりませんが、つまるところ、今は本当は五月なんですか?」

「そうなるな」

「で、でも! 市内外を出入りしている人だっているでしょう? 電話だって、テレビだって……そんなことになっていれば、誰か気づくんじゃ……」

「その違和感を抱かせないほど巧妙に仕組まれていたと考えるしかない。もしくは……」

 その先を言わなかったのは、会話を聞いていた女性たちを気遣ったのだと耕介は思った。

 街に出入りしようとする者すべてが排除されたかもしれないなどと、考えるだけでも億劫になる。

 耕介とて、黙って聞く以外出来なかった。何を言っても推測の域を出ないのであるなら、口にすべきではないと考えたからである。

「違和感を消去する結界なんていうのは初歩中の初歩だ。だがテレビの情報が三週間前のものだという点を省みれば、今この辺りは外界での『過去の時間軸』とコンタクトしているということになる。その範囲の広さといい、三週間もの間、誰も気づかないでいられるほどの結界を張るとなればそれ相応の術者の仕業と考えて間違いない。問題は……」

 そんな耕介たちをさらに落ち込ませるような口調で、三影は続けた。

「この三週間で、敵がどこまで準備を進めたのかということだ。メディアの情報は三週間前のものしかない。外界の情報が全く得られない状況下は即刻打破すべきだ!」

「……だけどどうやって?」

 彼が慌てていることだけはわかった。だが、何をどうすればいいのかがわからない。いや、おおよそ検討はついていた。認めたくないのは、自分自身の覚悟が足りないだけだということも自覚した上で、耕介は聞いた。

 その真情を見透かすかのように、三影はそっと耕介にアイコンタクトを投げかけきた。

(わかってるよ。戦うしかないってことくらいは)

 目線で返答する。三影は何事もなかったように頷いた。

「この街のどこかにいる結界師を探して倒すしかない。手遅れになる前に」

 それしか手がないことはわかっていた。ただ一言、

「敵を人間だと思うなよ、耕介」

 三影のその言葉だけが、耕介の気を少しだけ楽にした。

「それに──」

「まだ何か?」

 これ以上、不吉な話はしたくないといった風に恭也が眉をひそめる。思い切り同感だった。

「わからないか?」

 てっきり答えがかえってくるとばかり思っていた耕介は拍子抜けした。三影の目線が、再び街のほうに向いている。促されるようにしてそちらを向いた耕介だったが、わからないまま友人に向き直った。

「三影?」

 だが彼は、険しい顔で目線をじっと街のほうに向けたまま動かなかった。耕介は恭也と顔を見合わせた。何を言いたいのだろうと。

「耕介、向こうに──街のほうに感覚を開放してみろ」

「……え?」

 訝しげに思いながらも言われたとおりに知覚を広げる。気配をたどる要領で己の感覚を街へと伸ばし、その近辺にある気配を探索しようとして──

「あれ?」

 ちょっとした違和感に気づいて、耕介は首をかしげた。

「気づいたか?」

 三影の言葉に促される形で気づく。確信に近い恐怖を抱きながら、耕介は身震いした。街を臨む視線がきつくなる。声に出すのも怖かった。

「なんだ……?」

「街から人の気配が消えている」

 三影の言葉通り、街からは何も感じなかった。音がない。気配がない。普段活気付いているはずの街並みが静まり返り、空気は停滞したように重い。

 その感覚を共有しているらしい三影が、小声で事実を紡いだ。

「何かが起こっているのは間違いない。先手を打たれた。どちらにしろ街へ降りるしかない。私と耕介、恭也殿の三人だ。リスティ殿やフィリス殿──防御フィールドを張れる能力者にここの防御を固めるように指示を。急げ!」

 納得せざるを得なかった。納得できなくても動くしかなかった。事態は急変した。戦いが始まる。

「わ、わかりました!」

 言われたとおり、恭也がきびすを返して寮の中に入る。

 その背中を見送って、耕介は傍にあった愛刀を手に取った。ズシリと重く、刃の重さが手にのしかかる。

 予感があった。

 この戦いで誰かが死ぬかもしれない。それが誰かはわからなかったし、確信も持てなかった。味方とは限らない。敵でも。死ねば等しくそこで終わる。耕介自身か、それとも他の──敵か味方かもわからない『誰か』が死ぬかもしれない。

 それでも戦うしかないこともわかった上で──

 剣を握り、覚悟を決めるのは勇気が要った。

 

      ◇

 

 中央ヨーロッパ標準時間 五月七日午前十一時  ドイツ──

 

 忙しなく部屋を右往左往する叔母とその秘書から取り残されて、綺堂さくらは居心地悪そうにソファーの上で身じろぎした。

 目の前に不必要とされたものが山積みになっていく。彼女たちは何らかの書類を捜しているようだった。

「…………」

 手持ち無沙汰になって、さくらは二人から視線をはずした。何もすることがない。手伝おうかと言ったがすげなく断られてしまった。結局、何のためにドイツまで呼ばれたかもわからないままに、さくらはただ呆然とソファに座るしかなかった。

 帰ることも出来ない。そもそも、ここにいるのだって強制されたものだ。数分前まで日本の自宅で過ごしていたところを、こちらの都合などお構いなしに叔母によってドイツまで転送させられたのである。

(いくら魔術で瞬間移動が可能だからって、これはないと思うけど……)

 などと文句の一言でも言ってやりたかったが、彼女らの慌てた姿を見れば、その気も失せようというものだ。何か大変なことが起こっているのはわかったものの、それに関しても見当がつかない。唯一心当たりがあるのが、フィアッセ・クリステラ逮捕の事件である。

「リオ、見つかった?」

「まだです」

「ああ、もうっ! なんで仕舞ったとこ忘れちゃうのよ!」

「そういうことは前任の秘書に言ってください。私に言われても困ります!」

 何やら言い争いをはじめた二人に呆れながらも、さくらは声をかけた。

「あの、やっぱり手伝おうか?」

 が、しかし──

「いいから、さくらは座ってて」

「大丈夫ですから、さくらお嬢様はそこでお待ちになっていてください」

「…………」

 そうきっぱりと断られては動くことも出来ない。軽くため息を吐いて、そしてふと、あることに思い当たる。

「そういえば、二人とも何を探してるの?」

 書類だということはわかっていたが、一体何の書類なのか。そもそも、探す手伝いとして呼んだのでなければ、一体自分に何の用なのか。

 そう思って聞いたのだが、反応さえ返ってこなかった。やがて赤毛のスーツ姿の女性が歓声を上げる。

「ありました、マスター!」

「でかした! どこにあったの?」

「……何故かマスターの昔の日記の間に挟まってました。日付は十年前の八月です」

 ちょっとだけ間が空く。気まずげに目線を秘書からそらした叔母が、空笑いした。

「ア、アハハ。えっと……まぁこんなこともあるわね」

 どうやらその書類を適当なところに仕舞ったのは叔母本人だったらしい。秘書の冷たい視線に居たたまれなくなったのか、彼女はいそいそとその書類の束をさくらに差し出した。

「貴女にお願いしたいのはね。この書類を……椿三影──いえ、それは無理ね……えっと、そうね──槙原君に届けてほしいの。彼なら多分わかると思うから」

 さっぱりわかっていないのは自分だけと──そういうことらしかった。

「耕介さんに? ……えっと、何これ? CD−ROM?」

 書類の間に一枚、銀色の円盤を見つけて、さくらは首をひねった。

「それを、『椿三影に渡してほしい』って、槙原君に伝えて」

「……それはいいけど……一体なんなの、これ? それにエリザは? 私に頼むってことは、何か用事があるの?」

 叔母は軽く肩をすくめて見せた。

「まぁね。わたしは『監視』されていて動けないの。だからさくらに頼むのよ。いい? それを槙原君に渡したら、貴女もしばらくは彼と行動を共にしなさい。そのほうが安全だから。彼のことだから、きっと今度もいろんな意味で巻き込まれてるでしょうしね」

 肩をすくめて首を振る。その態度には、耕介への呆れが多分に含まれていた。

「よくわかんないけど、一体何をしようとしてるの?」

「しようとしているのはわたしたちじゃないわ」

「?」

 やはりわからない。彼女は何を言っているのだろうか。

「わけがわからないのは百も承知でお願いしているの。ごめんね。詳しい説明をしている時間もないのよ」

 と、その会話を遮って、秘書が外に視線を向けた。

「マスター。そろそろ時間です。結界維持、後一分で切れます」

「もう時間切れか。ここもどこまで持ちこたえられるかわからないし、これ以上、外部から遮断されるとさくらも逃げられないわね……ってなわけで、さくら。悪いけどお使いよろしくね」

「え?」

 あっさりとそれだけを告げると、叔母は何やら宙に文字を描いた。それがポウッと浮かび上がり、紐状になって円陣を組む。

 これではまるで、ここに呼ばれたときと同じ──

「転移方陣?」

 瞬間的に『空間を渡る魔術』の発動を感知して、さくらは自分の置かれた状況を理解した。何も理解していないことを理解したのだ。

 強制的に叔母のいるここドイツまで空間転移で呼ばれたと思ったら、事情も話されないまま再び日本へ強制転移である。その間、どれだけ見積もっても三十分も経っていない。

 何かを察するにしても、時間がなさすぎた。

「一体何なの?」

「ま、わからないことは槙原君にでも聞いて頂戴ね。それじゃ、よろしく♪」

 消え去る景色。歪む空間。視界が霞む中でさくらは、二人の後ろにある外界──まだ日中だというのに、痛いほどに赤く燃え上がった空を見た。

 

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