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第六章 戦火の決意
それは言いようの無いほど生々しい翼だった。決して幻想的なものなどではなく、美しいと形容することはどれほど世辞を並べても出来ないグロテスクなものである。 血が通った確かな肉質。その両翼は、確かに彼女の骨格から派生したものであったのだ。鱗の生えたその皮膚は鉄のように硬く、だが筋肉は、空を羽ばたくために驚くほど柔軟にうごめいている。 翼を除いた全てが人間であったテテニス・クラーケンは、その部分だけが人間でなかったが故に捨てられ、そしてルギルキアに拾われた。
◇
気がついたら独りだった。 廊下を走る。ただ走る。普段運動していて良かったと思いながら、彼女は走った。 どうしてこんなことになったのかもわからないまま走り続ける。逃げるために。 異変に気づいたのは放課後だった。今日は部活が休みだったので、帰る前にどうしても我慢できず、図書室の二階でちょっとした休憩を取っていたのだ。書類整理片手に漫画を見ていましたなどとは決して口外できない。随分器用な教師の特権をフル活用しつつ、だが気がついたら寝てしまっていたのはむしろ気持ちよすぎる天気が悪いのだと彼女は思った。 そして少し遅めのお昼寝から起きてみたら、誰もいなくなっていた。 生徒も教師も。誰も彼も。 事態を把握しろというほうが無理である。 最初は夢だと判断して、彼女はもう一度クッションに頭を沈めた。 二十分後、気になって目を開けても、やはり誰もいなかった。人の気配がしなくなった校舎の一角で、彼女は次に、これは自分を驚かすためのドッキリだと思った。根拠は何もなかったが、どんなときでも楽しいことを考えるのは彼女の特技の一つである。 「にゃはは。みんな帰っちゃったのかな〜」 などとのんきなことを言っていた過去が悔やまれる。 誰もいない。もっと的確に言うなら、誰もいなくなったというべきか。学校どころか、周囲の民家、後者から見る限り、すぐ傍を走る公道にも車や人の気配がなくなっている。教師が帰るにはまだ時間が早い。数分構内を彷徨って誰にも会わないでいれば、彼女とて何かが起こっていることくらいは容易に察することが出来た。 つまり── 「これは夢だね、きっと」 結局そこに至る。だからこそ、それに対して返答が返ってくるとは思っていなかった。 「夢じゃないよ」 突然現れた人影に、彼女は驚いて後ろを振り返った。 それは子供だった。小学校高学年ほどのなりをした少年である。パーカー、短パンにスニーカーと随分ラフな格好で、少年は彼女の正面に唐突に現れた。場違いだということは明白だったが、彼女の脳は残念ながら能天気が支配していた。 海鳴中央の教師として、至極当然のように少年に語りかける。 「あれ? どうしたの、ボク? 海中の生徒じゃないよね? 今ちょっと大変なことになってるから、先生と一緒に外に出よう。警察にも電話しないと」 「……えーと……」 さすがに困ったように少年が眉をひそめる。 「都合のいい考え方するのは人の悪い癖だね。どうして僕がここにいるのか、変に思わないの?」 「え?」 「その変な事を起こしているのは僕だって言ってるんだけど?」 「へ? 君のせいなの?」 「うん」 しばし沈黙。 やがて彼女は、くるりときびすを返した。護身道家としての危険信号が灯る。 この少年は、少年ではない。 「……えーと……それじゃ、唯子はこのへんで。さようなら〜」 手を振ってさよならする。クスクスと笑う少年の笑顔に底冷えする恐怖を感じて、彼女は廊下を走った。途中で『廊下を走ってはいけません』という張り紙が見えたが、そんなことはお構いなしである。 後ろから聞こえる子供らしい無邪気な笑い声。それは身の毛もよだつほど、ぞっとさせるものだった。 「追いかけっこ? いいよ。結界の核になるだけっていうのは正直面白くなかったからね。少しは遊びたいなって思ってたんだ。さて、お姉ちゃんが何者で、何故ここにいるのか。その辺の理由も含めて、色々教えてもらおうかな」 すでに姿さえに見えなくなったはずの少年の声が脳裏に響く。 命を懸けた鬼ごっこの始まりだった。
◇
街は静かだった。 静まり返っているわけではない。商店街の店舗からは馴染みのあるBGMが流れているし、電気店のテレビやラジオはかわらずついたままだった。 だが人がいない。決定的なまでに、誰もいない。 犬やネコ。鳥や虫の気配はそのままに、人間だけが消え去っていた。 「……遅かったか」 見慣れた街並み。警戒しつつ隣を歩く三影が呟いたのを聞いて、恭也は我慢の限界が来た。状況を把握するにも情報が足りなさ過ぎる。 「どうなってるんです! 街の人はどこにいったんですか?」 「消されたらしい」 端的に、三影はそれだけを答えた。彼を挟んで向こう側で周囲を探索していた耕介が素っ頓狂な声を上げる。 「え?」 「消されたと言ったのだ。死体どころか血の臭いさえ感じないということは、普通の人間の仕業ではない。能力者か、人外生命体か。気をつけろ。敵がいるはずだ」 「…………」 ごくりとつばを飲む。留飲が下る前に、恭也は履き捨てた。 「何故ですか?」 全てを込めて、彼は聞いた。何故街の人が消されたのか。否、フィアッセが狙われる理由を含めて、何故こんなことになったのか。美由希には『ああ』言ったものの、彼自身全てを納得したわけではなかった。 三影が何かを隠しているという真雪の意見には賛成していた。とにかく信じる要素がなさ過ぎる。ただ事態が勝手に進む中、理解する間もなく巻き込まれ、納得する間もなく流されるだけでは、到底フィアッセを護ることなど出来そうもなかった。 「わからないか?」 試すような口ぶりでこちらに視線をくれた三影に、恭也は無言で睨み返した。解っていたから反応できなかった。代わりに、耕介が恐々と事実を口にする。 「俺たちの逃げ場所を奪うため……か」 「ついでに結界維持のためのエネルギー確保も兼ねているだろうな。生体エネルギーほど純度が高いものはない。結界が完成し、街の人間が消えた。待ち構えるには格好の場所だ」 「誰と……戦うんです?」 「……無論、この事態を生み出した敵とだ──来るぞ、散開しろ!」 言われるまでもなく、恭也はその気配を感じ取っていた。言葉よりも意識よりも早く身体が反応する。爆音と爆風。続けて襲った衝撃は、あえて力を込めて耐えるほどでもなかった。 それでも、その衝撃波が過ぎ去った後に、先ほどいた場所に家屋大の穴が開いているのを見れば、少なからず感じた驚きを隠すことは出来なかった。 煙立ち昇るその焼け跡から、『攻撃』が下ったほうへ視線を向ける。 「…………」 そこにいたのは恭也と同年代を思わせる青年だった。金髪青眼に白い肌。華奢なイメージを抱かせる青年は、両腕を前に突き出していた。その掌に、バスケットボール大の光の弾が生まれる。 その距離からすれば、男の表情など見えるはずがなかった。だが確かに唇の端が嫌味たらしく持ち上がったのを感じ取って、恭也は即座にその場を跳躍した。瞬間、光輝く熱波が足元を過ぎ去っていく。遥か後方で、三階建ての建物が爆音を上げて倒壊した。 その衝撃波を背に浴びながら着地する。炎に巻かれながら崩れ行く建物から目線を敵に向け、恭也はゆっくりと背中の小太刀を抜いた。 「中々やるじゃないか。旧人類のくせに」 下手な日本語だった。嫌味たらしい空気が殺気に混じって襲ってくる。 「ヴォミーサはまだ追いついてこないか。なら、俺が殺るしかないな。このニューマン・ギー様が直々に断罪を下してやる」 なにやら独り納得したように笑みを浮かべて、男は再び前面に光球を生成した。 「…………」 例え相手が特殊能力者であろうと負ける気はなかったが、戦う姿勢に入る直前、それを止めるように恭也たちの前に進み出たのは三影だった。 「三影?」 「二人とも、ここはいいから、結界師、または結界の核を探しにいけ。これだけの規模の結界を何の媒体もなしに制御し、かつ維持するのは無理だ。その過程でまだ無事な人間がいないかも確認してきてほしい。助けられるなら助けておくべきだろう」 「……独りで大丈夫ですか?」 三影の実力を知らない恭也としては、不安と安心が半々だった。その信頼さえ、耕介というファクターがあってこそ成立するものでしかない。 「問題ない。奴に聞きたいことも色々ある。探索と救助は二人に任せる。耕介、寮の方にも注意を怠るな。この隙をついて敵が攻めないとも限らん」 「わかった。ここはまかせるよ。恭也君!」 耕介に頷き返す。と、 「むざむざ獲物を逃すかよ!」 さらに膨れ上がった光熱波が、空気を焼きながら一直線に飛来した。が、躱す動作に入ろうとしたのを耕介に止められる。驚きながらも恭也は目線で問いかけた。 (何故──?) その疑問に身を持って答えたのは、しかし耕介ではなく三影だった。襲い掛かってきた熱波を真正面から片手で受け止める。 「え?」 呆気にとられたのは、攻撃を防がれた青年だけではなかった。 一撃で建物を破壊できるエネルギーの塊を片手であっさりと防いだのだ。驚くなというほうが無理である。だが己の常識を疑う光景を目にしながらも、恭也は三影と耕介の思惑を察していた。 押し切ることが出来ずに逃げ場を失ったエネルギーが、彼の手の内で圧縮されて爆発する。爆炎がアスファルトを焼き散らし、灰色の煙があたりを充満する瞬間を狙って、恭也は耕介とともにその場を後にした。 敵は追ってこなかった。三影がいたからか、それともこちらなど歯牙にもかけていなかったのか。どちらにしても好都合であることには違いない。 「…………とりあえず、ここで止まろう」 走り去ってから一分も経っていなかったが、炎が建物の向こうに見えなくなるまで移動して、恭也たちは一度走る足を止めた。 息を整え身体を慣らす。全力で走ったわけではなかったが、驚いた分だけ肩が弾んでいた。そうして少し落ち着いてから、 「二手に分かれますか?」 恭也は隣で後ろを気にしている耕介に意見を求めた。こういう不可思議な事態には、自身よりも彼のほうが免疫や経験が多いと思ったからである。 「ああ──いや」 頷きかけて、耕介は口をつぐんだ。 「……そうだな。やっぱり二手に分かれよう」 何か思案するように言葉を選びながら、彼は言った。 「敵の規模も強さも不明だから、戦うなら二人一緒のほうがいいんだけど。街は結構広いから、一緒に動くと効率が悪い」 「そうですね。でも……」 こちらの言いたいことを察して、耕介は頷いた。 「わかっている。お互い無茶はなしだ。俺は恭也君ほど強くないし、恭也君はさっきみたいな異質な能力は対処しきれないだろう?」 「はい……」 それはその通りだったので、恭也は素直に頷いた。が、すぐに首を振る。 「あ、いえ……それはもちろん賛成ですが、あの人、大丈夫なんですか?」 再び向こうのほうで爆発がとどろき、炎が立ち昇った。 その心配を断ち切るように、耕介は笑った。彼の口調に椿三影への不信は全くなかった。 「大丈夫だよ。あいつは強い。そこいらの戦闘能力者じゃ、殺すどころか傷つける事だって出来やしないさ」 「ああ、いえ。戦闘のことだけじゃなくて……」 それでも拭い切れない不安が恭也の胸中を支配する。ちくりとした痛みが、この事態の矛盾を指摘してくる。 何か勘違いしたらしい耕介が、軽く苦笑を漏らした。 「ま、三影を信用できないって言うのは無理ないけどね。確かにあいつは昔から何考えているんだかわからないことが多かったけど。でもその分、言葉にした以上は絶対に実行に移してきた。三影は嘘をつかない。それは断言できる。あいつがフィアッセを護るといったのなら、絶対に守り抜こうとするはずだ」 言葉を切って、彼はつばを飲み込んだ。一緒に決意すら飲み下すように、言葉に力をこめて。 「彼は一体何者ですか?」 その問いに、疑念全てをぶつける。 「魔属だよ。それ以外、俺は知らない。どうでもいいことだし」 耕介は本気でそう思っているらしく、軽く肩をすくめて見せた。 「でも世界はそうは思っていないみたいだ。世界の敵。永久犯罪者。三影が人間社会の上層部に敵視されているらしいのは、啓吾さんの話からすると確かみたいだし──それを三影の説明と照らし合わせると、今度の敵が『そういう連中』なんだろうってことくらいは予測できる。つまり、フィアッセを護ることは人間社会への反逆って事になるんだろうね。だけど、現にフィアッセはさざなみにいる」 それが結果として何を導くかは予測できなかったが──恭也が不安に思っていることはまさにそれに近い事だった。 「でも、だったらおかしいと思いませんか?」 「何が?」 歩きながら、二人は議論する。気配だけは鋭敏に、周囲に人がいないかを事細かに調べるわけにも行かず、かといって声を張り上げることも出来ない。二人に出来るのは、ただ感覚を伸ばして人の意識を探ることくらいだった。かつ、結界の流れを耕介に呼んでもらってその中心地、もしくは術者本人を検索する。 会話を続ける余裕はあまりなかったが、別れる前にどうしても話しておこうと恭也は思った。 「少なくとも椿さんは、人類全体──というより、現代社会を動かしている一部の組織、または連中にとっての『敵』なんですよね」 「そう……なるねぇ」 恭也の意図が伝わらなかったのか、耕介はあいまいに頷いた。 「少なくとも、要注意人物としてマークされているのは確かでしょう? でも、だったらやっぱり変です」 「だから、何が?」 「この状態ですよ」 「ん?」 恭也の示す指先をそのまま追って、耕介が地面を見下ろした。別に何かを意図して地面を指したわけではない。ただ、この結界の中が、という意味でしかなかった。 「時間軸を遅らせる……って、よくわかりませんが、要するに外との日付が違うんでしょう? ここではまだ一日も経っていないのに、外では三週間以上が過ぎている」 「ああ」 耕介が頷くのを待って、恭也は先を続けた。 「椿さんを足止めし、その間に準備を進めるつもりなら、まず外界への接触を絶つべきじゃないですか? 実際、事態の変化を知ったのは椎名さんの──つまり三週間後の外界から来た人のおかげです」 その頃には、耕介も恭也が何を言いたいのか、おおよそつかめていたようだった。 そんな矛盾はいつ知れるかわからない。確実に三週間という時間を稼げる保障はどこにもない。であるなら、結界の外へ出る手段を防ぐほうが効果的ではないか。もちろん、そうすることで三影にも警戒を与えてしまうだろうが、外に出られないのであれば時間のずれだって気づかれないで済む。 だが実際にはそうではなかった。 「そんな不安定な作戦を実行したりする意味って何だと思いますか?」 その違和感は、不可思議な事態に慣れていないからこそ気づいたものだった。 「言われてみれば変だけど……でも、とにかく時間がほしかったとは考えられないか?」 「それはそうです。ですがそれに気づいたちょうどそのとき、この街が襲われて、俺たちはここに来ました。あまりにタイミングが良すぎせんか」 敵が動いた。それはつまり、準備が整ったことを意味する。何のための? フィアッセを捕らえるため? 確かにそれには違いないだろうけれど、現状、敵が三影のみを障害と考えているのなら、彼を排除することを優先してもおかしくはない。 「それにしては、敵の勢力が弱い気がする。俺が言うのもなんだけど、あの程度じゃ三影の敵にならない」 自慢でもなんでもなく、耕介の言葉はただの事実を述べているように聞こえた。しかしだからこそ、恭也は彼に言う必要があると感じた。椿三影の印象ついて。 「でもその……耕介さんにはすみませんが、俺も含めて、きっとみんなあまり椿さんのことを信用してません」 「…………」 耕介は応えなかった。ただ、じっと、恭也の言葉の続きを待つ。 「フィアッセを取り巻く現状はなにもわかっていません。HGSが人工的な産物だということも含めて。それに、何故フィアッセを護ろうとしているのかもわかりません」 「……目的か。確かに根本的なところはまだ何も語ってくれてないからなぁ」 「現状、それを知るには、時間が少なすぎました。ここではまだ一日も経っていません。状況把握だけでも精一杯です。たとえ話してもらったとしても、それを理解して、納得することが出来たかどうかも自信がありません」 そう──だから三影が語らなかったという可能性だって大いにありうる。彼は確かに信用が薄かったが、決して慇懃無礼な人間(魔属)ではなかった。 と、不意に耕介が表情を消した。 「俺は信じるよ、あいつのこと」 「『信じたい』ではなく?」 「痛いところをつくね」 苦笑してみせる耕介の瞳は笑っていなかった。 「仁村さんの妹さんたちが──いえ、もっと率直に、さざなみの皆さんが無事ではなかったとしても、それでも信じていられますか?」 「……知佳だって大人だよ。自分の身を護れるくらいには強いさ。それに、もし彼女に何かがあったとしても、それは決して三影のせいじゃない。さざなみのみんなに何かあったら、それは俺のせいだろうけどね」 そうかもしれない。だが、感情で納得するかというのは別の話だ。 「心配してないわけじゃないんだよ。でも、逆に心配することだけしか出来ないのも確かで、それを理由に何もしないっていうのは、違うと思うんだ」 そういう意味で聞いたわけではない。ただ耕介が何を考えているか、聞いておきたかっただけだ。こちらの思惑を知ってか知らずか、彼は独白のように言葉を紡いだ。 「さざなみ寮を護るためにどうすればいいか。フィアッセを護るためには。それはきっと矛盾するんだ。さざなみの安全をとるなら、フィアッセを見捨てるしかない。フィアッセをとるなら、さざなみは危険になる。俺は管理人だ。寮のみんなのことを最優先させなきゃいけない。その反面、フィアッセのことを見て見ぬ振りも出来ない。したくない」 「耕介さん……」 そのジレンマとも呼べる感情は恭也にも少なからず理解できた。護るべきものがあるからこそ、彼は苦悩している。 「どうするのが最善かって考えたけど、駄目だった」 それに答えがないことくらいは、恭也もわかっていた。どちらを取っても正解で、どちらにしても間違いなのだ。 その結果を想定した瞬間、恭也の背筋に小さな悪寒が走った。それは純然たる畏怖の感情。目の前の耕介から発せられた『気』の大きさに、彼は小さく息を呑んだ。 「だから俺は、俺が信じる道を往く。三影を信じて、さざなみを護って、フィアッセも護り抜く。幸せには貪欲にならないとね」 そしてやっと、彼は歯を見せて笑う。 「恭也君にだって護りたいものはあるだろう?」 「はい」 返事に迷いはいらなかった。 「みんな幸せでハッピーエンドが理想だよね」 あくまで夢物語だ。現実はそんなに甘くない。それを許すほど、世界は優しくない。けれど確かにそれは理想だった。それがどれほど素晴らしいことかも理解できる。 「だからこそ今は誰かを信じないといけない気がする。理想を叶えるために戦うから、俺は三影を信じる。戦う理由なんて、それで十分だよ。そりゃもちろん、『人』と戦う覚悟を決めるのは勇気が要るけどね」 肩の力を抜く。 話をはぐらかされた気がしないでもない。だがどちらにしても、行動する必要があった。現状、迷っている時間がないのは確かである。 耕介の決意はわかった。フィアッセを護りたいという想いが同じなら──彼の言葉を借りるなら──戦う理由はそれで十分なのだと、今は割り切ることにする。 「時間を取らせてすみません。そろそろ往きましょう」 不安が尽きたわけではない。 この結界の存在意義。フィアッセを捕まえる準備のために準備したのなら、少し計画に穴が多すぎるのではないか。時間を遅らせた目的は、時間稼ぎよりもこちらに余裕を与えないという意味合いが強いのかもしれないと──だが不意に轟いた爆発が、恭也のその思考を遮断した。 「あれは……」 「風高?」 爆発は確かに恭也の出身校である風芽丘学園から立ち昇っていた。三影ではない。逆方向には変わらず別の爆音がとどろいている。 「耕介さん!」 呼びかけて走り出そうとしたところを、だが耕介は、何故か立ち止まったまま動こうとしなかった。 「……どうかしたんですか?」 ただじっと、街の向こうを見ている耕介に問いかける。視線を追ったその先にあるものを…… (さざなみ?) 思い当たったその家屋を想像したとき、耕介が苦虫を噛み潰したような表情で呻いた。 「恭也君、俺は一旦戻る。悪いけど、学校のほうには君だけで行ってくれ」 「さざなみに何かあったんですか?」 「何もない。何も感じない。フィリスたちのフィールドは健在のようだし、戦っている気配があるようにも見えない。だけど……何か嫌な予感がする。なんとなく、何かある……ような気がする」 またなんともあいまいな表現である。 「…………」 「何もなければまた戻ってくるよ」 苦笑する耕介も、自身の感情をどうしたものか迷っているようだった。嫌な予感がする。確かに普通なら無視するところだろうが、彼は霊能者でもある。普通の人間にないものを察知してもおかしくはない。 考えている時間はなさそうだった。 「わかりました。あっちはお任せします。俺は学校のほうに」 「気をつけて。あっちもただの人間じゃなさそうだ」 「もちろん。危なくなる前に逃げますよ」 そんなつもりは毛頭なかったが、恭也は笑って見せた。御神は誰かを護るための戦いで負けない。 耕介が駆け出す。その背を見送ってから、恭也もまたきびすを返した。 懐かしい母校の屋上で、再び爆風が荒れ狂う。屋上から飛び降りた女性二人、それを追って空を滑走する少年の姿を見て、恭也は不思議と落ち着くのを感じていた。 異質な存在──空を飛ぶその周囲に竜巻を連想させる巨大な渦が生じたとき、根源たる少年が何かを宣誓する。夢の案内役のように幻想的に、青い粒子が空を舞った。それがただ一点に矛先を向け、瞬時に収縮する。 意識の切り替えは一瞬だった。 心臓の鼓動さえ止めてスイッチを入れる。モノクロの世界を渡りながら、恭也は愛刀を抜き放った。
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