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 夢の中からゆっくりと覚醒して、彼女は起き上がった。寝ぼけ眼で頭上の時計を見やり、時間を確認する。まだ日が昇ったばかりで外は薄暗かった。山中特有の冷たい空気が、窓の隙間から室内を冷やす。

「──っ」

 寝起きの寒さに身を震わせて、綺堂さくらは再び布団の中にもぐりこんだ。二度寝する気はなかったが、この心地よさは捨てがたいものがある。

 小柄で華奢な身体を布団の中で軽く伸ばして、さくらはその気持ちよさに目を細めた。ドイツ人譲りの白く柔らかな両腕両足が、艶かしく布団の中から覗き出る。そうして普段着慣れたパジャマが下着とともにベッドの脇に脱ぎ散らされているのを見て、彼女はおぼろげに昨晩のことを思い出した。疲れてそのまま寝てしまったらしい。寒いのも当然だった。

 再び走った寒気に我慢できずに、すぐ傍で寝息を立てている彼に寄り添って、さくらはそっと息を吐いた。

 人肌がじんわりとさくらの身体を温めていく。服を着ないで寝るには少し寒くなったこの季節、だが暖房を入れるまでもない明け方の気温。ベッドから出るのは少し勇気がいった。

 が、のんびりもしていられない。朝早く起きるのは、無意味に寒い思いをしたいわけではなかった。

「耕介さん……耕介さん」

 隣で寝ている男性の身体をゆすると、彼は小さく呻いた後、やがてゆっくりと目を開けた。

「おはようございます♪」

「おはよう」

 さくらと違って寝起きの良い彼は、すぐに目を覚ましたようだった。身長百九十を越す彼の身体に合わせた特大サイズのベッドは、さくらが隣で寝てもかなり余裕がある。ゆったりとした、寝心地のいいこの寝台がさくらは好きだった。隣に彼がいるならさらに気持ちよく寝られるからである。

「もう六時ですよ。そろそろ起きましょう」

「……うん。ちょっと遅れたかな。目覚ましはかけたつもりだけど……」

 身体を起こしながら、彼は言った。その鍛えられた上半身に見惚れていると、ふいに彼の背中にいくつか走っている引っかき傷を見つけて、さくらはそっと傷を指先でなでた。

「さくら?」

「……痛くないですか?」

「ん? ああ、大丈夫だよ」

 意図に気づいた彼がのんきに笑った。傍においてあったシャツを羽織ってからベッドを降りる。謝ろうとした瞬間、彼が振り返って、大きな身体を折った。おでこをコツンと軽くぶつけてくる。ドキリとさせる優しい笑顔が眼前に迫ってきた。

「謝らないの。約束したろ?」

「でも……」

「さくらが俺のこと愛してくれた証だから、痛くなんかないよ。さくらにだって、ほら」

 言われて、胸元を見る。裸で毛布一枚を手繰り寄せているのが、彼から言わせれば逆に色っぽいらしい。決して大きくない乳房──その乳首を毛布の上から指先で押されて、さくらは声に出さずに啼いた。ちくりと痛みが走ったからである。

「……ここ、痛いでしょ」

「うん?」

 痛みに心当たりがなかった。

「俺が噛んだの、覚えてない?」

「あ」

 小さく声を漏らして、さくらは昨夜の光景を思い浮かべた。確かに、そんな記憶がおぼろげにある。はっきりとしていないのは、タイミングが悪かったからだ。

「さくらがイキそうになった瞬間、俺が思い切り吸ったからね。痕が残ってるんだよ」

 いわゆるキスマークというそれに気づいて、さくらは軽く頬を染めた。

「謝ったほうがいい?」

「ううん」

 首を振ると、彼は満足したようだった。ズボンを履いて、トレーナーを着る。そうして普段着に戻った彼をベッドに座ったまま見上げて、さくらは唇を尖らせた。朝の仕事をしようと意気込む彼の服の裾を、弱々しく引っ張る。

「さくら?」

「謝らなくてもいいですけど……」

「ん?」

「お詫びをください」

 顔を上げて目を瞑る。こちらが欲しかったものを、彼はすぐに差し出してくれた。大きな手が頭を撫で、髪を梳かして、あやす様に頬を包む。吐息が漏れ出る。頬が熱くなるのを感じながら、さくらは伸ばし出された舌を吸った。

「……ん……ちゅ……っ……んふぅ……」

 絡み合う舌が離れ、滴り落ちた唾液を手でぬぐって、さくらもまたベッドから起き上がった。火照った身体を逆に冷ますように深呼吸しながら、新しい下着と服に着替える。

「それじゃ、朝食の準備をしましょうか」

 エプロン片手にドアを開けた彼に続いて、さくらは小さく、だが元気よく「はい」と返事した。

 

      ◇

 

 朝食を用意し、食べ終わった食器を片付け、寮生を見送った後、静まり返る寮内で掃除機をかけ、布団を干し、洗濯機を回す。日常の仕事をなんでもないことのようにこなす耕介の背中を見つめながら、さくらはうっとりと目を細めた。

 海鳴市、国守山山中にあるさざなみ女子寮。その管理人というのが、彼──槙原耕介の職業である。女子寮というくらいだから、当然、住んでいるのは耕介を除いてみんな女性。彼がここに来たのはもう三年も前──前管理人が耕介の叔母であり、また寮のオーナーである槙原愛が従姉弟であることが縁であったらしい。

 廊下を掃除し、風呂を沸かし、料理の合間に庭に出て花壇に水をやる。近所の野良猫にえさを与えつつその日の行動予定を考え、寮生が起きてくるころには旅館顔負けの朝食が食卓に並ぶ。

 そうして個性豊かな彼女らの世話係をこなしている耕介は見事の一言ではあったが、恋人の立場からすれば不安は潰えなかった。大げさでもなんでもなく、厳然たる事実として、寮生たちは美女美少女が多いのだ。

 そうした動機で、さくらが土日祝日には必ず耕介のところに泊まっていくようになってもう半年近く経つ。ここの空気に慣れるのには努力が要ったが、寮生たちの生活パターンは大分把握できていた。

 というところで今日の予定を振り返る。

 およそ休日は寮の中で過ごすことの多い寮生たちではあるが、今日は少し事情が違ったらしい。不意に目に入ったホワイトボードを見やると、みんなの今日の予定が書かれていた。

 愛:ゆうひちゃんと買い物♪

 真雪:仕事、午後一時から打ち合わせ。隆と飲み、晩飯不要

 知佳:病院のあとリスティと理恵ちゃん家へ

 美緒:ゆっこのいえでのぞみたちとゲームたいかい(←漢字で書け! by真雪)

 薫:部屋の片づけをした後、図書館に行きます。夕飯までには戻ります。

 ゆうひ:愛さんと買い物!!

 みなみ:部活

 リスティ:検査、知佳の付き添い

 十六夜:散歩

 御架月:姉さまとお出かけ

 耕介:ま、ぼちぼちやります

──となっている。となると、今日は午後からは完全に、そして久方ぶりに耕介と二人きりになれるらしかった。

(やったっ♪)

 内心でスキップしながら、外見だけは冷静に平静に、耕介の元に歩み寄る。リビングで洗濯物をたたんでいた耕介のそばに邪魔にならないようにちょこんと鎮座すると、その動作に気づいた耕介が手を止めずにこちらを向いた。

「どうかした?」

「え?」

「いや、なんか機嫌よさそうだから、何か嬉しいことでもあったのかなって」

「そう見えますか?」

「うん」

 だとしたらその通りなのだろう。さくらはあえて何も答えず、にっこりと笑みを返した。

「フフフ」

「?」

 子供服をたたみながら、耕介が怪訝そうに首を傾げた。静まり返った寮の中。朝食を終えた後、寮生たちはみんな予定通りの行動に移っていったため、珍しくさざなみは穏やかだった。

 そんな中、本来休日であるはずの耕介は普段どおりに掃除して洗濯して片付けて……と、相変わらずの家事に余念がなかった。デートするつもりがないわけではなく、今日は夕方から出かける予定なので、それまではいつもどおりに過ごす気なのだろう。

 いつものことであるといえばその通りなのだが……

 さくらとしては、自分が傍にいるのに家事ばかりに気をとられるのも癪だった。この際、ホワイトボードに『耕介の手伝い』と書き記したことは完全に棚の上に上げる。乙女心は複雑なのだ。

「耕介さん?」

「ん?」

 顔も上げずに、耕介が相槌を打つ。

「静かですね」

「そうだね」

 衣服をたたむその手は休まることなく、彼の周囲には次第に分類された衣類が山になり始めていた。

「みんないませんからね……」

「うん」

 その手が一瞬止まったのを、さくらは見逃さなかった。

「二人きり……ですね」

「……そうだね」

 今度の返事には間があった。相変わらず顔を上げずに仕事を続ける耕介の横顔を、じっと観察する。

 身長百九十を超えている彼は、座っていても大きかった。少し目尻の下がったのんびりした表情なのはいつものこと。その巨体に反して怖い感じを抱かせないのは、その優しい雰囲気と、特注の可愛らしいエプロンが似合っているからである。

 耕介の顔を見るのがさくらは好きだった。嘘のつけない彼は、その反応が正直に顔に出てくるからである。

「耕介さん……」

 呼びかけながら、さくらは少しだけ足を崩した。眼球が動く。そして即座に元に戻った。

「ん?」

「二人だけですね」

 同じ台詞だが、今度は吐息を混ぜながら聞いてみた。ピクリと、彼の耳が動く。

「ん……うん」

「二人きりですよ?」

「……うん」

 彼自身、その回答が間の抜けたものだということを自覚しているらしい。少し返答に困ったように、だがそれ以上に照れながら、彼は頷いた。

「そろそろ休憩しません?」

「これ、終わったらね」

 そうは言うものの、寮生全員の洗濯物はたまれば膨大な量になる。先々日までずっと雨が降り続いていただけに、昨日干して乾いた衣類のその量は尋常ではなかった。少なく見積もってもあと一時間はかかるように思える。

「でも、終わりませんよ」

 だから手伝う、とはさくらは言わなかった。耕介も、なら手伝って、とは言わない。彼もまた、さくらが何を考えているかうすうす気がつき始めたのだろう。微妙に目線をあわせようとしないのが何よりの証拠だった。

「すごい量ですね」

「うん。まぁ雨が続いたから、仕方ないよ」

 仕方がないのは、雨が振ったからでも、洗濯物がたまったからでもない。

「楽しいですか? お洗濯」

「うん。綺麗に洗えて、お日様の下で干すと、気持ち良いからね」

「……でもそれ、椎名さんの下着ですよね?」

「!!」

 ピタリと、耕介が硬直した。内心、笑いを噴出したい気持ちを抑えて、さくらは更に詰め寄った。足を完全に崩しながら、続ける。

「楽しいですか?」

 意地悪だということは解っていた。彼はそういった下心を持つような人間ではない。だからこそ寮の女性陣は彼を信用して洗濯や部屋の掃除などを任せるのだし、さくらとてそれは承知の上だった。が、だからこそやめられないというものもある。

 いつからそうなったのかは定かではない。だが元来鈍感な耕介と付き合っていると、どうにもこちらから行動を起こさなくてはならない場面が多かったのは確かである。いつの間にか積極的になってしまったことに気づいたときは驚きもあったが、そんな自分は決して嫌いではなかった。

 慣れてしまえば楽しむ余裕も出来る。耕介の狼狽した表情は見ているだけでも面白かった。

「いや、楽しいかって聞かれても……」

「愛さんや知佳先輩、それに仁村さんにリスティさん、岡本先輩……あれ? 神咲先輩の分はないんですね」

 洗濯の山に積まれている下着類は、見れば持ち主がわかるほどに個性が反映されたものだった。さくら以上にそのことを知っている耕介が、困ったように唸る。

「もともと洗濯は各自負担だったんだけどね。今じゃ、薫くらいだよ。自分の分を自分で洗濯してるのは」

「嫌なんですか?」

「そんなことはないよ。頼ってもらえるのはうれしい」

「それじゃ、やっぱり楽しいんですね。女性の下着を洗濯するの」

「さ〜く〜ら〜〜〜〜〜っ」

 とうとうお手上げと言った風に手を止めて、耕介がこちらを向いた。

「どうしたの? 随分意地悪じゃないか」

「そうですか?」

 そういう風に言ってくることはわかっていたから、さくらは慌てずにっこりと笑みを返した。

「耕介さんの気のせいです」

「……俺、何かさくらの気に触るようなことでもした?」

「いいえ」

 それも本当だった。彼は何もしてはいない。していないから問題なのだ。言えば解ってくれるだろうが、それはさくらのプライドが許さなかった。教えて気づいてもらっても嬉しくない。

「休憩しましょ?」

「でも洗濯物たたまないと……夕方から出かけられなくなるよ?」

 もっともである。が、ここで論理的な理由はいらなかった。

「お昼ご飯食べたらわたしも手伝います。だから……ね? 耕介さん。ちょっとだけ……ご休憩しませんか?」

「ご休憩……って」

 洗濯物を掻き分け、さくらは耕介のほうに身を乗り出した。何か慌てたように首を振る耕介の顔に、さっと赤みが差す。多分、頭のどこかに『ご休憩』の三文字が『ベッド』とともによぎったに違いない。正直もここまでくればすごかった。

「……あー、でも、もう三十分したら十二時だから、そしたら休憩しよう。ちょうどお昼だし、ご飯食べよ。ね?」

 しかし耕介はあくまで耕介だった。優しいくせに鈍感なのだ。だがもうここまできたら、さくらは遠慮する気はなかった。

 流れるような動作で──逃げる間を与えず──耕介に近づいて、その胸板に指を這わせる。彼の顔を覗き見るように身をかがめると、自然と上目遣いになった。

「違いますよ」

 息が荒くなるのを感じながら、さくらは彼の耳に唇をつけた。やわらかい耳たぶを唇で噛み、その感触を楽しむ。

「あ……んふ……ちゅ……」

 柔らかなそれを歯噛みし、舌で転がすと、耕介がウッと唸った。くすぐったさとはずかしさ、それから少しだけ感じた何かを払拭するように首を振る。だが結局、さくらを払いのけはしなかった。

「……あ、あのね……さくら……?」

「耕介さんは勘違いしてます」

「か、勘違い……?」

「ねぇ、耕介さん……♪」

 耳に息を吹きかけながら、そっとささやく。ビクンッと、彼の身体が硬直した。

「えっち……しましょ

 接触している彼の心臓の鼓動は次第に早くなり、太ももの辺りに触れている股の部分が少しずつ大きくなっていくのが服の上からでもわかった。

「でも……まだ昼にもなってない……」

 彼も興奮し始めているという確信は、さくらに行動を促した。

「わたしとえっちするの……いや、ですか?」

「……そうじゃ……なくて……」

 息も切れ切れに、耕介が言う。知っている。だから聞いたのだ。

「だったら……ね?」

 耳に息を吹きかける。そのたびに耕介の身体が震え、その唇から小さく息がもれ出た。

「でも、昨日の晩もしたじゃないか……」

「それはそれ、これはこれです」

「……『あの時期』はまだだよね」

「ええ。まだですよ……このまえ過ぎたばっかりじゃないですか」

 耕介が言っているのはさくらの体質に関わることだった。彼女には生理と同じで、定期的に発情してしまう時期がある。が、もちろん、今はそれとは無関係だった。

「耕介さん、はやく……」

 彼の肩を抱き、もう片方の手でスカートをちらりとめくり上げる。黒いニーソックスと白い太もも、その奥にあるピンクのパンティが、ぎりぎりみえる(・・・)くらいに持ち上げると、それは思った以上に彼にダメージを与えたらしかった。

「うっくっ!」

 ゴクリと息を飲む音がすぐ傍で鳴る。

「ほらほら♪」

 さすがにここまで頑固だと、さくらも段々苛立ってきた。それでも我慢強く、彼に身をゆだねる。決して大きいとは言えない胸を彼の胸板でつぶして、彼女はとどめに入った。ゆっくりと彼の分身を、ジーンズの上からさする。

「おっきくなってます」

「……いえ、その……それは朝の生理現象で……」

「もうお昼前ですよ?」

「うぅ……」

 あと一息。

「……ねぇ」

「……ぅ」

「来て

 堕ちた。

「さく──っっ!!」

「あのさぁ……」

 お約束といえばお約束。

「うどぎゃぐあらうふぁっぱしゃらばああああっ!」

 発音できるものならしてみろといわんばかりの奇想天外な悲鳴を上げて、耕介は飛び上がった。一方、さくらはといえば、

「あ、仁村さん。おはようございます」

 しごく平然とフローリングに座りなおして、起きたばかりらしい真雪を見上げる。真雪はいつもどおり下着の上からシャツ一枚というあられもない姿だったが、慣れれば驚きも沸いてこなかった。寝癖のついた髪をかきあげながら、彼女はぼやいた。

「ああ、おはようさん。っていうか、お前ら、誰もいないからってここでするのはまずいだろ。いくらなんでも」

 もう慣れたものというか、大人の反応というか、からかう気も失せた様子の真雪の態度はさくらにとってもありがたかった。耕介は硬直したまま動かない。さくらはにっこりと笑ってうなずいた。

「今日はお出かけじゃなかったんですか?」

「午後からだよ。だから今から風呂入って出かける。昼飯は……外で食うから」

 気を遣ってくれたらしい彼女に会釈して、さくらは耕介をリビングから連れ出した。真雪はそのままキッチンへと消えていく。呆然としている耕介の頬を、さくらは軽く叩いた。

「耕介さん……耕介さん?」

「ん? ……え、えーと、俺は一体何を……いや、勘違いしないでほしいんだ……けもの……そう……俺の下半身には獣が宿っている」

「何わけのわからないこと言ってるんですか?」

 耕介の頬をつねる。その痛みに刺激されて、ようやく彼の瞳に色が移った。

「痛い」

「ほら、正気に戻ってください」

 正気を失わせた張本人の台詞ではなかったが、さくらは気にしなかった。

「はっ! さ、さくら? 俺は一体何を……」

「ちょっと暴走させちゃったみたいですね、ごめんなさい」

「いや、俺こそごめん。精進が足りなかったみたいだ。さくらの魅惑に耐え切れなかった」

「アハハ」

 悩むべきところが少々違う気もするが、そのへんも耕介らしい愛嬌である。

「仁村さん起きちゃいましたし……さすがにもう出来ませんけど……」

 キッチンで冷蔵庫をあさっている真雪の気配に気をつけながら、さくらは耕介の首元を引き寄せた。不意に近づいた彼の顔──伸ばせば触れられるほどの距離まで近づいて囁きかける。

「キスしましょ」

「へ?」

 案の定あっけにとられた耕介に、さくらは笑みを返した。

出来なかった(・・・・・・)んですから、せめてキスしてください。ね?」

「いや……でも真雪さんが……」

 それを無視して、さくらは唇を突き出した。

「ん〜〜♪」

 軽く唇が触れるくらいになっても決意の固まらない耕介に、痺れを切らして自分から顔を近づける。が──

「ああ、言い忘れたけど……」

 ポリポリと頭をかきながら、呆れるのも疲れたように真雪がリビングからひょいと顔を出した。手に温めたミルクの入ったカップを持って、彼女はにやついた顔をどうにか真顔にして、さくらたちのさらに向こう、階段のあたりをあごで指した。

「神咲の奴がさっきからそこで硬直してるから、あまり刺激してやるなよ?」

「!!!!」

 これにはさすがにさくらも驚いて、真雪が示した方を向いた。耕介にいたっては、全身真っ白になってしまっている。それはともかく──

 顔を真っ赤にさせて、神咲薫が廊下に立ち竦んでいた。いや、正確には、思い切りぎこちない動作ですこしずつ後退していた。

 湯気が出そうなほど赤く染めた頬。目は潤み、瞳孔が回転している。呼吸困難を思わせるほど断続的な息継ぎをしながら、薫は自分が視線を集めていることに不意に気づいたらしい。ハッと身を硬くして、彼女は大げさに頭を振った。

「う、うち……何も見てなかとです。み……見てなんか……見てなんかいません! だから……えーと、あの……」

 喘ぐように唸りながら、最後に彼女は叫んだ。

「耕介さんのエッチ──っ!」

「しっかり見てんじゃねぇか」

 走り去っていく薫の背を見送りながら、真雪が冷静に突っ込みを入れる。どたばたと二階へ駆け上がり、大きな音を立てて自室に逃げ込む音が下まで響いてきた。

 さすがにさくらもやりすぎたかと反省する。

「恥ずかしいところ見られちゃいました」

「本気でそう思ってる?」

「……半分くらい」

 正直の答えると、真雪もまた呆れ半分面白さ半分の笑みを浮かべた。

「ま、神咲の奴は出かけるついでにあたしが連れ出すけどさ。二人きりだからってほどほどにしとかないと、耕介がつぶれるぞ?」

「……気をつけます」

 二人そろって、真っ白に燃え尽きた耕介を見やる。

「苛めすぎちゃいました♪」

「……難儀な奴」

 真雪の感想を褒め言葉と受け取って、さくらは耕介をリビングに連れて行き、灰になった彼の代わりに洗濯物をたたみ始めた。

 そうして穏やかな午後は過ぎていく。

 

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