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過ぎ去っていく光景を見送る。 「貴重な映像だったなぁ」 きっとそれが正直な感想だろうと、耕介の言葉を聞いてさくらは思った。可愛いとか、うらやましいとか、そういう羨望の感情よりも先に、珍しいという意見が表に立つ。 「でもリオ、可愛かったですね」 「彼女、甘え下手みたいに思ってたんだけど……そうでもないみたいだね」 「どうでしょう」 二人そろって首をひねった。 「あの二人の場合、どっちにしたって双真のほうに原因があるんだろうけど」 親友に対して結構辛辣な評価をする耕介も、今はどこか気恥ずかしげに笑っていた。 「でもまぁ、上手くいっているみたいでよかったよ」 心配なら心配だって言えばいいだろうに、耕介はその仕草さえ見せずに歩き出した。後ろにそっと付き添いながら、その大きな背中を見つめる。 「でも、ちょっとうらやましいかも」 「さくら?」 一歩下がって歩くさくらが気になったのか、耕介が足をとめて振り返った。ちょうど夕日で逆行になって彼の表情は伺えなかったが、上目遣いでそっと笑ってみせる。 「お姫様抱っこ♪」 「してほしい?」 「……ここではちょっと恥ずかしいです」 「俺も」 自然と笑いながら、さくらは彼の隣に進み出た。そっと腕を絡ませる。身長に差がありすぎるのでいささか不恰好かもしれなかったが、触れているその体温が安心できた。 「夕飯食べて、お酒飲んで、血をもらって、夜は……」 クスッと笑いを漏らす。触れ合うときは好きだったが、そのあとの別れは、だからこそ余計に寂しかった。 「さくら?」 耕介の問いには答えず、さくらは耕介の腕をぎゅっと掴んだ。一緒に過ごしても、また別れのときはやってくる。明日は学校だから帰らなくてはならない。そうしたら来週までお預けが続く。会う時間だって限りなく減ってしまう。 「……引っ越しちゃおうかな」 不意に漏れ出た言葉に、耕介が目を丸くした。 「どうしたの? 急に」 「……急じゃないです。耕介さんと付き合い始めてから、ずっと前から考えてたんです」 「うん」 ずっと付きまとっていた不安だった。耕介の働くさざなみ女子寮には耕介を除けば女性しかいない。妙齢の女性ばかりの中に耕介独りという職場環境は、彼女の身としては不安でしかなかった。これに関しては耕介の信用云々はあまり関係ない。 「皆さん綺麗だから」 「……俺のこと、信じられない?」 「そうじゃないんですけど……」 なんて言えばいいかわからない。 「耕介さんへの信頼とは別で……その……駄目、ですか?」 「駄目じゃないよ。うれしいのは確かだけど……」 「けど?」 上目遣いで問いかける。耕介はしばし迷ったようだった。だがそれでも、言葉を選びながら、ゆっくりと、かみ締めるように彼は言った。 「本当は、さくらは俺に外に出てほしいんじゃないかなって」 「……それは」 図星を差された。本音は自分が引っ越したいのではなく、耕介に寮を出てほしいのだ。管理人を続けてもいい。ただあの家に住み込みで働いてほしくない。さくらが感じていたのは嫉妬以外の何者でもなかった。 「でも……やめたくないんじゃないですか?」 だからさくらは、恐る恐るそう聞いた。その言葉が、暗に耕介の言ったことを肯定していると気づいたのは、声にした後だった。 「うん。でも優先順位があるから」 「順位?」 「大事なモノがなんなのかってことだよ。俺にとって、何よりも大事なのはさくらだから。さくらを失ってまで、寮の管理人をしたいとは思わない」 さくらはそっと、少しだけ身体を離して彼の横顔を見上げた。そこに迷いは見られなかった。その視線に気づいた耕介が、微笑みながらこちらを向く。目の奥に宿っているのは確かな決意と覚悟だった。 「さくらを悲しませるくらいなら、俺は寮の管理人をきっぱりとやめるよ」 本音を言えば、それは正直にうれしかった。涙が出そうなほどうれしかったが、同時に黒いものがさくらの胸を締め付ける。ただの嫉妬で、彼の人生を狂わせるという後ろめたさがあった。 「でも……わたし……」 「嫉妬してくれてるんだろ?」 軽くウインクして、耕介は笑った。 「だから、結構うれしいんだ。寮に来たときのさくらの態度も、表情も言動も全部、実はうれしくてしょうがないんだよ」 耕介がおかしげに相好を崩した。 「それに誤解しないで聞いてほしいんだけど、さくらが寮に引っ越そうっていう話も、結構、いや、かなりうれしかったりするんだよね、実は」 「え?」 「俺はよっぽどのことがない限りさざなみ寮の管理人を続けるつもりだったから。寮の中で、みんなの世話をしつつ、掃除や洗濯、食事を作って待っている。みんなの世話をするのは好きだし、それが仕事に出来るなら、幸せだろうなって思うからね」 知っている。彼がその仕事に誇りを持っていることも、好きだということもわかっている。だからわがままで、ただの嫉妬で、寮を出てほしいとは言えなかった。 「それで、帰ってくるみんなにお帰りって言うんだ」 「はい」 少しだけ胸が痛んだ。その中に、自分はいないのだから。と── 「その中に、さくらがいてくれたらどんなに幸せだろうなって、最近思うようになった」 「……え?」 どちらともなく、二人は足を止めた。 「みんなの世話をしつつ、愛する奥さんと子供たちにお帰りって言うんだ。物凄く贅沢な望みだけどね」 その光景を思い描いているのか、耕介はうっとりと朱色に染まる空を見上げた。一方のさくらは、耕介が何を言ったのか理解できなかった。 確か、愛する、の後に何かを言ったような気がするのだけれど。 「可愛らしい俺の奥さんは、実は吸血種と人狼のハーフなんだ。尻尾と獣耳が、ふさふさしていてとてもチャームな人なんだよ」 「…………あの」 何かを言おうとするが、言葉にならない。 「子供たちも、結構個性的になるかもしれないね。女の子と男の子、両方ほしいなぁ。でもみんな、奥さん似で可愛くて綺麗なんだ」 二人がたたずむ路地には誰もいなかった。車も通らない。夕日が照らす世界はどこまでも美しく鮮やかで、海に反射してキラキラと輝いていた。雰囲気に呑まれる。彼の視線に飲み込まれる。 「……耕介さん」 その人差し指が、そっとさくらの唇をふさいだ。何も言わなくていい。だけどちょっとだけ、お願いを聞いてくれないかな。 彼の瞳がそう語る。 耕介はゆっくりと身体を折ると、さくらの耳元に口を付けて、そっとささやいた。
「結婚しようか。さくら」
風が吹いた。 そよ風に乗って声が響く。少しずつ夕闇が広がっていく空。それよりもなお深い色の双眸がじっとこちらを見つめてきていた。 視界が緩やかに歪んでいく。泣いているのだと気づいたのは、滴り落ちたしずくが頬をぬらしたからだった。 驚いたのは耕介のほうだった。さくらが無反応だったことに居たたまれなくなったのか、少なからず慌てながら、かがみ込んで目線を合わせる。 不安そうに眉をひそめる耕介に、さくらは笑って見せた。彼の腕をしっかりと掴んで、逃げないように。決して、離れないように。 笑顔でいられた自信はなかった。でも笑いたかった。涙で視界が歪んでしまってもうまっすぐ彼の顔を見ることが出来なくなっている。それでもさくらは、精一杯、彼に笑顔を向けて、 「はい♥」 きっと、生まれてから一番幸せな声でさくらは笑った。
◇
「幸せはね……」 エリザベートは言った。 「なったりならなかったり、したりされたりするものじゃないのよ」 じゃあ何なの? と聞くと、彼女は笑って見せた。 「ただ、感じなさい。それだけでいいの。日常の何気ないことでも、大切なことでも、なんでもいい。そこから少しだけ、幸せを感じ取るの。それだけで人は生きていけるから」 「うん」 そんな会話を交わしたのはいつの頃だったか。 子供の頃。きっと、まだ恋だの愛だの、わからなかった時分。 彼女の言ったことの真偽は定かではないけれど。 今の自分が幸せだと言えるくらいには、さくらは満たされていた。 心の底から、笑顔で笑うことが出来た。 玄関の向うから元気な声が聞こえる。 「ただいまぁ〜!」 「ただいま、ママ! 今日のおやつ、何?」 どたばたと、元気よく同じ顔をした少年少女が入ってくる。二人はそっくり同じ動作でエリザを見つけると、ちょこんと礼儀正しく挨拶した。綺麗なソプラノが、ユニゾンでリビングに響く。 『ごきげんよう、エリザお姉さま!』 ちなみに、お姉さま呼ばわりはエリザの教育の賜物である。 「はい、ごきげんよう。今日はお父さんがマフィン作ってるらしいわよ」 「ホントですか?」 「やった」 二人そろってジャンプする。元気のいい子供たちをさくらはそっとたしなめた。 「かばんを部屋に置いて、手を洗ってうがいしてからよ? 二人とも」 『はい!』 素直に洗面所に向かう二人の頭の中はすでにおやつでいっぱいらしい。失礼にならない程度に元気に駆けていく子供たちを見送って、さくらはそっとため息をついた。 「元気ね、ホント。誰に似たんだか」 「さくらの子供時代は『ああ』じゃなかったから、旦那さんのほうじゃないの?」 「多分ね」 女二人。ここにはいない夫のことで会話するのは珍しいことではなかった。 と、エリザが不意に思い出したように話を変えた。 「そういえばリオは元気? 最近、会ってないけど」 「ええ。もう八ヶ月だから、大分お腹大きくなってるみたい。この前電話で話したんだけど、女の子だって」 「また? だってあそこ、もう三人とも……」 「ええ。でも神楽さん自身、男の子より女の子の方がいいって言ってるらしいから、残念がってるのはリオのほうなのよね」 「……あらあら」 呆れたように肩をすくめて見せるエリザとて、もう二児の母である。こちらは両方とも男の子だ。 「でもいいなぁ、私も女の子ほしいかも」 「作ればいいじゃない? エリザも旦那さんも、まだ若いんだから」 「うーん、でも仕事が忙しくてなかなかね。っと、その話はまた今度。子供たちが来たみたい」 「お茶、淹れ直しましょうか」 「そうね」 大人の会話を中断させて、二人はソファを立った。ついでに自分たちのカップも手にしてキッチンへ向かう。 夫が用意してくれたケーキを人数分並べていると、傍でお茶の用意をしていたエリザが困ったような顔でさくらの肩を揺らした。 「さくら?」 「ん?」 「そろそろ起きなさい」 「エリザ?」 「そろそろ起きないと、遅刻するわよ?」 視界が歪む。景色がずれていく。薄れていく世界に驚くこともなく、さくらはただ、ゆらゆらと揺れるまどろみに身を任せた。 後にはただ、エリザの声が響いてくる……
◇
………… 「さくら?」 「幸せ〜〜」 「朝よ、起きなさい」 ぼんやりと広がっていく世界。 うすく目を開けて、さくらは起き上がった。目の前には叔母。すぐ隣には赤毛の少女がすやすやと眠っている。何気なく目に入った時計を見ると、時刻は九時を回ったばかりだった。 それが午前だということに思い当たったのは、あくびで脳が刺激されたからである。窓から差してくる光はまぶしく、自然と浮かんできた涙が彼女の視界を歪ませた。 が、いまだ根強く残っていた眠気が、さくらの次の行動を決定付ける。 「んに〜〜」 ボスッと、せっかく起き上がった身体を再びベッドに沈めると、エリザが困惑したように声を荒げた。 「だから寝ぼけてないで、いい加減に起きなさいってば。遅刻するわよ? 今日はお昼から出かけるって言ってなかった?」 「眠い〜」 「気持ちはわかるけど、そろそろ起きないとね。大体、何で二人そろって私のベッドで寝ているのよ」 「……へ? ここ、エリザの部屋?」 ようやくぱちくりと目を覚まして、さくらは顔を上げた。そうして寝ぼけ眼で辺りを見ると、確かにここが自分の部屋ではないことに気づく。自分でも覚えていなかったが、どうやら叔母の寝室で寝ていたらしい。 「なんで、わたしここで寝てるの?」 「それはむしろ私が聞きたんだけど。まぁわたしの方は昨日徹夜で仕事だったから、別に問題はなかったんだけどね。って、リオもそろそろ起きなさい」 「……今日も仕事?」 聞くと、エリザは軽く笑って首を横に振った。 「今日は休みだから別に寝過ごしてもいいんだけど、普段早起きのリオが、徹夜のわたしを差し置いて眠っているのを見るのはなんだか癪だから」 「それはちょっと無茶苦茶な気がするけど……」 さすがに呆れを隠し切れずにさくらは嘆息して見せた。いつまでもエリザの手を煩わせるのも何なので、立ちくらみしない程度にすばやく起き上がる。ちょうどリオも起き上がったところだったので、二人はそろって寝台を持ち主に返した。 「ふわぁぁ〜〜」 入れ替わるようにしてベッドに突っ伏すと、大きなあくびをしてエリザは目を瞑った。 「それじゃ、槙原君によろしくねぇ〜」 すでに半分以上睡眠に入りながらも、エリザがひらひらと手を振る。それに笑顔で答えて、さくらとリオは部屋を出た。 そして不意に足を止める。 「…………あれ?」 何で耕介によろしく言う必要があるのだろう。聞き返そうにも、エリザはすでに熟睡してすぐには起きそうになかった。徹夜した人をそれだけの理由で起こすのも忍びない。疑問は消えなかったが、さくらは自室に向かって歩を進めた。 すると隣を歩いていたリオが、思い出したように笑顔を浮かべる。 「いい夢見れたおかげで、ぐっすりでした」 「良かったね」 「お嬢様はどうでした? どんな夢見られたか、覚えてらっしゃいます?」 「えっと……ゆ、夢は……その……」 「どうかされました?」 「う……ううん。なんでもない……ようなそうでないような……」 微妙な返事だということはわかっていたが、それ以外応えようがないのも事実だった。顔が高揚していくのがわかる。 「覚えていらっしゃらないのですか?」 「なんとなく……しか」 何やら拍子抜けしたようなリオに、さくらは苦笑を返すしかなかった。 だが実を言うと、夢の内容は完全に覚えていた。気恥ずかしいくらいに心地よく幸せな夢だったと思う。その相手がどうして槙原耕介なのかという点に関してだけが疑問でならなかったが、それを彼女に言っても仕方がない。さくら自身、整理がついてないせいもあった。 顔を洗ってすっきりした後──気持ちは多少混乱したままだったが──さくらの部屋の前で別れる前、リオが何か思いついたようにポンと手を打った。 「ああ、そういえば、夢ってその人の経験からくる希望とか願望なんかが、反映されるみたいですね」 「え?」 ドアを閉める直前だったこともある。さくらは不意に立ち止まって聞き返した。 「願望?」 「はい。いろんなところから仕入れてきた知識や経験。それを元にして、当人の願望を形にして映像化することもあるんだそうです。私の夢はまさにそれでしたね……」 何やら恥ずかしそうに、リオが顔を赤くした。 「お嬢様がどのような夢を見られたのかはわかりませんが、もしかしたら、もしかするかもしれませんよ」 「が、願望……なの? あれが……ああいうのが私の望み?」 驚き以上の気恥ずかしさが先にさくらを襲った。全身で震えたのは、夢の中の自分がどれだけ幸せだったかを思い出したからである。 クスリと笑って、リオが背を向けた。その去り際、さくらの耳元でささやくように彼女は呟く。 「お会いになられてはいかがですか? 己の心にちゃんと向き合ってみれば、お嬢様が心に想っている相手がきっとわかりますよ」 会って話をして、心を感じてみればいいんです。 言外にそう告げると、リオはそのまま振り返ることなく廊下の向うに消えた。何故彼女がこちらの夢の内容に感づいているのかという疑問に思い当たったのは、もっと後になってからである。 「…………会って、話をして……心を……」 自室に入って、綺麗にセッティングされたベッドにさくらは身を沈めた。昨晩使っていないベッドはどこか冷めて居心地が悪かったが、火照った身体にはちょうど良かった。 そのまま時が過ぎ行き──どれほどそうしていただろうか。いくら待っても鼓動の痛みは治まらない。身体は冷めることなく火照り続け、そのたびに思い浮かぶのは夢の内容、その中心にいる彼の顔だった。小さく吐き捨てる吐息すら熱を帯びていることを自覚すれば、自分がこうなっている原因を理解するのは難しくない。 不意に起き上がって、さくらはすぐ傍の電話の子機を手に取った。手帳を開いて目的のものを見つけると、ゆっくりとそれを目に焼き付ける。 「すー、はー」 息を吐く。鼓動が激しくなっていく中、一つ一つ、覚えたばかりのボタンを押した。何がしたいのかもわからない。それはただの衝動だった。何かに駆られるように、麻薬のようにふわふわと、彼の声、指先、肌の熱、そのぬくもり、夢で見た全てが身体を支配する。 あの甘い感覚をもう一度味わいたい──さくらの胸中を支配したのは、ただ純粋な『彼』という存在への渇望だった。 幾度か電子音がなった後、 「はい、もしもし。さざなみ女子寮ですが……」 優しくおおらかな声が受話器の向うから聞こえてくる。彼の声が身体に染み渡る心地よさを胸に、さくらはそっと息を紡いだ。
完
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