|
5
少年──槙原耕介の自室。 そこにでかでかと張られている幕──といえるほど上等のものではなかったが、とにかく目立つ赤色で描かれているそれは、なにやら横たわる彼の心情をよりいっそう深く、そして簡潔に表しているようではあった。不憫であることには違いなかったが。 『祝! 耕介の脱! 童貞!』 なんだかなぁとは思う。あの後、少年の後を追ってサフランに向かった十鬼と三影が見たのは、真っ白に燃え尽きている少年と、彼の傍を通り過ぎるたびにからかってくる常連客と、なにやら末恐ろしい表情で笑っている少女と、使い物にならない少年に罵声を浴びせているコック姿の女性だった。 営業が終わった後、自分たちまで夕食に呼ばれてしまった展開はさすがにどうしたものか迷ったが、味のほうに文句があったわけではない。三影もまた満足げに頷いていたが、槙原家の面々に流されていることにいささか疑問を抱いているようだった。ちなみに今は風呂をいただいている。 (何なのかしら、この家族は) 不思議な連中だと言ってしまえばその通りで、実のところその一言で終わってしまう。聞けば彼もまた、困っていた三影を助けようとして勝手に首を突っ込んできたらしいのだ。そもそも自分たちとはひたすら無関係なのである。 自室のベッドでうなだれている少年に、十鬼はさすがに哀れになって声をかけた。 「えっと……あの……ね? 大丈夫?」 「うぅ……」 「ね、ほら。人のうわさも七十五日っていうじゃない。時期に収まるわよ」 「甘い!」 そういったのは、いつの間にか部屋にやってきていたショーとヘアの少女だった。確か名は千堂真由と言ったか。少年の幼馴染らしく、何の気兼ねすることもあく部屋に入ってきた。 「あたしがこんな面白いネタほうっておくはずないじゃない。とりあえず、明日は学校中に広まってたりするわよ」 「あ・の・なぁ〜〜〜っ!」 ゆっくりと、槙原耕介が起き上がった。その形相はとても十四歳には見えないほどに歪んでいたが、十鬼はあえて口をつぐんだ。つぐむしかなかった。 「お・ま・え・は! そんなに俺をからかって楽しいか?」 「うん」 これはきっぱりと断言する彼女である。 「言い切るな! それにしたって限度ってものがあるだろ! 俺に恨みでもあるのか、お前は!」 「そこはかとなく?」 「あるんかい!」 「ま、まぁまぁ……」 さすがに喧嘩はいけないと思って間に入ると、キッとこちらを睨み付けて、しかし何も言わずに再び彼はベッドに突っ伏した。 (まぁね。確かに彼がこうなったのは私にも原因があるのかもしれないけど……) とまれ、問題はこの真由という少女である。彼女はあの幕に書かれてあること──耕介が童貞を脱したことが真実だとは思っていない。つまり最初から冗談だとわかっているのである。計画的──というよりも確信的ないたずら、もとい、ここまできたらいじめか。どちらにしてもこの少女にはひたすら怖いものを感じて、十鬼はひそかに打ち震えた。 「ま、このうわさが広まるか静まるかは、耕のこれからの態度によるわよね」 耕介の身体に寄り添い、その耳元でそっとささやく少女の声に、ピクリと彼の背が痙攣する。 「──実はあたし、新しいテニスラケットほしいんだ。今のはちょっと古くなってきて、手に馴染まなくなってるのよ」 「……お……俺に手が出る範囲なら……」 ゆっくりと、枕から横顔だけを出して、耕介が呻いた。その一言で少女の顔がぱっと明るくなる。そうして見れば年相応の笑顔で起き上がって、彼女は言った。 「ありがと。大丈夫よ。そんなに高いもの要求しないから。それじゃね」 用件はそれで終わりらしい。ランラン♪ と鼻歌交じりに階下に降りていく少女を見送って、十鬼は耕介のほうに向き直った。彼はまだ、突っ伏したまま微動だにしていない。 「えっと……わたしもいくらか援助しようか?」 が、彼は首を横に振った。 「いい。自業自得だし」 「でも、わたしたちに関わらなければこんなことには……」 「それも含めてだよ。困ってた三影を助けることは俺にとって必須事項だったんだ。ま、アンタとあいつがこれからどうなるかまでは面倒見る気ないけどね」 「……そっか。でも君って変わってるよね」 正直にそう言うと、彼はまた乾いた笑みを浮かべた。 「はは。よく言われる」 「褒めてるんだけどね」 これは本音である。 「椿三影は魔属よ? その危険性が少しでも理解できるなら、彼と関わろうとは思わないわよ」 「魔属って、そんなに危険なの?」 「そりゃあもう!」 思わず力拳を作って力説する。彼はただ、「そう」とだけ答えてきた。 「そうは言っても知識がなければ、具体的な危険性は想像できないでしょうけどね。でもそれだけじゃなくて、わたしが君のことすごいなって思ったのは、あなたが『椿三影が人間でない』ことを理解していながら、行動を共にしていたことよ」 「変かな?」 「変ね」 きっぱりと断言すると、彼はまたへこんだようだった。 「『魔属』に関しては理解できないから仕方がない。でも『人間でない』ことを理解していながら、なお変わることなく接することの出来る人間って言うのは、あなたが思っているより希少価値があるの」 「そんなに重要な違いかな、それって」 「人って自分たちと違うものを排他する生物だから」 だが少年は、「ふぅん」と、わかったんだかわかっていないんだか、微妙な返事をした。と── 「いい湯だった。重ね重ね、耕介には世話になったな」 湯上がりでさっぱりした格好で、噂の当人が入ってきた。 「ああ、別にいいよ。そんなん。それより、これからどうする気?」 「それなんだが……」 と、椿三影は一瞬こちらを見、それから一考する仕草をすると、やがて思い切ったように言った。 「しばらくこの街で過ごそうかと思う。耕介に礼をしたい気持ちもあるし、何より、和泉殿を説得する時間もほしい」 「……そっか」 たったそれだけのやり取りを終えて、二人は黙り込んだ。なにやら男同士で繋がりあっているようで、女の自分としては居心地が悪い。仲間はずれにされたような気分になって、十鬼は三影のほうを向いた。と、ちょうどこちらに向き直った三影と視線が合う。 「そういえば、和泉殿はどうするつもりだ?」 「わたしは……」 考える。どうしようか。任務はまだ完遂していない。彼が長崎にいる間は、自分は監視を続けなければならない。そういえば接触は不可と言われていたが、今では思っていたほど椿三影が危険人物でないことは十二分に理解していた。友達になっても悪くないという気持ちもある。が、それでも自分はICPOの捜査官で、彼は決して取り消されることのない永久犯罪者なのだ。まさに仕事と私情の板ばさみ状態だった。結局── 「まだ任務を終えてませんから、椿……さんの近くにいようと思います」 そういう結論を告げると、彼はただ静かに「そうか」とつぶやいて、それから小さく、本当に見逃してしまいそうなほど微かな笑みを浮かべた。だからだろうか、十鬼は自分でも驚くほど素直な気持ちで彼に向かい、そっと右手を差し出して、 「とりあえず、友達からはじめましょう」 「了解だ。よろしく頼む、和泉殿」 二人が握手をしているその横で、耕介が静かに寝息を立てていた。
出会い篇<完>
|