『HELL&HEAVEN』

 

  原始に返り咲く者たち

 

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 長崎県長崎市。

 千間坂通り、神尾公園の隣にある洋食屋『サフラン』のメインコック槙原彰子は、いつもどおり今日のメニューの下ごしらえをすべく、私用のエプロンをつけて厨房に立っていた。

 時刻は朝の六時。

 平日の営業開始は午前十時から。そのことを考えるといささか早すぎる感を受けるが、どの品も手を抜かず納得のいくように仕上げるためには、この時間から材料を仕込む必要があった。

 静かな店内。いい色に焼けた煉瓦壁の古い雰囲気をもつこの店は、夫と自分の念願の店である。幸いにして客からの支持も高く、軌道に乗ってきている現在、これからの店の未来を思うだけで胸が躍った。

 だからその分も、料理に手を抜くことはできない。

 そんな一級のプロの料理人である彼女は──

 歳の頃は、四十歳前。第一線で働く女性ならではの活力を持っていた。化粧気のない顔は美女と呼べるほどではないが、生き生きとして輝いている。

 性格からして強気の彼女は、普段から料理人という仕事柄化粧をしないことが多い。マニキュアなどは基本的に禁止であることはもとより、ファンデーションや口紅も、味見や調理に支障がでるからと、彼女はもっぱらつけようとはしなかった。

 故に彼女の肌は、いまだ二十代にも劣らぬ艶を持っている。そのことは、家族一同が認めるところで、自身も自慢の一つだった。

 第一、コックなのだから店の外にでる必要性はなく、接客のためにする化粧は嫌いだというのが彼女の心情である。

 そうして。

 短く切りそろえた髪をバンダナで落ちないようにとめ、彰子はじっくりと野菜スープ煮込み始めた。

 刻んで入れた豚肉からでる灰汁を、お玉で丁寧にとる。小皿に移しては味見し、少しずつ味を調えていった。と──

「おはよう、母さん」

 サフランの奥、住居の方から声がして、彼女はチラッとだけ視線を向けた。見ると、槙原家が住む家へと続く裏庭へのドア、そこに背丈の高い、少し筋肉質な青年が一人、薄手のシャツにジャージ姿で立っている。

「おはよう、裕司」

 彼女の息子、槙原裕司は、いつもの通りの母親の反応に笑い返しながら、厨房に入ってきた。

「今日のメニューは?」

 現在、とうに高校を卒業し、調理師免許を取ってコックとしてサフランで働いている彼は、事実上、ここの跡取だった。二人しかいない息子の、兄の方。つまり長男であるから当然ではあるのだが、息子に人生を強要したくなかった親の身としては、素直に継いでくれるのが嬉しい反面、心配でもある。

 その彼が跡取として本格的に修行と仕事に入ったのはまだ昨年のこと。年数にしてみれば一年と半年にも満たない。

 コックとしての道を歩みたいという彼の希望を知ったのは、確か彼が中学卒業時だった。が、当時はまだ『サフラン』を継ぐとは聞いていなかった。調理学校でも基本的に洋食、それもフランス系の料理を専攻していた彼は、てっきりフランス料理店にでも就職する気でいるものと思っていただけに、卒業後の彼の希望を聞いたときは、本気で嬉しい裏切りだった。そのことはまだ記憶に新しい。

 その父親似の彼は、現在日替わりの定食メニューをもっぱら担当していた。腕は幼少の頃から家の家事等で鍛えられただけあって、手際がいいし、味覚も鋭く、コックとしての将来が楽しみな人材である。

 その彼に向かって、彰子は記憶してあった今日の定食メニューの指示を出した。

「そこに書いてあるエビのリゾットをメインにね。後は好きなもの、作ってみなさい」

「いいのか?」

「いいわよ。でも、試食はちゃんとするし、出せないと思ったらこっちのプランでやることになるから、急いでね」

 エプロンをつけながら、今日のメニュー表を見ていた裕司が驚いて顔を上げた。

 洋食屋『サフラン』の日替わり定食のメニューは、日替わりであるから当然毎日メニューが違う。和食と違い、ご飯と味噌汁を基本として惣菜とメインが一品というような形が定まっていないのだ。それだけに、料理に関して難しい面が多い。

 定食メニューは毎日全品が変わり、飽きさせないメニューと定食ならではの安価で、客の人気も高かった。

 故にそのメニューの内容の決定は、ほとんどがメインコックである両親が担当する。裕司が手がけるのは、その調理だけであった。

 ところが最近になって、メイン以外を、たまにではあるが裕司は手がけるようになった。それは、彼が腕を上げたことを両親が認めたということであり、その日の彼の行動は、早朝における彰子の一言で決まる。

「おっしゃ!」

 気合を入れて、腕をまくる。

 彼自身、調理学校で習ったフランス料理に関して、まだ店に出したことのないレパートリーはいくつもあるだけに、この挑戦の場は嬉しかった。

 さっそく調理にかかる。

 材料を冷蔵庫、そして野菜を入れてあるチルド室から取り出し、必要な調理機器をまず調理台に並べていく。

 メニューは、すでに頭の中にあった。以前から試したかったスズキのオリーブ焼き。メインがリゾットなので、少しさっぱり感を強調させれば、ちょうど程よく、そして違和感なく満腹感を味わえるだろうと考える。

 スズキ自体は、昨日他の料理のために仕入れたものだったが、基本的にその日の調理を大事にする両親が文句を言わないだろうことは、裕司は従業員として知っていた。

 まずは数匹取り出し、調理にかかる。これが今日、日替わり定食のメニューとして出せるかどうかは、料理を成功させ、さらに彰子に認めてもらう必要があった。

 と──

 視界の端で、不意に動くものを確認して、裕司はそちらを向いた。

「…………」

 何もいない。気のせいかと思い、材料に向き直る。

 それが、誤りだった。

 ガサっという小さな雑音と共に、それが何であるかを裕司が認識するよりも早く、それは彰子の方に飛んで行った(・・・・・・)

「母さん!」

 あわてて、声をかける。

 だが、間に合わない。

 そして。

「ひぐぎゃぁぁぁぁぁぁぁ!」

 奇怪な悲鳴と共に、サフランの一日は始まった。

 

      ◇

 

 名鳥十四郎という男性について。

 彼は美青年である。というのは、彼と面識のある者なら誰でもそう思うだろう。

 程よく高い身長。引き締まった身体。

 その甘いマスクは、だが女性のような可愛らしさを持ち合わせているわけではなかった。彼を見た者が、例えそれが顔だけだったとしても、十四郎が男性であることを見抜くことは想像に難くない。

 男性らしい整った顔。人としての理想の整形をしていると言えば聞こえはいいが、実のところ、とてつもなく想像しにくい顔でもある。

 だがそんなことを気にさせるでもなく、腰まで伸びた長い黒髪がまた似合うその美青年は、普段からして紳士のように振舞っていた。

 その裏で、彼が『HELL&HEAVEN』という、九州最大にして最強の暴走族連合の党首であることを知る者は意外と少ない。

 何せ普段は優秀な医科大学の学生である彼は、警察ですら手を出せない凶暴な集団のトップを張っているとはとても思えない容姿と雰囲気をもっている。

 平日は忙しいはずの彼は、だが今、とある洋食屋にいた。

「で、今日は何で呼び出されたんだ?」

 普段から常連のように来ているだけに、馴染みのある店内。煉瓦壁で覆われた空間の雰囲気は、落ち着いていて彼の好みでもあった。

 が、その洋食屋『サフラン』の店内に、客らしい人影は見当たらない。

 時刻は午前十時。

 普段ならとっくに開店して、朝食を食べに来たサラリーマンを見かけるはずである。

 疑問に思って、十四郎は隣にいる少年に向き直って聞いた。

「うーん。何でって聞かれてもね」

 言葉を濁すようにして首を捻ったのは、この店のオーナーの次男坊、槙原耕介だった。

 今年十四歳になる中学二年生の彼は、だがその年齢にそぐわない身長の持ち主で、とてもじゃないが中学生には見えない。顔つきはまだ少年のものではあるにしろ、少し大きすぎる感は否めなかった。かと言って、いかついというわけでもない。今後、近いうちにその身長が止まるだろうというのは、周りの大人の意見である。

 兄である裕司に比べて、比較的母親似なのであろう彼は、同年代の少年にしてみれば確実に格好いい方に分類されるだろう。現に、彼の隣には日頃から仲のいい幼馴染みの姉妹が二人、彼を取り合うかのように並んでいる。

 とするならば、彼女たちも槙原彰子に呼ばれたのだろうか。

 そんなことを考えながら、十四郎は酷く曖昧な態度を取る耕介に再度聞いた。

「聞かれても…って、理由、知らないのか?」

「重大事件が起きた、としか聞いてない」

「重大事件って何よ? 耕……」

 そう聞いたのは、十四郎の反対側、耕介の隣にいた千堂真由だった。その隣にいる小さな少女は、その妹の瞳である。

「いや、だから重大事件としか聞いてないんだって。兄貴が知ってるみたいだったから聞いたけど、いずれ分かるから、としか答えてくれなかったし」

「耕ちゃんは知らないんだ」

 と、一人物分りのいいように頷いたのは瞳だった。小学生の彼女は、今日本当なら行くはずだった学校のランドセルを背負っている。

「ああ。知らない。どうせろくでもないことだとは思うけどね」

「ろくでもないことで、息子や、他人の娘を学校休ませてまで徴集するか? 普通」

 もっともなその意見に、しかし耕介はおもむろに首を横に振った。

「母さんは普通じゃないからね、考え方が。俺に誕生日のことを『生んでもらったことを感謝して親にプレゼントする日』だって教えてたくらいだから」

「おいおい……」

 さすがにそれはないだろうと思ってふと横を見やると、真由と瞳が昔を懐かしむようにうんうんと頷いていた。思わず呻く。

「マジで?」

「本当だって。実際誕生日のたびに何かしらやらされたからね。金がないならただで働けってさ。どこか常識について観点がずれてんだ、あの人は」

「誰が?」

「いや、だから母さんが……って、うわあっ!」

 唐突に突っ込み返されて、耕介は思いっきり椅子からずり落ちた。目の前に仁王立ちしている女性は槙原彰子。この店のオーナーの妻にして、彼の実母である。

「い、いつから…そこに……?」

「誕生日のちょっと前辺りから」

 即答してきた彰子に乾いた笑顔を返しながら、とりあえず耕介は立ち上がって服の誇りを取り払った。彼が落ち着いたところで、十四郎は彰子に向き直って聞いてみる。

「それで、彰子さん。耕介はともかくとして、俺や真由ちゃんたちを呼び寄せた理由ってなんです?」

「知りたい?」

 含みのある笑みを浮かべて、彰子は店内のカウンターのほうに向かった。彼女の行動を追いながらそちらに目をやると、布をかけられた四角いものが置かれてあった。普段、見かけないそれは、間違いなく今このときのために用意したものだろう。

「それは?」

「知りたい?」

 再び、疑問を質問で返されて、十四郎思わず首を捻った。

「まあ、ここまで呼び出されたくらいですから。知りたいといえば、知りたいですね」

 とりあえず、そう答えておく。

「そう。それじゃあ、瞳ちゃんも真由ちゃんも準備はいい?」

「は、はぁ……」

「いいですけど……」

 いまいち状況を把握できていない姉妹に確認を取りつつ、彰子は一気に布を取り去った。

 布の下にあったのは、虫かごだった。小サイズの虫かご。プラスチック張りの壁面に、緑の蛍光色の網目のふたをした、どこにでもある虫かごである。

「虫かご……ですね」

 見たままのことを呟いて、十四郎はふとその視線をかごの中に向けた。

 黒いもの。

 それが中で蠢いていた。プラスチック製であるため、爪で引っ掛けようとしても引っ掛からないのだろう。前に進もうと努力しているみたいではあったが、全く前に進んでいなかった。

 とりあえず、それがなんであるかを確認する。

 それは──

 正確に言えば、濃い茶褐色だった。あぶらぎった黒光りのする肢体。六本の足。前方に伸びた触角。見た瞬間に把握する。それは姉妹も同じだっただろう。その顔が青くなっていくのを、しかし十四郎は視点の高さから知る由もなかった。そして、

「ゴキブリですね」

そう言った瞬間、二つの金切り声が彼の耳を襲った。

 

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