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「大丈夫か?」
あらから数十分。未だに三半規管がしっかりしないのか、十四郎は椅子に座ったまま唸り声を上げていた。その隣で、瞳が申し訳なさそうに彼に向けて内輪を仰いでいる。
「とりあえず、耳に残っていたエコーは消えたかな」
そう言って大丈夫だと手を振った十四郎から視線を虫かごに移して、耕介はこの黒光りした生物を見た。
「うん。ゴキブリだね」
それは、疑うべくもなくゴキブリだった。黒いタイプで、鑑みれば、どこにでもいるタイプではある。そのおぞましい(とされる)昆虫に、瞳はもとより、普段気の強い真由も距離を置いてあさってのほうを向いていた。
「そうよ」
何がそうさせたのだろうか。自慢気に胸を張る母に、耕介は視線だけを向けて言った。
「食うの?」
「なんでよ!」
「いや、ゴキブリなんかを大事に虫かごなんかに入れてるから」
「これはね。店内、しかも厨房にいたのよ、耕介」
諭すような口調で、彰子は続けた。
「店内にいたということは、サフランにいたということよ?」
「そんなの当然だろ? 当たり前じゃないか」
「これは何!」
黒い物体を指差す彼女の語尾が酷く荒々しくなっていたが、耕介は気にせず答えた。
「ゴキブリ。見れば分かるよ。何言ってんの?」
「うっわー。今すぐここで殴り倒したいわ。後で覚えてなさい、アンタ」
一転して怒りの形相に変わった彰子の表情に気おされながら、耕介もすんでのところで逃げ出さずにとどまった。
「い、いや。だから。一体何が言いたいの、母さんは」
「ゴキブリよ? 店に出たのよ? 衛生管理の行き届いていないといけないこの飲食店で、こんな原始生物の存在を許してもいいと思う? いいえ、許されないわ。そうでしょう、耕介!」
「ああ、うん……そうだね」
否定法まで持ち出して熱弁する母にとりあえず頷き返して、耕介はふと裏庭へのドアのところに兄が立っているのを見つけた。その手に、スケッチブックだろうか、大き目の白い用紙に、なにやら殴り書きで文字が書かれてある。
『そのゴキブリ、母さんの服の中に入ったあげく、例の特別限定の野菜スープの中に入っちゃたんだ』
「…………」
なるほどと、耕介は納得した。そう言えば母も、後ろの幼馴染み二人と同じくゴキブリが嫌いだったことにいまさら思い立つ。そして煮立っているスープに入ってなお生きているゴキブリの生命力に、素直に感嘆した。
「──というわけで、殲滅を敢行しなくてはならないわ」
「要するに、ゴキブリ退治?」
「そうよ」
「それだけ?」
「そ・れ・だ・け、ですって?」
殺気のこもった視線に後ずさりながら、耕介はそれでも懸命に弁明した。
「いや、大学の講義がない十四郎や、直接家と関係してる俺はともかくとして、瞳や真由は学校があるじゃないか。休ませてまで、っていうのはちょっと……」
「瞳ちゃんなら、一日学校休んだくらい大丈夫よ。成績優秀だし」
と、瞳のほうに笑顔を向ける。
「私は?」
「食事と睡眠に行くだけでしょ? そんなことに時間を費やすぐらいなら、うちを手伝いなさい」
「って、そんな身も蓋もない……」
「違うの? 真由ちゃん」
「いえ。その通りでございます」
抗議空しく、真由は言い負かされて後退した。
「それじゃあ、十四郎君も復活したようだし。ゴキブリ退治を決行したいのだけれど。何かいい案、ある人いる?」
瞳と真由が怖がるので──というよりも彰子自身が怖いのだろう。虫かごに布をかぶせ、彼女は言った。
(結局、とことん人任せなんじゃないか……)
と思ったが、勿論口には出さないでおいた。そんな耕介を無視して、彰子采配のゴキブリ退治班は会議を開始する。
そして──
「はい!」
と、まず元気よく手を上げたのは瞳だった。