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「あはは。そんなことがあったの?」

 小さく笑いながら、彼女は言った。

「笑わないでくださいよ。人事だと思って」

 電話の相手の反応に、耕介は憮然として言い返した。

 時刻は昼下がり。毎日の日課となっている寮内の仕事を一通り終えた耕介は、久々にかかってきた叔母からの電話に出ていた。

 国際電話。電話の相手は、香港からである。

「姉さんがゴキブリ嫌いだって言うのは知ってたけど、そこまで深刻なことには、少なくとも結婚前に一緒に暮らしてた時にはなかったからね〜」

「結局、俺も真由も振り回されて大変でした。まあ、飲食店にゴキブリが出たこと自体は、あまり楽観視はできないんですけどね」

 当時はあまり考えていなかったが、調理師免許を取って実際に厨房に立ってみれば、彼女の嫌がる様もある意味納得がいく。

 それでもあれは行き過ぎだとは思うが。

 あれから六年あまり。時間の流れが、歳をとるごとに早く感じるようになると言われてもピンと来なかった当時が懐かしかった。

 楽しい時間は過ぎるのも早い。毎日違った何かが起こるこの女子寮にいると、本当に月日の経過が早く感じられる。

「それで、その後どうなったの?」

「結局、ミントとホウ酸団子を使うということで落ち着きましたよ。さすがに疲れたみたいで、母さんも最後のほうは穏やかでしたね」

「あはは。姉さんらしいわ」

「神奈さんは?」

「ん?」

「ゴキブリ」

「嫌いね」

 即答する。

「でも、姉さんほどじゃないわよ。とりあえずポイポイでも設置しておけば一安心するかしら。こっちは日本ほど衛生面が万全じゃないし」

 こっちというのは、勿論香港のことだろう。旅行先で男性に一目ぼれし、結局向こうで店を開いている神奈もまた、彼女の姉、つまり耕介の母親同様一流の料理人だった。彼の前、さざなみの先代管理人でもある。

「そっちはどうです?」

「勿論、しあわせよ!」

 その一言で、相手の男性とのことも、営業している店もうまく言っていることは簡単にうかがい知れた。

「耕介ちゃんも、誰か恋人作ったら? いいわよぉ? 支えてくれる人がいるのも、支えられる人がいるのも」

「はぁ。そういわれても……そうほいほいとできるものでもないですし……」

「前にも言ったけど。管理人はやめてもね、さざなみの皆には幸せになってほしいし、そうなる分には、私は大歓迎だし、応援するわよ?」

「善処します」

「まぁ、それこそ時の流れよね。耕介ちゃん鈍いから、実は気付いてないだけなんじゃない?」

「鈍いですか? 俺は」

「鈍いわね」

 即座に言い返されて、耕介は思わず苦笑した。

「酷いなぁ」

「姉さんと付き合ってた頃の義兄さんも鈍かったけど、多分それ譲りじゃないかしら? 姉さんの気性の荒さと、義兄さんの優しさを受け継いだのよ、耕介ちゃんは」

「母さんの荒さを受け継いだって言うのは、反論しようがないですね」

「そうねぇ、昔に比べて随分と落ち着いたわよね、耕介ちゃん」

 しみじみとそう言われて、耕介は当時を思い出して苦笑した。

「あはは。耳が痛いです」

「三年前だったかしら? 『HELL&HEAVEN』が解散したのは」

「二年と半年……ですね」

「あの子たちとは、今でも会ったりしているの?」

 あの子たち。その表現に、耕介は密かに笑った。神奈から見れば、耕介を含めた『HELL&HEAVEN』の幹部七人も、子供ということなのだろうが。

 実際には、神奈より年上なのが一人いたのだが、それを彼女が知る由もない。

「会ってませんよ。連絡も入れてません」

「そうなの?」

「今はまだ会いたくないっていうのが、正直なところですから……」

「そう……」

 どこか神妙な雰囲気になって、二人は黙り込んだ。と、気分を変えるかのように、電話先の神奈が大きく息を吸うのが聞こえる。

「寂しくない?」

「いえ、全く」

「即答したわね」

「ははは。寂しくなんかないですよ。ここは賑やかですし。それに……」

「それに?」

 一呼吸おいて、耕介は続けた。

「あいつらとは、放って置いてもいつかどこかで再会しそうな気がするんです。それもあまりよくない事件絡みで」

「運命ね……それとも、貴方たちが出会ったのは必然だったのかしら?」

「どっちもです。俺はそう思ってますよ。だからまぁ、今はどうでもいいです。あいつらもそう思ってるはずだし」

「いいわね〜。男の友情って」

「そんなにいいものじゃないですって」

 そう──彼らの関係が、羨ましがられるほど善良なものでなかったことは、当時の彼らを知っているものならば誰でも感じたであろう。

 暴力性と残虐性。そして破壊衝動に囚われていた日々。

 けれど共に過ごすことで不思議な安堵感に包まれていた時代。

 神奈とて知っているはずだった。それでも、彼女は羨ましいと言う。その真意がわからなくて、耕介は眉をひそめた。

「例えその本質にあるのが敵同士でもね。理解し合える人がいるのは、いいことよ」

「……そう……ですね」

 頷く。言われて見れば、当初『HELL&HEAVEN』の幹部連中は、全員が互いに敵だったのだ。それでも、いつの間にか意気投合して、共に時を過ごすようになった。

「さて。長電話しちゃったわ。面白い話、ありがとう。耕介ちゃん」

「いえ。時間が食い違って、皆としゃべれなかったのは神奈さんのほうですし」

「仕方ないわよ。休日だからって、家にいないといけないってことないんだもの。家に閉じこもるくらいなら、私は思いっきり外で遊ばせたほうがいいと思うし」

「真雪さんは?」

「ああ、まゆ坊は例外」

 二階で、いまだ寝ているだろう漫画家の寮生を想像しながら、二人は笑った。

「それじゃあね。また電話するわ」

「お待ちしています」

 和やかに笑って、耕介は電話を切った。

 

 

 時刻は昼前になっていた。

 海鳴市桜台。さざなみ女子寮。

 今日、仁村真雪を除く女性陣は、総出で駅前のデパートに出かけていた。今海外で歌の勉強をしている元住人の椎名ゆうひに、今年の夏物衣類や食べ物などを送るのだそうだ。

 だから今は、寝ている真雪を除けば、この寮には耕介しかいない。

 静かなリビング。

 八月の初頭。

 夏休み。

 帰ってくるものと思っていた関西娘の不意の居残りに最初は驚きはしたものの、寮のオーナーである愛を筆頭に、寮生たちは皆元気だ。

「ゆうひも、きっとがんばっているだろうし……」

 はるか遠くの空に下で、好きな歌を歌いまくっているだろう親友の姿を思い描いきながら、耕介は軒に出た。

 空高く昇っている太陽。天を仰ぎながら、彼は思いっきり伸びをした。

 今日は比較的涼しい。風も出ている。接近してきている台風の影響だろうか、少しばかり、雲の流れが速い。

 外にいるみんなの様子を心配しつつ、耕介はキッチンに向かった。

 昼過ぎには帰ってくるという寮生の昼食を作るために。

 

 その後数分もしないうちに、賑やかな帰還の声が、さざなみに響き渡った。

 

 原始に返り咲くものたち  完

 

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