5
携帯電話を切って、双真はサフランのカウンター席で一人、疲れたようにため息をついた。いや、彼は本当に疲れていた。時刻は五時半。あれから三十分程度しか経っていない。故に、サフランの喧騒も全く変化なく、逆にさらに忙しくなっているようだった。
バイトのウエイトレスが忙しなく店内を行き交うのを、他人事のように見つめる。
否。それは間違いなく他人事だった。耕介の実家。その両親が経営する洋食屋。その経営状態も、評判も、味も、何もかもが他人事。興味などわかないし、持つ必要もないだろう。持ったところで役にも立たない。それは何も、このことだけではない。
世界の全て。存在する全てにそれは当てはまる。
興味などわかない。持つ必要もない。
そう思っていた。故に彼は孤独だった。少なくとも、この地にくるまでは。それが彼の考え方であり、生き方だったから。
ならば今は?
自分がただ疲れているだけなのだということを、双真は自覚していた。現にその忙しさに気を遣って、コーヒーを自分で淹れてしまった。こちらの顔を見慣れている店員も、双真の行動には指し当たって疑問を持たなかったらしい。それとも、急がしさに無視しただけかもしれないが、どちらにしろ、以前の彼ならそういった行動さえしなかった。しようという考えさえ浮かばなかっただろう。
そして今、彼は一人だ。
だが独りではない。孤独ではない。それを打ち消した少年は今、彼の自室で欲望にまみれている。
「難しい年頃だ」
結局、双真はそういう結論で考えるのをやめた。自分のことも、彼のことも。さらに言えば、アダルトビデオを見て性欲を満たそうとすることの真偽など、考えるだけでも面倒くさかった。
「疲れた」
もう一度、ため息をつく。
「そんなに疲れましたか?」
答えが返ってくるとは思っていなかったので、双真は多少鳴りとも驚いて隣を見た。喜和子だった。すぐさま興味を失って、視線を目の前のカップに移す。
「どうかしたのか?」
「いえ。なんか、なんかあのまま見ていたら、いやな事が起こりそうな予感がしたもので……」
「いやなこと?」
もう一度、視線を彼女に向ける。
「はい。私がすごく大事にしたいものが壊れてしまうような、そんな感覚です」
「……よくわからんが」
「そうですか?」
きょとんとした瞳で見つめ返してくる喜和子に、双真は小さく首をかしげて見せた。
そしてふと考える。
大事なもの。
自分にとって、大事にしたいもの。大切なもの。
それは……。
◇
それは何の前触れもなくやってきた。
ぎぃ……という音。それがあまりにも異様な雰囲気を纏わせているせいで、ビデオに釘付けになっていた耕介も、はっとなって音のしたほうを向いた。
…………
何もない。方向的には、ドアのほうだろう。が、ドアは閉まったままだ。窓ガラスのほうを見てみるが、やはりそちらもしまっている。
CDコンポは電源が切れているし、ラジオもまた然りだ。テレビからは、
≪お兄ちゃん……あはぁ……あん……あぁん……≫
やはり喘ぎ声が続いている。
「……何だ?」
自問する。だが当然、答えを持っているわけでもない。耕介は諦めてビデオの方に視線を戻そうとして──
バタン!
「いやぁ、ごめんね。耕。あの時はほとんど徹夜で思考がテンパってたからさ。ドタキャンしたのはホントごめん。きーちゃんにも謝らないとねー」
そして硬直した。
唐突だった。あまりにも唐突だった。バタンというドアが開く音。それがちょうつがいのところでギシギシと金属音を引き起こし、ドアがどれだけ勢いよく開けられたのかを物語っていた。
そのドアのノブを握っているのは、よく見知った少女だった。千堂真由。どこからどう見ても、ひっくり返そうが、瞬きしようが、現実逃避しようが間違えようがない。
だが硬直したのは、耕介だけではなかった。
≪駄目、お兄ちゃん。知恵、もうイッちゃうよぉー≫
≪ほら、がんばりなさい。お兄ちゃんはまだ大丈夫だよ≫
≪うん、がんばる。はぁ……はぁ……お、お兄ちゃんの精液、膣に欲しいから。知恵、がんばるよ≫
騎乗位でつながる隆弘と知恵。その様子を、早苗が自慰をしながら見つめる。
その声を背景に、
「…………あー」
どうにか声を出そうとして、しかしあっさりとそれは失敗した。声にならない声が、無情理に響く。
「耕……」
彼女もまた、同じだったらしい。それでもいくばくかは耕介より早く復活して、真由は幼馴染の少年の足元に転がっているビデオケースを手にした。
「ロリロリ専攻会プレゼンツ『姉妹いじり・禁断の関係へ3!〜調教編〜』……」
「……真由。えーと。落ち着いて聞いてくれ」
できる限り冷静を勤めながら、耕介も立ち上がった。
≪あん……はぁん……≫
「いいか、そもそも、ことの始まりは……だ」
冷静に言い訳をしようという努力だけをしている耕介を無視して、真由はビデオの売り文句を読み上げた。喜和子と同じように、きちんと感情を込めて。
「近所の年下の幼馴染とその妹を調教する主人公・隆弘。今まで閉ざされていたオトナへの扉がついに開く。淫らに変貌を遂げる妹たち。『私たち、お兄ちゃんが喜ぶのならなんでもするよ』──隆弘の大きな分身が妹たちを蹂躙する。ますますヒートアップする調教。奴隷化する妹たち。姉妹いじりの最新シリーズがついに登場!」
「そう、登場だ。いや、それはいいんだ」
「そんなにいいの?」
「いい。いや、そうじゃなくて。だから、あー、なんと説明すれば言いか、すごく微妙なんだ。これには、理由がある。そうだ。わけがあるんだ。山よりも高く、谷よりも深い事情が存在する」
「理由?」
「そうだ」
おもむろに、耕介はうなずいた。
必死だった。間違えてはならない。選択肢を間違えてはならない。言葉を誤ってはならない。そうなったら最後、自分は誤解され、軽蔑され、ロリコンのレッテルを貼られ、下手をすれば想い人にも嫌われる可能性がある。
≪あん……おにいちゃん。いいよぉ。奥に……奥に当たって……あはぁ……すごいのぉ≫
「すごい理由?」
「そうなんだ。すごいんだ」
もはや何が何だか分からなくなって、耕介は窓を突き破って飛び降りたい衝動を必死になって押さえ込んだ。
≪いい……おっきぃのが来てるよぉ………おねえちゃん、見える?……見てる?≫
≪ええ。見てるわ、知恵……ふぁ……あん……お兄ちゃんのが入ってるの良く見える……うらやましいわ……≫
「うらやましいのね」
「違う! いや、ええと、怒鳴って悪かった。その……今は、とにかく、聞いてくれ。つまり……」
息を吸う。そして吐く。
「テストのために入団した十四郎が審査して、きーちゃんの最後の感想を双真が書いて、ビデオして……試験見て……えーと、それから……」
「ごめん、何言ってるのか全然わかんない」
「あぅ……」
きっぱりと否定されて、耕介は黙り込んだ。説明が間違ったのだろうか。どこで間違えた? 詰まりながらも、自分はきちんと説明できていたはずだ。
汗を全身から噴出しながら、耕介は死刑台へ向かう囚人のごとく身を固め、自分が一体どこで間違えたのかを思索した。
…………
(もしかしなくても、初めからか?)
そもそもこうなった理由は、ビデオを見る見ない以前に、こんなテストを実施したことにあったのではないだろうか。だが、それが分かったところで現状は変わらない。
真由の一挙一動に気を配りながら、耕介はとりあえず彼女がどこまで理解してくれたのかを様子見た。
と、真由が大きくため息をついた。心の底から呆れたように、だが、どこか仕方がないといった諦めにも似た表情で彼女は言った。
「でもまぁ、耕介がスケベだって事くらい、私は知ってたわけだし」
どこか自分に言い聞かせるように続ける。
「このビデオの内容に引っかかる部分が多々あるんだけど。もしかして私たちを普段から調教したいっていう願望でもあるの?」
「いや……だから……これはそういうのじゃなくてだな」
「股間にテント張った状態で言い訳されてもね」
「あぅ……」
再び、呻く。
「まぁ、全く興味もたれないのもしゃくだし、男に興味持つよりは遥かに健全ってことよね?」
「……え?」
彼女の言っている意味を図りかねて、耕介は呻いた。彼女が何故一歩、後ろへ後退りしたのかも分からなかった。
「話をまとめると、きーちゃんの入団テストをするために、双真クンと一緒に審査していたと。その試験科目は十四郎さんが決めていて、これが最後の課題。感想っていうのがいま一つよく分からないけど。そう言いたかったのよね? 耕は」
随分物分りのいいことを言いながら、そしてまた一歩下がる。
「そう! そうなんだ!」
耕介はようやく始めて、顔を弛緩させた。
「よかった。分かってくれたか! さすがは幼馴染。伊達に付き合いが長いわけじゃないよなぁ」
「そうね。んで、そのテスト受験者のきーちゃんはどこ?」
……………
「……あれ?」
慌てて、耕介は部屋を見渡した。
いない。
誰もいなかった。喜和子も、双真もいない。
「耕の説明を信じたとしても、結局、テストそっちのけでビデオ楽しんでたって事よね」
仕方がない子ねぇ、といわんばかりの年上風を吹かして、真由が肩をすくめる。また一方後ろに下がった。
「いや、だから。違う! うん。あれ? あの二人、いったいつの間に消えたんだ? 最初はいたのに。ああ、でも気づかなかったわけじゃないんだ」
「矛盾してるわよ」
最後に大きく後ろに下がって、真由は廊下に出た。廊下の向こうに見える壁に寄りかかり、パッケージをひらひらと振る。
「面白かった?」
「……いや! だからそうじゃなくて! 真由、聞いてくれ。俺は潔癖だ」
「うそつきなさい!」
さすがに我慢できなくなったのか、真由が突っ込んだ。
「大丈夫よ。耕がロリコンなのも、スケベなのも、私は知っているから。別にいいわよ。好きなだけAVでも見てなさい」
「…………へ?」
まただ。また、真由の言っていることを、その意味を聞き逃して、耕介は顔中にハテナを浮かべた。
「うん。そうよね。私がここでアンタを責めても、なじっても、からかっても意味ないわよね。どうせなら、アンタがちゃんと冷静で落ち着いた大人になった頃にすべきよね」
それはそれで恐怖があるのではなかろうか。
「うん。なら私はここで大人になるべきだと思うのよ。私はね」
それがきっかけだったのだろうか──
ぎぃ……という音が再び鳴った。あまりにも異様な雰囲気を纏わせた音。耕介を現実に引き戻させた音。よくよく考えれば、この音を聞くのは今日が初めてではない。
耕介なら、いや、この槙原家の住人ならば誰でも耳にしたことがある音だ。耕介の部屋にきたことがある者なら、誰でも聞いたことがある音だ。
それは軋む音。
決して新しくはない槙原家。その廊下を歩くときに鳴る音。
ぎぃ……ぎぃ……
小刻みに、ゆっくりと、何かもったいぶっているように重く、音が鳴る。
真由は笑っていた。何故か、満面の笑顔を浮かべていた。ビデオケースを耕介に良く見えるように強調しながら、笑っている。声は出さずに、微笑んでいる。
そこで初めて、耕介は彼女の真意を知った。彼女が廊下まで下がった理由を知った。
「……おぃ……まさか……嘘だろう…………」
呻く。あがく。後退りする。だが音は止まない。そしてテレビも止まらない。
≪お兄ちゃん、どう……知恵の中、気持ちいい?……≫
≪ああ、もうすぐイキそうだ≫
≪イクの? イクのね?≫
どこに行くというのだろう。いや、そんなことはどうでも良かった。どうすればいいのか。この際、自分も逝ってしまえば、楽になるだろう。帰っては来れないだろうが。
ぎぃ……という、それが最後の音だった。
ドアの前に、死刑執行人がいた。顔見知りの少女。もう一人の幼馴染。
「……瞳……」
真由とよく似た深緑の髪をした少女が、そこにいた。
「……何故……ここに? っていうか、いつからここに?」
もしかしたら、最初の音がした時からいたのだろうか。真由が来るまえからいたのだろうか。息苦しい。何故かとっても息苦しい。
「お姉ちゃんが迷惑かけたみたいだから……そのお詫びについてきたの」
彼女は顔を上げない。少しばかり伸びた前髪に隠れて、その表情はうかがえなかった。
「でもそんなのは建前で……」
少女──千堂瞳は続ける。こちらに一歩だけ踏み込んで、くぐもった声で続ける。
「ただ耕ちゃんに会いたかったんだけどね」
その声は、少し涙ぐんでいるようにも聞こえた。
「……え、えーと……」
「最近遊んでなかったし、こんな時間にお邪魔かもとか思ったけど、会いたかったんだよ」
「……う、うん。ありがとう。俺も会いたかった」
「全然説得力がないわね」
真由が横やりを入れる。それに突っ込み返す余裕すら、耕介にはなかった。
気まずい空気の中で、ビデオはその進行をやめようとはしない。このとき初めて、耕介は何故さっさと停止ボタンを押さなかったのかと後悔した。思い切り後悔した。リモコンは手元にない。だがこの場所から、耕介は動けなかった。身体が言うことを利かない。
≪お兄ちゃん、イクの? イクのね? あん……知恵もイクよ……だから…≫
≪知恵。ラストスパートだ。出すぞ?≫
≪……あぁん……出して……お兄ちゃんの精液、知恵の膣に出して……たくさん頂戴……はぁん……≫
≪くっ……イクぞ!≫
≪あん……知恵もイッちゃう! イッちゃうの!≫
「とにかく、瞳、落ち着こう、な?」
「本当に会いたかったんだ……なのに……」
「わかった。うん。だから瞳……」
「耕ちゃんの──」
その時、耕介は少女の双眸に輝く星を見た気がした。真っ赤に燃えた星。それは言い換えれば炎と呼べるかもしれなかった。
唸る拳。膨れ上がる殺気。それは死への序曲。
(ああ、お袋、親父、ついでに兄貴。先立つ不幸をお許しください。耕介はお空の星になります)
≪イッちゃう! イク……イクゥゥゥゥ!≫
「ばかあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
その日、長崎市在住槙原家にだけ、震度4近い地震が観測された。
◇
「逝ったか?」
「逝きましたね、あれは」
地震かと思えるほどの振動が、サフラン全体を襲い、客を一瞬ざわつかせた。その揺れの発信地は、おのずと知れた耕介の部屋だ。
その振動にさほど驚いた様子でもない二人は、至極冷静に状況を分析していた。
「いやぁ、でも逃げていて正解でした」
「お前がいなかったから被害が大きくなったといっても過言じゃないぞ?」
小さく、また揺れる。続いて、ガキッ、ドガッ、ガシャンッ! という打撃音。それに呼応するかのように悲鳴が響き渡る。
そしてその声誰のものだか分かると、いつものことか、と呆れながら、客たちは慣れた様子で各々の食事を再開した。
「それはそうですけど」
「行かなくていいのか?」
「わざわざ巻き込まれに、ですか?」
「いや、失言だった。忘れろ」
あっさりと話題を打ち切って、だが双真は先程から思っていた疑問を口にした。
「そういえば、いやな予感がするとか言っていたな。これのことか?」
「ええ。そうです…………多分」
「何がどう嫌なんだ?」
「だって、怖いじゃないですか」
「怖い?」
喜和子の言うことをさらに理解できずに、双真は首をかしげた。
「あの場所にいて、もし真由さんに軽蔑されたらと思うと」
「…………女にも性欲はあるだろう?」
真由がそういったことを理解できないほど子供だとは思えないだけに、双真は訝しげに聞き返した。
「それはそうですけど。ああいうのに対して嫌がる女の子もいますからね。私たちの年代って微妙ですし……あ、真由さんがそういうタイプだとは思ってませんよ? でも気分を害して欲しくなかったし」
「思春期か」
(結局そこにたどり着くわけだな)
本気で下らなさそうに、双真は呻いた。
「だから、そう考えたらやっぱり怖いですよ。今日の当事者は私で、耕介さんを巻き込んだのも私で、ビデオを見ようといったのも私です。それから、耕介さんは真由さんにとって大切な親友で、幼馴染で……真由さんがそんなことで怒ったりしないことも知ってますけど……だけど……」
そして、いやな予感がするといって見捨ててきたのも彼女だ。
「嫌われたくないですよ、やっぱり」
うつむき加減で、だが真剣な顔で言い切る喜和子に、双真はただ無表情のまま反応らしい反応を示さなかった。何かしら考え込むように下を向き、小さく切ったミートパイを口に無造作に放り込む。
「神楽さん?」
「……真由のことが好きか?」
「はい」
いきなりの質問にも、はっきりと喜和子はうなずいて見せた。そこにあるのは何の混じり気もない純粋な気持ちだ。恋愛感情なのか、ただ慕っているだけなのかは分からないが、月野喜和子にとって、千堂真由が大切な存在だということは理解できる。
だから彼女は恐れた。真由が其の程度のことで誰かを嫌うことなどないと分かっていても、彼女はひょっとしたらあるかもしれないその可能性を恐れた。
「好きだから、嫌われたら怖いか」
「……はい」
「一番大事だから、失くすことが怖いか」
「……はい……?」
独白のような質問に、喜和子が眉をひそめた。それを無視して、双真の独り言は続く。
「大切にしたいから、大事にしたいから……それを失ったときの悲しみは大きい。悲しみを人は恐れる。避けようとする。誰もが好き好んで悲しみを味わいたくはないからな」
双真が見つめている先。ミートパイの切れ端。その向こうにカウンター。キッチン。庭を挟んで槙原家の居住区。その二階に耕介の部屋。
「人が恐れるのは大切なものを失う悲しみ。それが自分にとって必要であればあるほど、大切であればあるほど、失ったときの悲しみは計り知れない……」
「なにがですか?」
喜和子がきょとんとした顔で聞いてくる。今日の主役だった少女に向き直り、双真は軽く笑って見せた。得た結論は単純で、だからこそこみ上げてくるおかしさに、双真は笑った。
(人の心理なんて、案外そんなものかもな……)
そして告げる。
「人が一番恐れるのは、一番大切なものだということだ」
喜和子にとっての真由。耕介にとっての瞳。そして双真にとっての……。
打撃音は続く。
サフランは揺れる。
そして相変らず続く悲鳴の主の安否を気遣いながら、双真は彼の部屋へ足を向けた。
この世で一番怖いもの 完