『HELL&HEAVEN』

 

  誰がために春は散る

 

      1

 

 愛。

 愛について。

 愛とは何か。

 愛しく思うこと。その心。心引かれること。可愛らしく大切に思う心。

「…………」

 訝しげに眉をひそめながら、彼女は鉛筆を手に取った。もう一度、そのフレーズを唱えてみる。

「……愛」

 その理想の形を想像してみる。実践してみたとして、その対象は誰ならばいいのか。選ぶべきか、選ばれるべきか、あるいはその両方か。誰を愛して、誰が自分を愛してくれるのか。

 対象は様々だと思われる。家族。友人。異性。動物。植物。無機物。それらとの相互関係は実に複雑だ。複雑なわりに単純で、そのくせ意味深でもある。言葉そのものはとてつもなく簡潔だが、そこから派生するだろう感情や選択肢は、自身に新たな経験を与える。

 何をするでもなく、彼女はまた鉛筆を置いた。彼女の机。年頃の女の子らしく綺麗に整頓された木製の机は、可愛らしいキャラクターで飾られていた。その他、部屋全体がピンクを主体として装飾されている。ピンクのベッド。ピンクのカーテン。ピンクのカーペット。そこに違和感なく佇む彼女の私服も、ピンクのワンピースだった。

「愛……愛する……愛して……います」

 唱えてみる。そこから思い出される相手の顔。鮮明に描かれるその映像に、自然と頬が熱くなる。鏡で見てみれば、自分の顔は上気しているだろう。

 分類されるなら、それは恋愛と呼ぶのかもしれなかった。それ以外の呼称を、少なくとも彼女は知らない。ならばやはり、この感情は『恋』なのだろう。

 想いを寄せる。

 ただそれだけのことなのに、息苦しく、時に胸を熱くさせる感情。

 その相手の顔を思い浮かべるだけで、体温が上がる。実際にはまだ会話すらしたことのない相手の姿は、数回見かけただけだというのに鮮明に思い出すことができた。

 声、性格、趣味や趣向、そして生活。全てのことを想像してみる。

 きっと優しい性格をしているに違いない。以前見かけたとき、小学生の少女を傍らに連れていた。以後数回、同じ場面を目撃している。きっと妹思いの優しい人なのだろう。

 声も落ち着いた、綺麗なものに違いない。身長はさほど高くないが、その中世的な顔は魅力的だった。対して、いつも一緒にいる男性。親友だろうか。まさか恋人などということはないだろう。こちらは身長からして高校生に見えるが、あどけなさの残る顔立ちからは同年代に見えなくもない。そうなると、年齢も決めかねるところだった。

 なんにしろ、情報が現時点では少なすぎる。

 知りたい。素直に、そう思う。

 それには、まず自分の存在を知ってもらう必要があった。手っ取り早い方法といえば、告白である。心中を包み隠さず、全てを打ち明ければいい。

「私はあなたを愛しています」

 声に出すたびに上気する。それを、伝えればいい。問題は──

 そう。問題は、その伝達方法だった。

 一次接触による意思伝達。それが最善であろう、間違いなく。言葉による直接的会話を試みるのは効果的だし、より確実に気持ちを伝えられる。

 それ以外には。手紙などの第二次接触が上げられる。けれど住所がわからない。ならば直接手渡そうかと考えて、彼女は苦笑した。それならその場で直接伝えた方がいい。

「どうしようかしら……」

 悩む。嬉しい悩み。些細のことではあったが、そんなふうに考えていられる時間が嬉しかった。

「…………そうね」

 うなずいて、彼女は鉛筆を手に取った。

 結局、その両方にすることにした。直接会って、告白。そして手紙を渡す。二段重ね。より自分の気持ちを理解してもらうには、最良と呼べなくもない。

 愛。

「愛しています……」

 なによりも大事な言葉。それを伝えるべき相手は、頭の中で自分にだけ微笑んでくれている。それに浸りながら、彼女は便箋を取り出した。薄いピンク色の便箋。ゆっくりと、気持ちを文字に置き換えていく。

「私は貴方を愛しています……」

 最後に文字にした言葉を口にして、彼女は艶かしくため息をついた。

 

      ◇

 

「告白……ですって?」

 こめかみに軽い痙攣を覚えながら、セミロングの髪の女は言った。声は、すでに力の入れすぎでかすれていたが、そんなことは本人にとってどうでもいいことだった。構わず、続ける。

「もう一度言って御覧なさい。隊員ナンバー千百十二号! 貴方は今なんと言ったの? 告白をしたいと聞こえたけれどそれは私の聞き間違いとしておいてあげるわ」

 指を差す。と同時に、女の視線が千百十二号と呼ばれた少女に突き刺さった。

 少女はピンクのワンピースを着ていた。針金のようなストレートの髪を、くくるでもなく無造作に腰までたらしている。神秘的ではあったが、彼女の胸にある『1112』の番号プレートが、それを全て台無しにしていた。

 その少女は、セミロングの女をキッとにらみ返すと、だが全く抑揚のない声で言った。

「告白したいんです」

「何ですって?」

「告白です」

 少女の言葉に、女は顔を伏せた。拳を作って机を力強く叩く。机に立てられたろうそくの炎が、一瞬揺らいで、また燃え盛った。

 彼女たちがいる場所は暗闇だった。それ以外は、別段何の特徴もない部屋である。テレビにビデオ。本棚。机がひとつ。その上に、デカデカと一人の少女の写真が飾ってあった。

 暗闇は、その部屋全体にかかった暗幕のせいだった。雨戸も締め切り、空気の流れは全く存在していない。それが、部屋を雰囲気から暗くしている。時刻はまだ昼過ぎだというのに、彼女たちはそのことに疑問を持っている風でもなく対峙していた。

「千百十二号。それがどう意味なのか、貴方はわかって言ってるのね?」

「えーと……はい」

「新入りの癖に生意気だということも、わかって言ってるのね?」

「……はい」

 と、女は深くため息をついた。指をあごに当て、考える仕草をする。といっても、別段考えることなど何もなかった。そのままの姿勢で少女を見据え、女は静かに言った。

「貴方は自分から禁忌を犯そうとしている」

「えーと。わかっています」

 少女がうなずく。それを見届けて、女は続けた。

「けれど私は、貴方たちを束ねるものとして……貴方に、いえ、貴方だけにそれを負わせることはできないの。このことは今度の集会で発表します。貴方の意思はしっかりと汲み取ったわ。当然、貴方にも出席してもらいます」

「よろしいのですか?」

「新入りは二ヶ月、集会に参加できないという決まりのこと? 貴方が犯そうとしていることにくらべれば、なんてことないでしょう?」

 あくまで優しく、少女を諭すように、女は言った。

「これは私たち全てに関わる大事なことよ。裏切りになるか、それとも同盟としての生贄になるか。全ては明日。集会でみんなの意見を聞いてからね」

「……はい……」

 それで、会話は終わった。ゆっくりと礼をして、少女は部屋を出ていく。

「これは、由々しき事態だわ」

 そして静かに、彼女はろうそくを吹き消した。

 

      ◇

 

 長崎市の繁華街。その裏手に、廃ビルや建築途中で放棄された建物が集まり、どう見ても堅気でない連中が集合する危険区域がある。いつしか少年たちの溜まり場となり、いまでは警察でさえ手の出せない無法地帯と化した通称『裏界(りかい)』とよばれるそこは、街頭ひとつないために、夜になると完全な闇に覆われていた。

 基本的に、ここは「HELL&HEAVEN」という暴走族集団の本拠地でもあった。九州地方最強にして、総数五百の人数を誇る最大の不良グループ。の、特に幹部数人が侵食を過ごしている居城。悪鬼の巣窟である。九州の犯罪の五割が行われる場所といっても過言ではない。

 しかしながら、その幹部七人が夜の街をバイクで暴走していたという報告はあまり存在しなかった。故に、裏界は深夜を過ぎるとほとんど人気が消えるという特徴を持っている。

 その一角を歩きながら、その幹部の一人である槙原耕介は空を見つめていた。中肉中背。といっても、十四歳にしてみれば明らかに高身長の少年は、ジーンズをナイフで切り刻んだような格好をしていた。手にコンビニの買物袋をぶら下げ、身体が覚えている道を無意識に歩く。普段この近辺にいるときの服装で雲のない夜空を見上げながら、耕介は景色を楽しんでいた。

 裏界は余計なネオンがないせいで、星を見るには絶好の場所でもある。深夜二時を回ったくらいだろう。人気の少ない道をわざと選びながら、彼は家への帰路に着いた。

 と、その足が止まる。

「誰だ?」

 振り向きもせず、耕介は言った。

 夜。人は、闇に触れて神経が開かれる。過敏になっているというよりは、本能に導かれて自然に還るような感覚。差し当たって武術等を習ってはいなかったが、自分以外の気配を読むことくらい、耕介は半ば本能的に覚えていた。

 そしえ察知する。後方に感じる異質の気配。それが殺気でなかったことに内心安堵しながら、耕介はおもむろに後ろを向いた。

「いるんだろう?」

 姿は見えなかった。その相手に、もう一度質問を繰り返す。返事もなく、ただの一人相撲かと思い始めた頃、繁華街へと続く路地の方からゆっくりと人影が姿を見せた。

 影。耕介の位置からでは、相手の姿までは確認できなかった。ただ、身長は目に見えて彼よりも低い。少年か、もしくは女か。その手に、なにかしら長い棒のようなものを持って、それはそこにいた。

 もう一度、聞いてみる。

「俺に何か用か?」

 返事はなかった。が、少しだけ動揺したのか、棒を持つ手が小さく動くのを耕介は見逃さなかった。意を決して、こちらから出向く。少なくとも、わからないことをわからないままにしておくのは癪だった。例え、影の持つ棒が『武器』だとしても、いまのところは問題ない。そう判断して、影に歩み寄る。

「何者だ?」

 質問。歩みは止めない。影に動揺が走るのが、目に見えてわかった。敵意は感じるが、殺気はない。攻撃的気配もなかったので、耕介はさらに近づいた。

 ようやく姿を視認できる距離──四、五メートルといったところで、耕介は足を止めた。

 影は、少女だった。少なくとも、耕介はそう判断した。長い髪。くせのないストレートな髪が、腰まで艶やかに伸びている。背はやはり低い、というよりは身体全体が小さかった。胸も、見た限りではないに等しい。顔は中世的だったが、着ているピンクのワンピースから、影が少女だと知れる。

 その少女は、棒を──これは、明らかに鉄棒だった──強く握ってこちらを睨んでいた。はたして防衛のためのものか、それとも攻撃のためのものか。目的は計りかねたが、どちらにしろ、構えといいこちらの挙動に対する反応といい、見た目にも素人、喧嘩慣れしていないのがわかる。

「何か用か?」

 威嚇するように半眼で、耕介はそう聞いた。少女の瞳に、明らかな動揺が走る。なんだか弱いものいじめをしているようで居心地が悪かったが、この少女が自分に用があるのは明らかだった。それにも関わらず、何をするわけでもなく、ただ耕介を睨みつけてくる。

「用がないなら、帰るけど……?」

 少しだけ口調を和らげて、耕介はそう続けた。反応がないことに嘆息して、彼は方向転換した。と──

「貴方は……槙原耕介さんですね?」

「そうだけど?」

 顔だけをそちらに向けて、耕介は聞き返した。

「そうですか」

 その一言を吐き出した後、少女が大きく息を吸うのがはっきりとした音として聞こえた。

 瞬間、膨れ上がった殺気を背に、即座に耕介はしゃがんでいた。後頭部スレスレを、鉄棒がかすめ通る。それが通過したと同時に、すぐさま起き上がって耕介は前方に跳躍した。

 が、着地するよりも早く、少女の地面を蹴る音が聞こえる。擬音となって文字に見えそうなほど勢いよく、少女は耕介に第二撃を繰り出していた。

(迅い!)

 胸中で愚痴りながら、耕介は空中で体制を切り替えた。靴の裏で鉄棒を受け止め、その反動でさらに後方に飛ぶ。少女が素人だと判断していた自分の見識に後悔しながら、耕介は彼女を見据えた──つもりだった。

 実にあっさりと、少女の姿を見失う。

「え?」

 思わず、声を上げる。その瞬間、背後に感じる気配に背筋を震わせながら、耕介は後ろを振り返った。視線の端に、銀色の閃光が走る。それが振り下ろされた鉄棒だと判断して、彼は意識を変移させた。

 肉体と精神。それら全てが熱を持つ。血液が沸騰し、エネルギーとなって彼の心臓に送り込まれる。敵と認識した少女の動きを追う。殺気で覆われた少年は、首筋に当たる寸前の鉄棒を避け、そのまま彼女の背後に回った。

 その華奢な腕をつかみ、逆によじる。同時に首筋──延髄に手を置いて、一連の動作は終わった。

「これで終わりだ」

 静かに告げる。雰囲気が一変した耕介に、少女は何が起こったのか理解できていないようだったが、それを気にかけてやる必要性はなかった。

 裏界と呼ばれるこの最悪の無法地帯で、敵を作り、それに負けることはそれだけで地獄を意味する。敗者は勝者の下に絶対服従を強いられる。こと相手が少女の場合、その辿る道など簡単に想像がついた。一般人には手を出さないという暗黙の了解がある「HELL&HEAVEN」の本拠地といっても、ここにいるのは何も彼らだけではない。数多くの暴力団や闇家業の人間がひしめく場所なのだ。

 彼らに捕まれば、散々強姦されたあと、麻薬、AV、売春、それらを強要されるに違いない。使い物にならなくなった頃、待っているのは無残な死か、廃人か。どちらにしろ、ろくなものではない。この少女とて、そのことを知らぬはずはなかった。長崎市民であれば誰でも知識として持っているほど、ここは危険な場所なのだ。

「もう一度、聞くぞ。お前は誰だ」

 殺気を込めて、耕介は聞いた。延髄に添える手に、少しだけ圧力を加える。それだけで、少女は短く悲鳴を上げた。声が震えて音になっていないようではあったが、少なくともこちらの意図は伝わったらしい。身体を細かく震わせながら、少女は涙を流していた。殺気に当てられたのか、はたまた自分の辿る未来への恐怖からか、彼女は小さく歯を鳴らしながらも答えてきた。

「私は……私たちは……」

「?」

 やっと聞き取れるかどうかの小さな声に、耕介は耳を澄ました。

「千堂真由非公認親衛隊です」

「は?」

 我ながら随分と間の抜けた声だと自覚しながら、それでも思わず口が開いて、耕介は少女を見返した。幼馴染みの少女の名を出されて、少なからず動揺を感じながら、ふと、言葉の中に微妙に引っかかる単語を思い出す。

「私……たち?」

「はい」

 瞬間、背後に複数の気配を感じ──

 後ろを振り向く間もなく、耕介は闇に落ちていた。

 

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