3
放課後。そして帰宅。
部活動が休みだったため、真由はあっさりとホームルーム終了と同時に鞄を持って教室を出た。制服着用の中学であることとは関係なく、彼女は今日もラフなシャツにジーンズパンツといった少年スタイルだった。短く刈り上げた深緑の髪。密かに、胸がそのサイズを誇張している。一緒に帰ろうかと思っていた幼馴染みの少年の姿がないことに嘆息して──サボリだろう、おそらく──玄関口に向かった。
階段を歩く。途中ですれ違った友人と挨拶を交わして、自分の下駄箱を開けた。そこで、ふとその動きを止める。
「…………」
見たものが信じられなくて、とりあえず呼吸を止めてみる。数秒もしないうちに再開して、今度は瞬きを故意に数回繰り返した。一旦、下駄箱をパタンと閉める。
千堂真由。
そう書かれたプレート。紛れもなく、間違いようもなく、ここは彼女の下駄箱だった。再び開けて、視線の先にあるものを確認する。
一通の手紙。
それを手にとってみる。千堂真由様と書かれたピンクの手紙。裏返してみたが、差出人は書かれていなかった。ハートのシールで止められた口。それを見て否応なく、それが何であるかを認識する。
「……ラブレター?」
呟きながら自分の靴を履き替える。上履きを持ち上げたところで、彼女は思いっきり頭を下駄箱に打ち付けた。
◇
顔。
見事に顔だけがすっぽりと、枠に収まっている。首はどこにあるのか疑問だったが、感覚としては、空港や駅前にある観光の看板のようだった。顔の部分だけがくりぬかれてある、後ろから顔を突っ込んで写真を取る看板である。顔を囲んでいる枠がレンガと言う点を除けば、であるが。
そして疑問に思わなくもない。それ専用に型でもあるのならまだしも、レンガで囲まれた枠に顔を入れるのは、それなりに苦痛を伴うはずだった。暗くてよく見えないが、女の顔に汗がにじんでいるようである。少なくとも、平然とやってのけているわけではないらしい。もうなにが起こっても驚くことだけはやめようと固く心に誓いながら、耕介は聞いた。
「苦しくないか? その体勢」
「苦しいわ。とっても」
意外にあっさりと、女は認めた。
「ならやめろよ……」
率直な意見を述べてみるが、女は聞く耳持たないようだった。
「それよりも千百十二号。状況を説明しなさい。この男は盟約をしたのですか?」
「盟約?」
初めて聞く言葉だった。というのは、先程の喜和子との会話でそんな言葉が出てこなかったと言う意味である。が、当の聞かれた喜和子は別段何事もなかったかのように天井の女に向かって言った。
「はい。盟約しましたわ」
「そう、ならいいのです……」
女の顔が、狭い枠の中でかすかに縦に動いた。どうやらうなずきたかったらしい。それとは関係なく、耕介はさらに分けがわからなくなって口を挟んだ。
「ってちょっと待て! なんなんだ? その盟約って。お前ら、真由の親衛隊だかなんだか知らないけど、俺に何をさせたいんだ?」
「…………」
耕介の叫びを無視して、女は喜和子を睨んだ。
「どういうことですか? この男はわかっていないようですが」
「はぁ……でも私の中では、なんとなく誓ったような気がしていたものですから」
「だから妄想だろう、それは!」
一人マイペースにうなずく彼女を尻目に、耕介は再び天井を見やった。女はじっと、こちらを睨んでいる。しばらく睨み合いが続いたが、ほどなくして女がおもむろにため息をついた。
「いいでしょう。つまり、私たち千堂真由親衛隊は、貴方、槙原耕介にお願いがあるのです」
「お願い?」
オウム返しに聞き返す。女がうなずくが、釈然としないものはまだぬぐえていなかった。自然と眉間にしわを寄せる。
「こうやって人を牢屋もどきに押し込むのがあんたのお願いする態度なのか?」
「お願いといっても、ほとんど強制です。要するに、私たちは貴方に手を引いてもらいたいのですよ。千堂真由様から。永久に」
女が冷たく発した言葉が、小さな響きを伴って部屋のレンガを振動させた。
「俺が真由から手を引く?」
言葉尻を捕まえれば、要はそういうことである。真由の幼馴染である自分という存在が、彼女たちからすれば邪魔でしかないのだろう。
何故邪魔なのかと言えば、導き出される答えはひとつしかなかった。
「つまり、あいつのそばに男がいるのが許せないと?」
「あの方をあいつ呼ばわりはやめていただくださいな。いくら幼馴染だからといっても許しませんよ」
「あー、はいはい」
気のない返事を返す。と、向こうも向こうであきらめたようにため息をついた。
「まぁ、いいですわ。とにかく、貴方のおっしゃるとおりです。ただでさえ、幼馴染と言えばそのまま恋人になる選択肢が多いと言うのに。その相手が貴方だなんて、私たちは決して認めません!」
「選択肢って……」
「あら? ご存じないのですか? 全国出会い調査学会では、恋人の出会いのパターンの第三位に食い込んでいるくらい、メジャーですのに」
「どんな学会だよ……」
「その名の通り、恋人たちが出会うパターンを研究している学会です。ちなみに、一位が街角でぶつかる。二位が、散歩させている犬の話で盛り上がる。四位が女子寮の管理人になる(元旅館でも可)──」
「どこの漫画の話だ、それは!」
「ちなみに、散歩させる犬はセントバーナードが最も人気です」
「聞いてないっ!」
「その他カメなどでもOKですわ。あのつぶらな瞳が好きな女性は意外と多いのだとか」
「ああもうっ! どいつもこいつも人の話を聞きやがらねぇし!」
もはや呻くことしかできなくて、耕介は頭を抱えた。
「現実です。認めなさいな。事実は小説より奇なりと申しますでしょう?」
顔しか見えないが、どうにも肩をすくめたような表情と態度で、女が眉をひそめた。胸のうちで言いようのない怒りがこみ上げるが、どうにか理性で抑えつける。吐き気にも似た想いで──実際吐きそうではあったが──なんとか我慢しながら耕介は上を向いた。
「……話を元に戻すぞ! 結局、お前は俺が真由と一緒にいるのが許せないんだろう」
「その通りですわ。今はただの幼馴染かもしれない。けれど、いつか貴方と恋仲になるやも知れない」
「それが気に食わないのか?」
「その通りです」
「……でもなぁ、俺と真由が恋人なんてありえないと思うんだけど」
「言い切れますか?」
「おう。頼まれたって彼氏にはならん!」
「何ですってぇぇぇ!」
叫び声が狭いレンガ壁の防空壕に響き渡る。エコーがかかり、しばらく耳鳴りが止まなかった。声を上げた本人も振動にやられたのだろう。気分悪そうに嗚咽している。青ざめた表情のままこちらを睨み付けて、彼女は続けた。
「なんて失礼な男なの? 真由様から告白されても断るですって?」
「いや、だから、それは……」
「なんて罰当たりな。所詮はその程度の男なのね。貴方のような下賎な者に、あの方の素晴らしさがわかろうはずもないのだわ」
「どないせーちゅうんじゃ……」
呻くが、女はあっさりと無視してくれた。
「ええ。そうでしょうとも。槙原耕介はそういう男なのですわ」
「まぁ、もうなんて思ってくれてもいいけどさ。お前たちはどうしたいんだよ」
「どうしたいとは?」
「だからさ。俺にあいつとの縁を切ってほしいんだろ? その後だよ。お前たちはどうしたいわけ?」
「……ポっ」
「はい?」
思わず素っ頓狂な声を上げる。今のが何の音だったか今ひとつ掴みかねたが、それは天井の女の顔を見れば一目瞭然だった。白いほほを赤く染めて、視線をそらしている。横目で隣の喜和子を見ると、彼女も同じような表情でうつむいていた。
「って、要するにおまえら揃ってレズなのか?」
「そんな俗称で呼ぶのはやめていただけませんか? 私たちは純粋にあの方をお慕い申し上げているのです!」
「そうなのか?」
きょとんと目を瞬かせて、喜和子は首をかしげた。
「違うのですか?」
「違うわよ! 千百十二号! 貴女、私たち親衛隊の本文、忘れてるのではないでしょうね!」
「真由様を守り、真由様を慕い、真由様のためだけに生きる」
「その通り。そして真由様の生活の一部始終を記録し、真由様の全てを後世に残す。私たちは、まさに歴史に残る一ページ!」
耕介は思いっきり嘆息した。
「挙句の果てにはストーカーってオチか」
「それでは犯罪者ではありませんか」
「だからきっぱりとその通りだっ!」
思わず叫び返す。声が振動し、共振して防空壕内を駆け巡った。女の顔がさらに青くなる。嘔吐しそうな気配を漂わせながら、彼女は嗚咽した。
「……ウェッ……」
「おい吐くなよ? 今吐いたら、下にいるこっちが多大な害を被るんだからな。後で真由に言いつけるぞ」
「それだけは……ウゲェェッ!」
「だからやめろっちゅうに」
「……雨ですね」
と──まったく前置きなく、喜和子がぽつりとそうつぶやいた。何が彼女にそう言わせたのかはわからない。が、言われて上を見やると、確かに女の顔とレンガの隙間から水が滴ってきている。
「……木のドアなら、蹴破れるよな」
誰に聞いたわけでもなく独りごちて、耕介はドアを蹴り破った。鈍い音を立てて、木片が飛び散る。
最初からこうしていればよかったと深く後悔しながら、出口を見やった。
「出るか」
「そうですね」
あっさりと同意してきた喜和子を引き連れて、耕介は地上に扉をくぐった。狭い通路をウネウネと一分くらい歩いて、地上に出る。私有地なのかなんなのか、見渡す限り木々が生い茂っていた。それが小高い丘の中腹だと気づいた辺りで、耕介は地面を流れる水の方向に視線を向ける。
降り注ぐ雨は紛れもなく夕立だろう。勢いはすさまじかったが、逆に爽快感があった。そして今いる場所は丘。斜面であるから、当然のごとく地面に降り注ぐ雨の水がいっせいに上から低位置にあるこちらに流れてきていた。そして視線の向こう──耕介たちの少し下に、顔だけを地面に突っ込んだ女がいる。
低い場所に開いた穴。そこに流れ込む水の中で、女が息苦しそうにぼやいていた。
「だ……だずげで……ぐびがぶべばい……ぶくぶく……」
何を言ったはわからなかったが、何が言いたいのかは明確に汲み取れた。
「このまま見逃したら、過失致死とかになるのかな」
力なく嘆息すると、隣で喜和子が十字架を切っていた。今度こそ本気で彼女の出生に興味を持ちながらも嫌々足を進める。
結局、救助できた頃には雨は上がっていた。