『HELL&HEAVEN』

 

   破壊の序章

 

      1

 

 最初に気づいたのは匂いだった。

 意識してみなければ気づかない程度の、かすかに感じる異臭。嫌な匂いだと彼は思った。

 彼がいるのは街中──と言えるほど開けた場所ではなかった。細い裏路地。どこの街にもあるだろう、人の目が届かない街の死角である。その原因が開発の遅れか、住人たちの性質によるものなのかは測りかねたが、決して安穏としていいところではなかった。少なくとも、女子供が安心して夜に一人歩き出来る場所ではない。

 時刻はすでに午後九時を回り、あたりには闇が落ちていた。たまに見かける街灯は点滅を繰り返して、灯りの役目を果たしていない。そんな暗く人気のない、先の見通しも出来ないような路地裏を、彼──槙原耕介はのほほんと歩いていた。

 身長百七十後半という点だけを見れば、彼がまだ中学生だということを勘繰れる者はそういない。暗闇ではその年齢──十三の少年に見合った童顔に気付かれることもないため、耕介はよく駅までの近道にここを利用していたのだ。

 であるからこそ気づいた小さな違和感。日常とは異質な気配に耕介は眉をひそめたが、特に警戒はしなかった。嫌なものとはいえ、ただの匂いである。わざわざ自分からその匂いの元を辿ろうとは思わなかったし、そもそも夜中に出歩く羽目になったのは母親に急なお使いを頼まれたからである。あまり遅くわけにはいかない。母の機嫌を損ねるほうがよっぽど危険だからだ。

「……?」

 とは言うものの、歩を進めるごとにその匂いがより強く鼻を刺激してくれば、否応なく沸き起こる嫌悪感は避けようがなかった。獣の死骸か生ゴミか。ありきたりなパターンを思い描くが、そういった匂いとは一種異なる感覚に、耕介は思わず足を止めた。

「!」

 足元にぬるりとした感触を覚えたからである。

「…………血?」

 あたりは暗く、地面に広がったその『ぬめり』の色まではわからなかった。だが耕介はそれが何であるかを的確に判断した。これは血だ。それもかなりの量の。

 その溜まりが出来ている先を見たのは条件反射だった。買い物袋を手に絡みつけ、動きに制限されないように気を配りながら足を進める。

「…………おいおい」

 呆れたような感想が漏れたのも仕方がなかった。そして同時に、それは自然な成り行きとも言えた。血があるなら、当然それの『元』だってあるはずである。

 路地の間に潜むようにして倒れていたのは、思っていた通りの存在だった。地面に散った長い髪が、血溜まりの中に沈んでいる。その長さから女性かとも思ったが、身体つきを改めて見るとどうも男性のようだった。

 不思議と慌てはしなかった。驚く機会を逸してしまえばそんなものでしかない。

「お、おい! アンタ。生きてるか? しっかりしろ」

 それでもいくばくかは緊張しながら、なるべく衝撃を与えないように男の身体をゆする。

 一度、二度、そして三度。気を失っているのか死んでいるのか、反応のない男に痺れを切らして、耕介は軽く頭を殴ってみた。

「……うぅ」

「あ、まだ生きてる」

 とりあえずはそれで一息つくことは出来た。生死の違いで、通報する場所が違ってくるからだ。

「電話は……」

 携帯電話などという高級なものは持っていないから、近くの公衆電話を探そうときびすを返したところで、ふいに服を引っ張られて耕介は立ち止まった。

「お、気づいた? ちょっと待ってろ。今、救急車呼ぶから」

「……だ、駄目だ」

 男が何を言っているのか、理解するのに数秒を要した。

「はぁ? だってさすがにまずいだろ、この出血量」

「……病院はまずいんだ」

「いや、だからって……」

「し、知り合いの医者が……この近くに……神逆(かみさか)……診療所に……」

 その名前は知っていた。怪しくて一度も足を踏み入れたことはなかったが。しかし問い返すより前に、男は行き先を告げたきりまた黙ってしまった。さっきの行動が正真正銘、最後の力だったらしい。このまま見捨てたい気持ちに駆られたが、さすがに放って置くことは出来なかった。

 男を抱えて歩くことは出来そうにない。耕介は医療どころか介護すら素人だし、動かしていいかどうかの判断も出来なかった。加えて、男の身体は耕介よりも大きい。

「OK。医者連れてくるから、それまで死ぬなよ? いいな? 絶対だぞ? 死んでも枕元に立つなよ!」

 吐き捨ててから、急いで目的地に向かって走り出す。神逆診療所はここからそう遠くないはずだ。

 恐怖や怒りはなかった。焦りもない。不思議と、血だらけで倒れている男が死ぬという気がしなかった。そして耕介のこういうときの勘は、経験上はずれたことがなかった。

(なんか、面倒ごとになりそう)

 そういうときに限って、よく当たるのだ。

 

      ◇

 

 最初に気づいたのは匂いだった。

 自然に流れ出るものではないその人工物──医薬品の気配が、ここが天国でないことを知らせてくる。まだ生きているという自覚が脳から下されるのには時間を要したが、目覚めてしまえばすぐにここが病室だと判断できた。

「気がついたか?」

 こちらが声をかける前に、白衣を来た女性がこちらに近寄ってきた。その顔を彼はよく知っていた。それが意味するところも理解できた。つまり、自分は助かったらしい。

 全ての確認の意味もこめて問いかける。

「無月?」

「気は確かなようだな、名鳥」

 彼女はこちらの問いには答えず、あっさりと自己完結してしまった。が、彼のほうも気にはしなかった。状況把握は難しくない。ここは診療所で、彼女はその主──つまり医者である。そして自分は患者だ。

 どうしてここまで来られたかはおぼろげにしか記憶していないが、なんにしても助かったという安堵感が先に立った。

 そうして落ち着いてから、名鳥十四郎は改めて彼女を見返した。

 男物のスーツに白衣。普段オールバックにしているはずの髪は、今は流すようにおろしている。たったそれだけでも、神逆診療所唯一の医者である彼女──神逆無月(かみさかなつき)は別人のようだった。眼鏡をしていないことも要因の一つだろうが。

 見慣れぬ彼女の姿に多少の驚きを含みながら、十四郎は笑みを返した。

「すまない。面倒をかけたな」

「まったくだ」

 社交辞令のない言葉はいっそ気持ちよく胸に響いた。

「ひどかったぞ? 運びこまれたときのお前は……」

 およそ医者らしくない笑みを浮かべて、無月は言った。

「細かい傷を含めれば十数個。そのうち銃創が五箇所、貫通したのが三箇所。後は体内に残っていたが、無事摘出は終わったから安心していい」

 いともあっさりとした物言いだった。ここは街の診療所で、設備の整った病院ではない。出来ることは限られているというのに、無月はまるでそれを無視した医療を行う。そして実際、それだけの患者を助けてきていることを十四郎は知っていた。彼女の経歴を鑑みれば、それとて別に可笑しな話ではないことに思い当たる。

 神逆無月はこの長崎市界隈で非公式に営業している闇医者だった。医師免許も持っていなければ営業許可証もない。が、その卓越した医療技術と知識から(というよりもむしろ、異常なほどの治癒能力を誇るその異質性から)、彼女の顧客は公的機関にも多く存在する。

 彼女と知り合った数年前、その事実を知った十四郎はただただ、

(まるでブラックジャックじゃないか……)

 などと思ったりもしたが、それは当然秘密である。

「傷がふさがるまではもうしばらくかかるが、ま、激しい運動をしなければそれも問題はないだろう」

 退院のお墨付きをもらって、十四郎は安堵と焦燥が入り混じったような顔をした。

「……今日、何日だ?」

「十日だ。お前が運ばれたのが七日の深夜だから、丸二日は眠っていたことになるか」

「そんなに?」

「あの傷であの出血量だ。いくら私でも失った血の補充には限界がある。輸血はしたし傷もふさいだが、もとより全治何ヶ月レベルの重体だぞ? 二日で意識を回復して、かつ動けるようになっただけでも感謝してほしいね」

 まったくもって正論を言う無月に、十四郎は何も反論できなかった。と、彼女が無造作に左手をこちらに差し出す。握手……ではない。掌は上に向いていた。

「?」

 目線で問いかける。彼女はこれ以上ないくらいきっぱりと、

「二億」

 金額を提示した。

「…………」

 言いたいことは、これ以上ないくらい適切に理解できた。そして同時に、内心無月に感謝していた自分を恥じた。ああ、確かにこいつは現代版、女ブラックジャックだ。

 額に浮かぶ汗を無視して、十四郎は唸った。今は彼女に払えるものが何もない。持ち合わせどころか小切手さえ持っていない。

「今は無理だ。後払いでいいか?」

「支払いが一日遅れるごとに一割り増しになるぞ?」

 とんでもない金額の上乗せに、一瞬声が出なかった。

「…………き、期限は?」

「今日」

「な、なんとかする」

 それきり会話を打ち切って、十四郎は傍にあった衣服を身につけた。といっても無月の用意してくれたシロモノである。サイズは多少小さめだったが、文句はなかった。銃で撃たれて穴の開いた、かつ血だらけのものを着るより遥かにましである。

「今日中にまた連絡する」

 そのやりとりは、いつも通りといえばその通りだった。

 無月は傷を負った理由を聞いてこない。彼女が理由あり患者専門ということからすればそれは不思議でもなかったが、診療所を出る前、彼女は不意に十四郎を引き止めてきた。

「そういえば、ここにお前を連れてきた少年だが……」

 初耳である。聞かなかったこちらが悪いのだが、無月はむしろ、それをわざと隠していた風だった。

「あの後、気になって身元を調べてみたんだ。この近く、千間坂通りのサフランって洋食屋の次男坊でな」

「無月?」

 彼女は薄く笑っていた。ただそれだけで、ぞっとするほど妖艶な空気が生まれる。事実をその色気で巧妙に隠しながら、彼女は近くのベッドに足を組んで座った。

「二日前の朝──お前がここに運ばれた翌日だな。その……ちょうど今くらいの時間から、幼馴染の少女ともに行方が知れないそうだ」

 こちらの反応を楽しんでいるかのように、無月は笑う。彼女は言外に聞いていた。

 

 さぁ、どう後始末する? 

 

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