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 落ち着いてみればわかったかもしれない。

 少女は泣いているのかうつむき、少年は精一杯に気勢を張っているように見えた。その彼らに近寄って、十四郎は出来る限り愛想のいい表情を浮かべた。笑いはしなかった。こちらは加害者で、彼らは被害者である。それが失礼だということは百も承知だった。

 縛られていた手足についた縄の跡以外、五体満足の彼らに安堵して見せると、少年、槙原耕介がそっとため息を吐いた。

「すまなかった。それから……あの時は助けてくれてありがとう」

「…………」

 彼は応えなかった。じっと、何かに我慢しているように口をふさぎ、ゆっくりとこちらに近づいてくる。十四郎は、謝罪のつもりで頭を下げようとした。それを耕介が手で制してくる。許してくれるものだと判断して笑いを浮かべると、彼の、聞いていた年の割には大きな体躯が不意に沈んだ。と──

「ん?」

 疑問に思った瞬間、十四郎の視界は激痛とともに反転していた。

「おお〜〜っ!」

 耕介の渾身の力をこめたアッパーカットに、陸王の感嘆の声が上がる。拍手まで聞こえたかのような錯覚を起こしながら、十四郎は宙を舞い、派手に地面に激突した。頭をかばえたのは軌跡としか言いようがなかった。

 後で陸王から聞いた限りでは、軽々と数メートルほど宙をきりもみ回転しながら舞ったという話である。だがこのときの十四郎は、ただ脳みそがシェイクされているような最悪の気分で、己の状況を見返せる余裕はなかった。

 思い切り顎にクリーンヒットしたせいで、三半規管はあっさりと麻痺していた。立ち上がる気力さえなく、地面を這いつくばりながらどうにか顔を上げ、歪む視界をそのまま疑問の色に染めて前方を見る。憤然とした様子で腕を組んでいる少年に、十四郎は震える声で尋ねた。

「……な、何故?」

「何故と聞くか!」

 彼の怒声は、ふらつく頭に痛く響いた。

「元はといえば全部アンタが元凶のクセに、さっき俺たちを見捨てたのはどこの誰だ!」

「ああ、そりゃ怒られてもしょうがないよな」

「……いや、だからっていきなりアッパーっていうのは……」

「今すぐトドメさしてやろうか?」

「つ、謹んで遠慮します……」

 考えてみれば、確かに彼の怒りは至極当然のものだった。その矛先が自分だけに向けられるのは多少なりとも勘弁願いたかったが、彼の被った精神的な被害を考えれば、それで気が済むのなら一発程度我慢したってかまわない。

「アッパー一発で済んだだけありがたいと思え!」

 納得したわけではなかったが、十四郎は無言で頷いた。

(なんだかちょっと理不尽な気がしないでもないけど……)

 さすがにそれを口に出すほど彼は馬鹿でもない。

「……んじゃ、次はあたしね」

 耕介が満足したのを見受けてから、隣でうつむいていた少女──千堂真由が物凄くうれしそうな笑みを浮かべて顔を上げた。そこで初めて、十四郎は己の見識が間違っていたことに気づいた。彼女は泣いていたのではない。震えていたのだ。怒りと、これから執行する復讐の喜びに。

 まずい──危険信号が灯った。身体は動かない。少女は不適に笑っている。

「フフフ。さぁてと……」

 動きの鈍い、というかもう完全に麻痺して座ることさえ出来ない十四郎の身体を動かすと、彼女はコートや衣類のポケットを探り始めた。

「!?」

 まさかという疑念が胸中に飛来する。そして案の定、彼女が探し当てたのはこの事件が起こる根本ともなったもの、名鳥家のスーパーコンピューターへアクセスするためのパーソナルキーだった。カードサイズに設計されたそれは、それ自体にも莫大な情報が収められた精密機械──電子端末である。

「な、何をする!?」

「フフン。いいの? そんなこと言って」

 不適に笑う少女は、キーを手に堤防のほうに近づいていった。そちらに集中しすぎていたせいで、真由のもう片方の手にあるものに気づくのが遅れた。

「ちょ、ちょっと待て。君は一体何する気だ?」

 彼女の手には、十四郎が投げ捨てたはずの拳銃が収まっていた。小型化された軍用拳銃は少女の手でも持つのに不自由はなかったのだろう。さして苦もなくそれをちらつかせながら、海に落ちるかどうかぎりぎりの場所でこちらに振り返ると、真由はパーソナルキーを持つ手を海のほうへと差し出した。事の成り行きを見守っていた耕介や陸王までもが、彼女の意図したことを理解できずに目を丸くする。

「さぁて、どうしようかしら。こんなものがあるから事件が起こるのよねー」

 慌てたのはそのパーソナルキーの重要性を理解している十四郎である。それを失ったら何のための戦いだったのか。本末転倒も良いところだ。

「いや、待てっ! 待てって! それはまずい。巻き込んだことへの謝罪ならするから、それだけはやめろ!」

「や・め・ろ?」

「やめてくださいお願いします」

 すぐさま丁寧語に言い換えて、十四郎は頭を下げた。

「ま、態度によるわよね」

「……っていうか、さすがに陰険過ぎるだろ、それは」

 幼馴染の言動に呆れたように嘆息する耕介にも、だが真由は非情だった。その銃口がゆっくりと耕介と陸王に向けられる。

 …………

『へ?』

 が、二人の声が響くことはなかった。代わりに銃声が二発。その場の全ての音をかき消して、空を切り裂きながら耕介と陸王の耳元を飛翔する。

 やがて世界に音が復活した頃、彼女は小さく鼻で笑った。

「あ、結構面白かも、拳銃って♪」

 ぼかんと、三者同じ顔で硬直する。一瞬後、再び引き金を引きかける音にハッとなって、彼らは即座にその場を飛びのいた。が──

「あら、ゴキブリみたいね」

 正確には、十四郎はまだアッパーのダメージで動けなかったので、その場でうごめくしか出来なかっただけである。彼は地面を這いつくばりながら、逃げた二人に恨みのこもった視線を向けた。

 どちらにしても逃げられない。それは彼女も察したらしい。動きの鈍い自分よりも、ちょこまか動く自由な二人に焦点を当てたようだった。

 ドラム缶や鉄柱の陰に隠れる彼らの挙動を、不思議そうに首をかしげて見やる。

「あれ? 何で逃げるの? 逃げたら当たらないじゃない」

「何でと聞くか! 逃げるに決まってるだろ!」

 至極当然の反論にも、真由は動じた様子を見せずに無邪気に笑った。

「どうして?」

「死ぬだろ! ごく普通に!」

「大丈夫よ」

 からからと笑いながら、軽い口調で彼女は言い切った。

「一発では殺さないから」

「何が大丈夫なんだぁぁぁぁっ!」

 が、耕介の叫びも発砲によってかき消される。弾は鉄骨に当たって跳ね返り、彼の頬ぎりぎりをかすめとんだ。その頬から一筋の血が流れ落ちるのを見て、ぞっと血の気が引く。

 真由が耕介に意識を向けるその間に、何とかほふく前進で身が隠せる場所まで進んだところで、ようやく気づいたらしいその銃口がゆっくりとこちらに向いた。

 と、その間隙を縫って陸王が動く。

「動いたらこのパーソナルキーは海の藻屑よ」

「くっ!」

 だがそう言われては立ち止まるしかない。その隙をついて発射された弾丸が、怯んだ陸王の眉間を狙った。至近距離での銃撃が彼を襲う。

「うぉっ!」

 それをぎりぎり躱せたのは、陸王だからこそ出来た芸当だろう。慌てて元の位置に戻った彼は、己の無事と少女の凶行に声を震わせて抗議した。

「殺す気か!」

「うん♪」

 その言動に改めて得体の知れない恐怖を感じて、十四郎は慄いた。

「あ、あの子は一体どこで銃の扱い方を習ったんだ?」

「っていうか、いくら軽くて持ちやすいからって、普通の女子中学生が簡単に扱えるモンじゃねぇだろ、拳銃なんて。何であんなに正確無比な射撃が出来るんだ!」

 大人二人の疑問に、一番真由と付き合いの深い耕介がどこか冷めた目で呟いた。

「なんとなく……なんとか出来たんじゃないかな。その場のノリとか気分とかで」

『ンなアホな!』

 理不尽さに声をそろえて突っ込むと、それはささやきを超えて怒声になっていたらしい。機嫌を悪くした真由が再度銃弾で彼らの会話を遮った。その全てが、ぎりぎりで三人の脇をすり抜けていく。とても素人とは思えない芸当に、三人は蒼白になった。

「さっきから何をひそひそ話してるの?」

「いや……」

 喉に詰まる。

「君は一体何を考えてるんだろうって……」

「あたし? ムフフフフフ……」

 疑問をそのまま口にすると、ニヤニヤと思い切り相好を崩しながら、真由は次弾を装填した。予備の弾まで奪われたのは痛手と言うしかない。

「何を考えてるんだか、当ててごらん?」

「え?」

 質問を質問で返されて、十四郎は思わず目線で残り二人に問いかけた。

「まぁ多分……」

 耕介が違う意味で首を振り、諦めのこもった息を吐く。

「もう『自分がどれだけ気持ちよく鬱憤を晴らせるか』しか考えてないんじゃないかな」

「ついでで誘拐された女の子の恨みは怖いわよ〜〜?」

 正解だったらしい。喉の奥を突くような笑い声は、実に楽しそうだった。

「だからアンタたちは、罪を償う必要があるの。だって悪いのはそっちでしょ?」

「だったら何で俺に銃を向ける!」

 耕介の言葉に十四郎も賛同した。

「誘拐犯はそこの金髪だ。思う存分やってくれ」

「ちょ、ちょっと待て。お前らそこで裏切るのは卑怯だぞ!」

「関係ないわよ」

 醜く責任を押し付け合い始めた耕介たちを、真由がからっとした声でさえぎった。

「……な、何故?」

「だって関係ないもの。そうでしょ? 身勝手な男たちのせいで乙女のハートが傷つけられたの。その代価に銃弾の一発や二発や三発や全部、喰らってくれたっていいじゃない」

 彼女の持つ拳銃はフルで全十五発。

「軽く死ねるわ!」

「フフフフフ……」

 そのツッコミを、もはや狂気としか呼べない笑い声が応答する。

「今、すっごくいい気持ちよ。引き金を引くたびに胸がドキドキするんだもの

 熱い吐息を込めた声は、少女らしからぬ艶っぽさを含んでいた。その鼓動を愛でるように胸にそっと手をやって、目を潤ませながら彼女は呟いた。

「もしかして、これが恋?」

『絶対違う絶対!』

 三者同時に全力で否定する。そんな感情を認めるわけにはいかなかった。

「フッ。まぁいいわ。失恋は女を磨くものだから」

「いいのか? っていうか、なんだかさっきから会話が通じてない気がするんだが……」

 呻く声も届かない。横目で見ると、陸王と耕介が諦めたような表情で小さく首を振っていた。

「フフ。そんなこと言ってごまかそうとしても無駄よ。あたしは忘れない。無神経な男たちに弄ばれた日々を」

 拳を握り締め、高らかと掲げて宣言する。話が段々ずれて行っていることに気がついているのかいないのか、真由の表情には光悦さが入り混じっていた。

「その傍若無尽な振る舞いに、女がいつまでも従順でいると思ったら大間違いよ。いつの日か必ず駆逐される日が来るわ。そう──これはその序章。今こそ男たちに逆襲する時。女が世界を支配するのよ!」

「テロリストの台詞だぞ、それは!」

「テロには屈しないわ!」

「君のことだ、君の!」

「えぇっ!? そんなひどいこと言われたら泣いちゃうじゃない! だってあたし、女の子だもん

『うっわ、すっげー殺してぇ!!』

 涙をためて泣き崩れる(真似をする)少女の言動に、男性陣はそろって殺意を込めて呻いた。

「さぁ、覚悟しなさい! アンタたちの屈辱に歪んだ顔こそがあたしの喜び!」

「根性腐ってんのか、お前は!」

 耕介の罵声に銃声が応える。

「黙りなさい! やっぱり耕も同じなのね。みんながそう言って否定するの。結局、あたしのことなんて誰もわかってくれないのよ!」

 わかりたくないというのが本音である。むしろ皆の意見はとてつもなく正しい。

「ずっと独りで耐えてきた苦しみが、アンタたちなんかにわかるはずないわ!」

「それはまぁ、ちょっとくらいは気の毒な気もするけど……」

「同情できないのは正しい反応だよな?」

 陸王と顔を見合わせて頷きあう。耕介が声を荒げて言及した。

「だからって拳銃突きつけて、己の陵辱願望を他人に理解しろっていうのは無理がありすぎだろ!」

「耕はあれだけ苛めてあげたのにまだ逆らうのね」

「当たり前だぁぁぁぁっ!」

 叫ばずにはいられなかったらしい少年のほうに心の底から同情を覚えて、十四郎と陸王は影で涙した。

 一方の彼女は、耕介の言葉が届いたのか否か、小さく首を振った。もう何もかも諦めてしまったかのように──そして不意に吹っ切れた表情で笑って、銃を構えなおす。

「結局、あたしのことをわかってくれる人はいなかった。あたしの味方になってくれる人はいなかった。この誘拐騒ぎで思ったの。あたしは独り。どこまでも独り。だから──」

 何か、胸に秘めた決意のようなものを声に溜め込んで、彼女は一気に吐き出した。

「だからあたしの気晴らしのために、あんたたちには死んでもらうわ。いいわね?」

『いいわけあるかぁぁっ!』

 男三人の悲痛な、かつ当たり前の叫びすら無視して、真由が光悦とした表情で天を仰ぐ。支離滅裂な言動とそれに伴って発せられる銃声が十四郎たちの叫びをかき消した。

「その快感に酔いしれながら、そしてあたしは天使になるの……」

「もうどうでもいいから、誰かあいつを止めてくれ……」

 耕介の小さな呟き──その切な願いに応えたのは真由でもなければ陸王でもなかった。もちろん十四郎自身でもない。ただ一鳴き。小さく何かが呼応する。耳に届いたのはガラスを引っかくような音に似ていた。

 やがて──

 

 それはやってきた。

 

 全員が目を見張った。可笑しな光景だった。目の前で起こっていることが信じられなかった。危険だとわかっていながらもその光景を見つめる。それはある種、人をひきつけるオーラを放っていた。

「デコトラ?」

 誰かが呟いた。そう──それは確かにデコレーション−トラックと呼ばれる、弩派手にトラックを装飾したものだった。

 破壊音を奏で、派手に光り輝きながら、『デコトラ』が工場跡地内に突っ込んでくる。ブレーキを踏む様子さえ見せないその巨体に、さすがに全員が度肝を抜かれた。それがいけなかった。そのたった数秒。驚愕に身体が止まった隙に、トラックはこちらとの間をつめていた。フェンスを突き破り、廃棄されていた鉄骨を跳ね除け、倒れたままの敵数人を容赦なく轢きながら、けたたましいブレーキの悲鳴を上げてトラックが十四郎たちを轢き殺す寸前で止まる。

「こ、殺す気か……?」

 暗殺を生業としている陸王でさえ、青ざめた顔でトラックの運転席を睨み付けた。

 と──

 ガチャリと、それに応えるように運転席から人が降りてきた。

 滅茶苦茶な運転をしでかした張本人は、どこにでもいそうな年の頃四十代の小柄な女性である。少し茶色がかった髪。小さな顔つき。幼い頃はさぞ可愛らしかっただろう事を思わせる、だが今は年配特有の魅力を備えたその彼女は、派手に飾り付けられたトラックには似合わないコックの姿で地に足をつけ、

「お、お袋?」

「…………」

 その耕介の呼びかけに応える様子もなく、周囲をじっくりと見渡した。

「……お、お母さん? 君の?」

 驚きに身を震わせながら、指差すつもりで、だが結局失敗しつつも十四郎は耕介に聞いた。身体が固まって上手く動かなかったからである。驚愕したのは陸王も同じのようで、だがしかし、彼女を知っている風の少年少女は何故か顔を青くしていた。

 何故ここに、何故デコトラで突っ込んできたのかという疑問は晴れないまま、しばしの沈黙が彼らを支配する。

 それを聞こうにも、その場の空気が拒否しているように思えた。先ほどまであれほど狂気に走っていた真由でさえ、硬直して動かない。だが改めて見ても、耕介の母親らしい子の女性自身に、特に恐ろしさを感じさせるような殺気があるわけでもない。

 一通りその場にいた四人を見た後、彼女は小声で問いを投げた。

「──で? 誰が責任者?」

 その声は、聞く限りはとても穏やかだった。優しさとおおらかさ。母性の強さを感じさせる女の声。だが相変わらず青ざめたまま、耕介と真由が顔を見合わせ、陸王とそろえてすうっとこちらに指を向けた。

『こいつ』

「って、ちょっと待て! もともとは俺じゃないだろう! 敵は──」

 トラックに轢かれて瀕死状態である。早く助けないとまずいのだろうが、誰も何も言わなかった。

 再び気まずい沈黙が流れる。なおも言い訳をしようと試みようとしたところを、

「だけど関係者だろ? お前」と陸王にさえぎられる。

「ってことは、やっぱりアンタのせいじゃないか」肩をすくめて耕介。

「他人巻き込んでおいて責任逃れしないでよね。いいからしっかり罪を償いなさい」最後に嘲笑うように手を振って真由が言う。

 それらを受けて、コックの女性がゆっくりと

「そう。アンタなの」

 にっこりと微笑んだ。

「あ、いや……」

 反応に困る。事実は事実。十四郎に全ての責任があるわけではないが、彼の一族が引き起こした事件であるのは変えようもない現実だった。だが事件を解決したのも十四郎である。そのはずなのだ。だというのに、どうしてこんな展開になっているのだろう。なんだかとてつもなく割に合ってない気がする。

「違うの?」

「えっと……」

「どうなの?」

 ずいっと、一歩、彼女がこちらに近寄る。顔はこちらに向いたまま、彼女は何気なく、右手を真由のほうに差し出した。掌を上にして。

 それの意図するところを察した真由が、持っていた拳銃を女性に手渡す。そのまま流れる動作で彼女はゆっくりとその引き金に指を置き、銃口を十四郎の眼前に置いた。

「……もう一度だけ聞くわ。違うの?」

 カチャリと金属音が鳴る。

 己の変わり身を心の底から褒めながら、十四郎は両手を挙げた。駄目だ。この人には逆らってはならない。真由どころのレベルではないことを、十四郎は本能で察した。戦えば勝てるかもしれないが、だがそのとき、パーソナルキーは無事ではすまないだろう。それは自分ではなく名鳥にとっての損失だった。

「そうです。わたしが全ての元凶です」

 不思議と涙は流れなかった。漠然とした諦めだけが胸中を支配する。たった一言で、十四郎は自分が地獄へ足を踏み入れたような気がした。パーソナルキーだけはとにかく守り通せればいいわけだからと自らに言い聞かせて、女性に促されるままにトラックに乗り込む。が、運転手であるはずの彼女は運転席に乗る気配を見せず、ドアを閉めて外から鍵をかけると、笑顔で頷いて懐から小さな箱を取り出した。

 それは掌に治まる程度の黒い直方体だった。その一面に生えている細いラジコンのアンテナのような棒を指先で引き伸ばす。

「ラジコン?」

 自分で思いついた考えに、十四郎はぞっとして身を震わせた。ふと外で成り行きを見守っている三人が、悲しそうにハンカチを目に当てている。暑くもないのに窓は全開。そしていつの間にやら全員がトラックの進行方向から外れているのを見て、彼はさすがに何をしようとしているのか察してしまった。

「それじゃ、バイバイ♪」

 トラックは海のほうを向いていた。自動的にサイドブレーキが外れ、アクセルが起動し、車体は静かに走り出す。

「って、おい!」

 叫ぶ。が、返事はなかった。

「嘘だろう!? ちょっと待て! さすがに洒落になってないって!」

 どこまでも、聞こえてくるのは高鳴るエンジンの音と、加速して風を切る音。身体をシートに固定されているので逃げることも出来ない。

「おい! こら! 止めろ! いや、止めて! お願いします止めてください! おーい!」

 最後の叫びが車内にこだましたときには、トラックは宙を舞っていた。そのまま即座に重力に轢かれて落下する。

「だからちょっとまブクブクブクブク……」

 流れ込んでくる海水が必死の叫びを虚しくかき消していく。だがそれでも彼は叫び続けた。声にならない声で。

 どこまでも。

 ブクブクと。

 

 

 助け出されたその後、事件の発端ともなったパーソナルキーがどうなったかは、名鳥家の歴史書にも記述にはない。その前後に数十億にも上る金額が名鳥家から引き落とされたことだけが確認できるが、それを実行した人間も匿名であり、記述はなかった。

 だが当時を知る者は云う。

 

 槙原家に喧嘩を売るべからず

 

 そうしてその日、名鳥家に小さな教訓が生まれた。

 

 

  破壊の序章    完

 

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