『HELL&HEAVEN』
銀の悪魔
1
その日の夜は蒸し暑かった。
だからというわけでもないが。
息を荒げる。意識して、自覚できたのは自分が走っているということだけだった。
裏路地を走る。人一人がどうにか歩ける程度の幅の道。ほかに人影はない。所々に放置された電化製品やら生ゴミの袋やらが、嫌味たらしく行く手を妨害していた。それを蹴散らして、走る。
路地は一本道ではなかった。だからといって選択したわけでもない。ただ本能の赴くままに走る。右へ。まっすぐ。右へ。右へ。左へ。まっすぐ。
また右へ。
どこまで行っても景色は変わらなかった。コンクリートの壁に囲まれた空間に眩暈を感じたちょうどそのとき、目の前に完全な壁を見た。
(行き止まり──っ!)
毒づく。どうしようかと迷う。だが決断などできなかった。目の前の壁は乗り越えられるようなレベルの高さではない。後ろには帰れない。今来た道を戻るわけには行かない。
足を止める。
壁に手を着くと、影に冷やされた鉄が彼を迎えた。
火照った身体に、鉄の冷たさは心地よかった。だがそれとは対照的に、動悸は高鳴っていく。ドクドクと。
「ハァ……ハァ……」
呼吸を整えようと何度か深呼吸するが、それも無駄に終わりそうだった。
と、何の前触れもなく、
がんっ!
という衝撃が、目の奥に走りぬける。
その一瞬後に訪れたのは、なんともあいまいな浮遊感だった。浮いていると感じることが出来るくらいには意識を保ちつつ、その原因が脳の中が揺れているせいだと、いくばくか残っていた理性が分析し、そして結果を告げてくる。最悪の事実。血、痛み、怪我。それら嫌なものが、総じて今自分の身に起こっているのだ。
地面に倒れこむ衝撃が、皮肉にも彼の意識を現実に引き戻した。転がる身体に止まれと念じ、そして何とか成功する。傷ついた箇所を確認しなければならない。できるなら、手当ても。しかし最重要事項は、ここから逃げることだ。
(だがどうやって!)
顔だけ起こすと、そこには長身、長髪、黒いコートに身を包んだ男がいた。そう思えたのは、暗闇のせいで姿さえ溶け込んで、どうにか輪郭が見える程度だったからだ。だがその体躯からして、影が男であるのは間違いなかった。
最も、それがわかったところで状況は進展も好転もしない。
わずかに身じろぎして、彼は身体を起こした。痛みもしびれも──実際に、先程打たれた場所がどこなのかも分からないほどの痛みがあったが、それら全てを無視して立ち上がる。
無言で男を睨み続けること約数秒。男の唇が、緩やかに歪むのを、彼は確かに目にした。そして直感する。男は今、明らかに楽しんでいる。笑っている。
(何がおかしい!)
叫びは声となって響きはしなかった。状況の理解。後ろは壁、前は男。そしてこの男は、知り合いではない。ましてや、味方でもない。
男は無言のままだった。ただ唇を歪め、どこか嘲るように笑っている。無言のまま、声も出さずに笑っている。
「何を……笑っている」
今度は声になった。男がすっと、音もなくこちらに近づいて、だがしばらくしてまた止まった。そういえば、先程衝撃を加えたはずの男は、何故これ以上逃げることの出来ないはずの自分から、一端遠ざかったのだろうか。
その思考をさえぎるかのように、男の声がした。風邪を引いたような、しわがれた声だった。
「観察だ」
「何?」
「お前が死ぬところを観察していた」
意味を把握することができずに、彼は沈黙した。男が何を言っているのか、全く理解できなかった。
「さっきの一撃で、お前は死ぬはずだった。それを観察していた。だが死ななかった。だから面白い」
「何を言って……」
男は笑った。今度は声を上げて。
「いや、すまない。死ななかったのではない。まだ死んでいないだけだ。故に私はもう何もしない。観察を続ける」
「貴様は──」
誰だ、と言おうとして、しかし彼はそれを言葉にすることが出来なかった。無視したはずの痛みが、全身にわたって再発した。
(何が……)
起こったのか。それはもう自明の理だった。気づかないうちに、世界が変色していた。地面が赤い。自分が赤い。何もかもが赤い。
赤。赤。赤。全てが赤。
(血?)
出血している。それもかなりの量を。なるほど、さきほどから男が笑っていたのは、もう手を下さなくもこちらが勝手に出血死することが分かっていたからだ。だから男は遠のいた。今もまた、血の海から一歩だけ──本当に、測ったように一歩だけ後ろの位置で、こちらの様子を眺めている。おかしそうに、声を出さずに笑う。
「むぅ。死ぬということを理解するまでに約一分十二秒。これは賢いと見るべきか、愚かと判断するべきか。どちらだと思う? 私の見解は一つ。死を理解するのは、遅ければ遅いほどいい。何故なら──」
(何故なら?)
目線だけで問いかけたつもりだった。もはや彼には、声を出す余力はなかった。いつ地面に突っ伏したのかもわからなかった。顔を上げて、男を見上げても無駄だった。死を理解した自分。死ぬ間際には、これまでの人生が走馬灯となって見えるというが、そんなことはなかった。その代わり、男の手に銀色に装飾された洋風の剣を見た。
男が口を開く。
「何故なら、そのほうがより楽しめるからだ」
(悪魔め──っ!)
その呟きを最後に、彼は意識を失った。
二度と開かれることのない瞳孔を男に向けて。
◇
入院費用というものの相場がいくらなのか。
この議題について言えることは、入院してみないと分からない、である。言われてみればそれもその通りだと、槙原耕介は納得した。
身長百八十弱の長身の少年。顔が童顔であることを除けば、身体つきも風格も、まさか彼が中学生であるとは思えないだろう程、形容し難い体格を有する十四歳の少年は、普段着慣れたジーンズの上着を脱いで、腕から太い管を通していた。
「何度やっても、この点滴っていうのは慣れないよなぁ」
言って、自分の腕から伸びる管、その先にある黄緑色の液体が入ったパックを目線で負って、耕介はぼやいた。
「暇だし」
付け加える。
「退屈だし」
さらに愚痴る。
「毒入れられても分からないし」
「本当に毒を入れられたくなければ、今すぐ黙ったほうが身のためだ。槙原耕介」
あまりにも冷たすぎる反応を返されて、耕介はむっとして声のしたほうを向いた。この狭い診療所唯一のデスク。椅子に腰掛け、コーヒー片手に新聞を広げているのは、この神逆診療所の主、神逆無月だった。
年の頃は二十歳前後。パーマのかかった黒髪をオールバックにして後ろで止めているせいか、実際年齢よりも老けて見える(無論、そんなことを間違ってでも口にしたら、一瞬で頚動脈にメスを入れられて死に至るだろうが)。年齢に見合わないその容姿に比例してか、彼女の医師としての腕前もまた類に見ない優秀さを誇っていた。少なくとも、友人の医学生は、彼女のことをそう評価している。
最も、医学的知識を持たない耕介にとっては、医者の優秀さがどのあたりで決まるのか分かるはずもなかった。だがはっきりしていることが二つある。一つは彼女、神逆無月が医師免許を持たない医者、俗に言う闇医者であるということ。そしてもう一つは、治すことにかけては間違いなく一流だということだ。
切れ長の瞳に化粧気のない顔。普段かけていないはずの眼鏡をかけて、無月は新聞から目を離すことなく耕介に意識を移していた。
「だって退屈ですし」
自分の言葉遣いに妙な違和感を覚えながら、耕介は言った。ふと、無月が反応する前に付け加える。パックを目線で指しながら、
「まさか、これ毒入りじゃないですよね?」
「毒入りだ」
「え゛!?」
「ウソだったらよかったのにな?」
「ってことは本当?」
「残念ながらウソだ」
「へ?」
「ウソだぴょーんっとか私が言ったら、何故かみんなが驚くんだ。何故だ?」
「キャラクターに合わないからです」
きっぱりと、だがすこしばかり頭の中を混乱させながら、耕介は呻いた。点滴の針が刺さっているため、動いてはいけないと注意されたのが数十分前。腕に感じる違和感は、太い注射針によるものだった。
「んで、結局何がどうなってんです?」
であるから、声だけで抗議をするしかないのである。が、それもまた彼女の一声で一蹴された。
「だから騒ぐなと言っている。黙れ。消すぞ」
「…………すみません」
原因はそっちじゃないか、とも言えず、再び場が静まり返った。が、やはりどうも点滴でベッドに寝そべったまま何もせず、何も出来ず、かといって眠くもないこの状況で天井を見上げ続けていることなど、耕介には無理だった。
「えーと……無月さん?」
「何だ?」
黙れと言ったわりには、無月は普通に反応を示した。テノールの声が、やや穏やかになる。とりあえず、騒ぎさえしなければいいらしい。ほっと一息胸をなでおろしながら、耕介は先を続けた。
「結局、俺の怪我の具合ってどうなんです?」
「あと十数分で点滴も終わる。そうすれば左腕の骨折も修正が完了するから、それで晴れて完治だ」
「……はぁ……」
聞いておきながら、耕介は曖昧な返事しか出来なかった。と、そこで初めて無月の視線が新聞から離れた。
「どうした?」
「いえ、何度治療してもらっても、骨折が数十分で完治するというのは慣れないもんで」
「慣れろ」
無月の反応は、やはりにべもない。と、何を思ったのか、かけていた黒ぶちの眼鏡をはずして、彼女は席を立った。
「暇か?」
「暇です」
その通りだったので、即答しておく。
「退屈か?」
「退屈です」
「よし、なら解消してやろう」
「へ?」
まさか本当に毒注入? と思う間もなく、顔面に何かを叩きつけられて、耕介は目を閉じた。動かせるほうの手──右腕でそれをもぎ取ると、何のことはない、彼女が先程まで読んでいた新聞だった。発売が来週の日付になっているが、報じているのはつい先日までのことらしい。
「そこの記事だ。読んで見ろ」
「えーと……」
言われるとおり、耕介は紙面に目を走らせた。記事は『銀の悪魔の再来か!』という見出しで始まっていた。いや、よく見ると一面がそれを仕切っていた。
「先日午後九時頃、長崎市友誼町商店街の裏路地で惨殺体が放棄されているのを、商店街の喫茶店の女性店員が発見、県警長崎署に通報した。被害者は身元不明、年齢不詳の青年で、現在も警察が身元割り出しを行っている。死因は出血死。背中に大きく切られた痕があるとのこと。県警捜査一課は、殺人、ならびに死体遺棄事件と見て同署に捜査本部を設置した。血液が銀色に変色反応を起こしていることなどから、七年前に起こった同様の札事件との関連性を調べている……無月さん、これって……」
「読んで字のごとく」
殺人事件にもかかわらず、彼女の反応はさっぱりとしたものだった。
「友誼町って言ったら、ウチの二つ隣の町じゃないですか」
「ああ、確か槙原の家は千間坂通りの方だっけ?」
「神尾公園の隣です」
「そうすると確かに近所だが……ま、心配するな」
妙に自信を持って言う無月に疑問を感じて、耕介は首をひねった。
「何か知ってるんですか? 犯人のこととか?」
「何故そう思う?」
「いえ、なんとなく」
素直にそういうと、実に珍しく無月は微笑んで見せた。こうしてみると、確かに彼女は美人なのだ。その男のような口調と態度と声で騙されがちだが、ちょっとした部分で見せる大人の女性の魅力は耕介もよく知っていた。耕介よりも六つ、七つは年上のはずだ。その底知れぬ魅力を知っているから、彼女に対しては珍しく丁寧語になってしまう。
「まぁ、当たらずも遠からず、といったところかな。知っているけど、知らない」
「?」
「つまり、犯人が誰なのか見当はついているが、それを実証はしていないということさ」
「…………」
「ここは驚くところだぞ? 槙原」
意地悪く、無月が笑った。いつのまにか、耕介が寝ているベッドの隅に腰掛けている。
「いえ。なんというか、一瞬反応に困りました。それで、どうして見当がついているのに何もしないんです?」
「私がそれをしなくてはならない義理も義務もないから」
あっさりと、何の思い入れもないように無月は続けた。
「私が予測し、推察できて、さらに犯行可能で、動機もある奴は記憶上二人いる。ところが、そのうちの一人は今後犯行を起こすことは二度とないだろうから、消去法でもう一人がピックアップされたわけだ」
「…………二人?」
聞きたいことが多すぎて、耕介は頭の中で随分と逡巡した。その中から一番気になったことを選出して聞いてみる。
「そう。二人。どっちもが死有現象依存障害にかかっている」
「死有現象?」
「仏教でいう、一つの生が経る四つの段階の一つだ。つまり、生命の出現する瞬間である生有、生存している状態である本有、死ぬ瞬間である死有、次の生を得るまでの状態である中有。死有現象とは人が死んでいく様子のこと。その依存症っていうのは、要は人が死ぬ様子を見ることに興奮を覚える症状のことだ」
「……異常者?」
「確かにその通りだが、それで済まされない部分も多々ある」
「え?」
こちらの感想を否定して、無月は腕を組んだ。まるでそこに何某かの重要な問題があるとでもいう風にうなずいて、後を続ける。
「そういう症状を持つ連中は、大抵幼い頃に“死”という事象に対して何らかの精神的外傷を負っているケースが多いからさ。いわゆるトラウマだな。身近な誰かが死ぬところを目の当たりしたり、外的要因から自身が自殺未遂したことがあったりと。そういった心の傷を持っているが故に死を、もしくはそれに近い体感を楽しむようになった人間は別に少なくない」
「……被害者なのか、加害者なのか、よくわかりませんね」
「無論、そういう欲求を抑えている間は被害者だ。だが行動に移せば、その時点で加害者でもある。そして一度でも加害者側に回れば、後は堕ちるだけだ。もう二度と、殺人で得られる快楽から逃げられない」
「だから依存症?」
「そう。私が殺人を犯さないと予測した一人は、その点で言えば奇跡的とも言える。一度依存してしまえば、逃げ出すのは難しい。酒や煙草が良い例だ。日常のちょっとした事から、人間は習慣を作り出す。それからはみ出せば違和感を抱くだろう? 誰でもそうだが、日頃から取り巻く環境に文句言いながらも、それが失われることを恐れるのはそれに依存している証拠だ。だからこそ、依存する対象の代替となるもの、もしくは精神的に満足できる他の方法を見出さない限り、そこからは絶対に抜け出せない」
「抜け出せたんですか?」
別段何の違和感もない、自然な流れでの問いだった。だが無月は答えず、じっと耕介を見たまま薄く微笑んだだけで、それもすぐに視線を時計へと向けた。時間を確認、耕介の腕からつながっている点滴パックを見やる。その視線につられて耕介も上を見ると、いつのまにかパックは空で、後は管に少量の液が残っているだけだった。
「抜け出せたんだろうな、きっと。私は精神医学は専門ではないから、当然断言は出来ないが、相談を受けた限りではそういう感じを受けた」
「まぁ、無月さんがそう言うならそうなんでしょうけど……」
それがどうして、心配するな、という確信に変わるのか、耕介は疑問だった。
「信じる者は救われる。ほい、点滴終了だ。退屈しのぎにはなっただろう?」
軽い口調で針をはずし、パックとまとめて脇に置く。針の傷跡を濡らした脱脂綿で軽く揉みほぐした後、無月は何を思ったのか自分の親指を傍にあった医療用カッターで傷つけ、浮かび出た血を耕介の針跡に押し付けた。と、小さく焼けるような音を立てて、穴が塞がっていく。針の穴が完全になくなったところで、無月は耕介の腕を叩いた。
「動かしてみろ」
言われたとおりに曲げて見る。もう一度伸ばして、再び曲げる。痛みも違和感もなかった。
「修正完了。お疲れ様。念のためにレントゲンでも取るか?」
「いいですよ。信頼してますから。それにしても、無月さんの『能力』っていつ見ても凄い」
「当たり前だ」
きっぱりと断言するその態度に苦笑しながら、耕介は続けた。
「凄いんだけど……」
「けど?」
「やっぱりいつ見ても不思議だ」
バイクから落ちて腕を骨折したのが、ほんの一時間前。そして現在、完全にくっついた骨の様子を確かめるように、腕を伸ばしたり曲げたり、まわしたりして感触を確かめる。
異常がないかというよりは、なんでこうなっているのか。その構造を確かめるように、しきりに腕を撫でしてみる。
その様子の何が可笑しかったのか、無月が笑いながら上着をよこしたのを受け取って、耕介は礼を言って診療所を出た。