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 槙原耕介が診療所を去った後、無月(なつき)は使い終わったばかりの点滴一式を手に取り、奥の段ボール箱に無造作に投げ入れた。

 医療用カッターについた自分の血痕をウェットティッシュで丁寧にふき取った後、それで傷つけた自分の傷跡を見やる。耕介の針穴同様、こちらも完全に跡形もなく消え去っていた。

「凄くて不思議な能力か……」

 耕介の言葉を思い出して、無月は先程まで患者がいたベッドに寝転んだ。不意な飛び込みで彼はやってきたが、本来今日は休診日だったのだ。白衣を着て仕事場にいたのは、これまでの患者のカルテを整理していたからに過ぎない。

 あの少年は運が良かったのだと、無月は思った。自分がたまたま休日に仕事に出ていたことも。そもそも自分という闇医者がこの裏界と呼ばれる地域に移り住んだことさえも。

 長崎県長崎市。この街にある最も危険度の高い地域であるここ『裏界』は、文字通り日本の裏事情が集合する領域の一つだった。表向きはただの団地と店の集合地区だが、実際は、マフィア、暴力団、無国籍人、無断入国者、人買い、麻薬売人、不良、その他もろもろ、ここに住む者は大概が公的機関に負い目を持っている連中だった。事件の被害者の身元がわからないのもうなずける。その被害者は、おそらく裏界の住人なのだろう。ここではそんなものを持たない連中は後を絶たないだろうからだ。

 警察さえここは不介入である。理由はたった一つだった。彼らにとっても、この『裏界』は必要なのだ。

 公的な医者免許を持っていないにもかかわらず、診療所を開業している自分もその一人ということを考えて見れば、自分が何も特異な存在でないことがよく分かる。

 ここでは“異質”が“普通”なのだ。

(それでも……)

 と、思わなくもない。

 自分の身体──傷跡がふさがった親指を見つめながら、無月は考えた。

 学術名──修正血漿体(ダウンド・ライト・プラズマ)

 血液の中に含まれるその成分が発見されたのは実に三十年ほど前のことだった。それを保有する者もまた千万分の一の確率といわれるほどの希少な成分で、そのことが原因でいまだ完全解明はされていない。

『修正血漿体』などと名づけられた理由は、ひとえにその血漿体の成分特性にあった。その血漿体を含んだ血液による修正現象──『修正』というのは俗称で、正確には構成分子の『再生』のことであるが──平たく言えば、血漿体は、血液に触れた存在を正常状態に戻す作用を持っている。

 無論、修正される対象はその物質が壊れている──異常状態であることが大前提であり、正常に存在する物に触れても何も起こらない。

 一時は細胞の自己修復力を増大させる成分と取られていたが、それでは鉱物を含めた無機物を修正できる理由にならず、現段階では未知な存在として一般公開すらされていないのが実情だった。

 所持者の割合も記録上のことで、実際にはもう少しいるだろうと、無月は考えている。

 その中には、血漿体を持っていることなど知らずに過ごす者もいれば、病院その他研究機関に悟られずに過ごす者もいるからだ。

 無月は後者だった。同じく血漿体所持者だった父親が研究所に被験者として隔離されてきたことから、そうなることを危惧した彼の機転で無月は研究機関に悟られずに済んだのだ。

 だからこそ、彼女自身もまたこの血漿体が何なのかを知っているわけではなかった。修正した物体に副作用があるかないかも、実は知らない。無責任といわれればそれまでだが、調べようがないのだから仕方ないというものだ。

 そしてまた、調べる気もなかった。

 唯一分かっていることといえば、この血漿体は修正する対象に対して、所持者それぞれで幾分か適応が存在することくらいだろうか。無月は怪我や病気など、人体に害を及ぼすようなものを修繕することには長けていたが、金属や植物を修正することはできない。ところが彼女の父親は、逆に金属の補修を得意としていた。

 どちらにしろ、修正させるには自分の身体を傷つけなくてはならない。耕介の言ったような、便利な能力では決してないのだ。

(ま、あの子の気楽さは、こっちも助けられてはいるんだけど)

 闇医者をしていた父が亡くなる(・・・・)と同時に、その技術を受け継いでいた無月は独立を果たした。そしていつの間にか長崎市まで流れ着いてしまったが、結果だけを見れば、それは決して不満があるわけでもない。

 裏界の実情はさておくとして、ここは確かに住み心地が良かった。

 とは言うものの、ここら一体を支配している暴走族連合『HELL&HEAVEN』の存在が生まれたことを聞いた二ヶ月前は、闇業界で生きてきた彼女とて我が目と耳を疑った。裏界に流れ着いて五年。こんなことが起こるとは全く予想もしていなかったからだ。

 それを束ねるのは、医大生の二十一歳。名鳥十四郎という無月と同年の青年だった。さらに言えば、その名鳥十四郎が、世界でも有数の財閥である名鳥グループの御曹司であると知ったときの驚きは今もまだ忘れていない。

(あいつが何故、不良チームのトップにいるのかは未だに疑問だが……)

 と──

 思考がほどよく煮詰まったところで、カランッと小さくドアベルが鳴って、一人の男が診療所に入ってきた。

 長身、長髪の美青年だった。普段はスーツ姿でいることが多い彼は、だが今日は半そでのTシャツにジーンズと、随分ラフな格好をしていた。今日が温かいからだろうが、正直、あまり似合っていなかった。

(噂をすれば何とやら、だな)

「今日は休診日だぞ、名鳥」

「珍しいな」

「ん?」

 こちらの問いには答えず、名鳥十四郎は軽く笑って見せた。

「無月がだらけたところを初めて見た」

「失礼な」

 愚痴りながら、身体を起こす。ポーカーフェイスが出来る自分をほめてやりたくなった。恥ずかしさを感じていることをおくびにも出さず、できる限りそっけなく、無月ははき捨てた。

「で、何をしにきた?」

 ため息をついてみせると、それを見かねたかのように、十四郎の眉がヘの字に曲がった。

「今日の新聞は見たか?」

「見た」

「殺人事件がおきた。友誼町だ」

「知っている」

「犯人が知りたい」

「それで?」

「犯人、知っているのだろう?」

「何故そう思った?」

 何故無月が犯人を知っているかについて、少なくとも十四郎は全く疑念を抱いてないようだった。自分がここに来たことに、絶対の自信を持った視線で、続ける。

「君は俺たちがここで『HELL&HEAVEN』を設立する前から裏界にいた。今まで何人もの患者を診てきたのだろう? 少なくともここの住人に関して言えば、俺よりもよっぽど人脈も情報も持っていると思ったのさ」

「そうか。で、それを知ってどうする?」

 こちらが否定しないことを、十四郎は自身の問いに対する肯定と受け取ったらしい。いや、それは実際その通りなのだが、無月は何だか面白くなかった。

「捕まえる」

 ごくありふれた、一般的な答えがその感情をより強くする。

「警察側から極秘裏に依頼が来た。被害者の傷口の血痕が銀に変化しているらしい。これはあきらかに『銀の剣(シルバー・ブレード)』によるものだ」

「もしあれの仕業だとしても、『銀の剣』の所有者はお前だろう? もう一本存在していたのか? ……それともお前が殺したのか?」

「盗まれた」

「阿呆」

 正直に感想を言うと、さすがに十四郎は傷ついたように目を伏せた。長く綺麗な漆黒の髪をかきむしりながら、説明する。

「俺の家の使用人に裏切り者がいた。そいつが俺の寝室から剣を盗んで──そしてこの犯行だ。正直、新聞を見たときは驚いたよ。七年前と同じだったから(・・・・・・・・・・・)

「その使用人は?」

「ああ……誰かはもう分かってる」

 苦々しく、十四郎は続ける。

「五年前にうちに就職した女だ。過去も含め、人間関係も徹底的に調べ上げたつもりだったが、穴があったらしい」

「なら、吐かせればいいだろう?」

 そう言うと、彼はさらに苦虫を噛み潰したような顔をした。言いにくそうに、目を瞑る。何を言い淀んでいるのか──だが無月にはある程度予測がついていた。

「自殺でもしたか?」

「……あ、あぁ。その通りだ。舌をかみ切って死んでたよ。復讐って言葉を書き残して」

「なんだ」

 呆れたように、無月はため息をついた。呆れたのは、その女が死んだことに対してではなかった。人が死ぬのは、別段珍しくもなんともない。

「結局、お前の自業自得なんじゃないか」

「…………」

 十四郎は応えなかった。その反応そのものが、肯定と納得を意味していた。

「では、違う質問をしよう。今度の殺人がお前のせい(・・・・・)だとして、お前はどう処理するつもりだ? 剣を奪い返し、男を殺すか?」

「……剣は返してもらう。男は警察に引き渡す」

 それが彼の内情なのだと、無月は反射的に理解した。彼と──正確に言うなら、名鳥家と警察の間で裏金が動いていることくらいは容易に想像がつく。彼は世界有数の財力を誇る名鳥財閥の御曹司だ。彼の所持品が盗まれ、殺人を犯したなどと言うことをメディアに知られるわけには行かない。その目的が、彼に対する復讐であったならばなおさらである。

 こちらを見つめる視線とは裏腹に、十四郎はどこか焦っているようにも見えた。そんな彼を尻目に、無月は『名鳥十四郎』に対する『復讐』という言葉と、自分の記憶にある患者を照らし合わせる。脳内検索は意外と早く終わった。行き着いた先にいたのは、神の長い、痩せこけた男だった。

「もう一つ質問だ。お前の過去について、槙原は何か知っているのか?」

「──っ!」

 今度こそ、十四郎は目を見開き、その瞳に驚きと後悔の色を見せた。憤りを感じていることくらいはその額に浮かぶ汗で見て取れたが、生憎と、無月は言及を弱める気はサラサラなかった。もう一度、今度は声を落として聞いてみる。

「知っているのか?」

「…………知らない。多分……知らないはずだ」

「あの子に話せ。そうすれば教えてやる」

 それが、無月の出した交換条件だった。

 十四郎が口を開く。それを無言で突っ返して、その時の会話はそれで終わった。納得の行かない顔で──だが犯人を見つけるための方法が他にないから、彼はここにきたのだろうその顔は、苦渋に歪みながらもやはり整ったものだった。何か言いたげな顔。だがこちらを説得するだけの言葉が出てこない顔。

 話すことは、もうなかった。

 

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