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 私立聖祥学園女子高等学校。

 彼が教師として勤める通称『聖祥女子』──世間が認識しているこの創立三十数年の私立校のイメージは、いわゆる『お嬢様学校』と言うものらしい。

 確かに、納得できる部分は多々存在する。

 敷地内を彼の身長の二倍近い高さ(ちなみに、彼の身長は百八十近くある)のレンガ壁が覆い、正門には警備員が休日問わず待機、その横には軽く二百台近くは停めることのできる駐車スペースが置かれている。校舎は三年に一度は改装しているためにいまだ新築のように真新しく、セキュリティから学生情報までコンピュータ管理しているため、システムに不便さを感じることなど滅多にない。

 父兄からの寄付金があるからこそできる芸当だろうと、教師陣を始めとする関係者は予想する。

 だが、不思議なことなのだろう、おそらく──ここに通う『お嬢様』連中はそのほとんどが(中身が)普通の娘で、どこにでもいるような少女たちだった。これといって突出した存在など見当たらないのもまた事実で、学生の枠にはまったいまどきの若者たちである。

 流行に敏感で恋愛関係に興味を示すといった、女子特有の喧騒さは他の学校と大して変わらない。生徒の七割が送り迎えで通学していることを除けば、の話だが。

 世間の厳しさを知らないという点においてはお嬢様なのだろうが、高校生にそれを求めるのも少し無理があるだろうし、それはなにも彼女らに限ったことではない。

 親の権威を借りてわがままをいう娘などここ数年いないそうだし(さすがに、過去何人かはいたらしいが)、家の権力による生徒間の派閥もない。校風もかなり生徒の自主性に委ねられ、活発的な雰囲気は公立高校に劣っていない。良家のお嬢様ばかりが通う学校だということを考えれば、極めて良識的ないい学校だと思う。

 だがそれとこれとは別だと、彼──聖祥女子の数学教師、神楽双真は憤慨を隠すことなく廊下を歩き、そのまま乱暴に自分が担当する教室のドアを開けた。

 緊張が走る──ように見えたのは、おそらく自分の機嫌を生徒たちが読み取ったからだろう。敏感なのはいいことだ。危険を察知する能力は、自然界で生きる生命全てに必要不可欠である。

 何はともあれ──

 バンッ! と、双真は出席簿を教卓に叩きつけた。全員が肩をビクリと縮め、怯えた様子でこちらを伺う。朝礼をしようとした委員長を抑えて、

「朝礼はいい。で、さっそくだが連絡事項を伝える。三年一学期中間試験の結果が出た。他の科目はそれぞれの担当教員から返してもらえるだろうが、俺は返さないのでそのつもりでいろ」

「……なんでですか?」

 一番前に座る女生徒がおずおずと聞いた。

「点数が悪いからだ」

 全員が息を呑んだ。にたりと歪む唇さえも陰険に、双真は説明を続ける。

「知ってのとおりだが、聖祥の赤点ラインは五十点。それ未満なら成績に赤がつく。ところが今回の俺の数学のテストの平均点が、このクラスだけで三十二点だった」

 またもや教室全体にざわめきが走った。双真が担任を務めるこのクラスの人数が三十六名。一斉に騒がれるとさすがに耳についた。

「うるさい。黙れ。そして聞け。いいか? このクラスの赤点除外者がたった二名。仁村に佐伯だ。よくやったと言いたいが、二人とも五十点の前半。しかも部分点を盛大に与えた結果だ。他は全員欠点。零点がいなかっただけましかもしれんが……」

 完全に、教室が静まり返った。

「自分の点数が知りたい奴は後で俺のところに聞きに来い。絶望したければ教えてやる。希望を失くしたければいつでも来い。で、もちろんテストの答案を返さないということがどういう意味か分かるな?」

「……追試……ですか?」

「正解だ。その追試だが、テスト範囲は同じ。問題も全て同じ。値も一切変えない。だから答案は返却しない。なお、赤点を免れた仁村と佐伯も受けてもいいぞ。どうする?」

「え?」

 と、素っ頓狂な声が、教室に響いた。後ろの窓際に座る小柄な少女が、慌てたように口を押さえている。

「不服か、仁村? せっかくの救済措置だというのに」

「いえ……」

「ま、好きにすればいい。サボるも受けるもお前の自由だ。自分で決めろ。なお、追試は一週間後の放課後に行う。それでも赤点をとるような奴は、大学、就職の推薦状は書かないのでそのつもりでいろ。以上、ホームルーム終わり。日直は日誌を取りに来い」

 そう言って教室を出た直後、女生徒全員が悲鳴にも似た叫びを上げた。

 

 

 昼休みも半ばを過ぎた頃、その声は廊下から聞こえた。

「確かに、テストは難しかったですわねー」

「先生って普段は怖いけど、授業そのものはわかりやすかったし……きちんと理解したつもりでいたのにね」

「神楽先生が担当したクラスは、みんな点数低かったって話ですわ」

「変だよねぇ。先生はいつもテスト前にその範囲とどういう問題を出題するかをきちんと教えてくれているはずなのに……」

「その通りに出ましたわよね?」

「うん、出たよね」

「でも難しかったですわねぇ……」

「難しかったね」

「何ででしょう?」

「何でだろ?」

「性格が悪いからでしょうか?」

「理恵ちゃん……さすがにそれは……」

 どこか遠慮がちに、もう一人が突っ込む。だがその声に少なからず賛同した空気を読み取ったところで、双真はドアを開けた。無視しても良かったが、どのみち部屋から出るつもりだったので、ついでに声をかけておく。

「聞こえてるぞ、お前ら」

「ひひゃぁっ!」

 わけの分からない叫び声を上げたのは、耳にピアスをしたほうの少女だった。そこで初めて、双真は声の主が誰か知った。両者とも、彼が担当するクラスの生徒である。

「人のいないところで陰口を叩くのは感心せんが?」

「あら、人のいないところで言うからこその陰口ですわ」

 茶色がかったロングヘアーの生徒が言う。確かどこかのレコード会社か何かの令嬢だったか。どうでもいいことではあるが。

 その少女の臆することのない態度に、もう片方が叱責の声を上げた。

「理恵ちゃん!」

「気にするな。確かにその通りだからな。しかし、ならせめて本人が聞こえないところで言え。数学教師の悪口を、数学準備室の前で言うアホがいるとは思ってなかったぞ」

 アハハハと、二人の少女が乾いた声で笑う。

「で、佐伯に仁村。何かここに用か?」

「……あ、ええ、用があったのは本当です。実はテストの件で……」

「点数か?」

「いえ。先生はテスト時に問題用紙を回収されましたよね? それを見せていただけたらなと……」

「覚えてないのか?」

「はっきりとは……」

「ふぅむ」

 あごに手を乗せて、双真は悩んだ。と言っても、別段悩む必要はない。答えはイエスかノーしかない。そして結局、見せても見せなくてもあまり差はないだろうと思い、双真は踵を返して準備室に戻った。

 書類の束の中から、テスト問題用紙の原案を取り出し、彼女らに渡す。

「ほれ。解けるものなら解いてみろ」

「ガンバレの一言くらい……」

 と、小声で愚痴ったのは仁村という名の少女である。

「何で俺がお前らの人生を応援せんとならんのだ」

「だって先生でしょ?」

「数学のな。人生のじゃないぞ?」

「……えーと……」

 仁村が困り果てたように首をかしげたのを見て、もう一方の佐伯が切り出した。どこまでもこの少女は微笑を絶やそうとしない。ある意味、クラスで一番不気味な存在だと言うことを思い出しながら、双真は彼女に向き直った。

「知佳ちゃん──仁村さんは、学校の先生はそういうことも含めて先生なのではないかとおっしゃりたいんですわ」

「子供じゃあるまいし……まぁ、千歩以上譲ってそうだとしても、実際お前たちの人生はお前たちのものだ」

「それはそうですが……」

「それを教師に左右されてどうする。自分で決めろ。自分の力で動け。助けを求めてかまわんし、他者の影響を受けるなとも言わんが、それでも自分のことは自分で見極めろ。決めるのはお前らだ。責任を取るのもな。わかったか?」

「それは先生ご自身の経験談ですか?」

 それは要求した答えではなかった。だが、生徒は生徒なりに、今の言葉は受け止めたらしい。しきりに何かを考えている仁村と、やはり何を考えているのかさっぱり読めない佐伯は、ある意味対照的ではあった。

「先生って変ですわね」

 何の遜色もなくそう意見する佐伯に、双真は笑って見せた。丁度歩いてきた見知らぬ生徒が何故か怯えたように去っていくが、それは無視しておく。

「俺が変なんじゃない。お前らが普通なだけだ」

「なら先生は、何で先生になったんですか?」

 言葉の意味が分かったのかどうか、思案顔で言ったのは仁村だった。

 それがきっかけだというわけでもないが──ふと、双真は考えた。今、自分は教師としてここにいる。何故だろう。

 何故? 何の因果でここにいる?

 考える。幾ばくか逡巡して、双真は応えた。

「理由は三つある」

「三つ?」

 双真は三本、指を立てた。はっきりと断言する。

「ヒマだから、面倒くさいから、興味があったから」

「ど、どれも教育とは何の関係もない理由ですねー」

「しかも最初の二つは矛盾してますわ」

 それぞれが冷静に突っ込んでくるのを無視して、

「そうか? 分かりやすいように要約したつもりなんだが」

「要約しすぎですー」

 と、仁村。語尾が伸びていることに多少の不快感を抱きながら、双真はうなずいた。

「……ふむ。なら、もう少し詳細を言おう。この街に来たはいいが、やることもなくヒマだったのだ。他に仕事を探すもの、するのも面倒なのでな。昔作ったコネを使って臨時教師で雇ってもらった。興味があったのは学校というシステムだ。行ったことがなかったからな(・・・・・・・・・・・・・)、現在のガキがどういう風に量産されているのか、実体験で見ようと思ったのだ。全部まとめると、俺が教師になった理由はただの暇つぶしだ」

 休み時間の流れが、急激に遅くなった気がした。

「…………」

「…………」

「今のは黙るところか?」

「……いえ、なんだかものすごく本気っぽいので、どうコメントしていいのか困っただけですわ」

 やはり微笑を絶やさずに佐伯が言う。双真は苦笑した。

「何でお前らが困る必要がある。俺の率直な意見だ。いや、まぁいい。とにかく、用はもう済んだだろ? 俺はこれから仮眠を取るから。放課後、ホームルームに来なかったら適当にさよならして解散してくれ。じゃあな」

「…………」

「…………」

 黙りこんだ生徒にさよならして、双真はその場を離れた。廊下を行き当たって、階段を下りる。そよ風に運ばれて、ようやく復活したらしい二人の声が聞こえた。

「……どう思う? 理恵ちゃん」

「はっきり分かったことは、神楽先生は変だということですわ」

「そうだね」

 余計なお世話だと思いながら、双真は仮眠室へ向かった。

  

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