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震えている。
振動はごく微小に、断続的に、彼の身体を襲った。波動は彼の神経を刺激し、脳を揺さぶり、事実の認識を遅らせる。
恐怖という事実を。
カタカタ……と、音を立てているのは自分の手だった。正確には、彼の持つシャープペンシルが机上の紙とぶつかった音だ。その音が、彼に震えていることを自覚させた。
「震えてるわよ、耕」
言わなくてもいいことを言ってきたのは幼馴染の少女だった。目線を上げると、彼女──千堂真由は、客観視するなら自分と同じ体勢でいた。テーブルの向こう側で、同じ参考書、同じノートを広げ、同じようなシャープペンシルがやはりカタカタと音を立てている。
「お前だって震えてるじゃないか」
「だって仕方ないじゃない……怖いんだもの」
「……俺だって怖ぇよ」
なんだって宿題をするのに、これほどの恐怖を味わなければならないのか。その理不尽さに納得がいかないまま、二人は横を向いた。ベッドで仰向けになって沈黙している男を凝視し、軽く一息つく。その隣で我関せずといった風に本を読んでいる真由の妹はとりあえず置いておいて、二人はそのまま視線を元に戻した。
「起きてないよな?」
「起きてないわね」
「誰がだ?」
ドキンッという心臓の音を、耕介は確かに聞いた。心臓という肉塊全てが跳ね上がるほどの衝撃を伴って、声は耳に入り、鼓膜を振動させ、情報となって脳へと送られる。
「…………」
ゆっくりと、耕介は声がした方を向いた。うまく機能してくれない声帯を押し切って、無理やり苦悶の声を上げる。
「や、やぁ、双真。おはよう。起きたのか?」
「? 俺は寝ていたのか?」
「寝ていたって言うか、倒れていたって言うか。まぁ、ほんの数分ほどだけど」
「……そうか」
何の感慨も見せずに、双真は顔を上げた。いつもの彼だった。と言うことを考えた時点で、耕介は内心で苦笑した。彼に『いつも』などという表現が当てはまるわけがないことを思い出す。彼は変わらない。
それが耕介の中での神楽双真という人物像だった。
耕介の震えは止まらない。だがその原因は明確に理解できた。神楽双真がアルコール摂取によってもたらす人為的災害の規模が計り知れないからだ。以前の経験からくる恐怖が、彼の心を蝕んだ。
「……双真?」
「何だ?」
「な、なんともないのか?」
「だから何がだ?」
本当に分かっていない彼の反応に心底安堵しながら、耕介は真由の方を見た。彼女もこちらを見ていた。
「あのチョコレート、ウイスキー入ってたんでしょ? 大丈夫なの?」
「見た感じでは大丈夫っぽい」
「いい加減ね。命に関わる問題よ? もっとちゃんと確かめなさいよ」
「ならお前が聞けよ。暴走してますか? って」
「聞けるわけないでしょ?」
「なんだか良く分からんが。内緒話なら、せめて声をひそめてしたらどうだ?」
ベッドからの声に、再び心臓が飛び跳ねるほどのショックを受けて耕介は硬直した。
背中に脂汗がびっしりと浮かび、シャツがそれを吸って肌に引っ付いてくる。室内は涼しく風が吹いているらしい──目の前の幼馴染の髪がそれに揺られているのだ──のに、全く空気の流れを感じられなかった。感覚が麻痺しているのかもしれないが、どうすることもできずに、呻く。
「…………いや、さっき双真が食べたチョコレート。ウイスキー入りのやつらしいんだ。だからまぁ、ちょっと、少し、微妙に、心持ち多めに、かなり、大分、心の底から俺の命の心配をしているんだけど。ほら、双真ってアルコール類、まったく駄目だろ?」
「……そうだったか」
なにを話しているのか。声が勝手に、というよりはむしろ、自分が自分でない感覚で、耕介は続けた。
「まぁ、記憶にないだろうから自覚ないのも仕方ないかもしれないけど、双真はアルコール駄目なんだ。だから、大丈夫なのかなって……」
「ふむ。大丈夫だぞ。極めて良好だ」
「そう。よかった」
何が良好かはこの際突っ込むのはやめて、耕介はほっとため息をついた。そこでようやく、感覚が自分を取り戻す。
「ところで、お前ら。宿題は終わりそうか?」
「……終えてみせるって言いたいけどね。微妙」
肩の力を抜いて、耕介は双真を見た。彼はやはりどこにも異常がない。気の回しすぎだったのだろう──そう思って、耕介は身体全体から力が抜けていくのを実感した。緊張がほぐれるという事態を、リアルに楽しむ余裕も出来ていた。
と──
「なら、手伝ってやろう」
「え?」
唐突な申し出に、素っ頓狂な声を上げたのは真由だった。
「ホント?」
「ああ、本当だ。ライオンはわが子を千尋の谷へ落とし、這い上がってきた者をさらに蹴落とし、その上から投石して止めを刺すと言う。俺もそれに習おうと思うのだ」
「言わないし、それはいくらなんでも死ぬと思うよ?」
冷静に突っ込んだのは瞳だった。その彼女に向けて、双真は微笑んで見せる。
「大丈夫だ。任せろ。止めを刺すのは得意だ」
「っていうかちょっと待て。止めって何だよ!」
腕まくりをして立ち上がる双真を、耕介は慌てて止めた。
何かが点滅する。心の警報がサイレンを鳴らす。
「言葉どおりだ。つまりは宿題が間に合うように、お前たちの勉強を妨げる者を排除しよう。手っ取り早い方法は担当教師を始末することだ。提出する人間がいなくなれば、提出期限は来ないぞ、永遠に」
「始末してどうする! っていうか、お前、さり気なく暴走してるだろ!」
「ハッハッハ! 馬鹿だなぁ、耕介。俺は暴走なんてしてないぞ。そこはかとなく」
「どっちだ!」
「学年担当を全員抹殺できればなおいい」
「よくない! っつーか、人の話を聞けぇ!」
「今すぐ引導を渡して来てやろう。ひょっとしたら、夏休みが延期するかもしれんな」
「あぁぁぁぁっ! やっぱり暴走してるぅぅぅぅっ!」
頭を抱えて呻く。
「教師とは人に物事を教え導く職業なのだろう? 『夏休みの宿題が間に合わないので死んでください』と、誠心誠意頼めばきっと分かってもらえるはずだ」
「わかるかぁぁぁぁぁぁっ!」
叫ぶ。が、通じない。悲しいまでに通じない。耕介は泣いた。滝のように涙を流して、どうしようかと迷う。だがそんな暇もないことに気づいて苦悩する。
「くそっ! どうすればいいんだよ。前回みたく問答無用に暴発してないみたいだから、まだ間に合うはずだ。どうやったら酔いが醒めるんだ!」
「双真クンって、飲んだお酒の種類と量で酔い方が変わるのねぇ」
なにやら達観したように、真由が言った。
「なぁにのんきに納得してやがる。お前も手伝え!」
「でも、なんかもう手遅れっぽいし。まぁ、短い人生だったわね。お互いに」
座ったままの真由の顔には覇気がなかった。目を細め、何かを仰ぐように上を見る。そのとき耕介は気づいた。彼女はこちらを向いているが、見てはいないことに。視線が宙を浮いている。
「現実を見ろ! あっさりと諦めんな! いいのか? チョコレートが原因で死んでも! 果てしなく嫌だぞ、そんなもん!」
「うーん。でもねぇ……あ、暴発カウントダウン開始したっぽいわよ?」
「何!?」
振り向いた時が、終着だった。
「十……九……面倒なので零」
「ちょっと待てぇぇぇぇぇぇっ!」
その声が双真のものだと気づいたときには、耕介は奈落の底に落ちていた。下に見えるは暗闇。口を開け、えさを待つ猛獣のように、無慈悲な闇が彼を包む。
無限の落下に身を任せながら、耕介は意識を失った。