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生徒を奈落のどん底に落としたせいか、いくらか気分が晴れた彼は、ほとんど常連になっている喫茶店の中で珍しいものを見た。
「…………」
ウエイトレスがどう対処すればいいのか困っているのはさておいて、双真はその四人掛けのテーブルを見つめた。視線に気づいたのだろう、その対象者──そっくりな顔をした女性が二人、こちらを向く。
「あれ? 双真クン?」
髪の短いほうが、驚いた風に言った。うなずくまでもなく、髪の長いほうが──こちらは比較にならないほど驚いた声を上げる。どっちがどっちなのか。判別するのに数秒を要した。
「真由に瞳か。久しいな」
黄色い声を上げる二人に対して、双真は端的に応答した。
「本当に、お久しぶりです。五年ぶりくらいですか?」
と、しおらしくも頭を下げつつ、瞳が言った。
「あんまり変わってないみたいですね」
「そういうお前は変わったな」
何が可笑しかったのか。双真はいつものように応対しただけだが、彼女らは笑顔を隠さず笑い声を上げた。
「そんなところに立ってないで、座ったら? ウエイトレスさん。困ってるわよ?」
「ふむ」
「ほい、どうぞ」
身体をずらして場所を開けた真由の隣に腰を下ろして、双真はウエイトレスに向き直った。コーヒーとサンドイッチのセットを注文して、唇を湿らす程度に水に口をつける。
その過程で、双真は視線だけで彼女らを観察した。
千堂真由と千堂瞳。姉妹であることを考えても、彼女らの顔は似ていた。瓜二つというわけではない。むしろ違っている部分は多々ある。身長、髪型、目の釣り具合、そしてそもそもの雰囲気が、この二人は決定的に違っている。だが血の成せる業なのか、それでも似ていると思わせる何かがあった。
「……で、こんなところで何している?」
「喫茶店でどんな企みをするって言うのよ。普通に、買い物の帰りにお茶に寄っただけよ」
なるほど、確かに彼女らの足元にはデパートの紙袋が置いてあった。
一方で、どこか呆れたようにぼやく真由の方は、妹に比べてあまり変わっていないように見えた。落ち着いて大人びてはいるのだが、それでも幼い頃の面影はある。
「で、そっちは?」
「この時間、大抵俺はここにいる。この街に来て以来だから、もう三年近いか……」
「え? そんなに前なの?」
驚いた声を上げたのは瞳だった。
「前に駅前で偶然会ってからもうそんなになるのねぇ……ってあれ、瞳には教えなかったっけ?」
「聞いてないわよ。こっちに来ているのは双真さんだけなの?」
呼び方が「くん」ではなく「さん」になっていることに気づいて、双真は心中で苦笑した。同時に納得する。どうやらこの姉妹は、妹のほうが顕著に変化を遂げたらしい。何が良い悪いと言うわけでもないが、二人の対応は見ていて面白かった。少なくとも、長崎にいた頃には見られなかったものだ。
「ここに住んでいるのは俺と……ん? 瞳は耕介がこっちに来ていること知らないのか?」
「知ってるわよ。今でもたまに会いに行ってるもんねぇ、瞳は」
「うるさいなぁ。別にいいじゃない。耕ちゃんの料理はおいしいし、あそこには親友もいるし……」
「だ、そうよ?」
「理解した」
拗ねてみせる少女──いや、もう年齢からすれば女性か──の態度に微笑して、双真は身体を背もたれに預けた。
「耕ちゃんにはもう会ったの?」
「ああ。そのためにここに来たからな。結果、もう用は済んだし、すでにこの街にいる理由はないんだが……」
「ふーん。ま、双真クンのことだから、どこで何してようが死ぬことはないんだろうけどね。あーそういえば、今は何してるの?」
「ここでコーヒーを飲んでいる」
「いや、そういうことじゃなくて……」
ああ、と思い当たって、双真はサンドイッチをコーヒーで流し込んだ。端的に告げる。
「今の仕事は教師だ」
瞬間、ブッ!──とカップの中で姉妹が同時に噴出すのを見て、双真は憮然とした。似たような反応を、どこかで見た気がする。
「…………」
咳き込みながら、彼女らは口元を付近で押さえ、必至にこみ上げてくる何かを抑えているようだった。
「……この場合、俺は怒っていいんだよな?」
誰に向けて言った言葉か。ただ千堂姉妹は正確に理解したようだった。慌てて弁解する仕草がやはり同じだったりする。
「ご、ごめん。ちょっと奇抜な答えだったから、噴出しちゃった」
「私も……」
双真は素直に首をかしげた。
「一体、どの辺がどう奇抜なんだ? 耕介や十四郎もそうだが、何故俺が教師をしていることに、それほどまでに突飛な反応をする?」
「だって……ねぇ?」
「……うん」
姉妹だけで、目線を合わせてうなずきあう。何をどう納得したのか、彼女らは今の反応を当然のように受け止めていた。
「遺憾だ」
「……だって、双真クンが普通の職業に就いてるだけでも凄いことなのよ? それにしても教師だなんて。人間関係、大丈夫?」
「今のところ問題はないし、そんなものは元より必要ない。が、しかし……そんなに変か? 俺が教師というのは」
さすがに気になって、双真は聞いた。姉妹が揃って顔を見合わせ、揃って首を縦に振る。
「うん。変ね」
「少し変……かなぁって」
控えめに、瞳が同意する。さらに真由が続けた。
「変っていうか……どっちかというと動物奇想天外?」
「…………」
「ほら、こんな珍しい動物がいて、こんなことができるんですよーっていう、新たな発見をした時の驚きに似ているかな」
「俺はそんなに奇天烈なのか?」
「それはもう間違いなく」
双真は唸った。
「……むぅ。なんだかよくわからんが、それはそれで無責任のような気もするぞ」
「無責任って、誰が?」
問いに答える代わりに、双真は黙って瞳を見た。
「え? 私?」
「瞳が何かしたの?」
やはり姉妹だと、どこかずれた感心を抱きながら、双真は胸中で苦笑した。その反応を見る限りでは、どうやら瞳は覚えていないらしい。
「なんだ、覚えていないのか? 俺が教師に向いていると言ったのは、お前だぞ? 瞳」
間の抜けた顔で硬直する姉妹の──とくに妹の反応を楽しみながら、双真は再びサンドイッチに手をつけた。
◇
小さく、仁村知佳はため息を吐いた。
キッチンへ向かい、冷蔵庫からお気に入りのイチゴミルクを取り出す。コップに適量をうつし、それを一息で飲み干してから、彼女は再び肩で息をした。
背の低い、耳から飛び出す癖っ毛が特徴の少女は、今は寝巻き姿だった。これも彼女お気に入りの黄色いパジャマである。その上から薄手のカーデガンを着込んでいるおかげで寒くはなかったが、どこからか吹いてくる風が肌に当たり、知佳は軽く身震いした。
(もう夏なのにね)
そんなことを考えながら、コップを流しに置いたところで、知佳は後ろにやってきた気配に気づいた。
「何やってるんだ? こんな時間に」
「ああ、お兄ちゃん」
くるっと半回転して、知佳は後ろを向いた。キッチンの入口に、二メートルはあろうかと言う巨人がエプロン姿で立っている。彼──槙原耕介が言うにはまだ百九十そこそこだそうだが、百五十もない知佳から見れば、どちらも大差なかった。
大男には違いない──だが不思議と怖さを感じさせないこのさざなみ女子寮の管理人は、エプロンをはずしながらキッチンの中に入ってきた。
「まだ起きてたのか? もう一時だぞ?」
「うん。でも明日追試があるから」
「……追試って、この前の中間の?」
「うん」
兄と呼んでいるこの血のつながりのない管理人の目が大きく見開かれるのが分かった。実姉も含め、まだ返還されたテスト用紙は見せていないが、二人ともこちらの成績は学年『上』に位置すると信じて疑っていない。嬉しくもあったが、どこかプレッシャーを感じるのも確かだ。
「赤点だったのか?」
「ううん。ぎりぎりセーフだったんだけど」
「知佳がそんなに危ない点数取るってことは、結構難しかったんだろうな」
「……どうだろ? 平均点は、わたしのクラスで三十二点だって言ってたから、やっぱり難しかったのかな」
「確か聖祥の赤点ラインは……」
「五十点」
ひえーっと、耕介が大げさに驚いた声を上げた。
「ならやっぱり難しかったんだな。で、救済措置として追試か。赤がつかなくても受けても良いのか?」
「自分で決めろ、だって……」
「何だ、それ。先生がそう言ったのか?」
「うん」
耕介が驚くのも無理はないと知佳は思った。
「普通は受けろとか、強制するもんだと思ってたけど」
「『自分で決めろ。自分の力で決めて、そして動け』って。理恵ちゃんとも話したんだけど、神楽先生ってなんか変なんだ」
「………………」
「?……お兄ちゃん?」
唐突に黙り込んだ兄の態度に眉をひそめて、知佳は彼の顔を下から覗き込んだ。
「どうかした?」
「いや、うん。なんでもないんだけど……知佳、今……何って言った?」
「うん? ああ、神楽先生? わたしのクラスの担任の先生で、数学担当だよ。あれ? 教えてなかったっけ?」
「ああ……知らなかった。初耳。えっとそれで……どんな……先生?」
「うーん。見た感じは、怖い……かな。厳ついんじゃなくて、内面から来る怖さっていうのかな。うん、外見は美形だと思う。でも冷酷だってみんな言ってるよ」
「……へ、へぇ……」
力なく、耕介が相槌を打つ。知佳は続けた。
「変っていうかね。言っていることはものすごく理に適っているんだけど、適いすぎていて冷たい印象が強いかな。目つきも鋭いからなおさらだと思う。でも、教え方上手だし、テストが難しいこと除けば、いい先生だと思うよ?」
「でも……冷酷なんだろ?」
「……うーん。でもね、後で落ち着いて考えてみると納得しちゃうことのほうが多いんだ。『子供として保護するんじゃなくて、大人として扱っている』って理恵ちゃんは言ってたけど、そんな感じかな?」
どこか疑問形なのは、知佳自身、担任教師については疑問点が多いせいだった。
「……そうか。うん。わかった。そうか……」
「お兄ちゃん?」
「……いや、なんでもない。なんでもないぞ、多分。きっとなんでもないに違いない……といいなぁって思ったり思わなかったり……いや、でもそうなのか? どうなんだ? 俺は何言ってるんだ? あれ?」
呪文のように呟きながら、兄はキッチンを出て行った。お休みと声をかけると、力なくうなずいた兄の顔はどこか青ざめているようにも見えた。
そのまま一階の自室に戻っていく彼の後姿を見て、知佳は首をかしげた。
「何だったんだろ」
まさしく言葉どおりの疑問をぶつけてみるが、その答えを持っている兄はもう自室に帰ってしまっている。
「まぁ、いいか」
キッチンの電気を消し、知佳は二階に上がった。自室に戻り、電気を消してベッドにもぐる。
明日は追試。
これで赤点だったなら、おそらく本気であの教師は、大学、就職ともに推薦状の作成をしないだろう。たとえ、他の教師陣やPTAから何を言われようがしないに違いない──そんなことを思いながら、知佳はゆっくりとまどろみに身を委ねた。