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愚かなことだといわざるを得ない。
そもそもの間違いはなんだったのだろう。いつ、どこで、どのように、どうして間違えたのか。それを知る術も、記憶も、男には残っていなかった。
出来たことはただ一つ。
逃げること。
迫ってくる死という存在から、どこまでも逃げること。けれど──
それも叶わないことを、男は知っていた。
理解もしていた。
ぼやける視界の先。ガラスに写る紅く染まった自分の身体には、すでに首から下がなかった。
…
死は、人が最も恐れる事象である。少なくとも、大半の人間は死を恐れ、死に対して悲しみを抱く。ということを考慮してみれば、目の前にいる男もまた普通の人間だったということか。
そんなことを考えながら、彼は無造作に足元に転がる肉隗を蹴った。すでに事切れた男は、死ぬ寸前に自分の死を受け入れたらしい。
が、それもどうでもいいことでもある。男の存在を奪い終わって、彼は無感情のままそこから立ち去ろうと振り返った。
と、
「何故殺した!」
殺気のこもった声をその身に浴びて、彼はそちらを向いた。薄暗い路地の裏手。視線の先に見えたのは、長身の男だった。顔立ちからして、一見するとただ少年にしか見えない──が、その眼光はおよそ素人には真似できないほど殺気に満ちている。
「何故だ?」
もう一度、少年は質問を繰り返した。逆に彼は、その意図を理解するのに一瞬遅れた。殺す理由を尋ねられるという初めての体験に、思考が一時中断する。
「……敵だから」
端的に。これ異常ないくらい簡潔な答えを返すと、少年は明らかに不快といった風に眉をひそめた。
「敵? たったそれだけで?」
「……殺すのに理由が必要か?」
「!」
動揺する少年を尻目に、彼は続けた。
「理由などない。敵は殺す」
「え?」
「邪魔するなら、お前も敵だ」
「…………」
「さて、お前は俺の敵か?」
「……敵だと……言ったら?」
意外と冷静な少年の態度に、彼は身体が疼いていた。目の前にいる年下の男は、確実に今殺した男などとは比べ物にならないほど強いだろうことを、半ば本能的に察知する。
「殺す。当然だろう?」
「…………」
「俺を止めたいなら、俺を殺せ」
…
あれから何時間が経っただろう。
今の自分がどういう顔をしているか。恐怖に歪んでいるか。それとも笑っているのだろうか。それを知ることは不可能だった。
敵は六人。一人は銀の剣を持った長髪の美男子。一人は六尺ほどの長尺刀を持った青年。こちらが敵と判断するや否や、一変して別人のようになった先程の少年。短剣で岩やら建物に何かしら文字のようなものを刻んでは、こちらに理解不可能な攻撃をしかけてくる女に、遥か後方から、こちらの急所めがけて銃で正確無比に射撃してくる男。さらに厄介なのは、殺気も何もないくせに他の誰よりも高い攻撃力を持つオールバックの男だった。
『反力』の弱点を、ここで彼は再認識した。殺気をもたないその男には、敵意を持つことが大前提とされる『反力』を発動することができない。
いや。そもそも遣おうして意識を集中する暇もなく、他の連中からの攻撃がやってくる。追い詰められているのが自分だということを、彼は自覚していた。
後数分もせず、自分は彼らに殺されるだろう。
何故か。理由も何もなく。ただ漠然と、それが嬉しかった。歓喜──そう呼んで差し支えない感情が、まだ自分にもあったのだと素直に驚く。
死。
死ぬことが出来れば──
自分は全てを知ることが出来る。
全てを。
間合いを計りながら、彼は叫んだ。辺りに漂う五つの殺気。目の前にいる、自分を殺すことのできるかもしれない連中に向かって。
「さぁ! 俺を殺してみろ!」
…
彼は目を閉じた。
暑さと寒さ。虚無と失意。矛盾した感覚に支配された空間は、見渡す限り荒涼としていた。こげ茶色の土。黒い岩。緑色にどよめく空は、見上げるだけで彼を震えさせた。
「ここは?」
応える者などいない。
応えられる者などいない。
応え。答え。
それがなんであるか知っている者は、ここにはいない。
そもそも何を求めての疑問だったのか。それすら定かではなかった。見るものが全て。意識化の中で、それを容認するべきだという司令が脳に伝わる。
風が吹き、土を舞い上げた。髪に絡まり、顔を打ちつけ、呼吸をしようとすると、容赦なく気管に入り込んできて、成すすべもなく彼は咳き込んだ。
寒い。
けれど熱い。
身体が重い。
頭に感じる圧力は、明らかな痛みだった。
だから彼は。
目を閉じたままゆっくりと地面に寝そべった。
自分にやがて訪れるだろう明確な『死』をイメージしながら。
震えは、まだ止まらない。
◇
平和。
もめごとや対立、騒動がなく、穏やかで落ち着きのある状態。戦争や戦闘が行われずに静かに治まっている世界。
だとするなら、平和というものはこの世のどこにも存在しないのではないかと思えてくる。人は生きている限り、必ず他人と接触する。他人であるから、自分ではない。つまりは、必ずどこかに異なった考えを持つ者が存在し、そこに争いがなくなることはない。
千差万別とはよく言ったものだ。結論としては、今の世界が平和であるとは決していえない。例え、安全に快適な暮らしが出来ていたとしても。不幸だと感じながらも幸せな生活が出来ていたとしても。
「と、まぁそういうわけだから。そんな世界を滅ぼす最終兵器的な事象が起きようと、なんだかいまさらのような気がしないでもない」
一人納得したように、名鳥十四郎はうなずいた。彼のすぐ横で、スーパーの買物袋を提げた耕介が、どこか呆れたような視線を送ってくるが、それは無視する。
長髪、長身。絵に描いたような美青年。彼を表現するにはそれで事足りた。逆を言えば、それだけとも言える。「HELL&HEAVEN」の党首。総勢五百人を束ねる、この地域の不良のトップでもある彼は、耕介から聞いた現状に──言ってしまえば、神楽双真が風邪で倒れたと言う事実を、そう言って締めくくった。
「現実は直視した方がいいと思うよ? 仮にも医者になろうとしてるんなら」
裏界の一角。双真の部屋に向かって、二人は歩いていた。双真のための食事の買出しで肝心の米を買うのを忘れていたらしく、耕介の荷物は見た目から重そうだった。大きさからすると二キログラムほどだろうが、それでも何故か米というものは持つと重い。
「そんなこといわれても。なんだかそれだけは人として信じちゃいけない気がしてな。というか、俺の存在全てをかけて否定したほうが、後々安全のような気がする」
「あー、まぁ気持ちはわからなくもないけど……ここで逃げたら俺と真由が地の果てまで追いかけるからな」
「ううっ……」
そこはかとなく逃げ腰になっている十四郎に冷たい視線を送りつつ、耕介は夏の日差しで浮かんでくる汗をぬぐった。
と──
「みつけたぁ!」
見知った顔の少女は、その表情からして慌てていた。額に浮かぶ汗もそのままに、真由は耕介と十四郎の前まで走り寄ると、息を切らせたのか苦しそうに深呼吸した。唐突に目的の方向から現れた彼女に、二人は立ち止まって顔を見合わせる。
「どうかしたのか? 真由」
「大変なの! 双真クンが! 双真クンが……!」
『死んだ?』
きっぱりと、声をそろえて言ってのけた二人に、真由は怒鳴り声を上げた。
「そうじゃなくて。玉子酒飲ませたら顔色が一気に悪くなって、ベッドに倒れたの!」
「玉子酒って。お前、ちゃんとアルコール分抜いたか?」
「え?」
「あいつ下戸だぞ」
「うそぉ!」
「いや、ホント」
「……えっと、どのくらい弱い?」
「かなり。せいぜいコップ一杯のビールが限度かな。日本酒なんか絶対に無理。飲むと、ああいう表情になる……って、え? 双真?」
ちょうどいい例が現れたと思いながら真由の後ろに立つ青年を指差して、耕介はそのまま硬直した。
神楽双真。
出会ったのは約半年ほど前。当時はすでに「HELL&HEAVEN」は設立しており、幹部六人で長崎一帯を牛耳り始めた頃。その時期に、世界全てを敵視する視線と能力を持って、彼はこの地に現れた。
目の前にいたのは、紛れもなくその彼である。
無為な瞳。だが明らかに感じ取れる殺気は、確実にこちらに向けられていた。十九歳にしては落ち着いた彼の相貌は、無愛想のせいかあまり変化を見せることはない。だから、今の彼はいつもと変わらないとも言える。殺気がこちらに向いていることも、別段不思議はなかった。彼が怒りを顕著にするときは、得てして殺気だけを無言で発して威嚇することも、耕介や十四郎は知っていた。だが──
彼から。「HELL&HEAVEN」特攻隊長補佐として、耕介とコンビを組んでいるはずの彼から。すっぽりと、普段あるはずのものが消えていた。
(いや、違う!)
消えたのではなく、普段あるはずのないものが生まれていた。自分たちと慣れ親しんでからは消え失せていた、完全な敵意。彼から感じる気配の違和感がそれだということを察知して、耕介は思わず身震いした。
ピクリと、彼の指が動く。距離にして十メートル強。そんな微妙な動作を見分けられるはずもないが、何故か耕介には察知できた。
瞬間、背中に悪寒が走る。
「真由!」
「きゃぁっ!」
買物袋で彼女を押しやって、耕介は横に飛んだ。袋がちぎれ、米が飛び散るが、それに構っている余裕はなかった。耕介が先程までいた場所を、黒い影が一瞬で通り過ぎる。砂塵を巻き上げながら、地面をえぐるかのようにして拳が振り下ろされ、初動の遅れた十四郎が、そのまま後方に吹き飛ばされた。
「十四郎!」
後方の瓦礫に激突して地面に突っ伏した十四郎からは、何の応答もなかった。その瞬間、不審が確信に変わる。
(間違いない! 出合った頃の双真だ!)
袋の残骸を投げ捨てて、耕介は後ろに何歩か後退した。双真の間合いは広い。素手であるにもかかわらず、その反応速度と反射神経、ずば抜けた攻撃力で、三メートル程度ならその場を動かずして拳の風圧だけで敵を薙ぎ倒す。
少なくとも、接近戦で彼に挑むのは愚かなことだと耕介は意識していた。今の自分では絶対に彼には勝てないとも自覚する。
「っていうか、いくらなんでも一撃で沈むなよ!」
十四郎に文句を言いながらも、耕介は迷っていた。
双真は強い。それは紛れもない事実で、変えようがない現実だった。その彼に、少しでも長い時間対応するには、こちらも今のままではいられない。
(いますぐ『破壊者』になるか……? いや、しかし……!)
自分をこの危険区域で、「HELL&HEAVEN」の幹部たらしめているもの。この状況を打破できるとすればそれしかなかった。内に潜む破壊衝動を活性化し、意識覚醒と共に戦闘力を相乗的に増大させる『破壊者』への変移しか、打つ手はない。
だがしかし。それをすれば、時間的に双真が目を覚ます頃には、自分は確実に死んでいるだろう。そのことは、想像に難くなかった。
迷いの原因はひとつ。
彼の──双真の『反力』の存在である。双真に敵意を持つことは、それだけで死を意味する。今の彼がもし本当に出合った当初の彼だとしたら、おそらく双真は容赦なく、手加減なく『反力』を使用してくるだろう。
自分たちの敵であった半年前と同じように。
耕介自身に『反力』に対抗する手段はなかった。以前でさえ、幹部全員で対抗して彼を追い詰めたのだ。あれから半年。彼の能力について、その特性を知らないわけではなかった。弱点も知っている。一番早い方法は、彼の視界から消えていなくなることだが、向こうで尻餅をついている真由や十四郎を放っての逃亡は、さすがに躊躇われた。
思考を張り巡らせる。双真の視線がこちらを射抜くが、耕介はあえて無視した。瞳を閉じ、目の前の存在を意識から抹消する。現時点で、出来ることはただ彼の攻撃を避けるか受けるか、間違ってもこちらからの攻撃だけは出来なかった。
双真の口が開く。
「お前は……敵か?」
懐かしい台詞だった。まだそういった感傷に浸れる余裕があることに驚きながら、耕介は自嘲気味に口元をゆがめた。
「さぁね。敵だと言ったら?」
「殺す」
「何故?」
「それが俺だからさ。死にたくなければ、俺を殺せ」
そうして──
砂塵を巻き上げてやってくる黒い影に、耕介は防御のために身体を固めた。
◇
「それは?」
『反力』──
存在を否定する力。
「君は?」
『反力者』──
世界を否定する存在。
「何を望む?」
唯一本心から望んだのは、自らの生まれた理由。
ただそれだけ。
「なら君は、君のために死になさい。そうすれば、君はそれを知ることができる」
自分のため?
「否定すればいい。世界を、人を、全てを」
否定。
「そう。それが、君の存在意義だ」