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歩く。それが移動することを言うなら、間違いなく彼女は歩いてきた。姿どころか踏出す一瞬さえ見失うほどの速度で。 そうして彼女が動いたかどうかも分からないままに、少年は吹き飛ばされていた。地面を削りながら転がる。足の裏に出来たまめがつぶれて、靴の中が血と膿でジクジクと濡れた。 「…………?」 追撃は無かった。普段ならここからさらに連続攻撃が始まる。一方的な、とても訓練とはいえないほど圧倒的な攻撃──そこに明確な目的はない。ただ攻撃を躱すか受けるか、どちらにしても彼女はレクチャーなど全くせず、ただひたすら彼を攻撃する。 戦いは身をもって知れ。戦い方は身を削り知覚しろ。戦闘考察力。無意識下における身体の制御法。他者を一撃で屠る手段。殺しに必要な全ては実体験で思い知れ。 それが唯一の彼女の教えだった。要は、彼女は、人の殺し方を知りたければ一度死ねと言っているのだ。そうしていつもいつも、皮肉にもならない戦闘力の差を見せ付けられるのである。 だが今回に限っては何故か、彼女はそこで動きを止めていた。どこか上の空のようではある。こちらが攻撃しないとでも思っているのだろうか。いや、例え呆けていても、彼女は彼の攻撃など物ともしないのだ。それは挑戦することなど全く無意味と言い切れるほどの完全なる現実だった。 だから彼はその場から動かず、だがいつ襲い掛かられてもいいように構えてから聞いた。 「夏織」 女がこちらを向く。汗だくで土と血に汚れた少年と違い、彼女は汗どころか服に埃さえついてない。その様は正直嫌気がさすほど変哲なかった。 「どうかしました?」 「…………ぶしつけなこと聞くが、刃、客観的に見て、わたしって変か?」 彼女は少年ことを名前では呼ばない。少年に名前などないのだからそれも当然だった。『黒の刃』という剣銘が名前といってしまえばその通りだが、だが決してそれは人の名前ではなかった。だから彼女は、少年のことを端的に『刃』、もしくは『黒』と呼ぶ。そうでないときはお前呼ばわりが通例だった。 「何のことです?」 「だから、わたしは変か?」 「うん」 何を聞いてくるのかと思ったら、そんなことか。嘆息交じりではあったが、彼は即答した。 「……断定したな? まぁいいけど」 「本気でどうかしました?」 「…………」 彼女──火凪夏織はゆっくりと、わざとらしくため息をついた。まだ二十代後半の、胸が小さいことを除けばスタイルの整った感のある女性である。少なくとも肉体を酷使する人種にありがちな筋肉質な体型ではない。ナイフでざっくばらんに切り刻んだために髪の長さがちぐはぐだが、それが逆に彼女の性格と、吊り気味の双眸によく似合っていた。その茶色い目を少し細め、何か訳ありの様相でこちらを見て、不意に空を見上げて、そうして再びこちらを向く。巧く説明できる言葉が見つからないのか、口を開きかけ、つぐんで、もう一度空を見上げた。 そうしてゆっくりと彼女は言った。 「……出会いって大切だよな?」 「……え? ああ……まぁそうですね」 何か今、とてつもなく似合わない言葉を聞いたような気がしたが、彼はとりあえず同意しておくことにした。 「出会いがあるから別れもある」 「そう……ですね」 「運命の出会いって信じるか?」 「……人それぞれだと思いますけど……っていうか、さっきから何の話?」 「恋愛の話」 「…………」 ひとまず一回、無言で少年は思い切り天を仰いだ。そしてゆっくりと雲の流れを見つめる。空は晴れている。雲はさほど早くもない速度で西に動いていた。たまに吹く風が、心地よく彼のほほをなでていく。気温も過ごしやすく、快適な日和だった。 ここから見える木々の枝には小鳥が止まっている。あれはホトトギスだ。それが鳴いた。まねをしてみる。ホーホケキョ。 ……あれ? なんか違う。 まぁいいか。 もう一度空を見上げる。 しみじみ思う。 いい天気だなぁ…… 「なにさらりと現実逃避に入ってる!」 言葉と同時に拳が飛んできた。あえなく現実に引き戻されて、痛む頭部を押さえながらも、少年は涙目で問いかけることしにした。 「……えーと、何の話でした? むしろ僕の全身全霊を込めてその単語だけは聞いちゃいけないような気がしたんですけど。なんていうか、もう一度聞いたら末代まで祟られそうな感じの……」 「なんで、わたしの恋愛話が祟りだ!」 思考停止からひとまず回復して、彼は瞬きした。脳裏に刻まれた単語を一端削除して、もう一度聞きなおす。夏織にしては辛抱強く、再び囁くように言った。 「で?」 「だから、恋愛の話だって」 「誰の?」 「わたしの」 「…………ねぇ、夏織」 「何だ? どうせわたしには似合わないって言いたいんだろ?」 「うん。まぁそれは思い切り力の限り極限までその通りなんですけど、っていうか、恋愛って相手がいないと成り立たないって分かってます? 妄想したって駄目なんですよ?」 「ツッコミどころが多すぎてどこをつっこんで良いかわからんな」 ハハハとわけもなくから笑いして、少年は少なからず怯えながら続けた。 「まぁ、百億歩譲って『恋愛』が成り立ってるとして、どんな動物?」 「人間だ! きっぱりと! っていうか、何でわたしが恋する相手が人間外だって決め付ける?」 「人間で夏織の感性についていける人がいないってことですね」 そういうと、夏織は疲れたようにため息を吐いた。 「分かってるつもりではいたが、どうも最近、わたしに関して間違った印象が蔓延してるみたいだな。これは大変だ。とりあえずの対処としては、その忌まわしき記憶を払拭するために記憶喪失になってもらおうと思うがどうだ?」 「……に、にこやかな笑顔で人の頭を握りつぶすのはやめて……」 「素直になってくれないと、そろそろ味噌がでるぞ? あー、さすがに人間のそれは見たくないな。わたしも」 「味噌って、またそんなダイレクトな。いや、痛い! 痛いって! ちょっと、シャレになってませんって! わかった、わかりました! 忘れます! 夏織が傍若無人とか、オナラをするときはかならず尻を他人の方に向けるとか、たまに寝癖で『焼肉定職ババロアソースの大盛りで!』とか叫んでいることは忘れますから!」 「…………」 ひとまず無言になる。少年とはいえ人一人の頭を片手で握り締めた体勢で、夏織はぼやいた。骨がギチギチと鳴った。 「聞き咎めるべき事項が多すぎるが、とりあえずなんだ? その焼肉定職ババロアソースって」 他二つには心当たりがあるからだろう、彼女は自覚のないことだけを聞いてきた。 「いや、だから寝言。逆に僕が聞きたいですよ。大体、焼肉定職にババロアかけてどうするんです?」 「覚えてないんだけどな」 呻く。本心で言ってるらしいことはそのため息で見て取れた。まぁ寝言を覚えているような人間はそういないだろうが。 「他にもあります。チョコバナナオレンジジュースのスイカの種風味とか」 「……結局何味だ?」 「僕が知ってるはずないでしょう? いったい夢の中で何を無銭飲食してるんです?」 「……そういわれても夢だからな。って、ちょっと待て。今、なにげに物凄く失礼なことを口に出さなかったか?」 「い、いやだなぁ! 気のせいですって!」 「ふむ」 うなずく彼女の顔色を伺いながら、少年は慌てて取り繕った。 「ほ、本題に戻りましょう……で、何の話でした?」 「…………ん?」 「…………」 「…………あれ?」 呻いたのは夏織である。本気か、それとも冗談か。眉を寄せ、悩み顔になった彼女に聞こえないように、少年はポツリとつぶやいた。 「…………健忘症?」 「フンッ!」 勢い一発、夏織がその手につかんでいた少年を片手一本で投げ飛ばす。頭から地面に激突して、夏織が本題を思い出すのを待つまでもなく彼は昏倒していた。
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