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 空は青かった。

 何のことはない。晴れた空はいつだって青だ。それがたとえ光の屈折によるものだとしても、視覚的認識として空は青い。真実でなくても事実であるなら、それでたいていは納得する。

 そしてそれを飾る白い雲。流れは穏やかで、窓から差し込む日差しは心地よかった。多少暑苦しさを感じるが、真夏にしては清々しい気温である。

 だからだろうな、と──皇設楽は小さくため息をついた。こんな穏やかな日に、ましてや何のきっかけもないままに、関連性のない記憶がよみがえるなんてことがあるはずもない。過去を思い出すなんてめったにないことに我が事ながら驚きつつも、表面だけは平静に、彼は白で基調された室内を見渡した。

 病室──であるから、白が目立つのは仕方がないといえた。だがそれよりも注意を引いたのは、部屋の中央に見る一組の男女である。設楽自身、感傷の原因が彼らであることくらいは容易に感づいていた。

 ベッドに寝た状態の男が、女の介護を受けている。見たままを表現するならそういうことになるか。男は以前から見知っていたが、女は初見だった。字面でしか判断できないデータよりもはるかに若い(正確には若いように見える──情報が確かなら、彼女は設楽よりも年上だからだ)。設楽も童顔だが、彼女のそれはさらにすさまじかった。女子高生でも十分通用するのではと思わせるほどの幼な顔である。その彼女が、シューケーキをフォークで適度に切り取り、男に差し出している。

「はい、士郎さん。アーン」

「いや、桃子さん。一人で食べられますから」

「あ、そういうこと言うなら、明日のおやつは抜きですよ?」

「それは困ります!」

「シュークリーム。ほしくないですか?」

「そんなわけがない。桃子さんのシュークリームは絶品ですから」

「ありがとうございます。それじゃ、はい。アーン……」

「あーん……」

 とりあえず。

(なんだかなぁ)

 とか思ってみたりする。

 二人はこちらに気づく様子を一向に見せなかった。気づくまで待つべきだろうか。それとも、無粋ではあるが声をかけるべきだろうか。なんだか虚しくなりつつも、設楽はもう少しだけ様子を見ることにした。

「あ、士郎さん。口にクリームが」

「え? どこです?」

「あ、違います。逆です」

「え?」

「あん。もう、ほら。ここですよ」

 言って、彼女がその細い指先で士郎の口元についたシューをすくいとり、それを舌先でぺろりとなめとった。頬を赤らめ、「うん。おいし」と笑う彼女に男は頬を赤らめ、

「面目ないです」

 と、熱を込めて呟いたところでさすがに限界が来た。

「オッホン!」

 びくりと女が背を伸ばす。男は目線を細め、颯爽と臨戦態勢に移っていた。口元にクリームが残ったままではあったが。

 二人がこちらを向く。

『………………』

 しばし訪れた沈黙に、先に耐え切れなくなったのは男のほうだった。少なからず額に汗を浮かばせながら、

「よ、よぉ設楽。久しぶり」

「……一週間前にも会いましたが。まぁお久しぶりということにしておきましょう」

 それで、と。設楽は目線だけで男に問いかけた。彼女は?

「あ、ああ。こちらは高町桃子さん。ほら、今回の襲撃事件で巻き込まれた……」

「ええ。存じていますよ。襲撃があることを予測しておきながら一般人を巻き込んで、なおかつ油断して銃弾を食らったマヌケなボディーガードのせいで大変な目にあった方ですよね?」

「……えらく棘があるな」

「原因はご自身の胸に聞いてください」

 言い切ると、男は言葉通りギプスでつるされた腕を自分の胸に当てて首をかしげた。それはあっさりと無視して、

「高町さん、でしたね。突然ですみませんが、仕事のことで、彼──不破士郎さんと少々込み入った話をしないといけないんです。少し席をはずしていただけませんか?」

「あ、はい。こちらこそ気づきませんで。それじゃ、士郎さん。また後で」

「すみません。桃子さん」

「いいえ。でも、あまりご無理はなさらないでくださいね」

「はい。それはもちろん」

「それでは、失礼します」

 頬を赤らめながらも平然と、加えてえらく丁寧な挨拶をして退室する彼女を見送って、設楽はゆっくりと不破士郎に向き直った。

「……随分とまぁ仲がよろしいようで」

「うん。まぁ、その、なんというか、自然とそうなったというか……それより、いつからいたんだ? 黙って入ってくることないだろう」

「ノックはしましたし、声もかけました。なにやらムードいっぱいだったので、お邪魔するのもどうかと思って気配を消していたのですが」

「……どの辺りから見てたんだ?」

 不破士郎の責めるような目線をさらりと受け流して、設楽は言った。

「表現としてはどれがいいですかね。キス。口付け? それともチューしてた?」

「ほとんど最初からじゃないか!」

 叫ぶ包帯男から二、三歩遠のいて、設楽は傍らに持っていたバックからファイルを取り出して彼に投げ渡した。

「ま、いいじゃないですか。士郎さんがああいうラブラブチックなことをするのは意外でしたが、むしろそういう一面もあったことに安心しました。ラブはいいですよね。あんな可愛い人とラブラブなんてうらやましいです。みんながラブになったらきっと戦争なんてなくなるんでしょうね。ラブ。口にするとひたすら恥ずかしいですけど、愛とか恋とかよりも馬鹿っぽく聞こえるのはなぜでしょうね。どう思いますか? ラブラブしている士郎さんとしては」

「お・ま・え・なぁ〜〜!」

 ベッドの上で地団太踏む士郎を無視して、設楽は不意に真顔に戻った。

「ま、からかうのはこの辺にして、そろそろ本題に入りましょう。アルバート議員を襲撃した男に投入されていた龍香湯の流通経路、ならびにテロリスト情報。貴方に依頼された情報は一通り調べ終わりました。さて、どれから聞きますか?」

 いきなり真面目な話になったことに憮然とした様子の士郎に満足しながら、設楽は彼に手渡したファイルと同じものを開いて話し始めた。

 

      ◇

 

 先週起こった英国上院議員、アルバート・クリステラ襲撃事件は、一人のボディーガードの活躍により未遂に終わった。実行犯は逮捕され、アルバート議員も含め一般人に負傷者なく事件は終局──だがその事件を解決した当人は怪我を負い、今は入院中である。夏休みを利用して御神流の特訓を強化したかっただけに、息子としては少々不満足な結果だった。

 とはいえ、父とアルバート議員のSP以外は誰も怪我をせずにすんでいるのだから、これ以上の結果は望むべくもない。あれから一週間、当のヒーローは病院で療養しているが、抜け出さないですんでいるのはひとえに看護してくれている女性のおかげだろう。

 高町桃子。通称、桃子おねーさん。アルバートが滞在していたホテルでお菓子を作っていた女性というのが、彼──不破恭也の印象だった。妹の美由希にも優しかったし、いい人であることは間違いない。

 ただ、なんというか、たまに彼女がいるときに見る父のふにゃけた顔は、いささか不満を覚えてしまう。

(どういうつもりなんだろ)

 などと邪念を抱いているうちに、日課の素振り千回が終了してしまった。集中の欠けた運動に成果などあるはずもなく、ただ疲労だけが恭也の胸に飛来した。

「フゥ」

 と、自然と出たため息を聞きとがめたのか、

「どうした? 随分と疲れてるみたいじゃないか? 年頃のお悩みか? 女のことなら相談に乗るぞ?」

「……?」

 他に人がいるとは思ってなかったので、少なからず恭也は慌てながら声のしたほうを向いて、そしてさらに目を丸くした。そこに立っていたのは、逆立てた金髪が特徴的な男だった。以前見かけたときとは違って普段着だが、その髪と自信満々な表情。声、口調。その唇のニヒルなゆがみ方まで、間違えるはずもない。

「!」

 その彼を認識した瞬間、恭也は即座にその場を飛びのいていた。瞬時に反転して跳躍する。いつも訓練している山の中腹から、街のほうに向けて一気に駆け抜けようとして──だがそれもあっさりと回り込まれてしまい、砂埃上げながらも恭也は立ち止まらざるを得なかった。

「おいおい。いくらこの前が敵として戦ったからって何もいきなり逃げるこたぁないだろ」

「……何しにきたんです?」

「そう邪険にするなよ」

 こちらの態度に気を悪くした風でもなく、男が言った。

「もちろん仕事だ」

「俺を殺しにきたんですか?」

「迎えにきただけだ。不破の病院に行く前に、お前を拾っていこうと思ってな。美由希は?」

「……ここにはいません。それよりも、父さんを殺すんですか?」

「お前、俺を快楽殺人者か何かと勘違いしてないか?」

 ま、いいけどな。と、男はあきらめたように肩をすくめ、

「その親父さんが俺の依頼人だ。その辺も全部話してやるから、とりあえず警戒解け」

「…………」

 ゆっくりと体勢を自然体に戻すと、やれやれと男はため息をついた。

「さて。久しぶりだな、恭也。三ヶ月ぶりか?」

 そう言って、男──日本でも有数の実力を誇る暗殺者、姫月陸王は、いやになるほど満面な笑みを浮かべた。

 

 …………

「で、何の用ですか?」

 車の中で、恭也は隠すことなく不満の声をあげた。話すことがあったらさっさと話せといわんばかりに言葉を切ると、金髪の暗殺者が少しばかり困った顔をして言った。

「そう邪険にするなって。一応、俺も今回のアルバート議員襲撃事件の関係者なんだからな」

「え?」

 聞き返す。ちょうど信号が赤になったところだったので、車を止めた陸王がニィッと笑いながらこちらを見た。

「親父さんが怪我して入院したろ? けど議員にお付のSPだけじゃ何かと物騒だし、事件のせいで安全性が確保されていたとは言い難いからな。移動中の護衛が一番難しいことはお前だって知ってるだろ?」

「それは……」

 その通りだ。父から聞いた話だけでも、移動中に襲われる可能性が最も高いというのはボディーガードの業界では周知の事実らしい。

「んで、俺に依頼が来たわけだ」

「殺しのですか?」

「お前やっぱり俺を快楽殺人者と勘違いしてないか?」

 言葉とは裏腹に、楽しそうな口調で顔で陸王が呻いた。

「そうじゃなくて。アルバート議員の護衛だよ。イギリスまでの。暗殺に関しては俺たち暗殺者が一番詳しいからな。どういう経路で、どういう方法で殺しが行われるか。地理的条件、時間制限、そのほか諸々の状況すべてを考慮に入れれば予想はそう難しくない。な? 護衛にはぴったりだろ?」

「暗殺者なのに」

 それがほとんどすねたような口調になっていたことに、恭也は気づかなかった。

「だからだろ? 暗殺のプロだから、逆に安全性が高まるってことさ」

「前は敵だったのに」

「あのな、恭也」

 と、それまではどこか楽しげに話していた陸王の表情がふいに真面目になった。

「これからお前がどういう進路に進むかは知らんが。親父さんと同じ道に行く気なら覚えて置けよ。俺たちのような業界には本来、敵も味方もない。仕事が終われば、その時点で関係はすべてリセットされる。引きずってもいいことなんてないしな」

「でも!」

 だが陸王は、恭也の異論を無視して続けた。

「そしてこれはほとんどの社会の常識だが、この業界だって『信頼』で成り立っている。依頼を裏切れば当然、社会的信用も失う。加えて、暗殺者だからって暗殺しかしないことはない。少なくとも俺はな。親父さんだってそこのところは心得てるから、知りうる限り護衛の依頼を受けてくれて、なおかつ高確率で安全性を確保できる俺たち(・・・)に依頼したんだろうぜ?」

「俺たち?」

「ああ、設楽も一緒だ」

 瞬時に血の気が引いた。あの人に対しては、あまりいい記憶がない。

「俺は認めたくないです。暗殺稼業なんて」

 車が走り出す。恭也は憮然としたままシートに座りなおした。漏れでた吐息とともに、素直に文句を口にする。

「それだって需要と供給だ。そういう需要があるからこそ俺たちみたいな存在が成り立つ。何で俺が職業的(・・・)暗殺者なのか、考えたことあるか?」

「え?」

「俺たち職業的暗殺者──アサッシンは、非合法的公式認定職──まぁ要は、法律的には認められないが、しかし秘密裏に公的機関に認定された職業のことだ。極端な話、俺たちは『暗殺』をしても犯罪者扱いにはならない」

「そんなっ!」

 車内であることも忘れて、恭也は立ち上がった。頭が天井にぶつかり、激痛とともに苦悶の声が漏れ出る。頭頂部をさすりながら、涙目で彼は抗議した。

「それ本当ですか!」

「ギルド所属のアサッシンに限って言えばな。これにも条件的制約があるから難しいことは端折るが、例えばお前が以前戦ったあの女──飛火(フェイフォ)って名の暗殺者には今言ったことは適用されない。あの女は組織には属していたが、それはギルドじゃない。暗殺者の訓練を受けているから素人ではなく、だがギルドに所属していないからプロでもなく、しかしアサッシンの分類には含まれる」

「え? は?」

 途中から何を言っているかわからなくなって、恭也は目を丸くした。

「ハハハ。まぁその辺は知っても仕方ないだろ。ほれ、あまり難しいこと考えずに受け入れておけ。今の俺は味方。それでいいだろ?」

「あ……えっと……うーん……」

 腕を組んで首をかしげると、隣でまた陸王が声を上げて笑った。

「そんな顔するなよ。せっかくガールフレンドから手紙が来てるのに」

「え?」

 言われて前を見ると、その懐から取り出された一枚の手紙が、恭也の目の前で揺れていた。

「アルバート議員の娘さん、フィアッセちゃんって言ったかな? その子から手紙を預かったんだ。お前のところに先に寄ったのはこれが本当の目的。ほれ」

「…………どーも」

 しぶしぶ受け取ると、運転中にもかかわらず、陸王は嫌味たらしい笑みをこちらに向けて、

「頬染めながら『恭也に会いたいな』って言ってたぜ? いいねぇ。青春だねぇ」

「…………」

 手紙はうれしかったし、正直中身が気になったが、恭也は憮然とした表情で陸王から視線をそらした。すぐに読みたい気持ちをぐっと押さえ込んで、窓の外を見る。

 と──いくつかの建物の向こうに、小さくなっていく駅が見えた。ハッとなって前を向く。気がついたときには、そこはすでに父の入院する病院の敷地内だった。

 

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