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同日、午前十一時四十七分 映画館『PARALLEL』館内、二番館
パタンと、エリザベートは分厚くもない映画のパンフレットを閉じた。眼前に広がる大きなスクリーンでは、いまだわけのわからない、けれど何故か笑ってしまう内容の映画が続いている。 黒髪、黒目、ストレートヘロングの似合う絶世の長身美女という、誰もが抱く『美人』の印象を映画館の暗闇に溶け込ませながら、エリザベート・フュンフト・フォン・エッシェンシュタインは──暗い館内であまり目立った動きはよろしくないのだが──背中に感じた悪寒に身震いした。 その妙な動作に気づいたのか、隣でポップコーン片手に鑑賞していた秘書が、口元を塩で汚しながら聞いてきた。 「どうかしました? マスター。せっかく今日は仕事が午後からなんですから、のんびりしませんと。この映画を見終わったら、また会議と書類整理が待ってますよ?」 「なんかちょっと、寒気が……」 「空調の利きすぎでしょうか? 私は別に寒くないですけど」 「そう……いえ、別に大丈夫よ」 それだけで会話を終えて、二人はまた映画のほうに意識を集中させた。だがしばらくして、再び背筋に寒気を感じる。それは、決して天然自然の寒さではなかった。ねっとりと人工色を多分に含んだ、後味の悪い感覚である。 「!」 これはもう何かあるに違いないと思った。寒いわけではない。館内は極めて快適だった。なら一体この悪寒は何なのだろうと、秘書には気づかれないように模索して、ハッとなる。 (まさか……ばれたの?) 汗が引いた。 ごくりとつばを飲む。 心当たりがあった。しかし、同時にその件は至極プライベートな内容であることも承知していた。『あれの崩壊』は誰も知らないはずのことだった。 が、こうも連続して本能が訴えてくるならば、たとえ『あれ』が原因でなくともここは危険なのではないだろうか。 (やばいかもしれないってこと?) おおよそ、彼女はそういった勘をないがしろにしなかった。むしろ直感を重要視する傾向すらある。自身と経験から来る、彼女なりの信条だった。 考える。結論は五秒で出た。 (逃げよう) 仕事が残っているのは解っていたが、エリザは即決した。秘書の肩を抱き寄せ、耳元でささやく。 「リオ。ごめん、急用が出来たの。悪いんだけど先に行くわね。仕事、ちょっと遅れるかもしれないけど、上手く言い訳しておいて」 「……って、え? 遅れるんですか? 会議に遅刻はちょっと不味い気が……」 「大丈夫よ。ブルーデイになっちゃったとか言っておけば」 「…………」 暗がりの中で、微かに少女の顔が赤くなった。 「携帯の電源は切るから。連絡つかないけど、後のことはよろしくね」 それだけを告げて立ち上がる。後ろに座っていた何人かがあからさまに邪魔されたことを憤慨したようだったが、エリザは気にせず映画館を後にした。リオが何かを言おうとしていたようだが、これも無視する。 外は明るかった。 軽く瞬きをして、目を光に慣れさせる。座っていたせいで身体が固まっていたのだろう。伸びをすると存外に気持ちよかった。 涙目で腕時計を確認すると、まだ昼前である。 「どうしようかしら。別にどこに行きたいってわけでもないんだけど……」 とりあえず、ここからは離れたほうがいい気がする。 いまだ胸中を襲う嫌な予感にさいなまれながら、エリザはその場を後にした。
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同日、午前十一時五十一分 映画館『PARALLEL』館内、フロントロビー
向かった先は映画館だった。 光の入らぬよう、適度な厚さと重さを備えた扉を開く。暗闇の中、スクリーンに映し出された光景をあっさりと無視して、神楽双真は館内を後ろから観察した。目的の人物を気配だけで散策する。やがて見知ったものを見つけた。 「リオ」 「なんですか? 今いいところ…………って、へ?」 映画鑑賞を中断されたことで憮然としながらこちらを向いた赤髪の少女──と言える年齢でもないのだが、見た目少女にしか見えないその女性──は、双真の姿を認めるなり唖然とした。 久しぶりに会った少女は、歳の割に相変わらず背が小さいままだったが、この際その辺を話題に出す暇はなかった。用件だけを端的告げる。 「エリザはどこだ?」 「え? えっと、マスターは急用ができたとかで……」 「……逃げたな」 間違いないと、双真は胸中で唸った。何をどうやったのかは解らないが、とにかくここが危険だと察知したらしい。獣並みの本能の鋭さに内心呆れながら、双真は彼女に「そうか」とだけ答えてその場を後にした。 即座に外に出る。これまた少女が後ろから何やら呟く声が聞こえたが、双真はあっさりと無視した。その足で、映画館の受付に向かう。 口に出すのは心底嫌だったが、エリザの容姿はひたすら目立つ。彼女がどれほど気をつけていようと、あれを覚えていない人間はいない。ましてやまだ数十分と経っていないのだ。必ず近くにいるはずである。 「おい。お前の人生の中で会ったことのないような絶世の美女が、急ぎ足で帰っていかなかったか?」 そう聞くと、映画館の店員はすぐさま思い出したようだった。黒髪黒目のロングヘア。ああ、間違いない。思い出し笑いを浮かべる下卑た男に一瞥すらせず、双真は店員の言ったとおりの方向に意識を向けた。 気配はない。 ニオイもない。 それなりには離れてしまったらしい。 「ちっ」 だが今なら間に合う。舌打ちしつつも、彼は走り出した。
◇
同日、午前十二時五分 海鳴商店街、入り口前広場
ぞくりと── 走ったのは悪寒などという生易しいものではなかった。獣が獲物を狙うときの視線。そこに含まれる必殺の気配。命を駆る意思。殺気という名の死神の手。 (え、何? うそでしょ?) いくらなんでもありえない。確かに関係者からすれば言及されても仕方ない立場にいる。迷惑をかけてしまうかもしれないという負い目もある。 が、だからといって、決して、絶対に、 (殺されるなんてことないわよね) この機会に便乗して、経営戦略では有能なエリザを抹殺せんとするライバル企業からの回し者──という線はありえなかった。迷惑をかけたのはごく身内で、外にばらせばそれこそ恥になるような内容である。 なら一体なんなのか。こうなってくると、逆に心当たりがなくなった。 「急いだ方が良いかも」 言ってから、靴紐を結びなおすためにその場にしゃがみこむ。その一瞬の判断が、彼女の命を救った。 ヒュン──と。 頭上をかすりながら拳サイズの何かが後ろから飛来した。それはそのまま歩道のコンクリートを大きく抉り取る。ぽっかりと開いた穴からプスプスと煙が浮上しているのを見て、エリザの顔から血の気が引いた。誰にということもなく叫ぶ。 「ちょ、ちょっと待ってよ!」 「断る」 声は後ろからやってきた。即座に跳躍して、空中で身体をひねって後方を見やる。 見知った男だった。 ざっくばらんに切りそろえた髪。鋭い逆三角の瞳。不機嫌なような表情は、だがエリザにしてみればいつもの仏頂面にしか見えなかった。引き締まった肢体──その腕で深々と地面を打ち抜いている。あっさりと破壊された地面とその亀裂。そしてその先にある彼の姿を認めるなり、エリザは思わず叫んでいた。 「神楽君!?」 感じなかったわけではなかった。エリザが戦ったことのある中で、彼女を本能的に恐れさせた相手など数えるほどしかいない。そうしてみれば思い当たる節はあったのだ。その独特の気配と殺気に。 そうはいっても、彼に狙われる理由はさっぱりわからなかったが。 「あ、貴方、今! わたしのこと殺す気だったでしょう?」 「あの程度で死ぬわけがないだろ」 さらりと言ってのけた彼──神楽双真は、コンクリに埋まった右手をいとも簡単に引き抜いた。 「コンクリが壊れるほどの攻撃しておいて、さらりと言ってんじゃないわよ!」 わめく。ただ現状を確認するための時間稼ぎに過ぎなかったが、エリザは意識だけで周囲を確認した。人が集まり始めている。当然だ。ここは街中である。彼の不意の攻撃に巻き込まれて吹き飛んだ人間だっている。 「……それで、わたしに何の用?」 「言わなくてはわからんか?」 にやりと、普段笑うことのないだけに恐ろしいと感じさせる笑みを浮かべながら、双真が一歩こちらに近づいた。 「解らないから聞いてるんだけど……」 一歩下がる。ついでに重心を落として、いつでも移動できるように彼女は体勢を整えた。 (目的はわたし? 命を狙ってる……にしてはお粗末よね) 言われてみれば、彼は最初から殺気を放っていた。まるでこちらが気づくことを前提としているように。彼ほどの戦闘者なら、気配を完全に消しながらも同じような攻撃は可能なはずである。 つまり、死んでもらっては困るが、こちらが元気なのも困ると。そこから彼の目的を予測するなら、こちらを適度に痛めて行動不能にし、捕獲して連行する── (ってことは、営利誘拐の線かな?) 「お前が来るのを心待ちにしている奴がいる」 それが決定だった。 「悪いけど、そう言われて「はいそうですか」とついて行ってあげるほど、わたしはお人好しでもないのよ」 「ああ、そう言うだろうと思っていた」 言って彼はもう一歩近づいてきた。拳を鳴らしながら、これから始まる戦闘が楽しくて仕方ないといった風に。 エリザとしては出来ればごめん被りたかった。この男と戦うと、死闘が避けられないことがわかっているからである。 「依頼人からは、力ずくでも連行しろといわれている」 「依頼料はいくら?」 「五十万」 「ふん」 エリザは鼻で笑った。 「わたしも見くびられたものよね。その程度の額で誘拐されるなんて。いいわ。わたしを敵に回したことを後悔させてあげる」 こちらが戦闘体勢に入った事を見て取った双真が、あからさまに警戒の色を強める。が、エリザはあっさりときびすを返した。 「それじゃ、頑張って追いかけてきてね。逃げるが勝ちよ!」 「あ、コラ。待て!」 意表を付かれた彼を振り切って、エリザはその場から引いた。即座に気配を絶って身を潜める。街中の、それも休日の突然の出来事で周囲には人ごみが出来ていた。いくら彼でも気配を消されてはそうそう簡単には見つけられまい。 案の定、こちらの姿を見失った双真は電信柱の上から必死に周囲を見渡していた。 (それじゃあ、バイバイ) その姿にほくそ笑みながら、彼女はそっとその場を後にした。
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同日、午前十二時八分 海鳴商店街、入り口前広場
(一本とられたな) まさかあっさりと逃げるとは考えていなかった。ああ見えてもエリザはプライドが高い。普段はふざけて見せて、自分がいかに軽い人間かをアピールしてはいるが、その実しっかりとその目で相手を裁量している抜け目ない女であるというのが、双真の彼女に対する評価である。 そもそも彼女は人間ではない。夜の一族といわれる吸血種の一派だった。その寿命、体力、知力、どれをとっても人間よりも優れている彼らは、その気になればいくらでも人間を出し抜ける。 加えてこの人ごみである。気配を絶たれてしまえば、探す手段などない。普通なら。 (そう──普通なら、な……) 彼は胸中でほくそ笑んだ。 双真自身が普通でないという要素以外にも、彼には勝算があった。 まさか依頼主が同族だとは彼女も想定していないだろう。彼から手渡されたいくつかの対エリザ捕獲用道具を起動させる。夜の一族専用に作られた同族を探知する機械──『オペラ』という名の腕時計型探索機は、電子音を奏でながら、彼女の居場所を大雑把ではあるが感知していた。 すぐに行動に出なかったのは、そのほうが面白いからである。 まだ猶予はある。今の時刻は午前十二時過ぎ。 (ま、じっくりと狩らせてもらうさ) 見るもの全てを震え上がらせるほどの笑みを浮かべて、彼は地を蹴った。
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