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 槙原耕介は困っていた。

 なんかもう、とにかくひたすらどこまでも徹底的にまずい状況になっている。そんな気がする。気がしても、どうにかできるほどの余裕も猶予もない。そう感じるのは周囲からの視線のせいだと、彼ははっきりと自覚していた。

 身長、百九十を超える巨身の大男である。今は胸元にネコの肉球マークがプリントされたベージュのエプロン姿で、耕介は仕事場のリビング、そのソファーの上で硬直していた。

 見慣れた部屋。住み慣れた空間──海鳴市、国守山にあるさざなみ女子寮の管理人として就任して、もう三年目になる。秋も半ばにさしかかり、ここに来た時は入学したばかりだった子供たちも今は受験真っ盛りだ。

 そんな時期に、保護者の一人としてこんな状況を招いてしまったのは面目ないと思わずにはいられない。都合が悪い。肩身が狭い。視線が痛い。チクチクと。

「なぁ、耕介」

 どこか冷え切った空気が充満する中、寮の最年長である仁村真雪が、愛用の煙草をふかしながら言った。

「なんです?」

「この状況、説明してもらえると助かるんだが?」

「……説明……ですか?」

「ああ」

 真雪の問いは簡潔で、それだけに刺々しさが浮き彫りになっていた。他の寮生も、同様に耕介に投げかける視線がいつもよりも厳しい。それは、耕介自身も感じていた。

 その真雪の問いかけを、海鳴大学一回生の神咲薫が受け継ぐ。というよりも、他に誰も何も言おうとしないのを見かねた感じで、彼女は切り出した。

「それで、なぜ綺堂が耕介さんのひざの上で寝てるとですか?」

「……さぁ、なぜでしょう……?」

 思わず敬語で応えながら、耕介は静かに涙した。

 

 

 九月最終日。秋風が心地よく流れ、気温穏やかに過ごしていたその日、事件は起こった。いや、事件だと思っているのはもしかしたら耕介だけかもしれない。それでも間違いなく、そして紛れもなく、それは普段ありえるはずのない珍事だった。

 そもそも事の起こりは──

「……何だったんだろ?」

 考えて、だが一瞬で行き詰まる。思い当たる節が全くない。心当たりもない。とどのつまり、耕介自身も原因がさっぱりわからないのではあるが、少なくとも周りはそう思ってはくれなかったらしい──鳥肌が立つほどの寒気に襲われて、耕介は思わず身震いした。

 真雪が呆れたように肩をすくめ、

「何だ? 耕介もわかってないのか?」

「俺が聞きたいくらいですよ……」

 嘆きにも似た否定の声を上げて、耕介は呻いた。真雪が肩をすくめ、それきり二人は黙りこむ。

 ひざの上──形からするならば、それはまさしく膝枕というものだろう──で健やかに寝息を立てている少女を起こすのもしのびないので、室内は執拗なまでに静まり返っていた。

 会話が途絶えたのをきっかけに、耕介は真雪から視線をはずした。そしてそのままゆっくりと、感づかれないよう眼球だけで、リビングにいる寮生を観察する。部活に出ている一人と、幽霊のような存在である二人を除いて、ここにはさざなみ寮生全員が揃っていた。

 まずは左。耕介の隣にいるのは、関西出身の椎名ゆうひだった。普段は五月蝿いほどにおしゃべりなはずの彼女は、何故か口を真一文字に結んで視線をテレビへと移している。本来なら明るくノリのいい関西人の彼女に黙られると、耕介としても居心地が悪いのだが、向こうはそうは思っていないらしい。

 俺が何かしたのだろうか──と考えて、しかし、黙り込んでいるのは彼女だけではなかった。ゆうひの隣──耕介の従姉弟(いとこ)にしてこの寮のオーナーである槙原愛と、彼女の養子であるリスティ・槙原もまた、二人して湯飲みを口にしたまま微動だにしていない。

「…………」

 まばたきすらしていないのかと心配になったが、それはどうやら気の回しすぎのようだった。

 そしてふと、耕介は部屋が静か過ぎることに疑問を抱いて、視線をテレビに向けた。今は子供たちが家庭用ゲームをしているはずだ。格闘ゲームらしく、キャラが画面上で忙しなく動いている。派手なアクションを対戦プレイで繰り広げている一人が寮最年少の陣内美緒で、もう一人が仁村知佳──真雪の妹である。リビングが静かなのは、要するに音が鳴っていないからだった。

(何で音消してんだよ……)

 何はともあれ、今このとき、寮の中にいる人間全てがリビングに集結しているのは間違いなかった。元々広く造られているので窮屈に感じるはずもないのだが、何故か息苦しい室内の空気に気圧されて、自然と汗が浮かんでくる。

(一体俺が何をした?)

 息も切れ切れに、耕介は思わず天に向かって叫んだ。もちろん声には出さずに。

 だが無神論者の耕介に頼れる神など思い浮かぶはずもなく、結局身近な神様──ありがたいことに普段と変わらない様子の薫と真雪に向かって、耕介は聞いた。

「真雪さん」

「なんだ?」

「あの……味方はいないんですか?」

「この状況を説明せん限り無理じゃねーのか?」

 真雪が冷酷に告げた。

「いや、説明も何も。真雪さんも見てたでしょ? リビングでちょっと休憩していたらいきなり彼女がやってきて、いきなり俺のひざに頭を預けて寝始めたんですから。俺に何をわかれっていうんですか?」

「……そりゃまそうなんだけどな……」

「仁村さん?」

 薫が確認の意を込めて真雪を見る。眼鏡の漫画家がうなずくのを見て、彼女はさらに訝しげに眉をひそめた。

「……耕介さんにも心当たりはないんですか?」

「いや、もう本気でわけわかんない」

「耕介さんがわからんとなると、うちらはもっとお手上げなんですが……」

「実は男女のお付き合いでもしてたんじゃないのか? その子と」

 真雪が冗談めかしたように言った瞬間。

 ギギギギギギギィッ──という音を、耕介は確かに耳にしたような気がした。ガラスを引っかいたような、もしくはそれは、ポルターガイストのラップ音にも似ているかもしれない。そう考えて、ああそういえば、と耕介は思い立った。

 これは空間が軋む音だ。

「…………」

 なんだかあまり嬉しくなかった。慌てて否定する。

「そ、そんなわけないじゃないですか! それに、確かさくらちゃんって真一郎君と付き合ってたんじゃないのか? 知佳」

「わたし知らないよ。みなみちゃんに聞けば?」

 画面から顔を離さず、コマンド入力する指を止める気配すらなく、知佳が言った。

「みなみちゃん、部活でいないんだけど……って、知佳、なんか冷たくないか?」

「うーん? いつもとおんなじだよ? お兄ちゃんの気のせいだよ」

「そうか?」

「うん。あ、今ゲーム中だから話しかけないでねー」

「…………」

 耕介は黙って真雪を見た。相変らず煙草をふかしている彼女から、そのまま薫へと視線を移す。

「薫」

「なんですか?」

「こんなこと頼むのもお門違いかとは思うんだけど……」

「はい」

「助けて」

「率直ですね」

「他にどうしろと? あ、そういえばさくらちゃんを出迎えたのは薫だろ? 何か変なところとかなかった? この子、いきなりこういうことする子じゃないだろ?」

「それはそうですが。ですがおかしな風ではなかったとですよ? うちが応対したときは至って普通でした。『槙原さんいますか?』って」

「で?」

 先を促したのは真雪である。

「いるよ、って言ったら、お邪魔しますと一礼して、リビングの方へ歩いていって……」

「この様か」

「はい」

「もう何がなんだか……」

 ほろりと、再び涙ぐんだ耕介を見かねたのか、薫がおずおずと進言した。

「あの……とりあえず、綺堂を起こすのが一番手っ取り早いような気がしますが……」

「それはそうなんだけど……」

「なんだよ。起こせない理由でもあるのか?」

「いや、なんかものすごく気持ちよさそうに寝ているから。ちょっと気が咎めるかなぁって……」

「あー確かに」

 スヤスヤと、耕介の膝枕で寝息を立てている少女──綺堂さくらの顔を覗き込んで、耕介と真雪は共に嘆息した。

 そうして冷静になって観察するなら──

 どう控えめに見ても、ひいき目をどれだけ除外しても、美少女であると言うのが綺堂さくらの印象だった。さざなみ女子寮の女性陣もそのビジュアルは平均を遥かに上回ってはいるのだが、それでも彼女のそれとは受ける衝撃が違う。

 赤髪に青い瞳。ドイツの血が混じっているらしい双眸は、今は閉じてしまっているために見ることはできない。しかしながら、彼女が外国の血が混じっていることだけは容姿からでも容易に見て取れた。小柄で華奢な身体でちょこんとくるまっているその姿は、さしずめ犬のような印象を受ける。

 その思考を振り切って、耕介は気分を一新した。思い切りが必要だと己に言い聞かせながら、

「……確かにこのままだと埒が明きませんね。かわいそうだけど起こしましょう!」

 わざと大きな声を上げて、耕介はさくらの肩を揺らした。ゆさゆさと。

「う……うぅ……」

「さくらちゃん! 起きて。おーい! 起きろーっ! っつーか、起きて。俺の未来のために。お願い!」

 細い腕。白い肌。強くすれば壊れてしまいそうな透明感のある彼女の肩を揺らす。出来る限り丁寧に。出来る限りやさしく。だが確実な焦燥に駆られながら。

 と──

「あん

 ピタリと、耕介は動きを止めた。

「やだぁ♪ くすぐったいですぅ……」

 室内が静まった。それはもう、見事なまでに静まり返った。

 誰も何も言わない。言わないので、耕介は脳内で先ほどの声を繰り返してみた。

「…………」

 考えるまでもなく、その声はさくらの啼鳴だった。小さく短い、吐息のような声だったが、何故か異様に耳に響いてくる。

 今まで傍観していたはずの真雪までもが、どこか責めるような視線をこちらに向けた。

「耕介……」

「だ・か・らっ! 俺は何もしてませんってば!」

 手を戦慄かせて叫ぶ。それが、結果的には振動となってひざの上の彼女に伝わったらしい。もう一度小さくうめき声を上げて、綺堂さくらが頭を上げた。

「うにゃ?」

 その動きに伴って、さざなみ寮生全員がさくらに注目する。

 それを気にすることなく、というよりは気づいていないのか、寝ぼけている様子の彼女はそのまま小さくあくびをして見せた。寝ぼけまなこであたりを見渡し、だがその視線が不意に耕介の目の前で止まる。

 嫌な予感がした。

 目を軽く擦り、大きく背伸びしてから──その群青色の双眸をこちらに向けて、さくらは軽く頭を下げた。にっこりと微笑んで、

「おはようございましゅ。ご主人様

 場が硬直した。

 

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