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見覚えのない小瓶を手にとって、耕介はリビングから脱出した。綺堂さくらは、今はおとなしくリビングで寮生と会話している。その内容は聞き取れなかったが、この際もうその辺はどうでもよかった。 瓶に残った液からは、アルコールの匂いと、微妙に異質な力が流れ出ていた。それが以前体験したことのある魔術効果のそれだと気づいた時、耕介の中で何かが繋がる。 見覚えのない瓶は、さくらが持って来たに違いない。もしその推察が正しければ、間違いなく事件を解く鍵がこの瓶にある。そう思ったのだ。 瓶にはラベルが張ってあった。『ざくろ』と平仮名で書かれたラベルである。油性マジックを使ったらしいが、どこかいびつに歪んでいた。つまり、はっきり言って字が下手なのだ。日本に来たばかりの外国人が書いたような感じを受ける。 そしてそれは間違いではなかった。『ざくろ』の下に、この文字を書いた本人のサインがあるからだ。『by エリザ』と。 「あの人の仕業かぁっ!」 かくして耕介は、女性陣から総スカンを喰らいながらもめげずに寮の廊下にある電話までたどりつき、記憶にある彼女の携帯の電話番号をプッシュした。 電子音が鳴り、チャッと、小さく受信音が響く。が、 『はーい。みんなのアイドル、エリザちゃんです。現在お仕事中につき出られません。ピーの発信音の後に、愛のメッセージを──』 ガチャンッ! と、耕介は問答無用で受話器を置いた。 「…………」 聞かなかったことにして、もう一度プッシュする。リダイヤルを使わず、呪いかけるように指をゆっくりと移動させる。ピポパポ。 『……もしもし?』 しばらくして、今度はきちんと繋がったらしい、エリザベートの声が受話器から流れてきた。 「…………槙原ですが」 名乗る。端的に。できる限り陰険に。怒張を含めて。が、エリザの返答はあっさりとしたものだった。 『あら、久しぶりね。どうしかたの?』 「どうかしたの? とか聞きやがるか、あんたは!」 思わず叫び返す。電話の向こうで、ケタケタと笑う声が響いた。 『まぁまぁ、そんなに怒らないでよ』 「その様子だと、俺が電話した理由も分かってるみたいですね」 非難したつもりだったが、彼女には伝わらなかったらしい。 『……まぁね。んで、今そっちに誰が来てる?』 「さくらちゃんがいます」 『さくらがいるの? そこに?』 「ええ。でも変なんですよ。いきなりやってきて、俺のひざの上で寝始めて、起こしたら俺に向かって『ご主人様』呼ばわりですからね」 『そっかー。ならやっぱり呑んだみたいね。あれを』 「あれって、この瓶の中身ですか?」 『そうよ。どくろマークが書いてあるでしょ?』 「…………」 黙りこんで、耕介は瓶を見た。ラベルに書かれてある文字を、もう一度ゆっくりと黙読する。『ざくろ』だ。間違いない。どこをどう見ても、『ざ』にしか見えなかった。 「ざくろって書いてます」 『へ? どくろじゃなくて?』 「ざ・く・ろです」 『……どくろって書いたつもりだったんだけど。日本語筆記は苦手だから間違えたのかもね。ユーモアを求めて平仮名にしたのがいけなかったのかしら』 この場にいたら即座にはたき倒したくなるほどあっさりとエリザが続ける。 『ああ、だとしたら、さくらってばあれをざくろジュースか何かと間違えたのかも。あの子も結構マヌケよね。見た感じで怪しいって思わなかったのかしら。でもなーんだ。分かってみればしょうもないオチだったわねー』 「原因はあんたでしょうが! きっぱりと!」 『いや、それはそうなんだけど……まぁとにかく、状況説明お願い。様子はどんな感じなの?』 「さっぱり事態を分かっていないようです。何で俺のことご主人様とか呼んでいるのかも理解していないみたいで。っていうか、俺がご主人様であることに何の疑問も抱いてないようなんです」 『ああ、なら一応薬は成功してたんだ』 「薬?」 『そうよ。薬。あのね──』 それからたっぷり数分間、耕介は瓶の中身に入っていた赤い液体についての説明を受けた。つっこみどころが満載だったような気もするが、とりあえず我慢する。力の限り、手の内にあった小瓶にひびが入るくらい、耕介はぐっと堪え続けた。 「じ、事情は大体分かりました。俺の体毛をどうやって手に入れたのかとか、ものすごく本末転倒な気がするとか、実はあんた馬鹿じゃないのかとか、その辺はもういいです。つっこみません。けど問題は、彼女ですよ。解毒剤、あるんでしょ?」 『ないわよ。そんなもの』 「…………え?」 聞き間違いかと思って、耕介は聞き返した。 『解毒剤はないの。作れるけど、それには君の体毛がまた必要なのよ。完成に数日かかるしね。だったら、薬の効果が切れるのを待ったほうが早いわ』 「どれくらいで切れるんですか?」 『そうね……試作品だから濃度は薄くしてあったし……瓶の中身を全部飲んでいたとしても、多分二十四時間前後じゃないかしら?』 クラリ──と、眩暈を覚えて、耕介はそのまま卒倒しそうになった。何とか踏みとどまって、聞きなおす。 「一日も?」 『たった一日よ。大丈夫でしょ? こう言っちゃなんだけど、さくら一人の誘惑くらい、さざなみで女性を世話している貴方なら振り切れるんじゃないの?』 それはそうかもしれない。が、むしろ他の女性陣の対応のほうが怖いことを、エリザは知らないのだ。知らないが故に、彼女は何も問題がないかのように続ける。 『ま、もし誘惑に負けて襲ったりしたら、そのときはそのときよ。責任とって、一緒になってもらうだけね』 「……それだとさくらちゃんの気持ちが……」 『私の部屋にあったものを勝手に飲んだんだから、あの子にだって責任はあるわよ』 至極ごもっともな言い分に幾分か押し流されつつ、それでも何か抗議しようと口を開いたその瞬間、背後からの声が耕介を硬直させた。 「あ、ご主人様」 「…………」 ゆっくりとそちらを見やる。綺堂さくらだった。薄紫が主体のシックなドレスに身を包み、きょとんとこちらを見上げている。その彼女の後ろ──リビングのドアから、さざなみ寮生がじぃっと睨みつけていた。 『あ、ねぇ槙原君。ちょっとさくらと代わってよ』 言われたとおりに、受話器を少女に渡す。相手が叔母だと知ると、さくらは満面の笑みを浮かべた。何かしら会話している彼女からそっと離れて、皆の元へ戻る。事情を説明するためだ。 「で、原因はなんだって?」 迷うことなく、耕介は今しがたエリザから聞いたばかりの事実を皆に伝えた。 十数分──も実際にはかからなかったかもしれない。が、黙り込んだまま反応すらしない彼女たちに説明するのには、酷く労力が要った。 「要するに、さくらちゃんは被害者なんやね?」 先ほどに比べると随分とフレンドリーな感じでゆうひが言った。 「俺も含めてな。まぁそういうわけで、今日一日、みんなには協力してもらいたいんだけど」 「何をだよ? あの子が一時的にでもお前の奴隷であるのはわかったが、別段Hなことするわけじゃないんだから、放っておいても問題ないだろ?」 「なら、なんでみんなして俺のこと睨むんですか?」 そう言うと、ここにはいない美緒以外の全員が一斉に明後日の方を向いた。 「ともかく、これで俺のせいじゃないってことは分かってもらえたと思います。後はあの子が無茶なことを仕出かさないように、補助してほしいんですよ」 「……ま、仕方ないかね」 「そうだね」 姉に同意する形で知佳が言った。 「でもさくらちゃん、かわいそうやね。耕介君みたいなスケベの奴隷になるなんて」 「なーんか、とげとげしいなぁ……」 「気のせいや」 「でも、実は耕介も嬉しいんじゃないの?」 「リスティ、それはちょっと耕介さんに失礼じゃなかと?」 薫がリスティをたしなめ、それに乗じて愛も口を開いた。 「そうよ、リスティ。耕介さんはそんなことする人じゃないでしょう?」 「ま、そういうことにしておくけどね……」 何かを知っているように含み笑いをしながら、耕介の脇を通ってリスティは二階へと消えた。それをきっかけにして、寮生もまた全員が普段の生活に戻っていく。真雪は仕事をしに自室へ。知佳と愛は、お茶を飲みにキッチンへ。ゆうひはこれから出かけるらしく、風呂に入るとかなんとか。美緒だけはさっきからずっとゲームを続けていたらしい。音声を出力できることに満足しながら、がむしゃらに画面にかじりついている。 皆が散っていくのを傍観していると、いつの間にか電話が終わったらしいさくらが耕介の前にいた。何をするでもなく、こちらを見上げている。 (可能性として真一郎君と付き合ってるかもしれないんだから、彼にも伝えるべきか?) そう思ったが、その思考はさくらの言葉で遮断された。 「どうかされました?」 「いや。別に。何でも。ああ、エリザさん、なんて言ってた?」 「たくさん可愛がってもらいなさいって」 (あんの人はぁぁぁぁっ!) 心の中で怒声を張り上げて、耕介は黒髪の魔女を罵った。 明らかにこちらをおちょくっている台詞だった。彼女は楽しんでいる。確かにエリザだけが悪いわけではない。原因を作ったのは彼女だが、結果を導いたのはこの子だ。だがそうすると、今度の被害者は間違いなく自分ではないか。 「可愛がってくださいね、ご主人様」 こちらの心境なぞどこ吹く風で、にっこりと微笑んでさくらが言った。その可愛らしさに何かしら非人道的なものを感じながら、できる限り冷静に、彼女を諭す。 「さくらちゃん。俺のことは耕介でいいからね。ご主人様とは呼ばないで欲しいんだけど」 「でも、ご主人様はご主人様です」 「なら、これは主人である俺からの命令だと思って。俺のこと、ご主人様とは呼ばない。分かった?」 「分かりました。ご主人様♪」 全然分かっていなかった。
◇
綺堂さくらが人狼と吸血種のハーフであることは耕介も聞き及んでいた。その情報源は三人いる。エリザと、さくら本人、そして彼女と過去何かあったらしい薫である。 耕介が彼女ときちんと知り合いになったのは、今年の五月だった。さざなみ寮生の一部に訪れた祝い事と、寮生の一人である岡本みなみの友人、相川真一郎たちの祝い事が重なり、偶然的にも食材があふれかえったさざなみ寮で合同パーティをすることになったのだ。 その際に何かものすごく重大な事件があった気がするが、耕介は覚えていなかった。他の誰に聞いても知らないというのだから、気のせいだったのだろう。そう、気のせいだ。五月に雪が降るはずもないのだから。 それはさておき、綺堂さくらという少女に対しては、耕介は至極落ち着いた印象を抱いていた。料理を運ぶ際に手伝ってもらったり、酒好きが重なってそっち方面で会話が弾んだ記憶がある。 だが、逆に言えば接点は本当にそれだけだったのだ。たまに真一郎が幼馴染の少女たちとさくらを連れて遊びに来たりもしたが、それにしたって目的はみなみや知佳で、自分と何かしら接触があったわけではない。耕介と彼女の関係は、たまに遊びに行く女子寮の管理人と、妹(知佳のことだ)の親友と同じ学校の下級生である。 そんなわけで──今、自分の隣で、腕に頬をすり寄せている彼女の豹変振りにどう対処すればいいか、耕介は全く分からないでいた。 「あの……さくらちゃん?」 「なんですか? 耕介さん♪」 とりあえず、彼女は呼び方に関しては、こちらのお願いを聞いてくれたようだった。 「あの……あんまりくっつかれると、仕事できないんだけど……」 夕食の準備でキッチンにいた耕介は、包丁を持った時点でとうとう音を上げた。さすがにくっつかれたままで刃物を扱うのは危険だからだ。愛や知佳、ゆうひは、さくらがただ耕介に懐いているだけだと知ってからは何も言ってこないし、何もしてくれない。一緒にいることを邪魔すればさくらが怒るので、挙句の果てには気を利かせてこの場から立ち去ったくらいだ。真雪は呆れ、美緒はもとから無関心で、薫は有事の際以外は出張ってこないつもりらしい。十六夜と御架月にもきつく言い渡してあるのか、彼らもまた姿を見せないでいる。最後に事情を知ったみなみが他人事のように笑っていたのが印象的だった。 (結局、誰も助けてくれないのね……) 耕介が静かに涙したことはこの際さておくとして、とりあえず今は離れてもらう必要があった。 「ご飯ですか?」 「そう。包丁使うから危ないんだ。離れててね」 「……はぁい」 まるで駄々をこねる子供のように、ふくれっつらをしながらもさくらが腕を離した。 「今日のご飯はなんですか?」 「うん? メインは魚だよ。いい秋刀魚が手に入ったからね。純粋に塩焼きにしようと思うんだ。後は煮物と、きゅうりの酢の物と味噌汁と……今日は純和風だね。余分に買ったからさくらちゃんの分もあるけど……秋刀魚、食べれる?」 「サンマは好きです」 「そう。よかった」 「でも耕介さんのことはもっと好きです♪」 サクッと──勢い余って、耕介は魚を下ろす包丁をそのまま指に突き刺した。 悲鳴が上がる。血を流して呻く耕介の傍らで、「言っちゃっいました。テヘッ」などと一人身悶えているさくらに、耕介は今度こそ本気で泣き崩れた。
耕介の受難は続く。 食事が終わり、片付けが終了し、その日の仕事が一段落ついた後も、さくらはやはり耕介から離れようとはせず、赤子のようにべったりとくっついていた。 「なんかネコみたいだな」 ふと、リビングでくつろいでいる誰かが言った。ネコ? と考えて、すぐに思い当たる。確かに、彼女の行動はネコ娘である美緒や、さざなみ近辺にいる猫たちの行動に似ている気がしないでもない。 だがどちらかというならさくらは── (犬チックだよなぁ……) と思わずにはいられなかった。ちょっとした衝動で頭を撫でてあげると目を細めて気持ちよがり、ヘアバンドをはずして大きな狼の耳をかいてやると身悶えて喜ぶその姿は、どうみても獣のそれだったからである。 しかし、それだけでは終わらない。 傷は霊能者である薫とその愛刀である霊剣『十六夜』が直してくれたのだが、そのときのさくらは随分不服そうだった。どうかしたのかと聞けば、自分が治したかったのだという。指先から流れる大量の出血を見て、吸血種の本能が頭を上げたらしかった。 仕方がないので、エリザからの助言どおり首筋をウェットティッシュで拭き、綺麗に消毒してから彼女にいいよと言うと、それはもう喜んで吸い付いてきたものだから、耕介としては何が何だか分かったものじゃなかった。牙の痛みは一瞬で、後は血を据われる浮遊感が続く。最後に傷跡を舐められた感触が気持ちよかったなどとは絶対に口には出せないと思い──だがその瞬間にリスティがこちらを向いたところを見ると、どうやら隠し事はできないようだった。その事実に、耕介は再びひっそりと涙する。 (ひょっとして、奴隷を作る薬っていうのはこういうことか? ペットと飼い主みたいな……) 犬と人間。そういう主従関係を人工的に強制する薬。 普段はおとなしく冷静で、だからこそ、たとえ好きな人が相手だろうと人前で甘えたりしない印象がさくらにはあるだけに、一層そういった予測が裏付けられてくる。 だが結局、分かったところで現状を変えられないことに気づいて、耕介はなんだか無性に叫び倒したかった。何でもいいから殴りたい。そう思ったのは本気で久々だ。 ストレスがたまる。 が、それを晴らそうとしたのが悪かった。 女性陣が全て風呂に入り終えたことを確認してから、耕介は疲れを癒すべく湯船に身を投じた。元々寮生全員が同時に入っても狭くないように造られた浴室は、旅館並みの広さを誇っている。湯船の湯も本物の温泉なのだから、それこそ料金も取れるのではないだろうか。一人きりで使うことの贅沢さに心地よさを感じながら、もう一度身体を洗おうと湯から上がった瞬間── 「お背中流しましょうか?」 ガラリと脱衣所へ続くドアが開け放たれ、そこには思ったとおり彼女がいたのである。
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