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ガンッ! という衝撃音と共に、耕介は湯船に沈没した。目が痛い。鼻が痛い。頭痛が高鳴り、眩暈がする。ついでに股間も痛かった。浴室に入ってきた彼女は、タオルで大事なところで隠してはいるものの、その発展途上の胸をさらけ出したままだったからだ。 「…………」 巨体全てを息が続く限り湯の中に沈めて、耕介は精神と落ち着けた。酸欠になりかけたところでゆっくりと頭を上げる。 「あの……耕介さん?」 その問いかけには応えず、耕介は後ろを向いたままさくらに呼びかけた。 「さくらちゃん。これは命令です。今すぐ浴室から出なさい。背中は流さなくていいから!」 命令。彼女がペットで自分が飼い主なら、さくらはこれで言うことを聞くはずだった。 「でも……」 「でもじゃありません。いいから、裸のままいると風邪引くでしょう?」 「あ、なら水着なら」 「駄目!」 「でも私……耕介さんに……ご主人様にお手入れしてもらいたいです……」 「トリミング?」 思わず聞き返す形で、耕介は言った。と同時に、思索する。 トリミングとは。 【用語解説:トリミング──レイアウトソフトなどで、画像の不要な部分を使わないこと】 (いや、違うだろ!) 自分でボケて自分でつっこむ。混乱している己を戒めながら、耕介はとにもかくにも自制した。暴れてはいけない。切れてはならない。ストレスなんてへっちゃらだ。 ちらりと、耕介はさくらの方を見た。タオルで前を隠している彼女のもう一方の手には、洗面器の中にブラシが数種類と、犬用シャンプーがあった。そして考えるまでもなく、薬のせいで今の彼女はペットなのだ。 そのまま視線を彼女の顔へ向ける。 彼女は泣いていた。主人に冷たくされたペットのごとく。 「…………」 つまりは、そういうことだった。
自分の意思がこれほど弱いものだとは思っていなかった。 知佳に貰ったらしい──尻尾を出すために穴を開けた時点で、もう使い物にならないからだ──黄色いワンピースの水着姿でいるさくらの後ろに回って、耕介はブラシ片手に彼女の尻尾をすいていた。 (なにやってんだろ、俺は……) 悲観しながらも、その手は止めない。もうここまで来たらどうとでもなれといった気分だった。 彼女が持ってきていたブラシは数種類あった。さすがに素人なのでカットは出来ない。シャンプーするのがせいぜい関の山だろうが、さくらはそれでも満足らしい。先ほどからずっとニコニコと嬉しそうだった。ブラシを尻尾にあてがい、スッと引くだけで、心地よさそうに目を細めている。 とりあえず、幸せそうなのは何よりだと思った。これで喜んでもらえてなかったりしたら、目も当てられないだろうから。 毛玉が出来ても、さざなみに来る近所の猫たちを風呂に入れたこともあって──まさかこんなところでその経験が役に立つとは思いもよらなかったが──、慌てず先の折れ曲がった針のようなブラシを手に取り、耕介はゆっくりと丁寧に彼女の尻尾を整え、それからようやくぬるま湯で尻尾を濡らし、シャンプーに取り掛かった。 「痛くない?」 「はい♪」 幸せそうなさくらの尻尾を、泡立てた両手で優しく揉みしだく。まさか髪の毛を洗う時みたく根っこの部分──要するに尻だ──を擦るわけにも行かないので、とりあえずその一歩手前までを満遍なく洗い終えて、抜け毛はゴム製のブラシで取り除き、熱くない程度のお湯で泡を流す。彼女の尻尾は濡れても感触がサラサラだったので、洗うのはさほど難しくなかった。 「はい。終わったよ。本当に痛くなかった?」 「気持ちよかったです」 「そう。それはなにより」 父性愛というものか。耕介自身も、悪い感じではなかった。胸の内がむずがゆい。恋人に対してというよりは、娘がいたらこんな感じなのかと錯覚してしまうほどに、心地よい何かが耕介を包む。 その後は、彼女の所望で髪の毛と耳も洗って、こちらはこちらで結局背中を流してもらい、二人一緒に湯船で温まってから風呂を上がった。 疲れてはいたが、元来世話好きの耕介である。いつの間にか、嫌だとか、彼女に申し訳ないとかいった被害者的な感情は綺麗に洗い流してしまっていた。 そうしてみれば、ストレスをためたのも彼女ならば、解消したのも彼女だったのだ。
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その手触りがどこか大きなことに違和感を覚えながら、綺堂さくらは目を開けた。まだ日は昇っていない。こんな時間に目が覚めてしまったことを後悔しながらも、早朝の肌寒さに身を震わせて、さくらは布団に戻ろうとした。 そしてふと、その視線を横に向ける。 「…………」 きっかり一分間、さくらは思考を停止させた。フリーズ。再起動。OSが立ち上がり、再びログインする。ハードディスクをクリックして記憶を検索。 隣で寝ているのは槙原耕介だった。覚えている。何度か遊びにいったことのあるさざなみ寮の管理人だ。寮生全員から慕われている優しいお兄さんと言った風で、さくら自身、直接の接点は数えるほどしかなかったが、好感を抱いていた男性でもある。 そして次に思い出したのは昨日のことだった。自分の言動とその理由。耕介とのやり取り。一緒にお風呂に入り、尻尾と耳を洗ってもらったこと。そしてここは彼の部屋。自分は昨夜、わがままを言って彼と一緒に寝てもらったのだ。はしたなくおねだりなんかして。 それだけではない。 自分は彼を何と呼んでいた? ──ご主人様♪ 顔から火が出るほど恥ずかしくなって、さくらは身悶えた。 どうすればいい? どうしよう。耕介さんは悪くない。彼は優しかったし、尻尾を洗ってもらったのは気持ちよかったし、ってそうじゃなくて! 悪いのは誰? 悪いのは── と、その騒ぎに耕介が目を開けた。同じベッドの上で、一緒に寝ているもう一方がもがけばさすがに起きざるを得ないのだろうが、さくらは一瞬、それだけは駄目だと思った。 (駄目ぇ!) 何が、ということもない。何が駄目で、何が悪いのか。とりあえずそれは放置する。ただ耕介に顔を見られたくなかった。どんな顔をしていいかもわからない。彼の顔を真正面から見ることも出来そうにない。 だからというかなんと言うか、さくらは目を覚まそうとした耕介の顔面を、手に届いた目覚まし時計で思い切り殴りつけた。 「ぐほぉっ!」 そしてそのまま沈黙する。 (ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!) 心の中で何度も謝りながら、さくらはベッドから這い出た。外に出ようとして、見覚えのないパジャマを着ていることに気づく。おそらくこの寮の人が貸してくれたのだろう。サイズからして知佳かみなみか。後で礼を言わなくてはならない。 ベッドの脇にたたんであった自分の服に着替えようとして、さくらはもう一度耕介の方を見た。目覚めないことを確認して下着姿になり、服を着る。パジャマを丁寧にたたみ、耕介の枕元に置いた。 (ごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃ……) 彼の机にあったメモ帳に、最後にもう一度『ごめんなさい。 さくら』と書き記して、さくらはそそくさとさざなみを後にした。 寮を出るまで誰にも会わずに済んだことを幸運に思いながら。
◇
リオの朝は、いつもこの屋敷で二番目に早かった。一番目はここ綺堂家のメイド長である。彼女と恒例の挨拶を交わしてから、屋敷の内庭をランニングする。一周するだけで五百メートルはあるので、それを何度か繰り返す。汗をかいたらシャワーを浴び、朝食の時間までは秘書試験のための勉強をするのが彼女の日課となっていた。 だが、その日はいつもと違っていた。自分と同じくらいに早起きした雇い主が、あいさつもそこそこに出かけていくのを見送る。しかし変わったことといえばそれだけで、リオは再び自分を日常に戻した。 その一時間後。 日課のランニングが終わり、シャワーを浴び終わって自室に帰ろうとしたとき、リオは視界の端に奇妙なものを見た。 ゆっくりと、陽炎のように、それはやってきた。そして叫ぶ。いや、厳密に言うならば、それは叫び声ではなかった。空気が漏れるような音。風に混じり、今にも消えそうな音。だが何を言っているのかだけははっきりと分かる声。 「エェェェリィィィィザァァァァァ……」 それは──目を紅く灯らせ、爪を鉤のように伸ばした綺堂さくらだった。 「お、お帰りなさいませ……さくらお嬢様」 思わずいつものように声をかけてから、リオはしまったと思った。 ゆっくりと、彼女がこちらを向く。顔は微笑んでいるが、目は笑っていない。殺気があるわけでもない。ただ、彼女はそこにいるだけだった。だというのに、全身に寒気が走る。湯冷めではなかった。決してなかった。 「おはよう、リオ。今日も早いのね」 そんな出だしも、今のさくらが言えば死刑宣告前の裁判官のように冷たい。 「は、はい。おはようございます」 「それで、エリザはどこ?」 「マ、マスターでしたら、今朝早く、旅に出るとか言って出て行かれましたが?」 「逃げたのね」 静かに、凍えるほど低い声で、彼女は言った。そんな彼女に向かって聞くのはためらわれたが、かといってこのままはいさようならと行くわけがなかった。立場もある。ここは彼女の家で、自分はエリザについてきて居候しているに過ぎない。 それ以上に、今の彼女が自分というエサを逃がすとも思えなかった。 「あの……昨日は大丈夫でした?」 「何が?」 心なしか、彼女の対応は冷たかった。 「いえ……ですから、薬の件で、何か困ったことになっていなければいいなとは思ったのですが……」 「…………恥ずかしかったわよ。物凄く」 「発情を抑える薬、とお聞きしていましたが?」 「だとしても、あんなふうに耕介さんに甘えるなんて、まるで雌犬じゃない! 先輩にだって見せたことなかったのに、私の裸。尻尾と耳を洗ってもらったのは気持ちよかったけど……」 「…………」 なんと言ったらいいか思い浮かばずに、リオは沈黙した。大げさかもしれないが、無垢な少女の純真な心が傷つけられたのだ。心情としては同じ女の立場ではあっても、被害者と部外者という壁は厚い。 かといって、耕介を責めるのは八つ当たりだということを、さくらはよく分かっているらしかった。彼は彼なりに、さくらを気遣って優しく扱ってくれたのだろう。今の彼女の言葉を聞けば、それで事情を把握するのには十分だった。 ため息をつく。もちろん、さくらには気取られないように。 物事には原因がある。原因があって結果がある。その逆は存在しない。ならばその原因さえ把握すれば、結果を予測・回避することも、はたまた追求することも出来るのではないか。 とどのつまり── 「マスターでしたら、書斎の二階、一番奥の掃除道具入れのロッカーの中だと思います。かまいませんから気の済むまでどうぞ」 なにを──というのは言わなくても分かっているようだった。小声でありがとうといったさくらの様子から、それほど酷い目にはあわないだろうと思いつつも、一度痛い目を見るべきなのだ、あの人は──と、心に黒いものを宿しながら、リオは踵を返して自室に向かった。 机の上には勉強道具があった。今日から十月だ。来年の二月には秘書の一次試験がある。それが終われば翌月に二次だ。自分の進もうとしている進路が正しいのかどうか、これでいいのかどうかはわからなかったが、少なくともリオは、今のように扶養者扱いはごめんだった。自分で働き、稼いだお金で生きる。ごく当然のことだが、その見解にたどり着くまで十五年も要してしまったのだ。これ以上、回り道をする気はない。 だが今日は朝の勉強をする気にはなれなかった。きっと集中できないに違いないから。 そしてリオが思ったとおり── 綺堂家に、朝を告げる巨大な目覚ましが鳴り響いた。
ペットの飼い方 完
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